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  • 小説『神神化身』第二部 四十四話  「虹の裏側、月の果て」

    2022-03-18 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第四十四話 

    虹の裏側、月の果て


     原則的には全力食堂はデリバリーをやっていない。比鷺(ひさぎ)や七生千陽(ななみちはる)のように三言(みこと)が個人的に持って行く相手はいるものの、基本的には来店してもらう形になっている。
     だが、例外もいくつかあって、それが今回のような大規模なケータリングサービスをやる時だ。今日は町内会のフリーマーケットに合わせて、大鍋に入れたシーフードカレーやら揚げ物やらの提供を担うことになっていた。フリーマーケットの参加者は、これらのものを好きに食べられるのである。
    「カレーこっちにはまだありますよ!」
     全力食堂特製のシーフードカレーを皿に盛りながら、集まった人々に大声で声を掛ける。こういう時に、よく通る三言の声はとても重宝されるのだ。ケータリングの仕事は忙しいけれど楽しい。祭が大好きな小平(こだいら)さんも、とても嬉しそうに働いている。
     そうしてテキパキと場を回していると、カレーを食べている中年の女性の一人が話しかけてきた。
    「本当に三言くんってば頼りになるわよねえ。小平さんもさぞかし鼻が高いんじゃない?」
    「俺なんかまだまだですよ! これくらいで褒められたら、逆に恥ずかしいです!」
    「謙遜しちゃって。昔の三言くんは手ぇつけらんないやんちゃ坊主だったのにねえ。見る影もないじゃない。やっぱり、小平さんと暮らして一生懸命働いて覡(げき)もやってってなると、しっかりするもんなのかね」
     しみじみとそう言われ、三言は思わず尋ねた。
    「今の俺だと駄目ですか?」
    「駄目ってことはないわよぉ。でも、人間ってこんなに変わるんだねって話」
     三言は交通事故に遭う前の記憶を失っている。自分には両親と妹がいたらしいが、写真を見たところで、彼らはまるで他人のようにしか思えない。三言は失ってしまった記憶と一緒に、目の前の女性に惜しまれている部分を失ってしまったのかもしれなかった。それは、あんまりいいことでは無いような気もする。
    「じゃあ、前の俺は──」
     そうしてなおも話を続けようとしたものの、女性はさっさと次のおしゃべりの相手を見つけてしまっていた。興味の移り変わりがやや早い女性だったらしい。
    「どうしたんですか、呆けてしまって。三言くんらしくないですね」
     声のした方を向くと、そこには背の高い女性が立っていた。よく知っている、三言の大好きな相手だ。
    「千陽さん! いらっしゃってたんですね!」
    「はい、千陽です。三言くんがお手伝いしてると聞いて、来ちゃいました」
     七生千陽は三言の家の隣──家族がまだ存命だった頃、共に暮らしていた生家の隣──に住んでいる、所謂お隣さんだ。三言が小さい頃から、家族ぐるみの付き合いがある。尤(もっと)も、その頃の記憶は三言には残っておらず、千陽との思い出は事故の後のものになってしまうのだが。
    「千陽さんに会えて嬉しいです! もし来るのが分かっていたら、また甘い物を用意してきたんですけど……」
    「わあ、嬉しいですね。なら先にお知らせしておけばよかったかもしれないです」
     そう言って、千陽が嬉しそうにカレーを受け取る。丁度三言も休憩の時間なので、二人で並んで食べることにした。
     海を眺めながらカレーを口に運ぶ。流石全力食堂というべきか、カレーはとてもいい塩梅に仕上がっていた。
    「美味しいですね。流石は全力食堂さんです」
     千陽もとても嬉しそうだ。幸せだな、と三言は自然と思う。
     その時ふと、三言の脳内にさっきの疑問が戻って来た。
    「俺って、前とはやっぱり変わったんでしょうか。小さい頃と」
    「うん? 小さい頃とですか? それは……確かに変わった気がしますけれど……成長したんじゃないかな、と私は思います」
    「成長……」
    「だから、三言くんが変わったとしても、それはいいことばかりの変化だと思いますよ」
     千陽が笑顔で言ってくれるので、三言はなんだか安心した。
    「俺は事故で記憶を失っているので、そこで大切なことも失っているような気がして……」
    「その気持ちもわからなくはありません。私もたまに、同じような気持ちになることがありますから」
     千陽がカレーとご飯を混ぜながら、どこか寂しそうに言う。
    「三言くんに言っていなかったことがあるんですけど」
    「はい。……なんですか?」
    「私、三言くんを引き取らせて頂こうかと思ったことがあるんです」
     そう言われ、三言は思わず呆気にとられてしまった。そんな話は、今まで聞いたことがなかったからだ。
    「三言くんは私にとって、子供同然ですから。三言くんの力になれたら、と思ったことがあります。けれど、今の三言くんの変化を見ていると、やはり小平さんのところで、よかったんだなと思うんです」
    「……でも、嬉しいです。ありがとうございます」
    「三言くんは確かに変わりましたけど……それはとても良い変化だと思います。それに、友達思いのところは変わりません。だから、何も心配しなくていいと思いますよ」
    「千陽さんにそう言ってもらえると……嬉しいです」
    「だから、大丈夫ですからね」
     千陽に繰り返しそう言われ、三言はなんだか言葉にならない気持ちになった。本当に、何か甘い物を作ってくればよかった、と三言は思う。そうしたら、きっと千陽にまた意見をもらえただろう。


     仕事を終えた遠流(とおる)が稽古場にやって来ると、三言が出し抜けに質問をしてきた。
    「俺はどこか変わったように見えるか」
     じっと見つめられながら三言にそう尋ねられると、やや気まずい気分になった。変わったかと尋ねられればその通りだと答えざるをえない。何しろ、遠流は三言がこういう性格になる前の三言を知っているのだから。少し悩んだ末に、遠流は言う。
    「変わった……とは思うけど。そんなこと言ったら、僕達はみんな変わったんじゃないかな」
    「そうなのか? 遠流もか? 比鷺も?」
    「それは……そう思うよ。僕だって、前の比にならないくらい変わった自覚はあるし。前の僕なら……アイドルなんて疲れるようなことはしなかった。そんなことしてる暇があったら寝てたいって、そう思ってただろうし」
     昔の自分に今の状況を説明したら、きっと鼻で笑われることだろう。そのくらい、アイドルになるというのは遠流にとってありえない選択肢だった。
     今だって──もし合同舞奏披(ごうどうまいかなずひらき)がなくて、あの全てを舐め腐っているような享楽的な男に言いくるめられなければ、遠流は自分の選択に悩み苦しんでいただろう。彼に言われてから、遠流はなんだか悩むことすら嫌になってしまったのだ。
     もし遠流のやっていることが不当であれば、彼は嬉々としてそれを壊しにくるだろう。その点については信頼している。恐らくは──感謝もしている。
    「だから、三言が変わってしまったこと自体は、気にしなくていいのかもしれないって、僕は思う……何か気になることがあったの?」
     三言はそれには答えず、笑顔で言った。
    「そうなのか。遠流は寛大だな!」
    「こういうのを寛大っていうのかはわからないけど……」
    「でも、遠流はまるでアイドルになる為に睡眠時間を奪われたみたいで、そこが少し心配だぞ」
     三言がなにげなく言う。言われてみれば、遠流が今奪われているのは『睡眠時間』という得難い宝物なのかもしれない。
    「でも、心配しなくても大丈夫だよ。その……移動中とか、空いた時間とか、そういう時に最近は眠るようになってるから……。その所為で、眠り王子だとかなんとかの変なキャラ付けがされかけてて、ちょっと怖いんだけど。……あんまり、無理しないように、してる」
    「それを聞いて安心したぞ! 遠流はいつでも頑張り屋さんだからな。たまには前みたいに沢山眠ってほしいぞ!」
    「ありがとう」
     遠流はそう言って、三言に微笑み掛ける。今日の三言はなんだか妙な感じがするけれど──こうして優しい言葉を掛けられると、遠流の知っている三言だ、と安心する。
     その時ふと、三言の手の甲にある化身(けしん)に目が吸い寄せられた。
    「三言の化身、変化してからは余計に目立つね」
    「ああ、そうだな! みんなにもよく見てもらえるようになって、なんだか嬉しいんだ」
    「確かに、これがあると三言が凄い覡だってみんなが分かるもんね。……僕はそういう場所じゃないから、あれだけど……」
    「そうか? 俺は遠流の化身が好きだぞ!」
    「でも、腰って……正直込められている意味もよくわからないし」
     それ自体はずっと思っていたことだ。化身はその人の優れた部分に現れるという。けれど、遠流は腰だ。何を表しているのか、正直なところよくわからない。自分は生まれながらに持っているものじゃなく、後から与えられた化身だからなのかもしれないが、それでも気になるところだった。
     すると、三言は先生よろしく人差し指を立てながら言った。
    「化身はその人の価値のある部分に発現するんだけど、それだけじゃないんだ。正確には縁深い場所に出るんだよ」
    「縁深い場所……?」
     神楽鈴を持つ三言の手が、カミと縁深いというのは分かる。あるいは、言葉によって名探偵の役割を果たしていた皋所縁(さつきゆかり)の化身は縁深いというよりは才そのものなのだろうが──。他は、どうなのだろう?
     聞いてはいけないような気がした。きっとろくなことにはならない。でも、聞かずにはいられなかった。
    「比鷺は? ……比鷺の化身は、うなじにあるけど。あれには……一体どんな意味が?」
    「ああ、比鷺の化身だな。ずっと正されないなと思っていたんだが、あれはうなじの化身じゃないぞ」
    「それって……どういう意味……?」
    「そのままの意味だよ。比鷺の化身は頸椎(けいつい)の化身なんだ」
     頸椎が何かというのは分かる。首と頭を繋ぐ、とても重要な骨のことだ。言われてみれば、うなじの下には頸椎があるわけだし、化身がどっちを指し示しているかを知る機会は自分達には無かったわけだ。
    「比鷺はその才もそうだが、真に価値あるのはその思考能力だよ。それが比鷺の舞奏(まいかなず)をより素晴らしいものにしている。頭と身体を繋ぐものにこそ、比鷺の真価があるんだ。だから、首にこそ最も密接に結びついているんだよな。首輪というものが発明されたのは、首が人間にとって急所だからだ。そこに枷を嵌められれば逃げられない。鎖骨とはまた違った隷属の場所だね」
     三言はその言葉を一息で言った。背筋の震えが止まらなかった。三言の声は明瞭だし、普段から滑舌がいい。けれどこれは──なんだろうか?
     三言の顔をした三言ではない何かが喋っているような気がする。けれど、それを言うなら今の遠流も、遠流ではない何かに喋らされているような気がしながら、遠流は尋ねた。
    「僕の化身は腰にある」
    「ああ、そうだな」
    「これは、どうして?」
     それを聞いた瞬間、三言がにっこりと笑った。背筋が更に寒くなる。気づけば遠流は三言に背を向けて駆け出していた。その瞬間、丁度腰の辺りを掴まれる感触があった。そうだ。あの時もこうして逃げだそうとして、遠流は肝心なところで逃げだそうとしてしまって、それで、だからこうして──。
     
