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後藤和智の若者論と統計学っぽいブロマガ
第26回:【思潮】東浩紀と「批評」市場の問題
「おでかけライブin山形111」のサークルペーパーとして書いた文章です。
―――――
今回のFree Talkですけど、以前から暖めていた、東浩紀から見る「批評」市場の問題について見ていこうと思います。『別冊情況 思想理論編』(第2号)という、『情況』という左翼雑誌の別冊に、藤田直哉の論考「ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論」が掲載されました(インターネット上にも掲載。http://nanasi-iinkai.hatenadiary.jp/entry/2013/07/04/185216)。藤田は元々は文芸評論畑の人で、東浩紀がかつて行っていた「ゼロアカ道場」に参加して東との接点も多く、東の側の人間と認識していた人も少なくないと思います(ただ藤田氏は私の著書を読んでくださったこともあり、また以前にコミケの私のスペースにもいらっしゃったようです。多謝)。しかし藤田の論考には、東の周辺の人間として、東がいかにして『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年)から変わっていったかが明確に示されていると思います。
藤田は「新日本国憲法ゲンロン草案」も掲載されている『思想地図β』第3号の巻頭言に対して次のような批判をしています。
藤田の指摘するとおり、東は元々ポストモダン的な立場を取ることにより、政治や社会と言った大仰なものを語ることを避けてきたように思えます。藤田の議論に付け加えると、そういった「ポストモダン」的な心性は、自分のみならず若い世代に広汎に存在するものとして、「若者」の側の論客として社会問題を語ってきたという側面もありました(例えば、東浩紀、森暢平[2008]における天皇制をめぐる対談など)。
そのような東が、「僕(ぼく)たち」を主語にして大きな社会のデザインについて語るようになり、また「現実」について積極的に発言するようになった。それを政治転向と言わずして何と言うのか、ということを、藤田は『動物化するポストモダン』と『思想地図β』第3号との対比で説明しています。藤田の批判の主眼は、『動物化するポストモダン』において示されていた東の社会に対する見方に対して、それが近年の「政治転向」では失われてしまったということが書かれています。しかし藤田の言説において、私が考える最も重要なのは次のくだりでしょう。
まず藤田の言説に対して若干違和感を表明させてもらうと、東の発言への評として《オタクたちの自己肯定として利用され、コンテンツ制作者たちにとっては、便利な「箔付け」と宣伝として利用できるものであった》ということに対しては、《オタクたちの自己肯定として利用され》というのはいくつか実例を見出すことができますが(東浩紀のファンブックや東の「批評」に基づく評論同人誌は今でも出されています)、《コンテンツ制作者たちにとっては~》というくだりについては、コンテンツ制作者においてはそこまで広く支持されていたかというのは疑問です。
しかし《東浩紀の思想は、思想的な正しさや理論の整合性ではなく、彼の思想が「消費されていくこと」により正当化されるもの》というのは注目に値されるべき批判だと思います。藤田は東浩紀の言説が消費されることによって、オタクカルチャーやその消費者の側が自己を正当化することにより、《オタクであること、ネットに依存していることが、「ポストモダン」で「最先端」で「知的」であるという幻想に訴えかけ、オタクたちの中で心が弱く、知的コンプレックスが強い層に、「知的優越心」を販売する》というものであったと指摘しています。
ただ藤田の議論に付け加えるとすると、若者論の側もまた、東をポストモダン時代の「若者」の心性を代弁する論客として歓迎されたという側面もあるように思えます(少なくとも、オタクカルチャー側の自己正当化だけに使われたのであれば、東の影響力は高まることはそれほどなかったと思います)。1990年代終わり頃から、日本社会に対する劣化言説が広まり、その中で若年層の「劣化」「不可解」が問題視される中で、「データベース消費」という言葉で現代の若年層の「動物化」を指摘した東の言説は、若年層を「上の世代とは違う心性を持った存在」として捉えたい若者論、劣化言説の側に歓迎を持って迎えられたという側面もあります。東の言説に依拠して現代の若年層や社会を批判的に論じていた論客としては岩木秀夫(『ゆとり教育から個性浪費社会へ』ちくま新書、2004年)や樫村愛子(『ネオリベラリズムの精神分析』光文社新書、2007年)などが挙げられるでしょう。また当初は東浩紀の周囲の論客として活躍していた北田暁大や鈴木謙介にしても、東浩紀ラインの「ネット時代の「若者」論」として売り出された側面が大きいと考えます。
