小説『神神化身』第二部
第四十三話
「A Very Merry Unbirthday To Prayers」
「ほらほら遠流(とおる)! もうちょっと右! そこだとよく見えないから!」
「ならお前が飾れ……この無能指示厨が」
「うっ、ゲーマーに刺さる語彙で的確に詰めてくるのやめて」
比鷺(ひさぎ)は胸の辺りを押さえながら、遠流の暴言に耐える姿勢を取る。稽古場の床に転がると、冷たさが妙に身体に染みた。稽古場の壁に飾られている折り紙の鎖は子供の頃に作ったきりで、今回久しぶりのご登場だった。三言(みこと)や遠流の誕生日の時は必ずこれで部屋を飾り付け、これが無いとパーティー感が出ないよなぁと悦に浸っていたことを思い出す。脚立に乗って壁に鎖を飾っている遠流は、身長こそ大きくなったもののあの頃と大差なく見えて、なんだか妙に嬉しい気持ちになった。
こういうパーティー的なものを主催するのはいつも三言の役割で、その日が近づいてくると自分達はそわそわしながら彼の方を気にしていたことを思い出す。三言、今年もお祝いしてくれるかな。自分達と遊んでくれるかな。そんな心配をしなくても、三言は毎回ちゃんと自分達を祝ってくれたというのに。そんなことを考えていると、脚立に乗った遠流がじろっとこちらを睨んできた。
「転がってないで働け。千切られたいの?」
「わー! 今となっては若干懐かしいそれ! もしかして『恋ない。』の円盤出るから!? あー、自分の出てる作品はやっぱり大切にしてるんだねえ。やー、俺お前のそういう健気なとこちょー好きなんですけど! かっわいー!」
それきり比鷺はしばらく黙った。遠流が脚立から跳躍し、あわや比鷺が大ダメージを負う場所に着地してきたからだ。比鷺の反応が数秒遅れていたら、再起不能になっていたかもしれない。これは遠流なりの信頼だろうか? 比鷺なら絶対に避けてくれるだろうと? それだったら嬉しい。いや、やっぱり怖い。
そうして黙々と飾り付けを終えると、遠流が不意に口を開いた。
「そういえば、社人(やしろびと)がお前と話したがってたぞ」
「え、何だろ。俺何かしたかな」
「水鵠衆(みずまとしゅう)との合同舞奏披(ごうどうまいかなずひらき)の実現がどうとか言ってたけど」
「水鵠衆との合同舞奏披? えー、何それ。俺は正直そんなに気が進まないけどな。闇夜衆(くらやみしゅう)との舞奏披だって、激レア親愛度イベントを超~重ねた結果じゃん? 俺のデレはそんなに安くないんだっての」
「あっちはさもお前からの提案みたいに言ってたぞ。水鵠衆に興味を持ってるとか」
遠流が怪訝そうな顔で言ってくるが、比鷺には身に覚えが無かった。そもそも、比鷺はそう簡単に舞奏披など持ちかけられるタイプじゃない。闇夜衆とのことだって本当に奇跡のように考えているのだ。ああして仲良くなれる舞奏衆(まいかなずしゅう)は多分他には無いだろう。応援していた水鵠衆はともかくとして、クソ兄貴のいる御斯葉衆(みしばしゅう)なんかは論外だ。
「えー……なんかの勘違いじゃないかなー。それとも、九条(くじょう)家が何か狙ってんのかな。どっちにしろやなんですけど……」
「まあ……僕も合同舞奏披は焦らない方がいいと思ってる……し、そんなに躍起になってやろうとしなくてもいいと思う」
遠流も遠流で、水鵠衆に思うところはあるようだけれど、そんなに積極的に会いたがっている感じはしなかった。となると、やっぱりしばらくは他の舞奏衆とは積極的に会わなくていいのかもしれない。そう、比鷺は思う。
「って、もうこんな時間じゃん! ほらほら、早く配置について。三言が遅れるなんて絶対無いんだからさ、全然猶予無いよ」
「お前に言われなくても分かってるから」
そう言いながら、遠流が位置につく。稽古場の扉の横にスタンバイして、その時を待った。
「遠流、比鷺、もういるのか──?」
そんな言葉と共に、三言が稽古場に入ってきた。その瞬間、手にしたクラッカーをパンパンと鳴らす。
「三言ー! おめでとー!」
「おめでとう、三言。……うん。おめでとう」
急にクラッカーを鳴らされた三言は、ぽかんとした顔で幼馴染達の顔を交互に見た。予想以上に驚いているらしい。三言のこんな顔を見るのは久しぶりだった。ややあって、三言がゆっくりと言う。
「えーと……ありがとう。これは何のお祝いなんだ? 俺は何か祝われるようなことをしたんだろうか……」