    「うわああああっ!」
     自分らしからぬ絶叫と共に、遠流は目を醒ました。
    「大丈夫か? どうしたんだ?」
     慌てた様子の三言が駆け寄ってくる。震えながら辺りを見回すと、そこは相模國舞奏社(さがみのくにまいかなずのやしろ)の稽古場だった。いつもの場所だ。恐ろしいことなんて何一つないところだ。
     それでも、遠流の震えは収まらなかった。がくがくと全身が震え、汗だくになった身体が冷えていく。三言はそんな遠流の背を優しくさすってくれていた。
    「……怖い夢でも見たのか?」
     そう尋ねてくる三言のことを見る。三言は何も変わらない、遠流の大好きな三言だった。夢の中とは全然違う、自分の幼馴染である三言だ。それを見ていると、涙が出てきた。こんなんじゃ三言に心配を掛けてしまう。そう思うのに、涙はどんどん溢れてきて止まらない。
    「大丈夫だぞ、遠流。俺はここにいるからな」
     涙を流し続ける遠流の背を、三言はなおもさすってくれていた。その手の感触が、遠流を辛うじて安心させてくれている。涙が止まらなくて、駄目だと思いながらも遠流は袖で目を拭った。
     あんなのはただの夢だ。あれは三言じゃない。三言は──遠流が好きな三言は、ここにいる三言だ。あんなのは三言であっていいはずがない。
     けれど、確信したこともあった。
     遠流はあの時、逃げ出したのだ。そして、この場所をカミに掴まれた。才の証ではなく、過去の証だ。自分の化身は、他の覡とは根本的に意味合いが違う。
     遠流がなおも泣いていると、三言が稽古用に持って来たのであろう綺麗なタオルを差し出された。顔を押しつけた時に感じる柔軟剤の臭いが、辛うじて遠流を繋ぎ留めてくれているようだった。
     
      *
     
     昏見有貴(くらみありたか)は回想しない。
     
     眼下にホテルを見下ろしながら、怪盗ウェスペルこと昏見有貴は計画の最終確認をしていた。今日狙うのは、十八世紀に作られた美しい懐中時計だ。この時代に生み出された機構は、現代のラグジュアリーウォッチに繋がるような素晴らしいもので、部品数も多い。歴史的な価値も高いが、デザイン面でもかなり質のいい物だ。
     予告状は出したものの、最近の昏見は手早く全てを終わらせることをモットーにしている。怪盗ウェスペルの傾向が明らかになった今、人々の間には既に『怪盗ウェスペルに狙われる時点で、その相手には問題がある』という認識が生まれるようになっていたからだ。
     だとすれば、もう派手なパフォーマンスは必要がない。ターゲットリストの二つ目に差し掛かる頃には、昏見はすっかり勤勉になっていた。あるべきものを、あるべき場所に。昏見がやるべきはそれだけだ。
     こう考えると、怪盗稼業とは随分地に足の着いたものだったのだと苦笑せざるを得ない。小説や映画の中の怪盗を夢見ていたわけではないが、それにしてもこの生真面目なこと! けれど、怪盗が存在するからといってお誂え向きに名探偵が現れることもないし、昏見はまだ飛行艇の主ではない。人工知能のパートナーも見つけられていない。何とも堅実な毎日である。
     だが、これはこれで昏見の本懐だ。ある意味で天命だったのかもしれない。世の中には物の価値が分かっていない人間が多すぎる。なら、自分が適切にそれを管理してやらなければならない。
     この稼業を始めてからというもの、昏見は人間というものに呆れ果てている節がある。人間は愛おしいけれど、それなりに愚かだ。もしかすると、世界をよりよくしていく活動には限界があり、昏見の腕はそれほど広がらないのかもしれない。
     だが、それがどうしたというのだろう。昏見は裁定者となって、自分の思うままに手を伸ばし、救える範囲の価値のみを救えばいい。分かる人間にだけ伝わればいい。それだけだ。
     さて、今夜の犯行だが──あまりよくないタイミングだったかもしれない、と昏見は思う。このホテルで平行して催されているのは、かの有名な萬燈夜帳(まんどうよばり)の講演会だ。いや、サイン会もやっているんだっけ? 何にせよ、盛況であることには変わりない。
     問題なのは、この大騒ぎの所為で人の出入りも警備の数も、普段とは比にならないということだ。昏見が単体で予告状を出した時よりもずっと盛り上がっているのが悔しく思えるほどだ。人が多い分紛れ込める場所も多いのだが、熱に浮かされた人間は往々にして昏見の計画を狂わせる。
     この間、萬燈夜帳はかなり大きな文学賞を受賞した──というより、国内のめぼしい賞を取り終えた、といった方が正しいだろうか。質の高い小説をコンスタントに発表し続けることの出来る彼は、まさに天才小説家の肩書に相応しいだろう。昏見も何冊か小説を読んだことがある。どれも面白かった。特に七作目の『昼夜(ちゅうや)の言(げん)』が好きだ。
     一方で、最近の萬燈作品は何だか雰囲気が変わってきたような気もしていた。得てして面白いのは変わらない。彼の作品の大半はエンターテインメントに徹していて、読者を喜ばせることに終始している。
     だが発表された一部の小説には言語表現へ延々と挑戦しているようなものだったり、読者の理解を拒むようなものもあった。これは明らかに萬燈夜帳作品の原則──小説は人を楽しませるものであるという頑ななまでの意思──には反している。
     それですら世界をざわめかせ、様々な考察や憶測で人々を賑わせているのだから、新種のエンターテインメントと言えなくもないが。そう考えると、萬燈夜帳は何も変わらず一貫性を保っているのかもしれない。
     けれど、昏見にとってそれらの作品群は、全く別の意味を持っているように見えている。
     さて。少しだけ親しみのある小説家が近くにいたところで、怪盗ウェスペルのやるべきことは変わらない。獲物は今、昏見の手を待っている。
     
     そして、昏見の嫌な予感は当たった。こうした熱気溢れる場所では、絶対に何かしらのイレギュラーが起こる。
     興味深かったのは、そのイレギュラーが人の形を取っていたことだ。ホテルのバルコニーから早々に帰ろうとしていた昏見を、彼が楽しそうに呼び止めてきた。
    「お前の方も首尾良くいったみてえだな」
     振り返らなくても声だけで分かった。彼ほど雄弁な声を持った人間はいない。服の中に忍ばせている時計の感触を確かめながら、昏見は言った。
    「隣を騒がしくしてしまってすいません。今夜は貴方の独擅場(どくせんじょう)だったのに、私が話題を頂いてしまって」
    「構わねえよ。怪盗と見(まみ)える舞台と見えねえ舞台じゃ、エンターテインメントの強度が違う。お前だってこの冴えた夜の立役者だ」
     なるほど、こういうタイプか、と昏見は思う。どこまでも余裕があり、才知と機知に富んでいる。名声を一手に集めているのに、生まれながらに『持っている者』だから驕らない。昏見の好きではないタイプだ。だって、単純にいけ好かない。
    「それで? 私を見つけて勝ったおつもりですか? 萬燈夜帳先生。言っておきますが、私にとっての敗北とは捕まり蹲(うずくま)るその瞬間です。チェックメイトだけでの勝利宣言は頂けませんね」
    「俺はそもそも勝利しようとも出来るとも思ってねえよ。この世での勝利とは楽しみ尽くすこと、それ一点だけだろう。俺がお前を確保したところで、何の益もねえ」
    「捕まりませんけどね、私」
     勘違いされそうだったので、先んじてそう言っておく。たとえ相手が天才であろうとも、こちらは怪盗ウェスペルだ。怪盗が小説家に負ける展開なんて、誰も望んでいないだろう。
    「ですが、それを勝利条件とするのなら、貴方は既に勝者でしょうね。出す小説出す小説ベストセラーで、小説家としての栄冠を全てその頭に戴いたのですから」
     目の前の男が満たされていないことを知っていてなお、昏見は敢えて言った。案の定、萬燈が微かに面白そうな笑みを浮かべる。
    「そうだな。人生を面白おかしく過ごしてそうな怪盗ウェスペルに言われると、なおのことその光栄を噛みしめるな」
    「そうでしょう? 素晴らしいですよね。私も怪盗を引退した後は、小説家の方を目指すことにします」
    「なかなか悪くない進路だ。相応の人間がやらねえ限りは、人生を空費することになる稼業だが」
     今夜は月が出ていないので、萬燈の表情はよく見えない。いや、よく見えたところで意味がないのかもしれない。萬燈には何を隠す気もないのだから。彼のことを理解出来る人間がいないから、萬燈はそのままでいても全てを明かさぬことが出来る。ややあって、昏見は言った。
    「貴方の中では、私も七十八億人の中の一人ですか」
     萬燈は答えなかった。沈黙が何より雄弁だった。
     彼はおよそ他人というものに興味が無い。いや──人間そのものには興味を持っているのかもしれないが、それは個人に目を向けているのとは、まるで話が別だ。彼にとっての人間とは、偏に楽しませるべき読者である。魅せるべき観客である。
    「さぞかし孤独なことでしょうね。貴方の世界は貴方一人きりだ。理解されない小説を書いているのは、波長が合う人間を探しているからですか? けれど、貴方のその願いは今のところ、叶っていないようですね。まるで仲間を探して鳴く鯨のようです」
     萬燈のあの小説は、彼の為だけに書かれた小説なのだろう。だが、その小説は理解を得たことはない。そうであれば、彼はこれほどつまらない生き方をしていない。
    「けれど、才無く孤独な人間より、萬燈先生は恵まれています。貴方の小説、私結構好きですよ」
     だからこそ、萬燈が自分に対してそう期待を持っていないことが悔しい。第一印象から決めてました、とそう思われるくらいじゃなきゃ満足出来ない。
     あるいは、怪盗稼業を始めたばかりの自分だったら、もっと萬燈の興味を退けただろうか? と愚にも付かない想定をする。あの頃の自分と今の自分の違いは、自負があるかだけなのだが。
     すると、お誂え向きに萬燈が言った。
    「お前もお前で傲慢さが出てるな。この世全てがお前の獲物か?」
    「ええ、そうですね。最近になって、自分の宝物庫が思ったより広いことに気がついてしまいました。世の中には物の価値を知らない人間が多すぎます。私はそれをあるべき場所に戻すだけ。然るべき場所に無ければ、翡翠だって石ころですよ」
    「なら、お前も俺もそう変わらねえな」
     なかなか耳の痛い指摘だ。そうなのかもしれないが、肯定するのは癪に障る。昏見はフェイスベールの向こう側で、にっこりと笑った。
    「なら、私だったら、貴方の他人になれるかも。そんなことをしてあげる暇なんてないんですけどね」
    「ああ。お前にはお前の目的があるんだろう。俺は精々、その活躍を拝覧することにしよう」
    「ええ。楽しませてあげますよ。それなりにはね」
     けれど、この世にはとかく役者が足りない。昏見の心に漣(さざなみ)を立てる相手も、人間のことを信じさせてくれる出来事も、何も無い。これは使命を果たせという神の思し召しなのだろうか? だったら随分と温い設定だ。折角なら、縛りプレイの一つでも楽しませて頂きたい。
    「……萬燈先生」
     去り際に、昏見はにこやかに彼のことを呼んだ。今や昏見は、萬燈に対して多少の親しみを覚えていた。
    「これからも小説をお書きになるんですか」
    「そのつもりだ。生憎と、俺にはまだ書くべき物語があるからな」
    「萬燈先生のご健筆を心からお祈りしています」
     その言葉に嘘はなかったが、果たして小説だけを突き詰めていく中に、彼の求めるものはあるのだろうか? とふと疑問に思ったのだ。
     それでも萬燈夜帳の小説は面白く、これからも多くの人間を楽しませていくだろう。彼の作品で救われる人間も沢山いるはずだ。
     その時、不意に昏見の肩甲骨の辺りが熱を持ったように疼いた。昏見の肩甲骨には、生まれながらに奇妙な痣がある。これは化身と呼ばれるもので、舞奏の才の証明となるものだった。敬愛する祖母が、昏見の身体の中で唯一愛せなかった部位だ。
     昏見は舞奏の道ではなく、怪盗としての道を選ぶことに決めた。そのことには一分の後悔もない。
     これからも、昏見は自分の為すべきことを果たすだろう。
     