東浩紀は当初活動領域としていたオタクカルチャーから、やがてテクノロジーや政治、社会という領域に進行していくようになったわけですが(例えば、2004年からの国際大学GLOCOMでの議論や、『波状言論f改』(青土社)など)、それもまたサブカルチャー分野での東の発言がある種の社会論、若者論として歓迎されたことと無関係ではないでしょう。そして東は、ポストモダン時代の「人間」像を前提とした社会デザインという領域に入っていくこととなります。東と北田の編集で始まった『思想地図』第1期も、第3,4号の編集の関与からは北田が抜けていますが、第3号の特集は「アーキテクチャ」、第4号は「想像力」でした(いずれにも共通しているのは、この2号には社会を科学的に捉えることができる人間としての「社会科学者」が圧倒的に不足していることです)。他方で最終巻となる第5号は北田のみの編集となりましたが、その号では社会科学の学者を集めて日本社会に対する分析的な論考が多数掲載されています。このような東と北田の方向性の違い、そしてこのあと東が自ら会社を興して発行することになる『思想地図β』の方向性にこそ、東の言論の特徴が浮かび上がってくるのです。
藤田の指摘した東のオタクカルチャーに関する言説の傾向は、現在の「政治転向」した東浩紀にも言うことができます。第1期『思想地図』の第3,4号や、第2期『思想地図β』発刊から現在に至るまでの特集の特徴として、編者である東の大きな問題意識があり、それを正当化してくれるような社会科学者やジャーナリストを起用することによって正当性を担保するというものです。そういった優れて「同人誌」的な振る舞いは、現在の東の言説を考える上で意識しておく必要があるでしょう。しかし東にはいくつか決定的に欠けていた点があります。
第一に、自らの正当性を担保してくれる客観的な基準に対しての無知です。私はかつて『おまえが若者を語るな!』という本で東の言説に対して、客観的な証拠、エビデンスが欠けていることを批判しました。それに対して東は批判から正面には向き合わずにただ中傷とも言えるような言説を繰り返しました。それ以降の東にしても、震災前に出された『一般意志2.0』などではビッグデータ的なものを礼賛し、また自分の言説はルソーの『社会契約論』の「純粋な」読解に基づくものと主張していましたが、それは学術的な研究はおろか、高校の倫理の教科書すら踏まえていないものでした。つまり東においては既存の学問的なものや、科学的な考え方で判断するという資質を著しく欠いており、そのため自分の言説にとって都合のいい学問(ビッグデータや、福島第一原発観光地化計画における「ダークツーリズム」など)にアドホックに飛びつく。他方で東自身の学問的な立場はわからない、もしくはないものとなる。そして自らの感情の動きに従って、自らを正当化してくれる概念を取っ替え引っ替えする。
第二に、自らの言説や行動を学術的に裏付ける素地が極めて薄いので、東自身の価値判断が求められる言説や行動に対しては、自らの感情に多分に依拠することになる。それ故自らの狭隘な社会観、政治観が露見してしまう発言がたびたび出されたりする。また、東が猪瀬直樹などとつながりがあることを「これが政治です」などと言ったりするのも、東にとってすれば猪瀬という権力側の人間と「お友達」になることそれ自体が「売り」にする発言にも見られるとおり、自らの依って立つ根拠が、理論的、科学的、学術的なものではなく、極めて属人的なものになってしまう。
そしてこのような東の現状を生み出してしまったものこそが、藤田の指摘した「批評」市場の問題だということです。もちろん、藤田の指摘するとおり、東の言説が「人文系」の新たな可能性(言論としても、商業的にも)を開いたことは否定し得ません。しかし藤田の指摘する《「虚構」を継続させ、「浮遊感」を継続させ、その業界を盛り上げ、軽躁状態を作り出し、より消費させるために機能し、必要とされた。そしてその際、起源に存在していた枠組みや前提は意識的にか無意識的にか忘却された》(藤田前掲)というのは、藤田の想定するようなオタクカルチャー言説ではなく、むしろ社会論、若者論の側だったのではないでしょうか。東の言説が社会論で持ち上げられたからこそ、東は自らこそが社会の本質をわかっているという錯覚を育んでいったのではないでしょうか。だからこそ、2008年頃には労働問題などに対してメタ的な立場を取るようになり、そして2010年頃からは具体的な「政治」について積極的に語るようになった。そしてそのような《軽躁》状態の中で、自分は左翼連中よりものがわかっているという意識の下で作られたのが、ゲンロン憲法案であり、そして福島第一原発観光地化計画であった。
そしてそのような東の動きは、「若手」論客の動きが、ロスジェネ的な自らの「窮状」を主張することから、学問的、客観的な裏付けなどはさておいて「行動」することを重視するようなものになっていく過程で(9月に出る商業新刊で詳しく論じています)「先端」として持ち上げられるようになった(特に東の憲法案は、朝日新聞からSAPIOに至るまでいくつかのメディアがインタビューや寄稿を掲載しています)。その過程で東は自らの「先進性」への過信を強めていった。
だから先の参議院議員選挙における自民党の圧勝と山本太郎の当選という、自らが「無力」であるという「現実」が襲ってきたとき、東は自らを正当化するために象徴としての「山本太郎」を積極的にバッシングするようになった。そしてそれまで読者によって持ち上げられてきた自らの「先進性」を維持し、自らの優位性を示すためなら、「反原発と手を切るために」福島の農産物を食べるという、少なくとも私から見れば「ふざけるな!」と言うほかない言動すら容易にとってしまうようになっている。だから、藤田の次のくだりは、むしろ東の社会論にこそ現れているものなのです。しかも「その先」すら実現してしまっている。