「何のお祝いとかそういう細かい話はいいんだよ。これはマジでノリのお祝いだから。ほら、あるじゃん。何でもない日おめでとうってやつ!」
「何でもない日……?」
「確か、そういう絵本があったなって僕も覚えてる。……何でもない日であっても、三言はお祝いされていいと思う。そのくらい頑張ってるから。だから、比鷺の提案に乗った」
遠流もそう言って、自分が祝われているかのようにふにゃりと笑った。
──最近の三言は忙しい。
櫛魂衆(くししゅう)が有名になったことで、三言は色んなところで引っ張りだこだ。櫛魂衆のリーダーとして話をするのは当然ながら三言だし、櫛魂衆の舞奏(まいかなず)を観てから舞奏に興味を持つようになった子供達の応対をしているのも三言である。それなのに三言は以前と変わらず全力食堂でのバイトにも精を出していて、勿論舞奏の稽古も欠かさない。朝練までこなしているのを見ると、感動するのを通り越してちょっと怖くなってしまった。
三言は少しも疲れた様子を見せなくて、それは三言の凄いところではあるのだけど、正直ちょっと心配になってしまう。比鷺は自分の時間が何より大切だし、三言に大切にさせてもらっているという自負がある。
だからこそ、三言に少しでも休んでほしい。たとえ休めなくても、幸せで楽しい気持ちであってほしい。本当はそれっぽい理由を付けて三言をどうにか労いたかったのだけれど、考えている内に理由なんか無くてもいいんだってことに気がついた。自分も遠流もいつだって三言をいたわりたいのだ。
「というわけで、今日は稽古の日でもありますが、三言の何でもない日を祝う日でもあります。よいね?」
「俺は……構わないと言えば構わないが……何もしてないのにいいのか?」
「もー! 何もしてなくないでしょうが! この間なんか小学校にまで行って舞奏教えてあげてたでしょ! 正直三言はえらすぎ! 眩しいけど心配なの! だから、今日は俺達からプレゼントがあります」
「プレゼント?」
そこで三言はようやく、この稽古場がやたら綺麗に飾り付けられていることや、比鷺達が稽古着ではなく舞奏装束(まいかなずしょうぞく)を着ていることに気がついたようだった。神楽鈴を持った遠流が、精一杯背筋を伸ばして言う。
「今日は三言の為に僕達が舞奏をするから。三言がずっと気になってた、相模國(さがみのくに)の昔の伝統舞奏曲。合間を縫って稽古したんだ。合わせるのはこれが初めてなんだけど……」
三言へのプレゼントをあれこれ考えて、結局これに落ち着いたのがなんとも言えない。でも、三言が一番喜んでくれるのはこれだという確信があった。自分達が六原(むつはら)三言をリーダーに戴く櫛魂衆であるという証。まさか、自分から進んで舞奏をやる日が来るだなんて。舞奏がカミに──そして観囃子(みはやし)に捧げるものであると、比鷺は改めて納得した。
「本当にいいのか?」
それを言う三言の目がキラキラと輝いていた。その目を見るだけで、比鷺は何だって出来そうな気分になる。きっと遠流も同じだろう。
「もし、その舞奏が凄く良かったら──いや、絶対に凄くいいんだろうけど──そうしたら、俺も一緒に舞っていいか?」
「ちょっ、三言ってばまさか、観て一回で覚えるつもり? ちょっとそれはヤバすぎっていうか……いや、三言なら出来るか。俺達のリーダーだもんね」
そう言うと、三言は大きく笑って頷いた。さて、何でもない一日はまだ終わらない。何もない一日じゃなく、何でもなくていい特別な日。実はケーキすら用意していることを、比鷺はいつ切り出そうかと考えている。
*
どうしてこんなことになったのだろうか。ぐるぐると頭の中を疑問符と後悔が巡る。もっと他に選択肢があったはずだ。こんなことになる前に止められたはずだ。だが、皋(さつき)は全ての選択をミスし、今ここに立つことになっている。
震える手を叱咤し、皋はどうにか引き攣った笑顔を浮かべる。自分のものではない紫色の髪が、視界の端で揺れた。
「お待たせしました…………バイオレットフィズ? でございます……」
カウンターに座ったお客さんが無邪気にそれを受け取る。皋はそれだけで逃げ出したくなった。
話は数時間前、昏見(くらみ)の経営するバー・クレプスクルムの開店前に遡る。
「所縁(ゆかり)くん。ほんの四時間くらいでいいんですけど、私の代わりにお店に立ってもらえません?」