     *
     
     萬燈夜帳の新作の発売が決まると、書店周りは俄に祭りの雰囲気に活気づく。皋は元から小説というものが好きなので、こうして盛り上がっているのを見るのが好きだ。この熱気を引き起こしているのが、自分のチームメイトだと思うと、改めてその凄さに感動し、やや気後れしてしまう。
     常々思うことだが、闇夜衆(くらやみしゅう)のメンバーは凄い。認めたくはないが昏見の実力は凄いし、萬燈に関しては言わずもがなだ。皋と二人を比べると、未だに差は大きい。自分が二人に何かいい影響を与えられているんだろうか? と、しばしば考え込んでしまうくらいだ。自分がいなくても、二人は闇夜衆として活躍するだろう。
     でも、そうなってほしい……とは思わない。大祝宴に到達して願いを叶えるという目的があるのも当然だが、そうでなくとも──皋は二人と共に大祝宴(だいしゅくえん)の景色を見たい。
     そろそろ、次の舞奏競が始まる頃合いだ。櫛魂衆との戦いに敗れた闇夜衆は、次こそ勝たなければならない。
    「はあ……今日も稽古やるかぁ……」
     誰に聞かせるでもなく一人ごちて、皋は洗面台の鏡に向き直る。初めて化身が発現した時も、この鏡で自分の姿を見た。
     皋は改めて舌を出して、そこに巣食う化身を見る。相変わらず目立つ位置だ。赤黒く存在を主張し、皋を願いから逃さない。
     ──その瞬間、化身が不意にその姿を消した。
    「は……?」
     思わず、鏡に手を付いてまじまじと見てしまう。すると、そこには変わらず化身があった。
     見間違いか、幻覚だろうか。疲れているのかもしれないが、何にせよ不吉だ。自分に化身が無かったら──と思うとぞっとする。今の自分は様々な奇跡の上に成り立っていて、支柱となっているのが化身であるというのに。
    「出た時は何だこれって思ってたのに、今となってはこれ頼りだもんな……」
     思わず乾いた笑いが出る。果たして、化身が無くなったら昏見と萬燈はどんな反応を示すだろうか。
     皋はそのまま長い間、自分の舌を眺めていた。確かめるように。繋ぎ留めるように。





    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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    ©神神化身/ⅡⅤ

  • 小説『神神化身』第二部 四十三話  「A Very Merry Unbirthday To Prayers」

    2022-03-11 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第四十三話 

    A Very Merry Unbirthday To Prayers


    「ほらほら遠流(とおる)! もうちょっと右! そこだとよく見えないから!」
    「ならお前が飾れ……この無能指示厨が」
    「うっ、ゲーマーに刺さる語彙で的確に詰めてくるのやめて」
     比鷺(ひさぎ)は胸の辺りを押さえながら、遠流の暴言に耐える姿勢を取る。稽古場の床に転がると、冷たさが妙に身体に染みた。稽古場の壁に飾られている折り紙の鎖は子供の頃に作ったきりで、今回久しぶりのご登場だった。三言(みこと)や遠流の誕生日の時は必ずこれで部屋を飾り付け、これが無いとパーティー感が出ないよなぁと悦に浸っていたことを思い出す。脚立に乗って壁に鎖を飾っている遠流は、身長こそ大きくなったもののあの頃と大差なく見えて、なんだか妙に嬉しい気持ちになった。
     こういうパーティー的なものを主催するのはいつも三言の役割で、その日が近づいてくると自分達はそわそわしながら彼の方を気にしていたことを思い出す。三言、今年もお祝いしてくれるかな。自分達と遊んでくれるかな。そんな心配をしなくても、三言は毎回ちゃんと自分達を祝ってくれたというのに。そんなことを考えていると、脚立に乗った遠流がじろっとこちらを睨んできた。
    「転がってないで働け。千切られたいの?」
    「わー! 今となっては若干懐かしいそれ! もしかして『恋ない。』の円盤出るから!? あー、自分の出てる作品はやっぱり大切にしてるんだねえ。やー、俺お前のそういう健気なとこちょー好きなんですけど! かっわいー!」
     それきり比鷺はしばらく黙った。遠流が脚立から跳躍し、あわや比鷺が大ダメージを負う場所に着地してきたからだ。比鷺の反応が数秒遅れていたら、再起不能になっていたかもしれない。これは遠流なりの信頼だろうか? 比鷺なら絶対に避けてくれるだろうと? それだったら嬉しい。いや、やっぱり怖い。
     そうして黙々と飾り付けを終えると、遠流が不意に口を開いた。
    「そういえば、社人(やしろびと)がお前と話したがってたぞ」
    「え、何だろ。俺何かしたかな」
    「水鵠衆(みずまとしゅう)との合同舞奏披(ごうどうまいかなずひらき)の実現がどうとか言ってたけど」
    「水鵠衆との合同舞奏披? えー、何それ。俺は正直そんなに気が進まないけどな。闇夜衆(くらやみしゅう)との舞奏披だって、激レア親愛度イベントを超~重ねた結果じゃん? 俺のデレはそんなに安くないんだっての」
    「あっちはさもお前からの提案みたいに言ってたぞ。水鵠衆に興味を持ってるとか」
     遠流が怪訝そうな顔で言ってくるが、比鷺には身に覚えが無かった。そもそも、比鷺はそう簡単に舞奏披など持ちかけられるタイプじゃない。闇夜衆とのことだって本当に奇跡のように考えているのだ。ああして仲良くなれる舞奏衆(まいかなずしゅう)は多分他には無いだろう。応援していた水鵠衆はともかくとして、クソ兄貴のいる御斯葉衆(みしばしゅう)なんかは論外だ。
    「えー……なんかの勘違いじゃないかなー。それとも、九条(くじょう)家が何か狙ってんのかな。どっちにしろやなんですけど……」
    「まあ……僕も合同舞奏披は焦らない方がいいと思ってる……し、そんなに躍起になってやろうとしなくてもいいと思う」
     遠流も遠流で、水鵠衆に思うところはあるようだけれど、そんなに積極的に会いたがっている感じはしなかった。となると、やっぱりしばらくは他の舞奏衆とは積極的に会わなくていいのかもしれない。そう、比鷺は思う。
    「って、もうこんな時間じゃん! ほらほら、早く配置について。三言が遅れるなんて絶対無いんだからさ、全然猶予無いよ」
    「お前に言われなくても分かってるから」
     そう言いながら、遠流が位置につく。稽古場の扉の横にスタンバイして、その時を待った。
    「遠流、比鷺、もういるのか──?」
     そんな言葉と共に、三言が稽古場に入ってきた。その瞬間、手にしたクラッカーをパンパンと鳴らす。
    「三言ー! おめでとー!」
    「おめでとう、三言。……うん。おめでとう」
     急にクラッカーを鳴らされた三言は、ぽかんとした顔で幼馴染達の顔を交互に見た。予想以上に驚いているらしい。三言のこんな顔を見るのは久しぶりだった。ややあって、三言がゆっくりと言う。
    「えーと……ありがとう。これは何のお祝いなんだ? 俺は何か祝われるようなことをしたんだろうか……」
    「何のお祝いとかそういう細かい話はいいんだよ。これはマジでノリのお祝いだから。ほら、あるじゃん。何でもない日おめでとうってやつ!」
    「何でもない日……?」
    「確か、そういう絵本があったなって僕も覚えてる。……何でもない日であっても、三言はお祝いされていいと思う。そのくらい頑張ってるから。だから、比鷺の提案に乗った」
     遠流もそう言って、自分が祝われているかのようにふにゃりと笑った。
     ──最近の三言は忙しい。
     櫛魂衆(くししゅう)が有名になったことで、三言は色んなところで引っ張りだこだ。櫛魂衆のリーダーとして話をするのは当然ながら三言だし、櫛魂衆の舞奏(まいかなず)を観てから舞奏に興味を持つようになった子供達の応対をしているのも三言である。それなのに三言は以前と変わらず全力食堂でのバイトにも精を出していて、勿論舞奏の稽古も欠かさない。朝練までこなしているのを見ると、感動するのを通り越してちょっと怖くなってしまった。
     三言は少しも疲れた様子を見せなくて、それは三言の凄いところではあるのだけど、正直ちょっと心配になってしまう。比鷺は自分の時間が何より大切だし、三言に大切にさせてもらっているという自負がある。
     だからこそ、三言に少しでも休んでほしい。たとえ休めなくても、幸せで楽しい気持ちであってほしい。本当はそれっぽい理由を付けて三言をどうにか労いたかったのだけれど、考えている内に理由なんか無くてもいいんだってことに気がついた。自分も遠流もいつだって三言をいたわりたいのだ。
    「というわけで、今日は稽古の日でもありますが、三言の何でもない日を祝う日でもあります。よいね?」
    「俺は……構わないと言えば構わないが……何もしてないのにいいのか?」
    「もー! 何もしてなくないでしょうが! この間なんか小学校にまで行って舞奏教えてあげてたでしょ! 正直三言はえらすぎ! 眩しいけど心配なの! だから、今日は俺達からプレゼントがあります」
    「プレゼント?」
     そこで三言はようやく、この稽古場がやたら綺麗に飾り付けられていることや、比鷺達が稽古着ではなく舞奏装束(まいかなずしょうぞく)を着ていることに気がついたようだった。神楽鈴を持った遠流が、精一杯背筋を伸ばして言う。
    「今日は三言の為に僕達が舞奏をするから。三言がずっと気になってた、相模國(さがみのくに)の昔の伝統舞奏曲。合間を縫って稽古したんだ。合わせるのはこれが初めてなんだけど……」
     三言へのプレゼントをあれこれ考えて、結局これに落ち着いたのがなんとも言えない。でも、三言が一番喜んでくれるのはこれだという確信があった。自分達が六原(むつはら)三言をリーダーに戴く櫛魂衆であるという証。まさか、自分から進んで舞奏をやる日が来るだなんて。舞奏がカミに──そして観囃子(みはやし)に捧げるものであると、比鷺は改めて納得した。
    「本当にいいのか?」
     それを言う三言の目がキラキラと輝いていた。その目を見るだけで、比鷺は何だって出来そうな気分になる。きっと遠流も同じだろう。
    「もし、その舞奏が凄く良かったら──いや、絶対に凄くいいんだろうけど──そうしたら、俺も一緒に舞っていいか?」
    「ちょっ、三言ってばまさか、観て一回で覚えるつもり? ちょっとそれはヤバすぎっていうか……いや、三言なら出来るか。俺達のリーダーだもんね」
     そう言うと、三言は大きく笑って頷いた。さて、何でもない一日はまだ終わらない。何もない一日じゃなく、何でもなくていい特別な日。実はケーキすら用意していることを、比鷺はいつ切り出そうかと考えている。