というわけで本稿では、藤田直哉の東浩紀批判、そして東を消費する批評市場の問題について、藤田の議論は内実について的を射ているとしても、それはむしろ若者論や社会論の場において生じたのではないかということを見てきました。ただ藤田が『動物化するポストモダン』と『思想地図β』を対比させて、東が大きく変化してしまったことを示したことについては高く評価すべきだと思います。
ただ藤田が見逃していたのは、東の議論はオタクカルチャーから徐々に社会論のほうにシフトしていったということです。そのため2001年の『動物化するポストモダン』と2012年の『思想地図β』を単純に対比させていてはその間に起こった変化をいくつか取りこぼしてしまう可能性があります。それでも藤田の議論はかつて東の「持ち味」であったシニカルな態度を捨て去ってしまったことを明確に示しており、十分に意義のあるものです。
オタクカルチャー論にしろ若者論や社会論にしろ、東の支持される構造が、東の「振る舞い」を支持するものとなっているという現状は、一部の読者に対しても「東についていくこと」がそのままステータスとなるという意識を生み出しています。現に藤田の論考に対してツイッター上で藤田に対して行われた議論に対し(「藤田直哉による東浩紀批判『ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論』をめぐっての議論」http://togetter.com/li/529517)、藤田を批判する側はもっぱら藤田は東の議論の「本質」を理解していないかのような批判をしていたのに対し、藤田に一定の理解を示す側には藤田の議論を批判的に継承する人も一部で見られたというのがその一端を示していると思います。
また同様の流れで凋落していった論客として、宮台真司がいます。宮台もまた、オタクカルチャー論を出自にし、オウム事件をきっかけに若者論、社会論の分野で積極的に発言するようになり、客観性よりも振る舞いで支持を集めていった。そして「ソーシャルデザイン」を声高に訴える一方で、「秘教」的な社会劣化言説に傾倒していった(この点については私も『現代の理論』という左翼雑誌で書いており、のちに『おまえが若者を語るな!』で発展させています。後藤和智[2008])。さすがに今の東のように「八つ当たり」を繰り返しているわけではないですけど、今の社会論の状況は、宮台や東のような「論客」を生み出してしまう可能性が大きいと思います。そして共通しているのは、彼らは最初にオタクカルチャー論で持ち上げられ、次に若者論、そして社会論で持ち上げられたことでしょう。
ただ今のオタクカルチャー論は、それこそ東浩紀的なレジームに席巻されてこういう「論客」を生み出す力はあまりないですが、逆に今はオタクカルチャー論よりも若者論に接近している「働き方」言説にその傾向は強まっているように見えます。そして「働き方」言説、若者論を経由して「秘教」的な支持を集めている論客は、現在でも何人か見られています。
自らの言動を支持してくれる思想家や社会科学者、ジャーナリストを侍らせて自らに対してはその視点を磨くことはなく、自らの感情と人付き合いを絶対視し、なりふり構わなくなってしまった東浩紀という「思想家」の姿は、むしろ今の社会論のあり方が本当に正しいのか、ということを示してくれるのでしょう。
引用・参考文献
東浩紀、森暢平[2008]「「天皇制はサブカルチャー化していないか」「天皇制がネットの出現や消費社会の台頭で大きく変動しつつある」」、『論座』2008年3月号、朝日新聞社、pp.48-63、2008年3月
藤田直哉[2013]「ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論」、『別冊情況 思想理論編』第2号、情況出版、2013年7月
「藤田直哉による東浩紀批判『ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論』をめぐっての議論」http://togetter.com/li/529517、2013年7月
後藤和智[2008]「さらば宮台真司――脱「90年代」の思想」、『現代の理論』2008年新春号、pp.100-109、明石書店、2008年1月
【今後の掲載予定:定期コンテンツ(原則として毎月5,15,25日更新予定)】
第27回:【書評】夏の書評祭り『自殺のない社会へ』『生活保護リアル』ほか(2013年8月15日配信予定。「コミックマーケット84」のサークルペーパーとして配信します)
第28回:【政策】現代学力政策概論(第1回:全国学力テスト)(2013年8月25日配信予定。「仙台コミケ209」のサークルペーパーとして配信します)
第29回:【科学・統計】レビュー系サイト・同人誌のための多変量解析入門(最終回:テキストマイニング)(2013年9月5日配信予定)
第30回:【思潮】「草食系男子」論とは何か(第3回:非モテ――「当事者」の語りとそれがもたらした爪痕)(2013年9月15日配信予定)
【近況】
・「コミックマーケット84」2日目にサークル参加します。