「は? 何で」
「私、どうしても仕入れで店を空けなければいけないんです。ディーラーさんと直接話さないと分からないこともありますし」
「んなの臨時休業にすりゃいいだろ。いつもそうしてるんだし」
「そう。いつもそうしているんですよね。闇夜衆の突発的な活動や所縁くんの稽古に付き合っては、臨時休業の札を扉に掛けているわけです。そして、何も知らずにやってきたお客様を悲しませているわけですね。ええ、勿論仕方がないことですもの。でも、今月は開店している日の方が少ないくらいですから。ああ、誰かがほんの数時間店番をしてくれさえすれば、今日は開店日にあてられるのに……」
昏見が寂しそうに言うのを聞いて、皋はうっと言葉に詰まった。クレプスクルムが臨時休業しがちなのは、偏に皋の所為でもあるのだ。昏見の収益だのはどうでもいいが、客のことを持ち出されると罪悪感が募る。ここで本当に臨時休業させていいんだろうか。ややあって、皋は言った。
「……俺、接客とか出来ないんだけど。あと、酒も作れない」
「お酒は簡単なもののレシピだけ書いておきますから! 他は注文出来ないということにすれば問題ありません。烏龍茶の烏龍茶割はちょっと難しいですが、八時間ほどの練習で習得出来ますよ」
「それバーとしてどうなんだよ……っていうか、むしろ気になるのは接客の方で」
「それも問題ありません!」
昏見がいつになく晴れやかな満面の笑みで言った。
「私は怪盗ですよ。所縁くんが自信満々でカウンターに立てるよう、魔法を掛けてあげますね」
その時点で、皋は逃げ出せば良かったのかもしれない。
あれよあれよという間に、皋は昏見になっていた。正確に言うなら、昏見に変装させられていた。変装というのは、確かに技術の範疇である。自分に施せるなら他人に施せて然るべきなのだ。ものの一時間ほどで、鏡の中の自分は昏見とまるで同じ顔になっていた。
「あとはウィッグを被れば完成です。所縁くんに声帯模写の技術があれば完璧だったんですが、そこまでは望みません。今回は変声機を使いましょう。十全とは言えませんが、風邪気味ということで誤魔化せるはず。身長を揃える為に厚底で誤魔化そうかと思いますが、どうせカウンター越しですもんねぇ」
「いやいやいやこれはおかしいだろ! 外側じゃなくて中身が気になってんだよ! 接客の問題が一ミリも解決してないだろうが!」
そう言う自分の声が、昏見の声と似たものになっていて驚いた。確かによく聞けば違うのだが、それが分かるのは四六時中昏見の声を聞いている自分くらいのものかもしれない。歌えと言われれば無理があるが、会話の面では不自由無いように思える。
「たったの数時間ですよ。大丈夫。君は理想の名探偵をずっと演じていたじゃないですか。一介のバーテンダーになりすますことなど簡単ですよ」
昏見がそう言って笑う。確かに、あの時はそうだった。本当の自分など見せないで、自分の思う仮面を被っていた。なら、確かに──やるべきことは同じなのかもしれない。
……そんな考えは、カウンターに立って数分で霧散した。これは全然違う。というか、バーテンダーはそう楽な仕事じゃない。簡単なレシピすら皋には難しく、完成形は明らかに微妙なものが出来上がった。
早々に音を上げて烏龍茶だけを出すことに決めたものの、酔いを楽しめない客達は、名物バーテンダーにして闇夜衆の覡(げき)である昏見有貴(ありたか)との会話を楽しもうとしてきたのだからたまらない。古今東西の芸術の話や、時事の話を振られ、ウィットに富んだジョークや軽妙な会話を求められてしまう恐ろしさ。昏見はいつもこんな苦役をこなしているのか。だとしたら、とんでもない話である。
「………………えー、俺、じゃない、私はちょっとよく……わからないっていうか……」
昏見の声で、昏見らしからぬそんな返答を何度繰り返しただろうか。普段どれだけ好感度を稼いでいるのか、客はこんな昏見相手でも「なんだか今日の昏見さん面白いかも」だの「昏見さん、もしかしてこっちが素なの?」だのとはしゃいでいる。これがあいつの素だとしたら大変だろうが! と、皋は心の中で叫ぶ。一刻も早く転職した方がいい。
開店から二時間も経つ頃には、皋は疲労困憊だった。これほどまでに昏見を待ちわびた瞬間も無い。早く。早く帰ってきてくれ!
