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ハックルベリーに会いに行く

ブロマガ

  • 1994:その30(1,765字)

    ぼくの大学時代は1987年から1991年だ。バブル崩壊が1990年の暮れからだから、ちょうど大学4年の卒業間際に崩壊したことになる。逆にいうと、大学4年生まではバブル絶頂だった。つまりぼくの大学生活はまるまるバブルの中で過ごしていたのだ。 当然、就職活動期間もバブルの真っ只中、というよりも崩壊直前の絶頂期だった。ニュースではよく、内定に50社や70社受かったという大学生がインタビューを受けていた。ぼくは彼らと同学年だったので注目していた。ただしぼく自身は、就職するつもりはなかったので、就活はしていなかった。だから、内定をたくさん取ったという景気のいいニュースも、横目で見ていたという感じだ。 ぼくの学部は生徒が17人で、半分が大学院へ進み、半分が就職した。何もしないのはぼくだけだったから、やはり多少目立った。それでも、この頃までにはぼく自身、変わり者というキャラをすっかり確立していたので、誰からも驚かれることはなかった。 それに当時は「まだまだ社会に出たくない」というモラトリアムが学生全般に横溢していて、大学院に進む同級生たちも「社会に出たくない」が一番の理由だったりした。 だからぼくが就職し...

    11時間前

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  • [Q&A]日本社会でモラル違反、マナー違反が増えていることをどう思うか?(2,144字)

    [質問] 詩人の谷川俊太郎さんが亡くなりました。岩崎さんは谷川さんについてはどのような印象をお持ちですか? [回答] ぼく自身、彼の作品にはほとんど触れませんでしたが、印象に残っていることはいくつかあります。 まず絵本の編集を始めたとき、谷川さんの『もこもこ』という絵本が子供たちに大人気だということを知りました。ぼくはそれを読んでも全く魅力に感じなかったのですが、子供たちがそれを気に入っていたのは紛れもない事実でした。 そのときに、ぼくには見えていないものが谷川さんには見えているのだなと知りました。それと同時に、ぼくは絵本の編集者には向いていないのだろうなということも分かりました。谷川さんに見えているものが見えないと、絵本というのは作れないということは分かったのです。 それで、ぼくと谷川さんは生きるフィールドが違うのだなということを知りました。だから、彼の作品を好きになるということはありませんでしたが、しかし氏の作品が素晴らしいものであることは間違いないと思います。 というのは、あるとき糸井重里氏が谷川さんにすり寄って、自分のイメージアップに利用しようとしているときがあり...

    1日前

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  • 本質的に生きる方法:その8(1,716字)

    アメリカでトランプ氏が大統領に当選したことに続き、日本でも斎藤元彦氏が兵庫県知事に当選した。そのことから今、日本でも徐々に「本質的に生きる」という人が増えているようにも見える。「和を以て貴しとなす」を捨てる人が増えているようにも見える。 しかし、単純にそうと言い切れない。なぜなら、そこにはまた別の「和」が発生しているということも考えられるからだ。日本人がそもそも持っていた、中世的な百姓根性の「和」の復活ということも考えられる。 前回も述べた通り、日本は中世から「和」を持っていた希有な民族である。そのため、全世界的に「和」を要求された「近代」にぴったりとハマった。近代において、日本は文句なく世界ナンバーワンの生産国となった。それはもちろん、民族性と文化が近代とぴったりとハマったからである。 それは、近代が生まれたイギリスはもちろん、近代を強力に推し進めたアメリカをも遥かに凌駕した。だから、イギリスやアメリカとの間に軋轢が深まり、戦争になって資源の不足から負けこそした。それでも、そこから文字通り不死鳥のように蘇り、すぐに世界ナンバーワンの機械王国へとあっという間に上り詰めたので...

    2日前

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  • 石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)

    二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。 二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がっていく。 もとより、昭和天皇は断固鎮圧すべしとの立場だったが、皇道派があれこれと策を弄し、その意向をなんとか伝えないようにしていたのだ。 しかし石原は、そうした企みをことごとく断ち切って、最終的に全体の流れを鎮圧の方に強引に持っていった。その手腕があまりにも見事だったため、ここでまた周囲から一目置かれることになったのだ。 まず、事件が起こるとすぐに反乱部隊の本部が置かれた陸軍大臣官邸に駆けつける。そこへ入ろうとすると入口で反乱部隊の兵卒に止められるが、これを一喝すると強引に通過する。石原のその迫力に、誰も手出しできなかった。 あるいは、皇道派が「天皇の鎮圧の意向を部下たちに伝えるのを少し遅らせられないか」と依頼に来たときも、石原はその場で部下たちを呼び寄せ、天皇の意向を伝えてみせる...

    3日前

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その5(1,968字)

    いきなりドラマの構成を考えるのはとても骨が折れることなので、その前段階として、第一話に描くエピソードの背景というものをあらためて書き出していきたい。 蔦文也は徳島商業に入学する。それは徳島商業監督、稲原幸雄に請われたからでもあった。当時の甲子園はまだ小規模で、四国からは一校しか出られなかった。そして四国には高松商、松山商という二大強豪校があった。だから徳島商は、県下一の強豪校ではあったものの、1915年に全国中学校野球選手権大会が始まって以来、一度も甲子園に出られていなかったのだ。 その負の歴史を覆そうともがいていたのが徳島商業稲原監督だった。稲原は1907年の生まれで、徳島商を卒業後、関西学院大学を経て東京で就職した。しかし1932年、徳商OBから監督就任を強く要請され、これを引き受ける。25歳のときであった。 そこから稲原の指導が始まるのだが、それは「猛特訓」そのものだった。練習は朝から晩まで続き、日付をまたぐこともしょっちゅうだった。もちろん、鉄拳制裁も厭わない。まだ若い監督だったから、血気盛んだったのだ。 そうして1935年に春の選抜に初出場すると、1937年にはとうとう念願の夏の甲子園...

    6日前

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2014/01/30 11:01

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