開催日:2013年8月11日(日)
開催場所:東京ビッグサイト(東京都江東区)
アクセス:ゆりかもめ「国際展示場正門」駅より徒歩3分程度、または東京臨海高速鉄道りんかい線「国際展示場」駅より徒歩5分程度
スペース:東館「R」ブロック19b
情報ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11586914352.html
・「紅のひろば10」にサークル参加します。
開催日:2013年9月8日(日)
開催場所:大田区産業プラザPiO(東京都大田区)
アクセス:京急本線・空港線「京急蒲田」駅より徒歩3分程度
スペース:未定
・「第9回東方紅楼夢」にサークル参加します。
開催日:2013年10月13日(日)
開催場所:インテックス大阪(大阪府大阪市住之江区)
アクセス:大阪市営南港ポートタウン線「中ふ頭」駅より徒歩3分程度、または大阪市営地下鉄中央線「コスモスクエア」駅より徒歩15分程度
スペース:未定
・「第十七回文学フリマ」にサークル参加します。
開催日:2013年11月4日(月・祝)
開催場所:東京流通センター(東京都港区)
アクセス:東京モノレール「流通センター」駅より徒歩すぐ/京急本線「平和島」駅よりバス
スペース:未定
・本年9月に、日本図書センターより5年ぶりの商業新刊が刊行されます。内容としては戦後の若者論の歴史をたどるものとなります。まもなく再校ゲラ修正作業となります。
・「コミックマーケット84」の第1新刊『R Maniax――フリーの統計ソフト「R」を使いこなす本』の通販予約受付がメロンブックスにて開始されました。また夏コミ当日にスペースでも頒布するほか、COMIC ZINでの委託と、電子版の刊行も予定しております。告知ページから書誌情報やサンプル(pixiv)を見ることもできます。
告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11575471627.html
メロンブックス予約ページ:http://shop.melonbooks.co.jp/shop/detail/212001063053
・「コミックマーケット84」の第2新刊『都条例メディア規制の形成――平成日本若者論史8』の告知ページを作成しました。コピー本のため委託はありませんが、Kindleで電子版を刊行予定です。
告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11586906736.html
・「サンシャインクリエイション60」新刊の『「働き方」を変えれば幸せになれる?――平成日本若者論史7』のKindle版がリリースされました。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00DKCYYJ8/
・ 「第10回博麗神社例大祭」新刊の『古明地さとりの自己形成論講義――市民のための「自己」をめぐる社会科学講座』と『新・幻想論壇案内――東方 Project系「評論・情報」コンテンツの新たな展開』がメロンブックス、とらのあな、COMIC ZINで発売中です。またいずれも電子版もメロンブックスDLで配信中です。詳しくは告知ページをご覧ください。
『古明地さとりの自己形成論講義――市民のための「自己」をめぐる社会科学講座』告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11524050938.html
『新・幻想論壇案内――東方Project系「評論・情報」コンテンツの新たな展開』告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11524045526.html
(2013年8月5日)
奥付
後藤和智の若者論と統計学っぽいブロマガ・第26回「【思潮】東浩紀と「批評」市場の問題」
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013(平成25)年8月5日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/
Twitter:@kazugoto
Facebook…
個人:http://www.facebook.com/kazutomo.goto.5
サークル:http://www.facebook.com/kazugotooffice
第26回:【思潮】東浩紀と「批評」市場の問題
「おでかけライブin山形111」のサークルペーパーとして書いた文章です。
―――――
今回のFree Talkですけど、以前から暖めていた、東浩紀から見る「批評」市場の問題について見ていこうと思います。『別冊情況 思想理論編』(第2号)という、『情況』という左翼雑誌の別冊に、藤田直哉の論考「ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論」が掲載されました(インターネット上にも掲載。http://nanasi-iinkai.hatenadiary.jp/entry/2013/07/04/185216)。藤田は元々は文芸評論畑の人で、東浩紀がかつて行っていた「ゼロアカ道場」に参加して東との接点も多く、東の側の人間と認識していた人も少なくないと思います(ただ藤田氏は私の著書を読んでくださったこともあり、また以前にコミケの私のスペースにもいらっしゃったようです。多謝)。しかし藤田の論考には、東の周辺の人間として、東がいかにして『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年)から変わっていったかが明確に示されていると思います。