「おう、やってるな」
萬燈夜帳(まんどうよばり)が現れたのは、そんな時だった。
店内に歓声が溢れる。皋も一緒に歓声を上げたかったくらいだ。心細いこの状況で、萬燈の姿は光り輝いている。萬燈は笑顔のまま、皋の目の前のカウンター席に座った。皋は縋るような気持ちで口を開く。
「あ、萬燈さ──」
「今日も盛況だな、昏見」
萬燈が楽しそうに言う。そして「ジンをショットでもらえるか」と、流れるように注文をしてきた。
「え? あ? ジンって……」
「どうした? 切らしちまったっつうわけでもねえだろう」
「え、いや、確かにありますけど……。え、萬燈さん……ちょっと……あの……」
「どうした。お前、何か妙だな」
気づいてない。その瞬間、心臓がうるさいほど鳴り始めた。あの萬燈夜帳なら即座に自分が皋所縁であることを見抜き、この状況を理解して励ましてくれるだろうと思ったのに。
あろうことか萬燈は自分を本物の昏見だと思っているのだ! 嘘だろ、と皋は思う。昏見の変装技術は凄いと思っていたが、まさか萬燈をも騙してしまうとは。明らかに自分は昏見じゃないのに。どう考えても別人なのに。そんなことを考えていると、萬燈は訝しげに言った。
「あれか。皋がいないから調子が出ねえか。お前はいつもそうだもんな」
「へ!? 俺……ゆ……かりくん……がいようといまいと、私……は特に変わりませんけど」
「そうか? 皋がいねえ時のお前は、普段の半分すら喋らねえからな。俺とも三分会話が続きゃあいい方だ」
当然ながら、皋は自分がいない時の昏見と萬燈の様子を知らない。昏見がどんな態度でいて、萬燈とどんな会話を交わしているかなんて知る由も無いのだ。普段の半分も喋らない? あの昏見が? 常に舌を回し続けていなかったら死んでしまうと言わんばかりのあの男が?
信じられない気持ちでいると、萬燈はなおも続けた。
「お前は口さえ開きゃ皋だもんな。俺のことなんざ眼中にもねえだろ?」
「いや、そんなことはない……ですよ! 俺は萬燈さんといるのすごく楽しいですし、所縁くんと同じくらい大切で大好きですよ! むしろ所縁くんとかより、全然大事っていうか」
「気遣いに感謝するぜ」
「お……所縁くんだって萬燈さんに物凄く感謝してるし、めちゃくちゃ大事だと思ってるだろうし! そんな寂しいこと言わなくても」
「はは、ありがとな」
心なしか、萬燈の顔つきが暗いように見える。自分のいないところで、萬燈は悩んでいたんじゃないだろうか。昏見の口数が皋といる時より少ない所為で? そうだとしたら、もっと早くに気づけばよかった。別に昏見は萬燈のことを嫌っているわけじゃないだろう。単に自分の方がからかい甲斐があって玩具にしやすいから口数が多くなるだけだ。昏見は萬燈と真面目に会話をしているだけだろうに。
というか、ちゃんと自分は昏見じゃないと教えなければいけないというのに、完全に昏見として応対してしまった。これじゃあ今更言い出しづらすぎる。ということは、嘘を吐き通さなくちゃならないのか? 頭が痛くなってきた。
そんなことを考えていると、不意に萬燈が真剣な顔で言った。
「なあ……こんなタイミングで言うのもなんだけどな。……例の件が進んだ」
「れ、例の件……ですって?」
「とぼけんなよ。例の件っつったら、あれしかねえだろ。皋がいねえ内にしか話せねえんだからな」
俺がいない時にしか話せない……とはどういうことだ? 舞奏に関連することだろうか。それとも全く違うことだろうか。心臓がさっきとは違う速さで鼓動を打ち始めた。まさか、二人は皋に内緒で、何かを進めているのだろうか。
それがあるのに──闇夜衆は、共にいられるのだろうか?
