その10 柔術家は道衣を着たのか?(後半)
初期の柔道は相手と正々堂々と組み合う。お互いが技をかけやすい状態から始まる。そして技をかわすことはあっても、技から逃げることはなかった。力ずくで相手の組み手を切ったり、無理やり相手の技から逃げるようなことはしなかったのではないだろうか?
お互いに自由に技を掛け合い、一度相手の技が決まれば綺麗に相手の技を受ける。綺麗な技を綺麗に受けてくれた相手にも尊敬の心を持って接する。投げた相手を危険から守るために引き手をきちんと取り相手を守る。きちんとした受身が出来て相手が引き手を綺麗にしてくれれば、投げによるダメージはないに等しくなる。投げた際に相手から手を離さずに相手を守る。引き手は講道館の嘉納先生の考案によるものだという説を聞いたことがある。
それまでの柔術では、相手を投げっぱなしにする。だから柔術の道場では怪我をすることが多かった。それゆえに活法が導入され磨かれた。柔術家は巧みに怪我を治してきた。その理由は引き手がなかったからという部分にも一因がある。
そもそも柔術に投げという概念はない。“投げ落とし”と呼び、相手をそのまま地面に叩きつける技が柔術の投げなのだ。持つ箇所は頭蓋骨で、そのまま地面に叩きつける。だから安全にお互いに技を試しあう柔道は、投げ落としに馴染んだ柔術家にとっては、とても楽しかったのではないかという気がする。
力ずくで組み手争いをせず、相手の組み手や技に対して強引に力で逃げない。そうであれば現在よりも薄手の生地の道着でも充分に耐用したような気がする。今よりも薄手で破れやすい道着で現代のような組み手争いを日常で行ったら……きっと道着が何枚あっても足りなかっただろう。道着代がかかり過ぎては柔道は広く普及しなかったように僕は想像したりする。現代とは違った形の柔道があった気がしたりもする。
そもそも武術とは身分によって技が違っていた。足軽と武士では戦での状況が違う。状況が違えば使う技も異なる。武士にも階級があり、階級によって技が違う。武士にも2本の帯刀を許される上級の武士と、2本の帯刀を許されない小者に分かれていた。武士にも違った技によって成り立つ武術があったのだ。
そもそも武士に組み付くことは難しいのだ。現代とは全く違った状況と技を知らなければそれは理解できないだろう。タックルで組み付くことは格闘技の状況だから出来ることであって、2本の帯刀を許された武士には“柄頭当”という技の嗜みがあった。
現代では耳にすることがない技。刀の持つ部分を柄といい、そこはとても硬い。刀を抜かなくてもその部分を巧みに相手に当てれば、相手は簡単に組み付くことは出来ない。柄に独自の工夫を加えたであろう武士も当然いただろうし、柄を巧みに扱う術を心得た相手に対してタックルを仕掛けることは致命傷になる。古流にも形はタックルに似ている技があるが、古流を学ぶとタックルと似ているのは形だけだと理解出来るようになるのだ。
江戸時代までは身分制度によって国が守られていた。差別ではなく、それぞれがそれぞれの役割をきちんと果たすことで国が安泰となる。そのような一面もあったように僕は想う。