猫という生物が敵なのだと確信したのは、私がまだ小学校低学年の頃だった。
その日は生ぬるい風が吹き、葉桜の枝を震わせていたのを覚えている。
祖父の家だった。由緒正しい家系である祖父は、塀で囲まれた築ウン十年という歴史ある家屋に住んでいた。そういえば隣にお蔵もあったかと思う。
私は泣いていた、誰にも見つからないように裏口玄関で。誰もいないところなら自分の感情を素直に発露させることが出来た。
ふと背後に気配を感じる。涙を拭い振り返るとそこには猫がいた。右目付近に黒い部分がまとまっている三毛猫だ。おばあちゃんの飼い猫だった。座ったまま、まるで作り物のような目で私を見ては視線を外し、見ては視線を外し――を繰り返していた。
一人だからこそ泣いていた私はプライベートを侵されたような気持ちになってそのまま激情し、猫と格闘を始めた。
結果、惨敗。私の攻撃は彼ら持前の俊敏さで全て避けられ、カウンターで猫パンチ、猫キックをお見舞いされた。その日から猫に近づくと鳥肌が立ってしまう。
「しかし、今は私も大学生になった……猫め、人間は知能をもって地球の王者になったのよ。ペンは剣よりも強しという言葉を……ふふふ、知らないよね。だって猫だもの。私を前にして鳴くことしか出来ない、それがあなたの限界なの。猫に生まれたことを悔やみなさいな……」
マーオ、とキャンパス入口にまるで門番のように座っている猫が、威嚇するような声を出した。
「マーオ、じゃなくて……観念したなら早くそこからどいてよ!」
声を荒げるが、動く気配はない。猫と人間は変わらず、今日も意思疎通が出来ない。
腕時計を確認すると、九時五分だった。一限が開始して十五分が経っている。
「うぅっ……もう授業始まってるよ」
思わず脱力してため息をもらしてしまう。取り敢えず重い肩掛け鞄をその場に置いた。長期戦の構えだ。
猫がキャンパスの入口に鎮座しているために私はキャンパス内部に入れない。半径二メートル、これが私と猫の限界距離である。これ以上近づくと鳥肌が立ち、脚から力が抜けてしまう。
一限は諦めるしかないかもしれない……この街に猫が多い事は知っていたけど、まさか大学にまでいるなんて。
その時、大学領域内から清掃員のカップルが姿を現した。男の方と目が合う。私は得意の作り笑いを浮かべ、会釈した。すると向こうも軽く会釈し、その場を去っていく。
よかった、どうやら猫と私の言い争いは見られていないようだ。大学では笑顔を絶やさぬおしとやかキャラを作っているから、こんなところを誰かに見られたら一大事である。
猫との言い争いって、要するに私の独り言だし。
「あのあの、ちょっとお嬢さーん? さっきから何やってんすか?」
「えっ!?」
頭上から声がした。見上げるが、もちろん誰もいない。
「こっち、こっちですよー」
耳を傾けると、すぐ横の桜の木の上から聞こえているようだった。
「……?」
恐る恐る桜の木の真下に行き、見上げると、枝の上に人がいた。手に何かを抱えている。
「よっと」
その人は私の目の前に跳び下りると、私を素通りして、ガーディアン猫の元へ行く。
「ほら、無事っすよ。よかったねぇ、もう、子供はちゃんと見てなきゃだめっすよお母さん」
そして屈み、両手に抱えていた――子猫を放す。にゃうにゃう、と子猫が鳴くと、ガーディアン猫も鳴き返す。どうやら親子のようだ。
「大体子供が木から降りられなくなってたらお母さんが助けるくらいしないと、俺みたいな霊長目お人好し科ただし美人に限る属の坂本ヒロが通りかかったからよかったものの」
なにその生物分類。
「おお、お母さんやっぱり美人な顔立ちしてますねー」