「……萬燈さん……俺は……」
「ほら、耳を貸せ。場所を言う」
場所? 場所って何だ? というか、このまま聞いてしまっていいんだろうか。葛藤しながらも、皋は萬燈の方へと顔を近づける。萬燈が耳元に口を寄せ、ひっそりと囁いた。
「なーんてね。というか所縁くん。ジンのショットまだですか?」
そう言いながら、萬燈がにっこりと笑った。
その笑顔は、明らかに萬燈のものではなかった。背中を冷たい汗が流れる。
「……お前、ここで何してんだ」
「やだなあ。取引が終わって戻ってきたんですよ。ただいまです、所縁くん」
声もすっかり昏見のものに戻っている。声帯模写と変装が得意な昏見有貴の声だ。
「おっ前マジでふざけんなよ!」
「あらー、私の声でそんな怖いこと言わないでくれます? それにしても、さっきのフォローは感動的でしたね。萬燈先生に聞かせたら、きっと喜んでもらえますよ」
「殴り飛ばすぞ」
その瞬間、店の扉が開いた。ベルと共に、よく見知った男が入ってくる。
「おう、やってるな。……あ? ここはいつから仮装場になったんだ? 知ってたら、俺も相応に装って来たんだがな」
入ってくるなり全てを理解した萬燈が楽しそうに笑う。そうだ。それでこそ萬燈夜帳だ。もっと早くに気がつけば良かった! 周りの客は入ってきた萬燈とカウンターにいる萬燈を見比べて目を白黒させている。そっちにとってはエンターテインメントかもしれないが、皋からすればこれは悪夢だ。頭を抱える皋に、萬燈は心底可笑しそうに続けた。
「んで? お前は何なら作れるんだ? 皋。烏龍茶の烏龍茶割以外で頼みたいところだが」
*
阿城木入彦(あしろぎいりひこ)は大学生である。そのことは重々知っているし、特に異存は無い。学生の本分は勉強だし、覡として忙しくしている分、大学に行く時はしっかりと勉強に集中してほしい──と、七生は思っている。
だから七生は、大学に行ってしまった阿城木を惜しみ、七生の部屋(正確に言えば、七生が間借りしている部屋だが)でしょんぼりしている去記(いぬき)に対しても「仕方ないことでしょ」と、優しく言えるのである。
「去記ってば、阿城木がいないからってそんなにしょげないでよ」
「うう……だって、舞奏競(まいかなずくらべ)の前はあんな感じだったし、舞奏競の後は割とずっと一緒にいたし、急に大学に行かれると入彦ロスを感じてしまうぞ」
「それはまあ、わからなくもないけど……」
けれど、阿城木には自分達と水鵠衆を組む前の生活がちゃんとあり、自分達の方が後から入ってきたことを考えると、出来る限りそこの部分の邪魔をしたらいけないよな、と思うのだった。
「でもな、千慧(ちさと)。我は思うのだ」
「うん? どうしたの?」
「入彦はバスを使って通学しておるな」
「ね。大学が自動車通学禁止だからでしょ。僕大学のそういう仕組みよくわかんないんだけどさ。折角阿城木は免許持ってるのに勿体無いよね」
「そのバスというものは、何も入彦専用ではない。我らも使うことが出来るのだ」
七生は驚いた顔をして九尾の狐の顔を見つめる。彼は悪戯っ子としか表現出来ないような笑みを浮かべながら言った。
「我らも遊びに行ってみぬか? 入彦の通っておる大学とやらに!」
七生は大学というものに通ったことがない。だが、それが中学や高校とは比べものにならないほど広いことだけは知っていた。そんな場所に忍び込んで、果たして阿城木を見つけ出すことが出来るのだろうか?
一応阿城木がどこの学部に属しているか──キャンパスのどの辺りで講義を受けているかは知っていた。キャンパスの西の方に向かって、去記と共にずんずんと進んでいく。
果たして、七生の心配は杞憂に終わった。中庭らしきところに小さな人だかりが出来ており、その中心に見知った顔があったからだ。
「入彦! お前最近付き合いわりーじゃん! 有名人になったからって俺らのこと袖にすんなよ」
「なーに言ってんだよ。本当に袖にしてたら俺の半径十メートル以内に近づけさせねえっての」
「阿城木くん! 久しぶり! 水鵠衆の舞奏本当に本当に凄いね! 私感動しちゃった!」
「あ、宮野は舞奏披ん時も来てくれたんだってな。あん時気づけなかったんだけど、後から松井に聞いたわ。ありがとな!」
「阿城木ぃ! 舞奏もいいけど今度合コン行かね? 俺、お前のことどうにか連れてくるって言っちまったんだわ!」
「それはマジで勘弁な。ぜってー面倒なことになるし」
よくわからないが、我らがチームメイトは聖徳太子であったらしい。あんな風に囲まれてあれこれ話されて、よく的確に受け答えが出来るものだ。男女問わず取り囲まれているのを見ると、なんというか『人気者』のテンプレートみたいですらある。なんだあいつ、と七生は苦々しく思った。なんだあいつ。
