その10 柔術家は道衣を着たのか?(前半)
グレイシー柔術やブラジリアン柔術の特色は、道着を着て練習や試合を行うこと。いかに道着を上手く使うのかが柔術や柔道の基本だったりする。実は道着という物の歴史はそれ程長くはない。柔術の特色が道着というのは明治以降のことだったりする。
明治維新において衰退した武術、その打開策として生まれたものが武道。希代の天才だった講道館の嘉納治五郎先生は、教育者としても優れた一面を持っていた。そしてビジネスマンとしても稀有な才能があったように思う。柔術から柔道へと変換した時に、柔道着が産まれた。そして段位制度も変革され帯という新しい制度が生まれた。明治時代はだいぶ昔でもある。明治以降から現代への時間は短くはない。それでも武術の歴史の中では一瞬でしかないのだ。
柔術が柔道へと変わった時には、それまでとは180度変わったことが色々とある。柔術の技が柔道の技に変わり、投げ技中心になっただけではない。柔道になった時に稽古着、道着が考案されたのだ。
それまでの武術は個人指導が主な伝え方だった。それを集団稽古に変えたのが講道館。そうすることにより一度に多くの人数が稽古を出来る。一度に多くの人数が稽古をできれば、生徒も多く集まり月謝を低価格に抑えることが出来る。低価格の月謝は更に多くの生徒を集める助けになったのだ。
士農工商から四民平等へと変換を遂げた明治時代には、誰もが平等に一緒に学ぶ柔道は新鮮だったのかもしれない。もっとも武家からは嫌がられた感もある。だが、武家よりも圧倒的に人数の多い一般市民から喜ばれたほうが道場の拡大、生徒数の拡大には良い。
そして、誰にでも学べる柔道はやがて世界中に広まっていった。世界中の人が柔道を学ぶ時に柔道着を着る。柔道を始める時に柔道着を購入する。その売り上げは道場の収入となる。そして昇給審査と昇段審査を定期的に行う。審査料が定期的に道場の経営を潤してくれる。実はこれが素晴らしいアイディアなのだ。
空手を本土に招聘したのは講道館の嘉納先生。本土での普及に際して色々な助力をしたという。空手着も実は明治以降に出来た。空手も沖縄では個人指導で行われていた、本土での指導によって集団稽古が始まった。もちろん黒帯も明治以降のものだったりする。嘉納先生のアドバイスがそこにあったことは想像に難くない。
明治以前の稽古着とは一体どんな物だったのか? ホンの少し考えてみればこんなことが想い浮かんでくる。現在の柔術着、あるいは柔道着はとても丈夫に出来ている。そしてその割りには薄く着心地も良い。明治以前にそれ程の生地を作れたのだろうか?