猫に顔立ちとかあるのだろうか。そりゃああるのだろうけど、どんな顔が整っているのか人間の目に判別できるのだろうか。
彼が親猫の喉元をくすぐるように指でいじると、気持ちよさそうに目を細めた。彼もそれを見て無垢な笑顔を浮かべている。まるで何かを共有しているように、一匹と一人は、あの日を思い出させる生ぬるい風の中でじゃれ合っていた。
私はそんな光景を見て……見て――心がざわめくのを感じる。あんな子供みたいな表情をする人を久しぶりに見た気がする。
坂本くんが、その場を去ろうとしてもくっついてくる子猫を見て、もう一度抱き上げて腕の中に収めた。親猫は足元に居る。そしてあろうことか、彼はその状態のまま私と三歩分の距離まで来た。
明るい茶髪、にへらと笑っている顔、雑誌に載っていそうなコーデ、そこそこのイケメンであることから、受ける印象は『不誠実そうな男』だった。正直、苦手なタイプ。
それにしても、大丈夫かな? さっきの独り言、聞かれていないだろうか。聞かれていたら恥ずかしいなんてものじゃない。
「俺は坂本ヒロっす。よろぴー! ……で、第六感を持ち合わせているが故に大学に取りついた初代総長の幽霊に話しかけられてしまい、その対応を人に見られて不審に思われてしまっているお嬢さんは何者で?」
「…………」
見られていた。ばっちり見られていた。しかも変な勘違いをされている。
「……素晴らしい! 初対面の人同士の自己紹介タイムに無視する強靭な精神力! ……っくぅ~、泣けてくるわー」
空いている右手で目頭を押す坂本くん。
「あ、いや、無視したわけじゃなくて……」
恥ずかしくて反応できなかっただけです。
「私は、八重樫杏(やえがしあん)、経済学部の一年生です」
「お、んじゃ俺と一緒じゃないっすか! いやぁ、嬉しいっす。最近ちょっと不思議ちゃん系のお友達募集中でしたから」
経済学部は一学年、四十人しかいない。この前の歓迎会にこんな人いたっけ……?
「あの、私のさっきのあれは、……ただの独り言ですから。別に幽霊が見えるわけじゃないです」
「え? 何、ドントルッキングだった?」
「はあ、まぁ……」
「さっきからすごい! 『あ』とか『はあ』とか多様して返答に困っているのを隠さない正直な態度! ノーと言えない日本人の柔らかなノーサイン! ……やべーっすわ俺。初対面女子をここまでドン引きさせる会話展開しちゃってるよ。むしろこれも才能? あぁ、消え去りたい。空気に融けて地球の循環を肌身で感じてみたい。俺の涙で世界を水没させたい」
何か壮大な話になってる。
「何ですかね、やっぱ俺、ドン引きされる空気醸しちゃってる? この前も……ボウリングいった時なんですけどね、ほら、あれって四人まで名前かけるじゃないっすか」
「ええ……」
「名前書く時に『ヒロ1』『ヒロ2』って全部自分の名前書いたら店員さんに苦笑されちゃったんですよ。何ででしょうね……悔しいから隣のレーンも借りて一人八役ボウリングやってやりましたよ。一人一人にちゃんとキャラ付けすると楽しいですよ」
新しすぎるでしょ。
「た、多分……一人で行ったからじゃないですか……お友達とかは……?」
私が気まずそうにそう言うと、彼は一瞬だけ呆けた後、ははは、と乾いた笑いを漏らして視線を落とした。がしかし、何か思い付いたようにすぐ顔を上げる。
「成績優秀、運動神経抜群、イケメンの人気者を仮にAくんとします。俺がそのAくんと仲良くなって一緒に遊びに行くような仲になりました。俺は確かに楽しいですよ? でも、俺がAくんと仲良くならなかったら、きっと他の人が彼と遊びに行けたはずなんです! 俺は友達を作らないことで、他の人に友達をプレゼントしてる年中無休のサンタクロースなんですよ」
