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あざみと学ぼう。歴史ッ!!のコーナーで〜す♫
その81 牙をぬかれた虎
こんばんわあざみです。
この歴史をまなぼう☆では、魔界には欠かせないファクターである“歴史”を一緒に薊と学んでいこうではないか!!というブログです。
魔界での歴史上の武将たちのその生き様や、心意気、はたまたどうして死んだのかといういわゆる歴史を紹介し、魔界をさらに楽しんじゃおうという気持ちをもって筆をとらせていただいている次第です!
それでははじめていきましょう!!!
月山富田(がっさんとだ)城の攻防戦のその前年。
現・尼子当主の晴久の祖父にあたる尼子経久(つねひさ)が亡くなったのですが、この経久さん、彼1代で、この尼子氏を中国11カ国を支配する大名へと押し上げた英傑だったのです。
「この機に乗じて攻めない手はない!」という国人衆の声に押されるかたちで、大内義隆は、自ら大軍を率いて進撃したのです。
しかし、いざ攻防戦が始まると、意外にも支城の攻略に手間取ったうえに、作戦面での対立が目立ち、これにイヤ気がさした国人衆の離反も相まって、結局、義隆は、出兵から1年半後の天文十二年5月に撤退を開始しました。
ところが・・・です。
その撤退の途中で乗り込んだ船のうちの1艘が転覆してしまうという事故が発生、たまたまその船に乗り込んでいた義隆の息子・晴持(はるもち・養子です)が溺死してしまうのです。
「ああああああああああ春持。。はるもちいいいい。はるもち。」
一説には、この出来事のショックから立ち直る事ができず、その後の義隆は政治を顧みないようになり、隆房を含む重臣たちとの間に亀裂が生じてしまったとも言われます。
また、もともと、義隆は学問や文芸に造詣が豊かで、京風の文化を好んだうえ、外国との交流にも熱心で、キリスト教の布教も許可したおかげで、当時の山口は、西の京都と呼ばれるほどの文化の花が開いたとも言われていますが、一部の重臣にとっては、義隆のあまりの京風ドップリぶりが目に余ったという話もあります。
逆に、月山富田城攻めに積極的だった隆房を、義隆のほうから避けたという話も・・・
さらに、当時、政治面をまかされていた文治派の相良武任(さがらたけとう)と、武闘派の隆房ら、重臣同士の対立もあったようです。
なるほど。大内義隆の変貌ぶりに隆房ら武装組織が対立して
抗争が生まれてしまったというわけですね。
ふむふむ。
つづく。
それではまた明日のこの時間にお会いしましょう。
今宵はここまでに致しとう御座います。
あざみ
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