思えば、昔馴染みのあの男も──あんな風に人に囲まれていた。そういうところまで、阿城木はよく似ている。だからだろうか。七生はなんだかとても釈然としない気分になった。
「入彦は人気者であるな……あれは楽しくて仕方あるまい。我もちやほやされるのが大好きであるからな」
「……僕、去記のそういうところ好きだな」
「我も神社ではあんな感じだもん」
謎の対抗意識を燃やしている去記を横目に、七生はじっと阿城木の方を見つめる。去記に言われるがまま大学までやって来てしまったが、これはよく考えれば──よく考えなくても邪魔なんじゃないだろうか。そう考えると、お腹の辺りがぎゅっとする。嫌そうな顔をされたらどうしよう。
去記、やっぱもう帰ろうか。そう切り出そうとした瞬間、阿城木がこちらを見た。あ、と声を出す間も無く、阿城木がずんずんとこちらに歩いてくる。
「何でお前らがいんだよ。オープンキャンパスか?」
「ちょっと! 嫌そうな顔しないでよ! こういう時ってびっくりはするものの優しく受け容れてくれるものじゃないの!?」
「お前マジで図々しいな……」
「ていうか何で気づいたの!?」
「でっかいのとちっこいのがいて気づかないわけねーだろ」
「我がおっきくて良かったの」
去記が得意げに言う。すると、阿城木を囲んでいた集団がわらわらとこちらへと近づいてきた。
「お! 水鵠衆の二人じゃん! 凄いな活躍!」
「わー、今高校生? うちの大学おいでよ」
「私ずっと狐くん派だったんだー! 握手して握手!」
一気に話しかけられて、七生はただ慌てることしか出来なかった。一方の去記は、阿城木と同じようにテキパキと応対をしていて、流石は神社でアイドル扱いされているだけのことはある。というか、誰も彼もが七生のことを高校生扱いしてくるのが解せなかった。これでも十九歳で通っているというのに。
そうして周りでわちゃわちゃと騒がれていると、急に誰かに腕を引っ張られた。見かねた阿城木辺りが助け出してくれたのだろう、と振り向くと、そこに立っていたのは寝癖混じりの髪をした、快活そうな男だった。
「だ、誰……?」
「俺、苅屋(かりや)っていって、阿城木のマブなんよ。これマジね。阿城木から俺のこと聞いてるっしょ?」
「え、い、いや……全然聞いてない……」
「えーっ!? ちょっ、後で阿城木のこと尋問しないとな」
冗談めかしながら苅屋が言う。一体その阿城木のマブとやらが七生に何の用なのだろうか。そもそも、苅屋は本当にマブなのだろうか? 全然知らない。大学の話を阿城木はまるでしない。
「そんな睨まなくてもいいって。お兄さん全然怖くないから」
「……そんなに歳変わらないから。それで、何の用?」
「いや、お礼だよお礼」
果たして、苅屋はあっさりと言った。思わずぽかんとした顔で刈谷のことを見つめてしまう。
「俺知ってんだよな。阿城木がずっと覡になりたがってたの。でも、俺らじゃ阿城木の夢は叶えてやれないもんだから、やきもきしてたんだよなー。ほら、俺らはみんな阿城木に世話になってるからさ。たまにはあいつの為になることしてやりたかったわけよ。でも、化身(けしん)とかはもうどうにもなんないし。でも、水鵠衆になれてさー、よかったよなー、阿城木」
脈絡の無い言葉だったが、だからこそ素直で率直な気持ちが伝わってくる。反芻する度にじわじわと嬉しさが込み上げてきて、自然と笑顔が浮かんできた。何でこんなに嬉しいのか分からない。でも、心の底から嬉しい。
「……そんな。僕だって、阿城木が覡になってくれて──水鵠衆になってくれて、凄く感謝してるよ」
刈谷がそれを喜んでくれているのと同じくらい、七生はそれを喜んでいる。阿城木が覡になったことを喜んでくれて、七生の方こそ感謝したいくらいだ。
「おい、何話してんだ?」
そうしている内に、去記を連れた阿城木が七生のところへとやって来た。怪訝そうな顔でこちらを見る阿城木を見て、思わず笑ってしまう。
「ったく、油断なんねえ……去記の方はこの数分の間に信者っぽいの作るしよ……」
「すまぬの……我のカリスマ性が天元突破している所為で、入彦の学友をばったばったとときめかせてしまって……」
「なんなんだよお前はマジで」
「別に大したこと話してないよ」
七生が言うと、訝しげな顔の阿城木が苅屋の方を見た。すると、苅屋も冗談めかした口調で「大したことは話してないな」と続けた。
「……だからお前らには来てほしくねーんだって……」
「もー! こういう時は来てくれて嬉しいってなるもんでしょ! もてなせもてなせ!」
「そうだぞそうだぞ!」
阿城木は大きく溜息を吐いてから、少しだけ優しい口調になって言った。