ぼっちの悲しい言い訳だった。クラスの交流が少ない大学制度の闇を垣間見た気がする。
「へ、へえ……物は考えようですね……」
さっきから会話の八割を坂本くんが占めている。どれだけお喋りなのだろう。しかも大半が訳が分からない。チャラ男のコミュ力、恐るべし。
こんな所で油を売っているわけにはいかない。私は一刻も早く授業に行かなくては。それに、やはりこの人のことは苦手だ。距離感がはかりにくい。
私が発する立ち去りたい空気を読み取ったのか、坂本くんが話しかけてくる。
「急いでます? もしかして一限取ってたりしますか?」
私は笑顔でごまかしながら、それでも目線は逸らしつつ首肯する。
「やっぱりかぁ……ごめんなさい、引き留めちゃって。皆忙しいっすよね。俺は特にやることないですから、こうやって外をぶらぶらするか、喫茶店でお客に壮絶な背景設定を考えるかしかやることがないんですよね」
どんな過程を経てそんな行動に落ち着いたのか。どちらにしろ、極度の暇人大学生ということだ。
「ま、俺も一限あるんすけど」
「暇人じゃないじゃない!」
あう。思わず素でつっこんでしまった。口を押えるがもう遅い。ああ、私のおしとやかなイメージさようなら……、と思ったが、彼は別段気にしていないようだった。
「うん、そゆこと。取り敢えずよろしくです」
ズンズンと一歩二歩と私に近づき手を差し出す。握手をしようとしたのだろう、しかし私はそれどころではない。
猫だ。彼が抱えている子猫と目が合った。
ひい、と声にならない叫びを上げるが、どうにもならなかった。そして、いつの間にか私の足元に忍び寄った親猫が体を足首に擦り付ける。
ぞぞぞ、と全身が粟立ち、血の気が引く。
「んなっ、ぎゃああぁぁ!」
おしとやかイメージが完全粉砕する声を上げて咄嗟に坂本くんを突き飛ばす。そしてそのまま全力で走り去った。
これが、坂本ヒロとのファーストコンタクトである。
結局彼を突き飛ばしたまま、私は一限の授業が行われている講義棟へ直行した。
二度と坂本ヒロくんに顔向けできない。今まで授業であまり見かけなかったし、学部は一緒でもクラスは違うのだろう。そうすれば顔を合わさずにも大学生活を送れるはずだ。がんばろう。
「やえちゃん、今日は大きな鞄持ってるんだねー」
本日の全ての講義が終了し、友人二人と教室を出た。廊下は、他の授業も一斉に終わったために人でごった返していた。
「うん、ちょっと今日必要なものでね」
私は張りつけた笑顔で濁す。自分の話をするのはあまり好きじゃない。
「えー、何が入ってるの?」
さっきから私に声をかけているのは鈴木彩乃さん。大学からの友人であり、五月である今、一か月間友情を育んだ友人である。大学入学に合わせて染めたであろう明るい茶髪にはピンクやらヴァイオレットやらの色合いが混ぜてあるのだろう。一言で明るい茶髪とは言いづらい色である。そのおしゃれなミディアムヘアを指先でいじりながら、私に質問をぶつけてくる。
「パソコンとかだよ」
にっこり。
「えー、なんでなんで? これからパソコン使う授業でもあるの?」
興味深そうに聞いてくる。私の笑顔の牽制はきまらなかったらしい。
「ううん、今日、引っ越しするから、送りにくい荷物はこうやって持ってきたの」
それでも私はなおも笑顔で受け答えをする。自分の印象を崩さないように、出来るだけ表面的に。
「引っ越し?」
「鈴木。さっきから質問し過ぎっしょ。やえ困ってんじゃん」
もう一人の友人から助け舟が出た。