藤田は「新日本国憲法ゲンロン草案」も掲載されている『思想地図β』第3号の巻頭言に対して次のような批判をしています。
ゼロ年代を代表し、オタク・カルチャーを牽引し、ポストモダンを肯定していた東浩紀という人物が本当に発したのかと疑うぐらい、単純かつナイーブな「政治旋回」である。これが稚拙なのか、あるいは稚拙かつ単純な言説を求める読者の心性を計算して稚拙に振舞っているだけなのか、判別はできないし、する必要もない。そのようなアイロニーの多重性の罠に迷い込み、時間を空費することよりかは、この文章そのものを素朴に読み、素朴に問うことの方が重要だからである。(藤田直哉[2013])
藤田の指摘するとおり、東は元々ポストモダン的な立場を取ることにより、政治や社会と言った大仰なものを語ることを避けてきたように思えます。藤田の議論に付け加えると、そういった「ポストモダン」的な心性は、自分のみならず若い世代に広汎に存在するものとして、「若者」の側の論客として社会問題を語ってきたという側面もありました(例えば、東浩紀、森暢平[2008]における天皇制をめぐる対談など)。
そのような東が、「僕(ぼく)たち」を主語にして大きな社会のデザインについて語るようになり、また「現実」について積極的に発言するようになった。それを政治転向と言わずして何と言うのか、ということを、藤田は『動物化するポストモダン』と『思想地図β』第3号との対比で説明しています。藤田の批判の主眼は、『動物化するポストモダン』において示されていた東の社会に対する見方に対して、それが近年の「政治転向」では失われてしまったということが書かれています。しかし藤田の言説において、私が考える最も重要なのは次のくだりでしょう。
東浩紀の思想は、思想的な正しさや理論の整合性ではなく、彼の思想が「消費されていくこと」により正当化されるものであった。内容ではなく「売り上げ」こそが思想を正当化するという言説空間こそが、ゼロ年代批評の空間であった。東浩紀の思想は、オタクたちの自己肯定として利用され、コンテンツ制作者たちにとっては、便利な「箔付け」と宣伝として利用できるものであった。
そのような中で、東浩紀の思想は生きてきた。だから、オタク・カルチャーに不況の影が差した途端、慌ててその思想や理論を投げ捨てざるをえない。その程度の射程しか持っていない理論であり、思想なのだ。(藤田前掲)
まず藤田の言説に対して若干違和感を表明させてもらうと、東の発言への評として《オタクたちの自己肯定として利用され、コンテンツ制作者たちにとっては、便利な「箔付け」と宣伝として利用できるものであった》ということに対しては、《オタクたちの自己肯定として利用され》というのはいくつか実例を見出すことができますが(東浩紀のファンブックや東の「批評」に基づく評論同人誌は今でも出されています)、《コンテンツ制作者たちにとっては~》というくだりについては、コンテンツ制作者においてはそこまで広く支持されていたかというのは疑問です。
しかし《東浩紀の思想は、思想的な正しさや理論の整合性ではなく、彼の思想が「消費されていくこと」により正当化されるもの》というのは注目に値されるべき批判だと思います。藤田は東浩紀の言説が消費されることによって、オタクカルチャーやその消費者の側が自己を正当化することにより、《オタクであること、ネットに依存していることが、「ポストモダン」で「最先端」で「知的」であるという幻想に訴えかけ、オタクたちの中で心が弱く、知的コンプレックスが強い層に、「知的優越心」を販売する》というものであったと指摘しています。
ただ藤田の議論に付け加えるとすると、若者論の側もまた、東をポストモダン時代の「若者」の心性を代弁する論客として歓迎されたという側面もあるように思えます(少なくとも、オタクカルチャー側の自己正当化だけに使われたのであれば、東の影響力は高まることはそれほどなかったと思います)。1990年代終わり頃から、日本社会に対する劣化言説が広まり、その中で若年層の「劣化」「不可解」が問題視される中で、「データベース消費」という言葉で現代の若年層の「動物化」を指摘した東の言説は、若年層を「上の世代とは違う心性を持った存在」として捉えたい若者論、劣化言説の側に歓迎を持って迎えられたという側面もあります。東の言説に依拠して現代の若年層や社会を批判的に論じていた論客としては岩木秀夫(『ゆとり教育から個性浪費社会へ』ちくま新書、2004年)や樫村愛子(『ネオリベラリズムの精神分析』光文社新書、2007年)などが挙げられるでしょう。また当初は東浩紀の周囲の論客として活躍していた北田暁大や鈴木謙介にしても、東浩紀ラインの「ネット時代の「若者」論」として売り出された側面が大きいと考えます。