「……ウチの学食、割とデザートメニューも豊富でさ。シュークリームとかパウンドケーキとか、あとパフェとかが売ってんだよな。ここまで来たら、食って帰るか」
「お、阿城木ってば気が利くぅ、俺のもある?」
「お前は自分で買えよな」
苅屋にそう返す阿城木は、なんだかどことなく嬉しそうに見えた。これだけでも大学に来た甲斐があったかも、と七生は心の中で思う。
*
秘上佐久夜(ひめがみさくや)にお見合いの話が持ち上がったのは、舞奏競が終わってすぐのことだった。
「は? え? どう……どういうこと?」
「同じく社人の家系の一人娘でな。顔合わせをしたいということだ」
そうして告げられた家の名前は、確かに巡(めぐり)もよく知っているもので、確かにその家の人間が顔合わせしたいって言ったら断れないよなとか、むしろちゃんと対応しようとしている佐久夜は褒められて然るべきだとか、そういう言葉が頭を過った。だが、それで巡の気持ちが収まるわけでもない。
「ちょっ、はあ? 何で佐久(さく)ちゃんが先に結婚しようとしてるわけ!?」
「結婚しようとしているわけではない。当然ながら断ろうと考えている。今の俺は御斯葉衆の覡が一人だ。それに、お前が婚姻をしていないというのに、俺が誰かと婚姻関係を結ぶはずがないだろう」
それを言われればそうなのだが、巡にとっては晴天の霹靂だった。いや、佐久夜だって秘上の血を後に残さなければならない跡取りの一人で、いずれはそういうことになると理解はしていたのだが。主である巡がまだそういうことになっていない以上、まだまだ何が起こることもないと思っていたのに。
「それほどまでに言われるとは思っていなかったな。断りはするが、会わずに済ませられるような間柄の家でもない。無礼のないよう、誠心誠意応対すると誓おう。安心してくれ」
「はあ? ええ……まあ、確かにそうだよな……」
佐久夜はきっと、粗相はしないだろう。秘上家の人間である以上、巡を余所に勝手に婚姻関係を結ぶこともない。だが、巡の心はただひたすらに落ち着かないのだった。
栄柴(さかしば)巡は九条鵺雲(くじょうやくも)が苦手である。というか、率直に言って好きではない。二人きりで会うなんてごめんだとすら思っている。佐久夜は巡の見ていないところでこそこそと鵺雲のところに通っているが、巡はそんなこと絶対にごめんだ。
そう思っていたのに、今日の巡は鵺雲の泊まっている旅館を訪れる羽目になった。仕方ない。今回ばかりは緊急事態なのである。なりふり構ってはいられないのだ。
「なるほど。佐久夜くんに縁談の話があるんだね」
「そうですよ! 普通は俺が先で佐久ちゃんが後なのに! 断るとはいえど順番無視しやがって!」
「うーん。今のうちから血を継いでおくというのは悪くはないと思うけど」
「出た! そういうの今は置いといてください! ていうか、俺の目が黒いうちは絶対に佐久ちゃんに結婚とかさせませんから。そこは前提としておいてください」
「そうなんだね。ええと、なら余計に巡くんは何も心配することがない気がするんだけれど、これは僕の理解が間違っているのかな?」
「会うこと自体が嫌なんですよ。これで佐久ちゃんが相手の子にぞっこんになっちゃったらどうします? 御斯葉衆の覡として舞奏を奉じている場合じゃないってことになったりしたら! そんなの鵺雲さんも嫌でしょ?」
「……? 佐久夜くんに限ってそんなことがあるとは思えないけれど……」
「何が起こるか分からないのがこの世の中じゃないですか。俺はやっぱり嫌ですよ。でも、確かに秘上は勿論栄柴だって世話になってる家だから、俺から言うのはちょっとなって感じで」
ちょっとな、というだけで本気で嫌がれば阻止なんか簡単なのだけれど。でも、巡が求めているのはそういうことじゃないような気もして、釈然としないのだ。
「あ、それで僕を頼ってくれる気になったんだね。普通では役に立たない僕だけれど、九条家の嫡男としての価値はあるものね」
「そうそう。九条家の権力でどうにかしてくださいよ」
「なんとかしてあげたいのは山々だけれど、今の僕は九条家を通して何かを言える立場ではないものだから……肝心な時に役に立たなくてごめんね」
「…………ちぇー、これも駄目か」
巡は投げやりな口調で言う。だが、元より鵺雲にそこまで期待していたわけでもない。相模國と遠江國(とおとうみのくに)ではそれこそ道理が違ってくる。いくら九条家でも、そこまで大きく口出しすることは出来ないだろう。
なら、巡はどうしてここまでやって来たのだろうか。これじゃあまるで、鵺雲にただ話を聞いて欲しかったみたいだ。そんなのは……一体、何だろう?