彼女は佐々木みよこさん。髪はストレートの艶立つ黒髪で、特徴的な大きなピアスをいつもしている。今日は電球型であった。大体ギターを背負っていて、軽音サークルに入っているらしい。鈴木さんはきゃぴきゃぴしているが、佐々木さんはサバサバしている。見た目は少し怖いが、話せば優しい人である。
大学に入ってから一か月、この三人で行動するのが常になっていた。
「別に困ってはないよ、佐々木さん。でもありがとね」
「いーよ、そんなん」
「なになに!? ウチ、悪者的な? ちょっと冷たいー」
「そうじゃないって。お前、前にやえが引っ越しするって話してたの忘れたのか?」
「えー? あー……?」
どうやら思い出せないようだった。
私は補足説明をする。
「鈴木さん。今まで私は実家からこの大学に通っていたんだけど、アパートが見つかったから今日そこに引越すの。荷物は大体送っちゃってあるからいいんだけど、何か管理人と面接みたいのしなきゃいけないらしくて」
「あー! 思い出した思い出した! 今まで一時間半かけて通ってたんだっけ? 大変だったね。どの辺に引越すのん?」
「徒歩で十五分くらいの場所だよ。これから行くんだ」
「めっさ近いやん! なになに、片付いたら超遊び行くし」
佐々木さんが気付いたように口を開く。
「あ、これから行くんか。それじゃ一緒に遊びに行けないな」
「遊び?」
私が佐々木さんに聞き返すと、鈴木さんが答えた。
「ささちゃん、今日駅前の方に買い物に行く予定だったらしくて、それに便乗して遊んじゃえ! っていう計画だったんだけど……やえちゃん行けないんだね……」
鈴木さんはオーバーリアクション気味に肩を落とした。
「そっか。私も行きたかった。……ごめんね。二人で楽しんできて」
正直、引っ越しという断る理由が出来てラッキーだと思った。私は、こういう遊びの誘いは断ることにしている。楽しむなら一人で行かないと楽しめないからだ。
誰かと一緒にいても、気を張るばかりでちっとも楽しくない。友人関係を維持するというのは、私にとって非常に労力を要するのである。
猫宮荘。それが私の引っ越し先である。ここら辺では、何故か知らない人はいないほどに有名であるらしい。
が、しかし。
重い肩掛け鞄で肩を痛くしながら、スマホを片手に歩くこと十五分。
「ここら辺のはずなんだけどな……」
GPSが荒ぶっているおかげで正確な場所が掴めなかった。
日が傾き始めた街は賑わい始めている。そもそもこんな賑わいを見せるような通り沿いにアパートなんてあるのだろうか?
私は入学祝いとして買ってもらった腕時計を確認する。引っ越し先の管理人さんとの約束の時間に遅れそうだ。
はあ、今日は災難続きだ。
「憧れの一人暮らしは目前なのに」
とりあえずうろうろしてみるか……。
そもそも一人暮らしが入学と一か月ずれたのには理由がある。母親が反対したのだ。実家でも部屋に閉じこもりまくっている私が一人暮らしを始めたら学校に行かなくなるのではないか、友人が一人もできないのではないか、と心配していた。
そんなの、杞憂なのにな、と思う。
良い子にしていたのに、信用ないなぁ。どうしてだろうか。やっぱり部屋に閉じこもってばかりいたのがいけないのだろうか。確かに高校の時はほとんど人と関わらなかったけど……自分の望んでいた結果だ。一人をエンジョイしているのである。
引っ越し先は母が決めることになった。それが妥協点であり境界線になることが分かったので私は了承した。
どんな場所なのだろうか。間取りも何も聞いていないので少し楽しみ――
と、思考に耽っていた瞬間。
ビシャア、と音がして、頭のてっぺんを何かで押さえつけられたかのような圧力が一瞬あり、私はずぶ濡れになった。
「は……えぇ!?」
な、なんなの!?