東浩紀は当初活動領域としていたオタクカルチャーから、やがてテクノロジーや政治、社会という領域に進行していくようになったわけですが(例えば、2004年からの国際大学GLOCOMでの議論や、『波状言論f改』(青土社)など)、それもまたサブカルチャー分野での東の発言がある種の社会論、若者論として歓迎されたことと無関係ではないでしょう。そして東は、ポストモダン時代の「人間」像を前提とした社会デザインという領域に入っていくこととなります。東と北田の編集で始まった『思想地図』第1期も、第3,4号の編集の関与からは北田が抜けていますが、第3号の特集は「アーキテクチャ」、第4号は「想像力」でした(いずれにも共通しているのは、この2号には社会を科学的に捉えることができる人間としての「社会科学者」が圧倒的に不足していることです)。他方で最終巻となる第5号は北田のみの編集となりましたが、その号では社会科学の学者を集めて日本社会に対する分析的な論考が多数掲載されています。このような東と北田の方向性の違い、そしてこのあと東が自ら会社を興して発行することになる『思想地図β』の方向性にこそ、東の言論の特徴が浮かび上がってくるのです。
藤田の指摘した東のオタクカルチャーに関する言説の傾向は、現在の「政治転向」した東浩紀にも言うことができます。第1期『思想地図』の第3,4号や、第2期『思想地図β』発刊から現在に至るまでの特集の特徴として、編者である東の大きな問題意識があり、それを正当化してくれるような社会科学者やジャーナリストを起用することによって正当性を担保するというものです。そういった優れて「同人誌」的な振る舞いは、現在の東の言説を考える上で意識しておく必要があるでしょう。しかし東にはいくつか決定的に欠けていた点があります。
第一に、自らの正当性を担保してくれる客観的な基準に対しての無知です。私はかつて『おまえが若者を語るな!』という本で東の言説に対して、客観的な証拠、エビデンスが欠けていることを批判しました。それに対して東は批判から正面には向き合わずにただ中傷とも言えるような言説を繰り返しました。それ以降の東にしても、震災前に出された『一般意志2.0』などではビッグデータ的なものを礼賛し、また自分の言説はルソーの『社会契約論』の「純粋な」読解に基づくものと主張していましたが、それは学術的な研究はおろか、高校の倫理の教科書すら踏まえていないものでした。つまり東においては既存の学問的なものや、科学的な考え方で判断するという資質を著しく欠いており、そのため自分の言説にとって都合のいい学問(ビッグデータや、福島第一原発観光地化計画における「ダークツーリズム」など)にアドホックに飛びつく。他方で東自身の学問的な立場はわからない、もしくはないものとなる。そして自らの感情の動きに従って、自らを正当化してくれる概念を取っ替え引っ替えする。
第二に、自らの言説や行動を学術的に裏付ける素地が極めて薄いので、東自身の価値判断が求められる言説や行動に対しては、自らの感情に多分に依拠することになる。それ故自らの狭隘な社会観、政治観が露見してしまう発言がたびたび出されたりする。また、東が猪瀬直樹などとつながりがあることを「これが政治です」などと言ったりするのも、東にとってすれば猪瀬という権力側の人間と「お友達」になることそれ自体が「売り」にする発言にも見られるとおり、自らの依って立つ根拠が、理論的、科学的、学術的なものではなく、極めて属人的なものになってしまう。
そしてこのような東の現状を生み出してしまったものこそが、藤田の指摘した「批評」市場の問題だということです。もちろん、藤田の指摘するとおり、東の言説が「人文系」の新たな可能性(言論としても、商業的にも)を開いたことは否定し得ません。しかし藤田の指摘する《「虚構」を継続させ、「浮遊感」を継続させ、その業界を盛り上げ、軽躁状態を作り出し、より消費させるために機能し、必要とされた。そしてその際、起源に存在していた枠組みや前提は意識的にか無意識的にか忘却された》(藤田前掲)というのは、藤田の想定するようなオタクカルチャー言説ではなく、むしろ社会論、若者論の側だったのではないでしょうか。東の言説が社会論で持ち上げられたからこそ、東は自らこそが社会の本質をわかっているという錯覚を育んでいったのではないでしょうか。だからこそ、2008年頃には労働問題などに対してメタ的な立場を取るようになり、そして2010年頃からは具体的な「政治」について積極的に語るようになった。そしてそのような《軽躁》状態の中で、自分は左翼連中よりものがわかっているという意識の下で作られたのが、ゲンロン憲法案であり、そして福島第一原発観光地化計画であった。
そしてそのような東の動きは、「若手」論客の動きが、ロスジェネ的な自らの「窮状」を主張することから、学問的、客観的な裏付けなどはさておいて「行動」することを重視するようなものになっていく過程で(9月に出る商業新刊で詳しく論じています)「先端」として持ち上げられるようになった(特に東の憲法案は、朝日新聞からSAPIOに至るまでいくつかのメディアがインタビューや寄稿を掲載しています)。その過程で東は自らの「先進性」への過信を強めていった。