       *


     どうしてこんなことになったのだろうか。ぐるぐると頭の中を疑問符と後悔が巡る。もっと他に選択肢があったはずだ。こんなことになる前に止められたはずだ。だが、皋(さつき)は全ての選択をミスし、今ここに立つことになっている。
     震える手を叱咤し、皋はどうにか引き攣った笑顔を浮かべる。自分のものではない紫色の髪が、視界の端で揺れた。
    「お待たせしました…………バイオレットフィズ? でございます……」
     カウンターに座ったお客さんが無邪気にそれを受け取る。皋はそれだけで逃げ出したくなった。
     
     話は数時間前、昏見(くらみ)の経営するバー・クレプスクルムの開店前に遡る。
    「所縁(ゆかり)くん。ほんの四時間くらいでいいんですけど、私の代わりにお店に立ってもらえません?」
    「は? 何で」
    「私、どうしても仕入れで店を空けなければいけないんです。ディーラーさんと直接話さないと分からないこともありますし」
    「んなの臨時休業にすりゃいいだろ。いつもそうしてるんだし」
    「そう。いつもそうしているんですよね。闇夜衆の突発的な活動や所縁くんの稽古に付き合っては、臨時休業の札を扉に掛けているわけです。そして、何も知らずにやってきたお客様を悲しませているわけですね。ええ、勿論仕方がないことですもの。でも、今月は開店している日の方が少ないくらいですから。ああ、誰かがほんの数時間店番をしてくれさえすれば、今日は開店日にあてられるのに……」
     昏見が寂しそうに言うのを聞いて、皋はうっと言葉に詰まった。クレプスクルムが臨時休業しがちなのは、偏に皋の所為でもあるのだ。昏見の収益だのはどうでもいいが、客のことを持ち出されると罪悪感が募る。ここで本当に臨時休業させていいんだろうか。ややあって、皋は言った。
    「……俺、接客とか出来ないんだけど。あと、酒も作れない」
    「お酒は簡単なもののレシピだけ書いておきますから! 他は注文出来ないということにすれば問題ありません。烏龍茶の烏龍茶割はちょっと難しいですが、八時間ほどの練習で習得出来ますよ」
    「それバーとしてどうなんだよ……っていうか、むしろ気になるのは接客の方で」
    「それも問題ありません!」
     昏見がいつになく晴れやかな満面の笑みで言った。
    「私は怪盗ですよ。所縁くんが自信満々でカウンターに立てるよう、魔法を掛けてあげますね」
     その時点で、皋は逃げ出せば良かったのかもしれない。
     
     あれよあれよという間に、皋は昏見になっていた。正確に言うなら、昏見に変装させられていた。変装というのは、確かに技術の範疇である。自分に施せるなら他人に施せて然るべきなのだ。ものの一時間ほどで、鏡の中の自分は昏見とまるで同じ顔になっていた。
    「あとはウィッグを被れば完成です。所縁くんに声帯模写の技術があれば完璧だったんですが、そこまでは望みません。今回は変声機を使いましょう。十全とは言えませんが、風邪気味ということで誤魔化せるはず。身長を揃える為に厚底で誤魔化そうかと思いますが、どうせカウンター越しですもんねぇ」
    「いやいやいやこれはおかしいだろ! 外側じゃなくて中身が気になってんだよ! 接客の問題が一ミリも解決してないだろうが!」
     そう言う自分の声が、昏見の声と似たものになっていて驚いた。確かによく聞けば違うのだが、それが分かるのは四六時中昏見の声を聞いている自分くらいのものかもしれない。歌えと言われれば無理があるが、会話の面では不自由無いように思える。
    「たったの数時間ですよ。大丈夫。君は理想の名探偵をずっと演じていたじゃないですか。一介のバーテンダーになりすますことなど簡単ですよ」
     昏見がそう言って笑う。確かに、あの時はそうだった。本当の自分など見せないで、自分の思う仮面を被っていた。なら、確かに──やるべきことは同じなのかもしれない。
     
     ……そんな考えは、カウンターに立って数分で霧散した。これは全然違う。というか、バーテンダーはそう楽な仕事じゃない。簡単なレシピすら皋には難しく、完成形は明らかに微妙なものが出来上がった。
     早々に音を上げて烏龍茶だけを出すことに決めたものの、酔いを楽しめない客達は、名物バーテンダーにして闇夜衆の覡(げき)である昏見有貴(ありたか)との会話を楽しもうとしてきたのだからたまらない。古今東西の芸術の話や、時事の話を振られ、ウィットに富んだジョークや軽妙な会話を求められてしまう恐ろしさ。昏見はいつもこんな苦役をこなしているのか。だとしたら、とんでもない話である。
    「………………えー、俺、じゃない、私はちょっとよく……わからないっていうか……」
     昏見の声で、昏見らしからぬそんな返答を何度繰り返しただろうか。普段どれだけ好感度を稼いでいるのか、客はこんな昏見相手でも「なんだか今日の昏見さん面白いかも」だの「昏見さん、もしかしてこっちが素なの?」だのとはしゃいでいる。これがあいつの素だとしたら大変だろうが! と、皋は心の中で叫ぶ。一刻も早く転職した方がいい。
     開店から二時間も経つ頃には、皋は疲労困憊だった。これほどまでに昏見を待ちわびた瞬間も無い。早く。早く帰ってきてくれ!
    「おう、やってるな」
     萬燈夜帳(まんどうよばり)が現れたのは、そんな時だった。
     店内に歓声が溢れる。皋も一緒に歓声を上げたかったくらいだ。心細いこの状況で、萬燈の姿は光り輝いている。萬燈は笑顔のまま、皋の目の前のカウンター席に座った。皋は縋るような気持ちで口を開く。
    「あ、萬燈さ──」
    「今日も盛況だな、昏見」
     萬燈が楽しそうに言う。そして「ジンをショットでもらえるか」と、流れるように注文をしてきた。
    「え? あ? ジンって……」
    「どうした? 切らしちまったっつうわけでもねえだろう」
    「え、いや、確かにありますけど……。え、萬燈さん……ちょっと……あの……」
    「どうした。お前、何か妙だな」
     気づいてない。その瞬間、心臓がうるさいほど鳴り始めた。あの萬燈夜帳なら即座に自分が皋所縁であることを見抜き、この状況を理解して励ましてくれるだろうと思ったのに。
     あろうことか萬燈は自分を本物の昏見だと思っているのだ! 嘘だろ、と皋は思う。昏見の変装技術は凄いと思っていたが、まさか萬燈をも騙してしまうとは。明らかに自分は昏見じゃないのに。どう考えても別人なのに。そんなことを考えていると、萬燈は訝しげに言った。
    「あれか。皋がいないから調子が出ねえか。お前はいつもそうだもんな」
    「へ!? 俺……ゆ……かりくん……がいようといまいと、私……は特に変わりませんけど」
    「そうか? 皋がいねえ時のお前は、普段の半分すら喋らねえからな。俺とも三分会話が続きゃあいい方だ」
     当然ながら、皋は自分がいない時の昏見と萬燈の様子を知らない。昏見がどんな態度でいて、萬燈とどんな会話を交わしているかなんて知る由も無いのだ。普段の半分も喋らない? あの昏見が? 常に舌を回し続けていなかったら死んでしまうと言わんばかりのあの男が?
     信じられない気持ちでいると、萬燈はなおも続けた。
    「お前は口さえ開きゃ皋だもんな。俺のことなんざ眼中にもねえだろ?」
    「いや、そんなことはない……ですよ! 俺は萬燈さんといるのすごく楽しいですし、所縁くんと同じくらい大切で大好きですよ! むしろ所縁くんとかより、全然大事っていうか」
    「気遣いに感謝するぜ」
    「お……所縁くんだって萬燈さんに物凄く感謝してるし、めちゃくちゃ大事だと思ってるだろうし! そんな寂しいこと言わなくても」
    「はは、ありがとな」
     心なしか、萬燈の顔つきが暗いように見える。自分のいないところで、萬燈は悩んでいたんじゃないだろうか。昏見の口数が皋といる時より少ない所為で? そうだとしたら、もっと早くに気づけばよかった。別に昏見は萬燈のことを嫌っているわけじゃないだろう。単に自分の方がからかい甲斐があって玩具にしやすいから口数が多くなるだけだ。昏見は萬燈と真面目に会話をしているだけだろうに。
     というか、ちゃんと自分は昏見じゃないと教えなければいけないというのに、完全に昏見として応対してしまった。これじゃあ今更言い出しづらすぎる。ということは、嘘を吐き通さなくちゃならないのか? 頭が痛くなってきた。
     そんなことを考えていると、不意に萬燈が真剣な顔で言った。
    「なあ……こんなタイミングで言うのもなんだけどな。……例の件が進んだ」
    「れ、例の件……ですって?」
    「とぼけんなよ。例の件っつったら、あれしかねえだろ。皋がいねえ内にしか話せねえんだからな」
     俺がいない時にしか話せない……とはどういうことだ? 舞奏に関連することだろうか。それとも全く違うことだろうか。心臓がさっきとは違う速さで鼓動を打ち始めた。まさか、二人は皋に内緒で、何かを進めているのだろうか。
     それがあるのに──闇夜衆は、共にいられるのだろうか?
    「……萬燈さん……俺は……」
    「ほら、耳を貸せ。場所を言う」
     場所? 場所って何だ? というか、このまま聞いてしまっていいんだろうか。葛藤しながらも、皋は萬燈の方へと顔を近づける。萬燈が耳元に口を寄せ、ひっそりと囁いた。
    「なーんてね。というか所縁くん。ジンのショットまだですか?」
     そう言いながら、萬燈がにっこりと笑った。
     その笑顔は、明らかに萬燈のものではなかった。背中を冷たい汗が流れる。
    「……お前、ここで何してんだ」
    「やだなあ。取引が終わって戻ってきたんですよ。ただいまです、所縁くん」
     声もすっかり昏見のものに戻っている。声帯模写と変装が得意な昏見有貴の声だ。
    「おっ前マジでふざけんなよ!」
    「あらー、私の声でそんな怖いこと言わないでくれます? それにしても、さっきのフォローは感動的でしたね。萬燈先生に聞かせたら、きっと喜んでもらえますよ」
    「殴り飛ばすぞ」
     その瞬間、店の扉が開いた。ベルと共に、よく見知った男が入ってくる。
    「おう、やってるな。……あ? ここはいつから仮装場になったんだ? 知ってたら、俺も相応に装って来たんだがな」
     入ってくるなり全てを理解した萬燈が楽しそうに笑う。そうだ。それでこそ萬燈夜帳だ。もっと早くに気がつけば良かった! 周りの客は入ってきた萬燈とカウンターにいる萬燈を見比べて目を白黒させている。そっちにとってはエンターテインメントかもしれないが、皋からすればこれは悪夢だ。頭を抱える皋に、萬燈は心底可笑しそうに続けた。
    「んで? お前は何なら作れるんだ? 皋。烏龍茶の烏龍茶割以外で頼みたいところだが」


