ここ数日、なんとも形容しがたい悪夢にうなされている。

目覚ましが鳴る遥か前に目覚め、そこからなかなか寝つけなくなり、夜が朝に浸食されていく光景を毎日見届けた。

夢の内容は具体的には覚えていない。ただ、決していい夢ではないことだけは確かだった。

原因はおおよそわかっていた。

長い間一緒にいた彼氏と別れ、そのショックで会社を休んでみたらプロジェクトが見事に大ゴケするという、まさに"泣きっ面に蜂"な展開に襲われたからだ。

プロジェクトの立て直しには数日かかり、その間、彼の顔を思い出さずに済んだのは不幸中の幸いだった。

でもそんな幸いはこれっぽっちも望んでおらず、精神的にも肉体的にもダメージは大きく、そこから数日、眠るたびにイヤな夢を見た。

昨日の夢は、そのなかでは幾分マシな方だった。

可愛らしいネコが出てきて、私に腕時計をくれた。ネコは紳士的な口調で、「その時計の針を戻せば、そのぶんだけ現実の時間を遡ることができる」と言っていた。

28歳にして随分ファニーな夢を見るものだと、自ら苦笑した。そこまで追い込まれているのかと戸惑いもした。でも、目を覚まして背筋が凍った。

自分の腕に、夢で見たはずの時計が、しっかりと付けられていたのだ。


――そんなことがあったとする。この世界に、ひとつだけ恋を手助けする未来のテクノロジーが存在したとする。それを貴方が手にしたら、どんな恋をするだろう。

この連載では、ライター・カツセマサヒコが、ひたすらありもしない「もしも」を考えていく。


Chapter 1 時間は残酷だ

とても古びた時計だった。

でも、針はきちんと現在時刻を指していて、耳を近づけるとカタカタカタと機械が動く音がした。

見た目が古いという特徴以外は、なんの変哲もない時計。とても時を遡る代物には思えない。

しかしあのネコの声が脳内でこだまする。


「信じてみてください。貴方の悪夢も、この時計によって解消されるはずですから」


夢で見たはずのものが現実に存在している時点で、もう何を信じてよいかわからなくなる。

まだ時刻は5時前で、目覚まし時計が鳴るまでは2時間近くあった。どうせこのまま二度寝はできないのだろう。私は朝までの暇つぶしと考え、なかば諦め半分に時計の針をグルグルとまわし始めた。

動かしている間は、とくに何も起きなかった。しかし、ねじをまわす手を止めた瞬間、異様なことが起きた。

目の前の景色が超高速で巻き戻り、自分以外のすべてが、過去に戻っていく。

「ドラえもん」で見たタイムマシンは、異次元空間のようなところを進むものだったが、あの時計模様の異空間だったらまだ可愛らしい。こちらは、現実で起きた出来事が自分の意思とは無関係に超高速で遡るため、ちょっとしたパニックホラーの映画を見ているようなグロテスクさがある。

「時間は残酷だ」とはよく言うが、なるほど確かに、これは目も開けていられないほど残酷だった。

Chapter 2 それってもう、私じゃない

試しに30分巻き戻してみただけで、異様な疲労感に襲われた。ちょうど時差ボケのようなものだろうか。時間旅行は、その場にいるだけで体力を使うらしい。

しかも、真夜中だったため、30分巻き戻したところで外界に大した変化は見られず、徒労に終わってしまった節がある。部屋の配置などは、当然ながら何も変わっていない。ただ、すべての時計の時間が、30分前を示している。


「本物だ」


その事実を受け止めて、ようやく実践すべきことを考える。

これを使えば、私は彼にフラれる前の時間まで戻ることができるし、仕事に欠勤しないからプロジェクトが失敗することもない。

さらに遡れば、過去に経験した些細なミスやキズも、すべて未然に防ぐことができるし、どう見積もっても今より数倍はスマートに生きられるはずだ。「人生2度目」と言うのは、本当に強い。

しかし、行動に移す前に、イメージトレーニングしてみる。

私は、どこまで遡れば、彼にフラれずに済むのだろう? 

フラれる当日まで戻って、彼に会わなければ済む?

前日まで戻って、フラれようがないほど尽くせば解決する?

出会ったころまで戻って、ほぼゼロから関係をやり直す...?

いずれも、現実的ではないように感じた。

むしろ、やり直すことによって、これまでのふたりのやりとりが上書きされてしまうことのほうが、なんだか悲しく感じられてしまった。

仕事についても、同じだった。

せっかく今日までのここ数日、文字通り死ぬ気でリカバリーしてきた仕事が、ミスをする前に戻ることで、水の泡になる。私の努力が、ある意味無駄になってしまうのだ。

もちろん、ミスなく華麗にプロジェクトを進められるのがいちばんだ。でも、私はひとつの仕事がミスしたぐらいで死のうと思うタイプではないし、凹むぐらいならさっさと事態の改修に動くべきだと考えて、今日まで走ってきた。

それが、時計の針を回すだけですべてなかったことになり、ミスなくクリアする超優等生な自分となる。

輝かしい人生を歩み始める自分を想像して、違和感を覚える。


「それってもう、私じゃなくない...?」


これからも、ミスする度に時間を戻しては、一回一回やり直して完璧な自分を生きなければ気が済まなくなるのではないか。

たくさんの後悔を抱え、それらと向き合いながらなんとか生きていた自分とは、まったく違う人格となってしまうのではないか。

考えると、ゾっとした。せっかくがんばった一日があっても、最後に大きなミスをしたら、朝からやり直さなければならない日も出てくるかもしれない。この時計は一度巻き戻したら早送りはできないし、戻したぶんだけ、同じ時間を自ら歩み直さなければならないのだ。

そんなことをしていたら、何年経っても私は、前に進めないのではないだろうか。

時計は、5時前まで戻ってきた。ふりだしだ。

覚悟は決めた。私は腕時計を外して、それを燃えないゴミに捨てた。

「フラれたのは、私が悪いかもしれない。プロジェクトが倒れたのも、私のせいだ。でも、わざわざやり直さなければならないほど、ひどいものでもない。もっと素敵な恋人を作ればいいし、もっと大きな仕事で成功すればいいだけだ。私は、戻らずとも生きていける。ごめんねネコさん」

カーテンを開け、大きく背伸びをした。もうすぐ、いつもの朝がやってくる。



――映画『アバウト・タイム』が好きなんですが、その作品のなかで何度もタイムトラベルが行われます。

ご都合主義な点も多くあり、「じゃあこの場面でタイムトラベルしたらどうなるの?」とツッコミどころをいれたくなるシーンもあるのですが、実際に僕らがタイムトラベルを使えるようになっても、きっと今回書いた主人公のように、「待てよ? これ、めちゃくちゃしんどくないか?」という答えに行きつきそうな予感がします。

蘇らせたい命とか、復縁したい関係はあるかもしれないけれど、それもこれも、自然の摂理。

そのなかで命の大切さや、人間の温かさに気づけることのほうが、人生は豊かになるのではないかと思いました。

撮影(トップ)/出川光 写真/Shutterstock 文/カツセマサヒコ



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