だから先の参議院議員選挙における自民党の圧勝と山本太郎の当選という、自らが「無力」であるという「現実」が襲ってきたとき、東は自らを正当化するために象徴としての「山本太郎」を積極的にバッシングするようになった。そしてそれまで読者によって持ち上げられてきた自らの「先進性」を維持し、自らの優位性を示すためなら、「反原発と手を切るために」福島の農産物を食べるという、少なくとも私から見れば「ふざけるな!」と言うほかない言動すら容易にとってしまうようになっている。だから、藤田の次のくだりは、むしろ東の社会論にこそ現れているものなのです。しかも「その先」すら実現してしまっている。
であるから、その「虚構」の継続が不可能であると判断がなされた場合、「歴史」や「政治」や「経済」の問題に彼が目を向けることは、全く旋回でもなんでもない。むしろ、抑圧されていたものの回帰である。だがその回帰の結果が、「現実」を装った「虚構」を生産するという、反転した形での反復となってしまっている点が重大な問題なのである。
ゼロ年代後半における、東浩紀自身の言説、キャラクターとしての役割演技、彼に原稿を依頼する産業の問題、ネットで発信しながらコミュニケーション的に作品を消費する読者、それらが形成した極めて閉じた世界における、批評的言説という「虚構」の多幸感的な消費――それこそが、ゼロ年代後半に、日本の批評界の一角で起こってしまった、ある特殊な事態である。(藤田前掲)
というわけで本稿では、藤田直哉の東浩紀批判、そして東を消費する批評市場の問題について、藤田の議論は内実について的を射ているとしても、それはむしろ若者論や社会論の場において生じたのではないかということを見てきました。ただ藤田が『動物化するポストモダン』と『思想地図β』を対比させて、東が大きく変化してしまったことを示したことについては高く評価すべきだと思います。
ただ藤田が見逃していたのは、東の議論はオタクカルチャーから徐々に社会論のほうにシフトしていったということです。そのため2001年の『動物化するポストモダン』と2012年の『思想地図β』を単純に対比させていてはその間に起こった変化をいくつか取りこぼしてしまう可能性があります。それでも藤田の議論はかつて東の「持ち味」であったシニカルな態度を捨て去ってしまったことを明確に示しており、十分に意義のあるものです。
オタクカルチャー論にしろ若者論や社会論にしろ、東の支持される構造が、東の「振る舞い」を支持するものとなっているという現状は、一部の読者に対しても「東についていくこと」がそのままステータスとなるという意識を生み出しています。現に藤田の論考に対してツイッター上で藤田に対して行われた議論に対し(「藤田直哉による東浩紀批判『ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論』をめぐっての議論」http://togetter.com/li/529517)、藤田を批判する側はもっぱら藤田は東の議論の「本質」を理解していないかのような批判をしていたのに対し、藤田に一定の理解を示す側には藤田の議論を批判的に継承する人も一部で見られたというのがその一端を示していると思います。
また同様の流れで凋落していった論客として、宮台真司がいます。宮台もまた、オタクカルチャー論を出自にし、オウム事件をきっかけに若者論、社会論の分野で積極的に発言するようになり、客観性よりも振る舞いで支持を集めていった。そして「ソーシャルデザイン」を声高に訴える一方で、「秘教」的な社会劣化言説に傾倒していった(この点については私も『現代の理論』という左翼雑誌で書いており、のちに『おまえが若者を語るな!』で発展させています。後藤和智[2008])。さすがに今の東のように「八つ当たり」を繰り返しているわけではないですけど、今の社会論の状況は、宮台や東のような「論客」を生み出してしまう可能性が大きいと思います。そして共通しているのは、彼らは最初にオタクカルチャー論で持ち上げられ、次に若者論、そして社会論で持ち上げられたことでしょう。
ただ今のオタクカルチャー論は、それこそ東浩紀的なレジームに席巻されてこういう「論客」を生み出す力はあまりないですが、逆に今はオタクカルチャー論よりも若者論に接近している「働き方」言説にその傾向は強まっているように見えます。そして「働き方」言説、若者論を経由して「秘教」的な支持を集めている論客は、現在でも何人か見られています。
自らの言動を支持してくれる思想家や社会科学者、ジャーナリストを侍らせて自らに対してはその視点を磨くことはなく、自らの感情と人付き合いを絶対視し、なりふり構わなくなってしまった東浩紀という「思想家」の姿は、むしろ今の社会論のあり方が本当に正しいのか、ということを示してくれるのでしょう。
引用・参考文献
東浩紀、森暢平[2008]「「天皇制はサブカルチャー化していないか」「天皇制がネットの出現や消費社会の台頭で大きく変動しつつある」」、『論座』2008年3月号、朝日新聞社、pp.48-63、2008年3月
藤田直哉[2013]「ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論」、『別冊情況 思想理論編』第2号、情況出版、2013年7月
「藤田直哉による東浩紀批判『ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論』をめぐっての議論」http://togetter.com/li/529517、2013年7月