状況が掴めない。周りの人が私に注目していた。私は怖くなったり恥ずかしくなったりと、混乱する。落ち着け落ち着け。まずは現状確認。
鞄は濡れていないようだ。パソコン、セーフ。
何だろう、局所的大雨? 局所的過ぎるよ……。
私は原因である上を見上げる。
今日は何かと頭上を気にすることが多いなと思っていると、
「あっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか? ちょっと待っててください!」
建物の二階部分から誰かが顔を出して何か言ったのが確認できた。逆光になり、顔までは分からなかったけど。しかし、聞き覚えのある声だ。
私の頭上に水を振らせたのはどんな建物なのだろうと確認すると、三階建てのマンションだった。一階部分に『猫カフェnatsume』と看板が下げてある。
「…………猫カフェ……?」
敵のアジトじゃないですか……。
どたばたと外の階段を下りて来る人影があった。
「大丈夫ですか!? ……ってあれ?」
「んむ?」
慌てて外側の階段から降りてきたのは、私が二度と会いたくない人物、坂本ヒロくんであった。
気まずい。最高に気まずい。今朝、突き飛ばして、しかも何のフォローもなしにその場を去ってしまった。弁明の余地もない。私が謝ろうと決意を固めた時、彼が口を開く。
「まさか霊感少女杏に再び会いまみえることができるとは! 坂本ヒロ、昂ぶります! 魂が震えます!」
「だから私に霊感はないです」
ドラマのタイトルみたいに呼ばないでください。
「分かってます。冗談っすよ。ただの独り言ですよね? 独り言サークルの長をやってるんでしたっけ?」
「やってません」
そんなサークルがあるわけないでしょう。
「あー、……それはこの前授業で隣の席だった篠原くんの話だった」
あったんだ!
「……随分ずぶ濡れですね。多分、晴れにも関わらず『久しぶりに実家に帰ったら父の浮気現場を目撃してしまって雨の中家を飛び出し、濡れて狙わずにも艶めかしくなる視聴者へのサービスショット』をやりたいのか、俺がさっき花の水やりの際にこぼしてしまった水を運悪く浴びてしまったのかだと思うんですけど」
「後者です。私に壮絶な環境設定を考えないでください」
にこっ。こんな時も笑って許すのが淑女。
「え!? マジで!? 本当にごめん……」
何で驚く。前者の可能性が寸分でもあると思っていたのだろうか。
それにしても、こんなにずぶ濡れになってどうしよう。約束の時間まであと五分しかないし……。
その時、坂本くんが驚くことを口にした。
「風邪引いちゃいますよ、うちここなんでシャワー浴びてってください」
「え? シャワー?」
「なん……ですと!? パスカルの原理に基づいて十九世紀にイギリスで発明された、あのシャワーを知らないんですか?」
「いや、そこまでは知らなかったけど、知ってるよ……」
ああ、調子が狂う。私がつっこみ防戦一方である。別に責める気もないが。もっといつもの私なら全ての状況をさらっと流せるはずなのに、彼相手だと会話の主導権をまるまる握られてうまくいかない。
「なんだ、びっくりしましたよ。それじゃ行きましょう」
「いや、だから私は仮にも女子、そして坂本くんは男子だよ。家に上がってシャワーを借りるなんて、普通できないって」
私がそう言うと、彼は困ったように眉を下げる。
「……あー……そういうもんなんですか。俺、人との距離の取り方がよく分からなくて、すいません」
まるで私に気を遣っているように笑顔を残し、寂しそうに目を泳がせる。
なんだ、坂本くんってこんな顔もするんだ。……結構普通のところもあるの、かも?
「でも、そういうの気にしなくて大丈夫ですよ? 俺の家には愛すべき彼女、田中さんがいますから。シャワーを借りるだけなら田中さんも気にしないはずです」
……え?