       *


     阿城木入彦(あしろぎいりひこ)は大学生である。そのことは重々知っているし、特に異存は無い。学生の本分は勉強だし、覡として忙しくしている分、大学に行く時はしっかりと勉強に集中してほしい──と、七生は思っている。
     だから七生は、大学に行ってしまった阿城木を惜しみ、七生の部屋(正確に言えば、七生が間借りしている部屋だが)でしょんぼりしている去記(いぬき)に対しても「仕方ないことでしょ」と、優しく言えるのである。
    「去記ってば、阿城木がいないからってそんなにしょげないでよ」
    「うう……だって、舞奏競(まいかなずくらべ)の前はあんな感じだったし、舞奏競の後は割とずっと一緒にいたし、急に大学に行かれると入彦ロスを感じてしまうぞ」
    「それはまあ、わからなくもないけど……」
     けれど、阿城木には自分達と水鵠衆を組む前の生活がちゃんとあり、自分達の方が後から入ってきたことを考えると、出来る限りそこの部分の邪魔をしたらいけないよな、と思うのだった。
    「でもな、千慧(ちさと)。我は思うのだ」
    「うん? どうしたの?」
    「入彦はバスを使って通学しておるな」
    「ね。大学が自動車通学禁止だからでしょ。僕大学のそういう仕組みよくわかんないんだけどさ。折角阿城木は免許持ってるのに勿体無いよね」
    「そのバスというものは、何も入彦専用ではない。我らも使うことが出来るのだ」
     七生は驚いた顔をして九尾の狐の顔を見つめる。彼は悪戯っ子としか表現出来ないような笑みを浮かべながら言った。
    「我らも遊びに行ってみぬか? 入彦の通っておる大学とやらに!」
     
     七生は大学というものに通ったことがない。だが、それが中学や高校とは比べものにならないほど広いことだけは知っていた。そんな場所に忍び込んで、果たして阿城木を見つけ出すことが出来るのだろうか?
     一応阿城木がどこの学部に属しているか──キャンパスのどの辺りで講義を受けているかは知っていた。キャンパスの西の方に向かって、去記と共にずんずんと進んでいく。
     果たして、七生の心配は杞憂に終わった。中庭らしきところに小さな人だかりが出来ており、その中心に見知った顔があったからだ。
    「入彦! お前最近付き合いわりーじゃん! 有名人になったからって俺らのこと袖にすんなよ」
    「なーに言ってんだよ。本当に袖にしてたら俺の半径十メートル以内に近づけさせねえっての」
    「阿城木くん! 久しぶり! 水鵠衆の舞奏本当に本当に凄いね! 私感動しちゃった!」
    「あ、宮野は舞奏披ん時も来てくれたんだってな。あん時気づけなかったんだけど、後から松井に聞いたわ。ありがとな!」
    「阿城木ぃ! 舞奏もいいけど今度合コン行かね? 俺、お前のことどうにか連れてくるって言っちまったんだわ!」
    「それはマジで勘弁な。ぜってー面倒なことになるし」
     よくわからないが、我らがチームメイトは聖徳太子であったらしい。あんな風に囲まれてあれこれ話されて、よく的確に受け答えが出来るものだ。男女問わず取り囲まれているのを見ると、なんというか『人気者』のテンプレートみたいですらある。なんだあいつ、と七生は苦々しく思った。なんだあいつ。
     思えば、昔馴染みのあの男も──あんな風に人に囲まれていた。そういうところまで、阿城木はよく似ている。だからだろうか。七生はなんだかとても釈然としない気分になった。
    「入彦は人気者であるな……あれは楽しくて仕方あるまい。我もちやほやされるのが大好きであるからな」
    「……僕、去記のそういうところ好きだな」
    「我も神社ではあんな感じだもん」
     謎の対抗意識を燃やしている去記を横目に、七生はじっと阿城木の方を見つめる。去記に言われるがまま大学までやって来てしまったが、これはよく考えれば──よく考えなくても邪魔なんじゃないだろうか。そう考えると、お腹の辺りがぎゅっとする。嫌そうな顔をされたらどうしよう。
     去記、やっぱもう帰ろうか。そう切り出そうとした瞬間、阿城木がこちらを見た。あ、と声を出す間も無く、阿城木がずんずんとこちらに歩いてくる。
    「何でお前らがいんだよ。オープンキャンパスか?」
    「ちょっと! 嫌そうな顔しないでよ! こういう時ってびっくりはするものの優しく受け容れてくれるものじゃないの!?」
    「お前マジで図々しいな……」
    「ていうか何で気づいたの!?」
    「でっかいのとちっこいのがいて気づかないわけねーだろ」
    「我がおっきくて良かったの」
     去記が得意げに言う。すると、阿城木を囲んでいた集団がわらわらとこちらへと近づいてきた。
    「お! 水鵠衆の二人じゃん! 凄いな活躍!」
    「わー、今高校生? うちの大学おいでよ」
    「私ずっと狐くん派だったんだー! 握手して握手!」
     一気に話しかけられて、七生はただ慌てることしか出来なかった。一方の去記は、阿城木と同じようにテキパキと応対をしていて、流石は神社でアイドル扱いされているだけのことはある。というか、誰も彼もが七生のことを高校生扱いしてくるのが解せなかった。これでも十九歳で通っているというのに。
     そうして周りでわちゃわちゃと騒がれていると、急に誰かに腕を引っ張られた。見かねた阿城木辺りが助け出してくれたのだろう、と振り向くと、そこに立っていたのは寝癖混じりの髪をした、快活そうな男だった。
    「だ、誰……?」
    「俺、苅屋(かりや)っていって、阿城木のマブなんよ。これマジね。阿城木から俺のこと聞いてるっしょ?」
    「え、い、いや……全然聞いてない……」
    「えーっ!? ちょっ、後で阿城木のこと尋問しないとな」
     冗談めかしながら苅屋が言う。一体その阿城木のマブとやらが七生に何の用なのだろうか。そもそも、苅屋は本当にマブなのだろうか? 全然知らない。大学の話を阿城木はまるでしない。
    「そんな睨まなくてもいいって。お兄さん全然怖くないから」
    「……そんなに歳変わらないから。それで、何の用?」
    「いや、お礼だよお礼」
     果たして、苅屋はあっさりと言った。思わずぽかんとした顔で刈谷のことを見つめてしまう。
    「俺知ってんだよな。阿城木がずっと覡になりたがってたの。でも、俺らじゃ阿城木の夢は叶えてやれないもんだから、やきもきしてたんだよなー。ほら、俺らはみんな阿城木に世話になってるからさ。たまにはあいつの為になることしてやりたかったわけよ。でも、化身(けしん)とかはもうどうにもなんないし。でも、水鵠衆になれてさー、よかったよなー、阿城木」
     脈絡の無い言葉だったが、だからこそ素直で率直な気持ちが伝わってくる。反芻する度にじわじわと嬉しさが込み上げてきて、自然と笑顔が浮かんできた。何でこんなに嬉しいのか分からない。でも、心の底から嬉しい。
    「……そんな。僕だって、阿城木が覡になってくれて──水鵠衆になってくれて、凄く感謝してるよ」
     刈谷がそれを喜んでくれているのと同じくらい、七生はそれを喜んでいる。阿城木が覡になったことを喜んでくれて、七生の方こそ感謝したいくらいだ。
    「おい、何話してんだ?」
     そうしている内に、去記を連れた阿城木が七生のところへとやって来た。怪訝そうな顔でこちらを見る阿城木を見て、思わず笑ってしまう。
    「ったく、油断なんねえ……去記の方はこの数分の間に信者っぽいの作るしよ……」
    「すまぬの……我のカリスマ性が天元突破している所為で、入彦の学友をばったばったとときめかせてしまって……」
    「なんなんだよお前はマジで」
    「別に大したこと話してないよ」
     七生が言うと、訝しげな顔の阿城木が苅屋の方を見た。すると、苅屋も冗談めかした口調で「大したことは話してないな」と続けた。
    「……だからお前らには来てほしくねーんだって……」
    「もー! こういう時は来てくれて嬉しいってなるもんでしょ! もてなせもてなせ!」
    「そうだぞそうだぞ!」
     阿城木は大きく溜息を吐いてから、少しだけ優しい口調になって言った。
    「……ウチの学食、割とデザートメニューも豊富でさ。シュークリームとかパウンドケーキとか、あとパフェとかが売ってんだよな。ここまで来たら、食って帰るか」
    「お、阿城木ってば気が利くぅ、俺のもある?」
    「お前は自分で買えよな」
     苅屋にそう返す阿城木は、なんだかどことなく嬉しそうに見えた。これだけでも大学に来た甲斐があったかも、と七生は心の中で思う。


       *


     秘上佐久夜(ひめがみさくや)にお見合いの話が持ち上がったのは、舞奏競が終わってすぐのことだった。
    「は? え? どう……どういうこと?」
    「同じく社人の家系の一人娘でな。顔合わせをしたいということだ」
     そうして告げられた家の名前は、確かに巡(めぐり)もよく知っているもので、確かにその家の人間が顔合わせしたいって言ったら断れないよなとか、むしろちゃんと対応しようとしている佐久夜は褒められて然るべきだとか、そういう言葉が頭を過った。だが、それで巡の気持ちが収まるわけでもない。
    「ちょっ、はあ? 何で佐久(さく)ちゃんが先に結婚しようとしてるわけ!?」
    「結婚しようとしているわけではない。当然ながら断ろうと考えている。今の俺は御斯葉衆の覡が一人だ。それに、お前が婚姻をしていないというのに、俺が誰かと婚姻関係を結ぶはずがないだろう」
     それを言われればそうなのだが、巡にとっては晴天の霹靂だった。いや、佐久夜だって秘上の血を後に残さなければならない跡取りの一人で、いずれはそういうことになると理解はしていたのだが。主である巡がまだそういうことになっていない以上、まだまだ何が起こることもないと思っていたのに。
    「それほどまでに言われるとは思っていなかったな。断りはするが、会わずに済ませられるような間柄の家でもない。無礼のないよう、誠心誠意応対すると誓おう。安心してくれ」
    「はあ? ええ……まあ、確かにそうだよな……」
     佐久夜はきっと、粗相はしないだろう。秘上家の人間である以上、巡を余所に勝手に婚姻関係を結ぶこともない。だが、巡の心はただひたすらに落ち着かないのだった。
     