後藤和智[2008]「さらば宮台真司――脱「90年代」の思想」、『現代の理論』2008年新春号、pp.100-109、明石書店、2008年1月
【今後の掲載予定:定期コンテンツ(原則として毎月5,15,25日更新予定)】
第27回:【書評】夏の書評祭り『自殺のない社会へ』『生活保護リアル』ほか(2013年8月15日配信予定。「コミックマーケット84」のサークルペーパーとして配信します)
第28回:【政策】現代学力政策概論(第1回:全国学力テスト)(2013年8月25日配信予定。「仙台コミケ209」のサークルペーパーとして配信します)
第29回:【科学・統計】レビュー系サイト・同人誌のための多変量解析入門(最終回:テキストマイニング)(2013年9月5日配信予定)
第30回:【思潮】「草食系男子」論とは何か(第3回:非モテ――「当事者」の語りとそれがもたらした爪痕)(2013年9月15日配信予定)
【近況】
・「コミックマーケット84」2日目にサークル参加します。
開催日:2013年8月11日(日)
開催場所:東京ビッグサイト(東京都江東区)
アクセス:ゆりかもめ「国際展示場正門」駅より徒歩3分程度、または東京臨海高速鉄道りんかい線「国際展示場」駅より徒歩5分程度
スペース:東館「R」ブロック19b
情報ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11586914352.html
・「紅のひろば10」にサークル参加します。
開催日:2013年9月8日(日)
開催場所:大田区産業プラザPiO(東京都大田区)
アクセス:京急本線・空港線「京急蒲田」駅より徒歩3分程度
スペース:未定
・「第9回東方紅楼夢」にサークル参加します。
開催日:2013年10月13日(日)
開催場所:インテックス大阪(大阪府大阪市住之江区)
アクセス:大阪市営南港ポートタウン線「中ふ頭」駅より徒歩3分程度、または大阪市営地下鉄中央線「コスモスクエア」駅より徒歩15分程度
スペース:未定
・「第十七回文学フリマ」にサークル参加します。
開催日:2013年11月4日(月・祝)
開催場所:東京流通センター(東京都港区)
アクセス:東京モノレール「流通センター」駅より徒歩すぐ/京急本線「平和島」駅よりバス
スペース:未定
・本年9月に、日本図書センターより5年ぶりの商業新刊が刊行されます。内容としては戦後の若者論の歴史をたどるものとなります。まもなく再校ゲラ修正作業となります。
・「コミックマーケット84」の第1新刊『R Maniax――フリーの統計ソフト「R」を使いこなす本』の通販予約受付がメロンブックスにて開始されました。また夏コミ当日にスペースでも頒布するほか、COMIC ZINでの委託と、電子版の刊行も予定しております。告知ページから書誌情報やサンプル(pixiv)を見ることもできます。
告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11575471627.html
メロンブックス予約ページ:http://shop.melonbooks.co.jp/shop/detail/212001063053
・「コミックマーケット84」の第2新刊『都条例メディア規制の形成――平成日本若者論史8』の告知ページを作成しました。コピー本のため委託はありませんが、Kindleで電子版を刊行予定です。
告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11586906736.html
・「サンシャインクリエイション60」新刊の『「働き方」を変えれば幸せになれる?――平成日本若者論史7』のKindle版がリリースされました。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00DKCYYJ8/
・ 「第10回博麗神社例大祭」新刊の『古明地さとりの自己形成論講義――市民のための「自己」をめぐる社会科学講座』と『新・幻想論壇案内――東方 Project系「評論・情報」コンテンツの新たな展開』がメロンブックス、とらのあな、COMIC ZINで発売中です。またいずれも電子版もメロンブックスDLで配信中です。詳しくは告知ページをご覧ください。
『古明地さとりの自己形成論講義――市民のための「自己」をめぐる社会科学講座』告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11524050938.html
『新・幻想論壇案内――東方Project系「評論・情報」コンテンツの新たな展開』告知ページ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11524045526.html
(2013年8月5日)
奥付
後藤和智の若者論と統計学っぽいブロマガ・第26回「【思潮】東浩紀と「批評」市場の問題」
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013(平成25)年8月5日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
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