「ところで、少し気になっていたことがあるんだけど」
「何ですか?」
巡が言うと、鵺雲はいつものような何とも言えない笑顔を浮かべて尋ねた。
「佐久夜くんがもし、お見合い相手のことを本気で好きになったとして──彼女と添い遂げることが佐久夜くんの幸福になったとしたら、巡くんはどうするのかな? 彼の幸せを、むざむざ否定するのかな?」
鵺雲は意地の悪い質問をしているつもりはないだろう。むしろ、本気でそれが気になっているから聞いているのだ。全く、だから巡は九条鵺雲が嫌いだ。この男は巡の血を沸き立たせる。自らが夜叉憑(やしゃつ)きであることを、絶えず思い出させてくれる。ややあって、巡は言った。
「佐久夜が何を幸せに思うかなんて関係ないんですよ。佐久夜の幸せは俺が決める。佐久夜が秘上佐久夜である限り、あいつの幸せがかく在ることはない」
巡が言うと、鵺雲は何故か楽しそうに笑った。何だか、巡がこう答えることは、随分前から知られているような気すらした。
「じゃあ、何も心配することはないんじゃないかな? 佐久夜くんが他に心を移すことも、巡くんを裏切ることもきっと無いと思うよ」
「まー……そうは言ったものの最近のあいつはやりたい放題の慎みゼロだから、全然信頼出来ないですけど……」
そもそも、佐久夜が心を移すとしたら、一番可能性があるのは目の前で微笑んでいる天才だろう。鵺雲のことを考えれば、血筋のいいどこぞの女の子なんかまるで敵ではないような気もしてくる。彼の存在は落雷のように巡と佐久夜の関係を貫き、そして後には豊穣をもたらしたのだろうか?
「あとはそうだなあ。カミに祈ってみるのはどうだろう」
「カミに?」
「だって僕らは誉れある御斯葉衆だもの。カミに祈りを捧げれば、何かしら応えてもらえることもあるんじゃないかな?」
「はは、そりゃ景気のいいことで……」
巡は苦々しく返す。こと佐久夜に関しては、巡はあまりカミに願いを捧げたくはなかった。勝手に化身を発現された時だって、何だか癪に障ったくらいなのだ。これ以上思い通りにしてやりたくはない。
代わりに、巡は鵺雲に願った。御斯葉衆を牽引する、お育ちと血統の良い覡主(げきしゅ)様。あんたの喉笛を噛みちぎらんと狙っている殊勝な俺の為に、何かしら報いてくださいますように。そうしたら、ちょっとはあんたのことを見直してやってもいいよ。そう思うと、何だか巡は愉快な気持ちになるのだった。
巡の願いが聞き遂げられたのかは定かではないが、佐久夜と件の女性の顔合わせは実現しなかった。
「こちらに向かっている最中に、落雷にあったんだそうだ」
「へー、雷」
「怪我などは無かったようだが、道路が一時通行止めになったらしい。そして、顔合わせは断念ということになった」
「ふーん。なんか運が悪かったね」
「加えて、相手方も興を削がれたらしくてな。俺が事前に断る意思を見せていたからかもしれないが、この話自体も一度白紙に戻そうということになった」
「案外、その子が落雷で立ち往生している間に、運命の相手と出会ってそっちの方がよくなったのかも」
「そうかもわからないな」
佐久夜が真面目な顔で頷くので、巡は何だか微妙な気持ちになった。冗談だってちゃんと分かっているんだろうか?
「ま、佐久ちゃんにはそういうのいいから。舞奏競が終わったら、佐久ちゃんには俺を追いかける日々が待ってるんだからね。結婚とか穏やかな生活とか、そういうのは俺が許すまで許さないからね」
「……追いかけるのか。普通に連れ立てばいいだろう」
「佐久ちゃんは少しくらい苦労したらいいんだよ。それも佐久ちゃんは幸せでしょ」
幸せ。幸せって何だろう。巡には、正直なところよくわからない。遠江國を出て、好きなように旅をするのは幸せだろうか。家の意向に従い、栄柴の血を継ぐことも、ある意味では幸せなのだろうか? 不確かな尺度の中で、唯一揺らがない指針があるとしたら──。
「そうかもしれないな」
佐久夜が真面目な顔で再度頷く。一瞬、何を肯定されたのかわからなくなり、一拍遅れて「ま、そうだよね」といつもの言葉を返す。
「佐久ちゃんの幸せは俺が決めるもんだからね」
「そういうわけでもないだろう」
「欲張りな佐久ちゃんは、今の俺と一緒にいればどうあったって幸せか」
巡が言うと、佐久夜はまたも大真面目に考え込む素振りを見せてから、ゆっくりと頷いたので、巡はちょっと面白くなる。どうか、舞奏以外のところではそんなに波風立ちませんように、と、今度は宛先も無く祈った。
著:斜線堂有紀
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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