     栄柴(さかしば)巡は九条鵺雲(くじょうやくも)が苦手である。というか、率直に言って好きではない。二人きりで会うなんてごめんだとすら思っている。佐久夜は巡の見ていないところでこそこそと鵺雲のところに通っているが、巡はそんなこと絶対にごめんだ。
     そう思っていたのに、今日の巡は鵺雲の泊まっている旅館を訪れる羽目になった。仕方ない。今回ばかりは緊急事態なのである。なりふり構ってはいられないのだ。
    「なるほど。佐久夜くんに縁談の話があるんだね」
    「そうですよ! 普通は俺が先で佐久ちゃんが後なのに! 断るとはいえど順番無視しやがって!」
    「うーん。今のうちから血を継いでおくというのは悪くはないと思うけど」
    「出た! そういうの今は置いといてください! ていうか、俺の目が黒いうちは絶対に佐久ちゃんに結婚とかさせませんから。そこは前提としておいてください」
    「そうなんだね。ええと、なら余計に巡くんは何も心配することがない気がするんだけれど、これは僕の理解が間違っているのかな?」
    「会うこと自体が嫌なんですよ。これで佐久ちゃんが相手の子にぞっこんになっちゃったらどうします? 御斯葉衆の覡として舞奏を奉じている場合じゃないってことになったりしたら! そんなの鵺雲さんも嫌でしょ?」
    「……? 佐久夜くんに限ってそんなことがあるとは思えないけれど……」
    「何が起こるか分からないのがこの世の中じゃないですか。俺はやっぱり嫌ですよ。でも、確かに秘上は勿論栄柴だって世話になってる家だから、俺から言うのはちょっとなって感じで」
     ちょっとな、というだけで本気で嫌がれば阻止なんか簡単なのだけれど。でも、巡が求めているのはそういうことじゃないような気もして、釈然としないのだ。
    「あ、それで僕を頼ってくれる気になったんだね。普通では役に立たない僕だけれど、九条家の嫡男としての価値はあるものね」
    「そうそう。九条家の権力でどうにかしてくださいよ」
    「なんとかしてあげたいのは山々だけれど、今の僕は九条家を通して何かを言える立場ではないものだから……肝心な時に役に立たなくてごめんね」
    「…………ちぇー、これも駄目か」
     巡は投げやりな口調で言う。だが、元より鵺雲にそこまで期待していたわけでもない。相模國と遠江國(とおとうみのくに)ではそれこそ道理が違ってくる。いくら九条家でも、そこまで大きく口出しすることは出来ないだろう。
     なら、巡はどうしてここまでやって来たのだろうか。これじゃあまるで、鵺雲にただ話を聞いて欲しかったみたいだ。そんなのは……一体、何だろう?
    「ところで、少し気になっていたことがあるんだけど」
    「何ですか?」
     巡が言うと、鵺雲はいつものような何とも言えない笑顔を浮かべて尋ねた。
    「佐久夜くんがもし、お見合い相手のことを本気で好きになったとして──彼女と添い遂げることが佐久夜くんの幸福になったとしたら、巡くんはどうするのかな? 彼の幸せを、むざむざ否定するのかな?」
     鵺雲は意地の悪い質問をしているつもりはないだろう。むしろ、本気でそれが気になっているから聞いているのだ。全く、だから巡は九条鵺雲が嫌いだ。この男は巡の血を沸き立たせる。自らが夜叉憑(やしゃつ)きであることを、絶えず思い出させてくれる。ややあって、巡は言った。
    「佐久夜が何を幸せに思うかなんて関係ないんですよ。佐久夜の幸せは俺が決める。佐久夜が秘上佐久夜である限り、あいつの幸せがかく在ることはない」
     巡が言うと、鵺雲は何故か楽しそうに笑った。何だか、巡がこう答えることは、随分前から知られているような気すらした。
    「じゃあ、何も心配することはないんじゃないかな? 佐久夜くんが他に心を移すことも、巡くんを裏切ることもきっと無いと思うよ」
    「まー……そうは言ったものの最近のあいつはやりたい放題の慎みゼロだから、全然信頼出来ないですけど……」
     そもそも、佐久夜が心を移すとしたら、一番可能性があるのは目の前で微笑んでいる天才だろう。鵺雲のことを考えれば、血筋のいいどこぞの女の子なんかまるで敵ではないような気もしてくる。彼の存在は落雷のように巡と佐久夜の関係を貫き、そして後には豊穣をもたらしたのだろうか?
    「あとはそうだなあ。カミに祈ってみるのはどうだろう」
    「カミに?」
    「だって僕らは誉れある御斯葉衆だもの。カミに祈りを捧げれば、何かしら応えてもらえることもあるんじゃないかな?」
    「はは、そりゃ景気のいいことで……」
     巡は苦々しく返す。こと佐久夜に関しては、巡はあまりカミに願いを捧げたくはなかった。勝手に化身を発現された時だって、何だか癪に障ったくらいなのだ。これ以上思い通りにしてやりたくはない。
     代わりに、巡は鵺雲に願った。御斯葉衆を牽引する、お育ちと血統の良い覡主(げきしゅ)様。あんたの喉笛を噛みちぎらんと狙っている殊勝な俺の為に、何かしら報いてくださいますように。そうしたら、ちょっとはあんたのことを見直してやってもいいよ。そう思うと、何だか巡は愉快な気持ちになるのだった。
     
     巡の願いが聞き遂げられたのかは定かではないが、佐久夜と件の女性の顔合わせは実現しなかった。
    「こちらに向かっている最中に、落雷にあったんだそうだ」
    「へー、雷」
    「怪我などは無かったようだが、道路が一時通行止めになったらしい。そして、顔合わせは断念ということになった」
    「ふーん。なんか運が悪かったね」
    「加えて、相手方も興を削がれたらしくてな。俺が事前に断る意思を見せていたからかもしれないが、この話自体も一度白紙に戻そうということになった」
    「案外、その子が落雷で立ち往生している間に、運命の相手と出会ってそっちの方がよくなったのかも」
    「そうかもわからないな」
     佐久夜が真面目な顔で頷くので、巡は何だか微妙な気持ちになった。冗談だってちゃんと分かっているんだろうか?
    「ま、佐久ちゃんにはそういうのいいから。舞奏競が終わったら、佐久ちゃんには俺を追いかける日々が待ってるんだからね。結婚とか穏やかな生活とか、そういうのは俺が許すまで許さないからね」
    「……追いかけるのか。普通に連れ立てばいいだろう」
    「佐久ちゃんは少しくらい苦労したらいいんだよ。それも佐久ちゃんは幸せでしょ」
     幸せ。幸せって何だろう。巡には、正直なところよくわからない。遠江國を出て、好きなように旅をするのは幸せだろうか。家の意向に従い、栄柴の血を継ぐことも、ある意味では幸せなのだろうか? 不確かな尺度の中で、唯一揺らがない指針があるとしたら──。
    「そうかもしれないな」
     佐久夜が真面目な顔で再度頷く。一瞬、何を肯定されたのかわからなくなり、一拍遅れて「ま、そうだよね」といつもの言葉を返す。
    「佐久ちゃんの幸せは俺が決めるもんだからね」
    「そういうわけでもないだろう」
    「欲張りな佐久ちゃんは、今の俺と一緒にいればどうあったって幸せか」
     巡が言うと、佐久夜はまたも大真面目に考え込む素振りを見せてから、ゆっくりと頷いたので、巡はちょっと面白くなる。どうか、舞奏以外のところではそんなに波風立ちませんように、と、今度は宛先も無く祈った。





    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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  • 小説『神神化身』第二部 四十二話  「果ての月すら仰ぎ見よ」

    2022-03-04 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第四十二話 

    果ての月すら仰ぎ見よ

     
     舞奏競(まいかなずくらべ)・星鳥(せいちょう)の結果を聞いた時、比鷺(ひさぎ)は落胆と安堵の入り混じった奇妙な感情に襲われた。上野國(こうずけのくに)の水鵠衆(みずまとしゅう)が御斯葉衆(みしばしゅう)を打ち倒すところが、化身(けしん)が無い人間でも──血を継いだ名家の集団に勝てるところが、見てみたかった。
     現に水鵠衆は多くの観囃子(みはやし)の歓心を集め、御斯葉衆までかなりの勢いで迫ったらしい。実力の面で、水鵠衆は御斯葉衆に全く劣っていなかったと聞いて比鷺は素直に驚いてしまった。そんなことがあるのだ。なら、水鵠衆が勝ってくれても良かったのに。とすら思った。彼らの敗北を目の当たりにして、比鷺は思っていたより自分が水鵠衆に肩入れしていることに気がついたくらいだ。
     水鵠衆がどんな舞奏(まいかなず)を奉じるのか見てみたい、と比鷺は自然と思った。舞奏から距離を置いた人生を送っていたのに、これじゃあまるで舞奏のことが大好きな人間みたいだ。
     比鷺に『舞奏には人間性が出る』と最初に教えたのは兄の鵺雲(やくも)だった。
     それ以外にも、鵺雲からは舞奏の尺度で測られた様々なものを教え込まれてきた。鵺雲の中には舞奏で出来た天秤があって、彼はその忠実な守人だった。比鷺の味方でいてくれた時も、そうでない時も。
     あれはいつだっただろうか。随分小さい頃だった気がする。比鷺が舞奏を辞めた、その直後くらいだっただろうか。急に舞奏の道を外れた比鷺に対し、周囲は容赦無く冷たい視線と言葉を浴びせかけた。所詮控え子、という囁きをはっきりと認識したのもこの頃だ。
     比鷺はその意味を正しく理解していたわけじゃなかったが、自分が所詮鵺雲のスペアでしかないことだけは伝わってきて、自分の人生の虚しさに泣いた。
     泣いている比鷺を慰めてくれたのが鵺雲だ。
    「どうしたの? ひーちゃん。誰かに酷いことを言われたの?」
     比鷺はもう既に鵺雲に対する苦手意識を持っていたし、彼が比鷺とは全く違う価値観を持った人間であることも理解してしまっていた。それでも、この頃の比鷺は自分を撫でる兄の手を振り払うことも、目線を合わせて困ったように笑う彼を撥ね除けることも出来なかった。弱かったんだ、と比鷺はわざわざ自分の心に刻みつけるように思う。
    「……控え子のくせにって言われた。所詮控え子のくせに生意気だって。控え子のくせに舞奏をやらないなんてって……」
    「控え子を蔑みの意味で用いるなんて愚かだね。的外れな言葉で僕の比鷺を傷つけようとするなんて、身の程知らずにも程がある」
     鵺雲は冷たい声で言った。自分に向けられた言葉ではないと分かっているのに、比鷺は思わずびくっと身体を震わせてしまったほどだ。すると、鵺雲は何を勘違いしたのか比鷺のことをぎゅっと抱きしめてきた。
    「気にすることはないよ、ひーちゃん。控え子というのは決して悪い意味じゃないんだから。むしろ、ひーちゃんがいてくれるからこそ、僕が頑張れるようなものなんだから。ひーちゃんのお陰で、僕は大祝宴(だいしゅくえん)に到達出来る。だから……ね、泣かないで」
     鵺雲は舞奏という絶対的な尺度を持っている。その彼が控え子でしかない自分に意味があると言ったのだから、きっと意味はあるのだ。単に九条(くじょう)家の血を次代に繋げられるとか、鵺雲に何かあった時のスペアとして機能できるとか、本当にそれだけの意味かもしれないが。
     それとも、もっと他の意味があったのだろうか?
     今更ながらその部分を考えようとしたのだが、この思い出を反芻しようとすると、どうしても兄との思い出したくない場面まで思い出すことになるから苦手なのである。
     最悪なのは、兄がそうやって抱きしめてくれることに、あの頃の比鷺がほんの一匙の嬉しさを覚えていたからである。自分達がただの兄弟でいられるんじゃないかと、僅かな期待を寄せていた自分が苦々しくて、憐れだ。比鷺は小さく溜息を吐く。
     こうして水鵠衆に歓心を向けていた一方で、御斯葉衆が勝ったことに対して安堵を覚える自分もいた。そりゃあそうだ、と比鷺は一人で呟く。何せ、御斯葉衆のリーダーはあの九条鵺雲なのだから。鵺雲がリーダーを務めている舞奏衆が負けるはずがない。
     鵺雲の舞奏は、正しい舞奏だ。今後千年舞奏の『正答』として語られるような、完成形の舞奏である。鵺雲くらいの実力があるなら、むしろ舞奏衆を組んで誰かと舞う方が枷(かせ)になるんじゃないか。そう思ってしまうくらいだ。
     そんな鵺雲が負けなかったというだけで、比鷺の中には『安心』が生まれてしまった。ああ、自分が正しいと教えられてきたものは──自分がずっと目映いと思っていたものは、負けなかった。
     今の比鷺は鵺雲の舞奏を追っていない。櫛魂衆(くししゅう)の九条比鷺として、自分の舞奏を奉じている。だからといって、かつて自分の半身であったもの、自分が目指すべき道標だったものが揺らがないのは、──……安心した。
     彼が相模國(さがみのくに)を出奔してから、鵺雲とはまともに会話をしていない。今話をしてみたら、一体どうなるだろう。どうせろくなことにはならないよ、と比鷺の中で声がする。
     
