その9 古流武術の時代の話。(前半)
柳生心眼流を学び、島津先生から聞かせて頂く話。古流武術が盛んだった時代の話は現代からはなかなか想像のつかないものがたくさんある。古流武術の技が荒唐無稽に見えるのと同じように、古流武術の時代の話も荒唐無稽に思えるのだ。だけど荒唐無稽に思える話は真実の話。荒唐無稽にしか見えない古流の技を真実へ変えるには、古流の時代の荒唐無稽な話を何度も聞き、それが真実だと感じることもきっと欠かせないことなのだ。
武術とは感覚を学び、先達の方々の感覚を引き継ぐもの。だから折にふれ僕は昔の話を聞かせて頂いている。学びが始まった頃によく聞かせて頂いた話がある。
「道場に入る際にどうやって中に入るのか?」
現代の武道的に考えれば有り得ないような、無作法な話を何度も聞かせて頂いた。最初はなぜ何度も聞かされるのか分からなかった。先生も70歳を過ぎてるから、話したことを忘れちゃうのかな? そんな失礼なことを思ったりもした。
ところが違うのだ、同じことを何度も聞かせてもらうからこそ、気がつくことがある。一度聞けば記憶には入る。しかし記憶にしまったものはそのままのことが多い。だけど何度も聞かされると、その度に何かを感じる。直接人から面と向かって聞くと、何かを感じてその場で何かを考える。そしてその後もそのことを考えたりする。記憶に入っただけでその作業の繰り返しを何度もする人はそうそういないだろう。
記憶をすることが武術の学びではないのだ。遠い時代の記憶から、現実の感覚を引き出し自分と重ねるのが武術の学び。武術の鍛錬とはその作業で、武術の型とは記憶を呼び覚ますツール。記憶からいかに考え、深い部分を感じることができるのか? そのためには何度も同じ話を聞いて、面と向かって直接聞くことで得る刺激が欠かせないのだ。
話は戻って、「今は道場に入る時に下駄箱とかどうしてる?」と先生が聞いてくる。答えは“きちんと揃える”。それが常識で、それは何も道場に限ったことではない。日常生活においても同じ。子供にはきちんと靴を揃えて並べたり、きちんと下駄箱に入れることから指導が始まったりする。道場の始まりは道場に入る時だから、一番初めはとても肝心なのだ。
「昔は違うぞ。昔は道場に入る時に靴を揃える馬鹿はいない。もっとも昔は草履や下駄だけどね」と言いながら先生が意味深な笑顔を見せる。こんな時には必ず別の答えが待っている。人は隠し事をすると顔つきが変わる。隠されている答えが面白いと笑顔が隠せないのだ。
「昔と違って靴を履く時代になってもうちの流儀は同じことをやっていた。最初はよく怒られたもんさ。今は怒らないけど、同じようにうちの流儀ではやっているんだ」と先生は自分が若かった時代を思い出し、そして遥かな時代、古流の時代を見るように遠くを見ながら僕に聞かせてくれた。
「昔は下足を脱いだらそのまま脱ぎっぱなしだった。これが正しい道場への入り方なんだ」
下足というのは昔の靴の呼び名。たまに昔の単語が出て来るのが古流の学びの面白いとこでもあったりする。