    「三言(みこと)はさぁ……あの人と舞奏やってたでしょ。どうだった」
     そんなことを考えていたからか、比鷺はつい三言にそんなことを尋ねてしまった。今日は三言が部屋に遊びに来てくれたというのに。生憎遠流(とおる)はお仕事だけど、折角のお休みだ。比鷺は一緒に楽しいことだけをするつもりだったのに。
     だが、三言は嫌な話をされたという気もしないようで、笑顔で言う。
    「どうだったって言われると難しいけど……楽しかったぞ!」
     う、と思わず言葉が漏れた。三言のあまりの屈託の無さが眩しい。舞奏が大好きな三言だ。そんな三言があの九条鵺雲と舞えたときたら、それはもう楽しくて仕方がなかったことだろう。
     それによって比鷺の価値が下がるわけではないと分かっていても、なんだかあんまり嬉しくない。俺の舞奏とあの人の舞奏どっちがいい? って面倒臭いことを聞いてみたくなる。
    「鵺雲さんの舞奏と俺の舞奏は、やっぱりかなり違うからな! 鵺雲さんの舞奏に合わせると、俺の方も結構変わるから面白いんだ!」
    「もー! そんなにあいつのこと褒めないで! 俺の舞奏とあいつの舞奏どっちが好きなの!?」
    「今俺と櫛魂衆を組んでいるのは比鷺だからな! 勿論比鷺の舞奏だ!」
    「う、それは本当に素直に嬉しいけど……。ぐーっ、こんなめんどいこと言うつもりじゃなかったのに結局言っちゃった俺の性よ」
    「そういえば、鵺雲さんの率いる御斯葉衆は無事に勝利を収めたみたいだな!」
    「うん、まー……そうね」
    「流石は鵺雲さんだ! 凄いな!」
    「ん……」
     素直に同意したくなくて、クッションに声を吸わせる。確かに凄い。凄いけれど、そう言いたくはない。
    「俺はどっちかっていうと水鵠衆を応援してたから、まあそんな……別に」
    「水鵠衆も凄い舞奏衆だって聞いているからな! 俺も水鵠衆の舞奏が見てみたいし、阿城木さんとはまた会いたい」
    「えっ、会ったの? それ初出し情報じゃない!?」
     思わずクッションから顔を上げて叫んでしまう。すると三言は事もなげに言った。
    「そう言われたらそうだな……。阿城木さんは甘い物が好きみたいで、しらすシュークリームの為にわざわざ浪磯まで来たって言ってたぞ! 良かったな! 比鷺の開発したしらすシュークリームに惹かれて遙々人がやって来るようになって!」
    「えっ、しらすシュークリームってそんなに人気なの!? 俺開発してからはほったらかしのノータッチだから、そう言われると嬉しいけどちょっとビビるわ」
     ということは、阿城木入彦(あしろぎいりひこ)は甘党なのだろうか。比鷺自身は甘い物がそんなに好きじゃないけれど、何となく甘い物が好きな人には好感が持てる。悪い人間じゃないような気がするのだ。
    「えーじゃあ今度水鵠衆と会ったりとかしてみる? 水鵠衆側がなんて言うか分かんないけど、少なくとも上野國の舞奏社(まいかなずのやしろ)は九条家の人間からの申し出なら断らないと思うよ」
    「そんなことが出来るのか?」
    「うーん……闇夜衆(くらやみしゅう)とあれだけ仲良くやっていけてるわけだし、それで合同舞奏披(ごうどうまいかなずひらき)にも人が集まったわけだし、説得は出来なくないと思うよ」
     勿論、正式に会うとなれば色々と面倒な手順を踏まなければならないだろうが、不可能ではないはずだ。水鵠衆はインターネットで有名になった舞奏衆(まいかなずしゅう)である分、そこまで排他的でもないだろう。そんなことを考えていると、三言がにっこりと笑った。
    「なんだか比鷺、少し変わった気がするな」
    「えー、何? カリスマ性出てきた? 可愛くなった? どっちにせよ照れるなー」
    「前は、あまり家のことを出さなかっただろう。九条家の、っていうのは比鷺にしてはなんだか珍しいからな」
    「う、確かに」
     意識していなくもないところだったが、改めて外から指摘されると身構えてしまう。だが、比鷺はしばらく悩んでから、意を決したように言った。
    「俺はね、そんなにあの家のことも……この身体でやけに高値を付けられてる血のことも好きじゃなかった。今でも好きじゃない。だから、それに呑み込まれないよう、意図的に距離を置いてきた」
     自分が九条鵺雲のような人間にならないよう、幼馴染と仲の良い自分のままでいられるよう、比鷺は自分を守り続けてきた。
    「でも今は……俺は俺のままでいられるんじゃないかなって。そう思えるようになってきて。多分、舞奏競とか舞奏披で自信が持てるようになってきたからだと思うんだけど。俺は俺、みたいな」
     自分が遠ざけてきたものが自分を楽にしてくれた。何だか不思議な気分だけれど、それが本音だ。三言と遠流の隣で誇れる自分でいることが、ちゃんと指針になっている。
    「そうなんだな。……うん。俺は、比鷺の変化がとてもいいものだと思うぞ! 比鷺がどう思っていようと、比鷺の家が受け継いできたものは凄いなって思っているからな!」
    「そんな元気よく言われると、なんかちょっと照れるんですけどー……うん。でもまあ、ありがと」
    「そうだぞ。比鷺の言っていることは正しいんだ」
     少し引っかかるところがなくもなかったが、それは割り切れていない比鷺の気持ちの所為だろう。もし比鷺が本当の意味で自信を持てるようになったら、三言の言葉もすんなり受け容れられるだろう。
    「……てなわけで、俺はこれからも程々に頑張るから、三言も程々に期待しといてね」
    「ああ! 分かったぞ!」
    「はーあ、真面目なこと話したらなんかむずむずしてきた。今日はあと俺のイチオシ動画の鑑賞会だけしてようね」
    「舞奏の動画か!?」
    「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
     比鷺は違和感の正体を追うこともないまま、スマホの方に向き直った。
     
       *
     
     片付けをして社の外に出ると、既に辺りは暗くなっていた。最近は舞奏社でこなさなければいけない業務が多く、帰りはこうなってしまうことが多い。今日は鵺雲が秘上(ひめがみ)家を訪れる日だ。なるべく早く仕事を済ませ、迎える準備をしなければいけなかったというのに。
     明日以降に回す仕事を頭の中で数えながら、佐久夜(さくや)はふと、先日行った温泉のことを反芻した。
     あれは、佐久夜の記憶の中でも有数の『楽しい思い出』になった。佐久夜は多分、あの和やかで楽しい思い出のことを忘れないだろう。むしろ、佐久夜はあの温泉でのことをただ一度きりの思い出にはしたくない。出来ることならまた次の機会が欲しいくらいだ。その為にはやはり、御斯葉衆として勝利することが必要だろうか? いや、巡(めぐり)なら案外誘えば乗ってくれるのかもしれない。
     今までの佐久夜らしからぬことを考えていたからか、それとも相手が悪かったのか、佐久夜はその男に話しかけられるまで、彼の存在に気づかないままだった。
    「こんばんは。夜分遅くもない時間にすみません。秘上佐久夜さんですよね?」
     こんな夜によく似合う、奇妙に明るい声だった。声の主は艶やかな長髪に、仕立てのいいジャケットを合わせた、容貌の美しい男だった。月夜に照らされて、彼の瞳が猫のように光っている。佐久夜は彼に見覚えがあった。
    「あっ、申し遅れました。私、武蔵國(むさしのくに)闇夜衆で社人(やしろびと)兼覡(げき)をやっている皋所縁(さつきゆかり)と言いまして。いやはや、お初にお目にかかります」
    「……貴方は……皋所縁さんではないはずだ。貴方は闇夜衆に所属されている昏見有貴(くらみありたか)さんでしょう。それに、貴方は……社人でもないはずです」
    「えっ、この完璧な変装が見破られるなんて……びっくりしちゃいました! 流石は遠江國(とおとうみのくに)舞奏社を背負って立つお方なだけはあります!」
    「変装をされているようには見えませんが」
     昏見の格好は佐久夜が知っている通りの昏見有貴の外見をしていた。他の人間ならいざ知らず、これほど目立つ容姿の人間を見間違えるはずがない。彼が、まるで悪魔のようににんまりと笑う。
    「……私に何のご用ですか」
    「やだなあ。私にお手紙をくださったのは貴方の方じゃありませんか。お返事を書くのが面倒だから、直接会いに来ちゃいました。よろしければ内容についてお話しちゃおうかなと思いまして」
    「……読んだんですか、あの手紙を」
     確かに佐久夜は昏見有貴に手紙を送った。それも──九条鵺雲に依頼されて、だ。鵺雲は手紙の内容を指示し、封筒の裏に『御斯葉衆が負けた場合のみ開封してください』と書いておくように命じた。つまり、御斯葉衆が勝利した今、あの手紙は読まれずに破棄されたはずなの、だが。
     佐久夜の疑問に先んじて答えるかのように、昏見が笑った。
    「この世は楽園じゃないんですから、注意書きを正しく守ってくれる優しい人間ばかりじゃないって分かるでしょう? みんなが洗濯機で身体を洗わないのは、説明書にそう書いてあるからじゃないですよ。私はあなた方の思惑とか、一昨日の天気くらいどうでもいいんです」
    「……そうですか」
     どうやら佐久夜は、昏見有貴という人間を見誤っていたようだった。佐久夜の想像する昏見有貴は、こういった類の人間ではなかった。相手のことをわざわざ挑発するような好戦的な態度は、ある意味で巡に似ている。だが、昏見の方がより、相手への悪意が洗練されている。
    「まあ、貴方はお喋りをしていて楽しそうなタイプでもありませんからね。手短に用事を済ませてしまいましょう。私が尋ねたいのはただ一つです」
     その質問の内容を、佐久夜は容易に予想出来た。果たして、それは当たった。
    「私が闇夜衆から抜けて遠江國に下ったら、一体どんな良いことがあったんです?」
     下る、という表現は正しくない、と佐久夜は思う。自分が出した手紙には、あくまで武蔵國闇夜衆からの離脱を求めるとだけ書いたはずだ。そんな戦国時代のような言い方はしていない。そもそも、カミに見初められし化身持ちがそんなに簡単に自分達の支配下に置かれるとは思えない。佐久夜は社人として、それがどれだけ特別なものかを説かれて生きてきたのだから。
    「それに関するメリットについても、私達は手紙で提示しておいたはずです」
    「あれだけじゃ全然納得出来ませんよ。もっと簡単に簡潔に、メリットとデメリットをパワーポイントに纏めて二分以内の動画にしてくださらないと」
     正直、どう答えていいものか迷った。何故なら佐久夜は、昏見が求めている回答を用意出来ないからである。鵺雲から昏見にこの奇妙な手紙を──御斯葉衆が舞奏競で負けた場合、昏見有貴に闇夜衆の離脱を打診する内容のものを──送れと言われたから、送った。佐久夜の行動原理はそれ以上でもそれ以下でもない。鵺雲がそう指示したのなら、佐久夜は送る。覡主(げきしゅ)に従うとはそういうことだ。たとえ崖から身を投げろと言われても疑問を持たないのが、本来あるべき姿である。一応、佐久夜の中にはそういう考え方があった。
     黙ったままの佐久夜に対し、昏見は一歩も動かなかった。彼は彼で、自分の思うようにするタイプの人間なのだろう。納得がいくまでは佐久夜を解放しないつもりだ。差し当たって佐久夜が何かを言おうとした瞬間、声がした。
    「流石に驚いたよ。衝動と共に生きている昏見の血筋であれば、品位と礼節を無視して手紙を読むことも無くはないと思っていたけれど──まさか、ここまでやって来て僕の大切なチームメイトを詰問するだなんて思わなかったな」
     振り返ると、そこには九条鵺雲が立っていた。恐らくは、佐久夜がなかなか舞奏社から家に戻ってこないので、様子を見に来たのだろう。昏見の目に微かな驚きの色が滲んだ。
    「やあ、初めまして。僕は遠江國御斯葉衆の覡主にして、九条家の長男、九条鵺雲だよ」
    「わあ、初めまして! お会い出来て光栄です。九条くんのお兄ちゃんの方ですね! 私、武蔵國闇夜衆・昏見有貴と申します!」
    「そうだ。君達は僕の比鷺と戦ったんだったね。相手が比鷺なのだから、負けたことは恥ではないよ」
     端から聞いていて、佐久夜はぞっとする気持ちを抑えられなかった。鵺雲がこうして誰かに敵意を向けるのを見るのは初めてだった。七生千慧に散々酷いことを言われていた時でさえ、鵺雲は怒る素振りも見せなかったというのに。昏見に敵意を抱くような理由が何かあるのだろうか? だが、昏見の反応からして、二人は初対面だろう。
    「……分かりました。私に手紙を送ってきたのは貴方ですね。とんだシラノ・ド・ベルジュラックです」
    「佐久夜くんの鼻はあれほど長くはないけれど。まあ、そうだね。僕が書くと余計なことまで書いてしまいそうだから」
    「あら、照れちゃいます。私に対してそんなに情熱的な感情を抱いてくださっていただなんて。赤裸々に告白してくださってよかったんですよ! 私に対してやたら当たりが強いのが好意の裏返しだとしたら、そんな負けヒロインみたいなムーブはやめて正攻法できた方がいいと思います! まずは髪の毛を一本で括るところからですね!」
     昏見の表情は全く変わらず、晴れやかなまでの笑顔だ。だが、その声からはこちらに対する警戒と疑念で満ちている。これほど表情と心の内が繋がらない人間も珍しい。その様は──それこそ、九条鵺雲に似ている。
    「僕は君と無為に時間を過ごすつもりはないんだ。だから、君の持っている疑問には端的に答えてあげる。御斯葉衆が仮に敗退していた場合、一人ばかり協力してくれる人間が必要になっていたんだ。適する人間が君しかいなかった」
    「そんな消去法で選ばれたんですか!? 全くもう、マークシート式回答試験じゃないんですから! 傷ついちゃいます! まあ、確かに所縁くんは所縁くんですし、萬燈先生は萬燈先生ですから、私くらいしかフレックスしてくれなさそうなのは分かりますよ。でも、私だってそんな安い覡じゃないんですからね!」
    「安かろうと高かろうと、支払うべきものが定まっているのだからレートは関係が無いでしょう? 君は目的の為なら手段を選ばない」
    「私の目的の何がわかります?」
     さっきまで明るく流暢に話していた昏見の声のトーンが、一瞬で低くなる。
    「正確なことはわからない。君こそイレギュラーだからね。でも、僕は皋くんのことはよく知っているんだ。そうして、皋くんがこうなった瞬間に君がしゃしゃり出てきた。なら、君の目的がそこにあると予想はつく」
    「所縁くんのことを知っている? ネットの百科事典に載っている以上のことをご存じなんですか? だったら私、所縁くんクイズ百問出しちゃおっかなー。私はマークシート式なんてぬるいことは言いませんよ。全部完ッ璧に記述式で揃えちゃいます。……貴方、どこで所縁くんのことを?」
    「ふふ、それは教えてあげない」
     鵺雲が笑うと、昏見が初めて笑顔を浮かべるのをやめた。じっと鵺雲のことを見て、言葉の裏側を探ろうとしている。そんな昏見に対し、鵺雲は続けた。
    「だから、いざとなったら君を動かすのは簡単だった。けれど、君はもう必要ない。それだけの話だよ。その選択肢はもう無くなったんだから」
    「私のことをタミヤ製RCカーばりに操ろうとしても無駄ですよ。そう簡単にドリフトしたりしないんですからね」
    「君の本願は、皋所縁に紐付いている。それは君の大きな枷になる」
     鵺雲が言うと、昏見はいよいよ黙った。これ以上何か言えば不利になると踏んだのか、それとも何も言えないほど、鵺雲の言葉が的確だったのだろうか。ということは、鵺雲の言葉はある程度まで昏見の図星を突いているということだ。戦っているわけでもないのに、一転攻勢という言葉が過る。
    「それにしても、君と皋くんの舞奏衆に、まさか萬燈先生が加わるとは思わなかったよ。彼のことだから一時の気まぐれだと思ったのに。まだ君達に飽きていないだけなのか……それとも、叶えたい願いが生まれて、抜けることが選択肢に入らなくなったのか。萬燈先生なら……後者かな?」
    「知ったようなことを言う割に、萬燈先生の解像度が低いですね。萬燈先生なら欲しいものはご自分の力で手に入れるに決まっているじゃありませんか」
    「うん、僕もそう思うよ。人間に叶えられる願いならね。萬燈先生なら、きっと僕の予想通りのことを願う」
     まるで予言者のような口ぶりで、鵺雲が言う。佐久夜には鵺雲が言っていることの意味がまるで分からない。彼が萬燈夜帳の本願のことも、昏見有貴の目的も、まるで見てきたかのように正確に話していることしか理解出来ない。
    「……萬燈先生が何を願っていると?」
    「僕と彼はよく似ているからね。彼が舞奏に興味を持ったなら、一度は考えるはずだ。永遠に続く舞奏競を。千年に研鑽された至高の芸術を。合っているかな?」
     鵺雲が言う。それもまた、まるで見てきたかのような自信に満ちた口調だった。
     だが、昏見は少しだけ驚きの表情を見せた後、思いもよらない反応を見せた。昏見は──気の利いたジョークを聞いた時のように、笑い出したのだ。今度は鵺雲の方が訝る番だった。
    「何か僕がおかしいことを言ったかな?」
    「いえいえ、ジョークとしては全然冴えてませんよ。問題ありません。私が笑ったのは、安心と侮りの二重奏です。よかった。貴方は全部を見通しているわけじゃなく、ちょっとばかりの鋭さで探偵ごっこをなさっているだけなんですね。はー、これで安心です。その根拠がどこにあるのかは気になるところですが、先に解決編(本番)からいきましょう」
    「どういう意味か分からないのだけど」
    「確かに萬燈先生と貴方には似たところがあったのかもしれません。いえ、その似たところは今でも確かに存在している気がします。けれど、人間の変化って不可逆なんですよ。永遠に続く夢の舞台なんて、もう萬燈先生のトレンドじゃないんです。萬燈先生と目指せる唯一の目標だったかもしれないのに、彼はもう一夜の夢を最高にすることだけを求めています」
     鵺雲が驚きの表情を浮かべる。それは、今までに見たことのない種類のもので、佐久夜の胸に微かな嫉妬の念が起こるほどだった。
    「あの萬燈先生が? 彼が変わるなんて信じられない」
    「ええ。ユニークなことに、萬燈先生の考えを変えたのは、恐らく貴方の弟さんですよ。貴方を挫くのが九条比鷺くんだなんて、なんか運命的ですよね」
     昏見が心底楽しそうに言う。
    「僕は挫かれたとも思っていないよ。むしろ、やっぱりひーちゃんは凄いなって。ひーちゃんが萬燈先生と仲良くなるのは嬉しいな。同じ血が流れているから。でも……そうなんだ。そう違いが出るんだね」
    「まるで見てきたように予想を立てるのはどうしてですか? もしかして、鵺雲さんってば未来人だったり、平行世界の方だったり、タイムリーパーだったりします?」
     冗談めかした口調で昏見が言う。だが、降って沸いたSFめいた発言に対し、鵺雲は奇妙な表情を浮かべた。佐久夜の感じ方が正しいとすれば──鵺雲もまた、その発言を楽しんでいるようだった。ややあって、鵺雲が続けた。
    「そうだよ。僕は未来からやってきたんだ。そうして、これから起こることを知った状態で今を生きている」
    「そうなんですね! びっくりです。未来が毎秒今になっていることを考えれば、私も未来人と言えますけどね!」
    「だから、これから君が何で挫折するかも知っている」
     鵺雲の発言に、昏見が息継ぎのように口を噤んだ。ややあって、彼が笑みを浮かべながら言った。
    「……奇遇ですね。実は私はタイムリーパーで、貴方と話すのも既に九百九十六回目なんです。だから、私は貴方がこれから挫折することを知ってますよ。私は毎回貴方を助けようとしているんですが、どうしても歴史の修正力に負けてしまいまして」
    「わかっているよ。僕には僕の発言を証明する手立てがない。僕は君のことが嫌いだから、君の精神を攻撃したくて出任せを言っているのかもしれない。でも、僕はこのままだと君の目的が達成されないことを知っている。とはいえ、僕らが勝った以上、僕が別の道を君に示すことはない」
    「ご忠告痛み入ります。平行世界の私に会ったら教えておきます。やっぱりこれからはバーよりも探偵事務所をやるべきですって!」
     そう言って、昏見は一礼した。話はこれで終わり、ということだろうか。そう思った瞬間、昏見が口を開いた。
    「私は誰が何を言おうと、自分の思うままに最後まで成し遂げますよ。予告をしたのに奪えなければ名折れですから」
     昏見はそう言うと、目の前から消えてしまった。消えてしまった、という表現が正しいのかはわからないが、気づけばそこからいなくなっていた。まるで、今話していた相手は何かの幻だったかのようだ。鵺雲は小さく溜息を吐くと、ようやく佐久夜の方を見た。
    「ごめんね。困ったことに巻き込んでしまって」
    「いえ……。むしろ、こんなことになってしまったのは俺の落ち度です」
    「ふふ、佐久夜くんは優しいね。でも、いい機会だったかもしれない。彼のことを避けていたお陰で、今の今まで言葉を交わすことすらなかったものだから。避けられないことだった」
    「あの方は……」
    「やっぱり僕とは合わなそうだね。でも、君に似ているところもあるよ。君が巡くんの為に魂を擲てる程囚われているように、彼もまたたった一人の人間に囚われている」
    「なら、幸運な人間と言えるかもしれません」
     佐久夜が言うと、鵺雲はようやく普段通りの笑顔を見せた。
    「……一つ、お尋ねしても構いませんか」
    「うん? どうしたの?」
    「意図は分からずとも、昏見有貴に手紙を出した意味は分かりました。なら、もう一つは?」
     あの時、鵺雲が佐久夜に頼んだことは二つあった。一つがこれだ。なら、もう一つにはどんな意味があったのか?
     すると、鵺雲は涼やかに言った。
    「それは、これからだね。三言くんがもう少し、繋いでくれたら」



     

    著:斜線堂有紀

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