ありえない。
大学始まって一か月で彼女と同棲とかありえない。……いや、これが普通なのだろうか? 私は人と距離を取り過ぎてとてもじゃないけど彼氏なんていたことがない。恋愛情事には疎いのであった。でもそれを抜きにしたって……まだ学生だし。
ドライヤーで髪を撫でつけながら乾かす。毛先の癖が強いのでブロー時に注意が必要なのだ。堂々巡りの思考を中断する。
「で、何普通にシャワー浴びてるんだ、私」
あの後ぼうっとしている間に手を引かれ二階に入ると、リビングが広がっていた。一般家庭の居間よりも少し広い。天井も高く、開放的だった。そしてリビングからさらに上へと階段がのびていて、登った廊下の先、突き当りが浴室だった。なんだか変な構造の家だ。
「俺はちょっと田中さん探してくるから。杏はシャワってて、よろぴー」
とのことで、彼は三階には上がらずに待機。私は三階でシャワーを浴びていたわけである。
「ワンルームかと思ったら、普通に家じゃん……」
時計を見ると五時半であった。引っ越し先の管理人さんとの約束時間から十分もオーバーしている。私は半ば開き直ったかのような投げやりな気分だった。
髪を手櫛でおおざっぱに整え、ドライヤーを元の位置に戻す。遅れてしまったものは仕方ないが、こんなところでゆっくりしているわけにもいかない。猫宮荘の場所が分からない今、さっきの彼に聞くしかないだろう。猫宮荘は有名であるらしいし、彼は猫宮荘の周辺だと思われるここに住んでいるようだ、それなら知っていてもおかしくない。
決意して二階の居間に戻ると、テレビを見るように設置されたであろうソファに誰かが座っていた。私の足音で気が付いたのが、こちらを向き、立ち上がった。
真先に目につくのはひらひらのピンクのワンピース、そこから綺麗な白い足がのびていて、女子の私でも少しどきりとしてしまう。髪は明るい金髪で、まるで作り物のような光沢を放っていた。
そんな明るい外見とは裏腹に、目には生気が宿っていないように空ろに思えた。三日三晩テレビを見続けたかのようなくまがあり、瞼も眠そうに半分落ちている。
「えっと……こ、こんにちは」
とりあえず笑顔で挨拶してみた。この人が田中さんだろうか?
「こんにちは」
その低い声に思わずぎょっとしてしまう。
私の反応に納得したのか「あぁ」と言って、自分の頭に手を伸ばし、するりと――
金髪を取り外した。
「え……?」
中からはぎりぎり地毛なのだろうと思えるナチュラルブラウンの髪が覗く。男だ。男がいる。男のくせに脚が綺麗過ぎ。
女装趣味の持ち主なのだろうか。というか、誰だ。
「あー……えっと、今日は有子と一日交換やってて。有子ってのは僕の双子の妹なんだけど。間違えないでね、妹だ」
やけにのっそりとした喋り方をする。口を動かすのもだるそうである。
「うーんと、まずは自己紹介……かな。僕は七海悠之助(ななみゆうのすけ)。趣味は漫画、ゲーム、それに下着泥棒」
「えっ」
まさかのカミングアウト。
「好きな女性のタイプは小学生」
ロリコン……。
「ん? そんな心配しなくても、二次元の小学生には興味ないよ」
「……?」
それって三次元の小学生に興味あるってことでしょ!? アウトだよ! なんでちょっとしたり顔なの?
「え? SかMか? 参ったな、そんな質問してくるなんて」
聞いてない! 知りたくもない!
「そうだなぁ……。迷うね。どちらかと言えば、かろうじて、ギリギリで――ドMかな」
どことギリギリだったの!? 『ド』って言ってるじゃん!
……そしてこのキメ顔、何なの。
「なんだろうさっきから、女装趣味で下着泥棒でロリコンでドMの変態野郎を見る目つきで僕を見ているみたいだけど。心外だな」
「そんな具体的な目つきしてないよ! それに自業自得でしょ!」
「おお、初めてつっこんだ」
しまった。我慢の限界でつい声に出してしまった。坂本くんの時と同じミスだが、七海くんも彼同様、特に気にする様子もなく続けた。
「私は、八重樫杏、です」
「ふうん、さっきはびしょ濡れになって大変だったね。杏ちゃん、だっけ?」
「あれ?」
どうして知っているのだろう。見ていたのかな。
「まあまあ、とりあえず座りなって」
そう言って彼はコの字になっているソファーの一方の端に座る。私も向かいに座った。
いや、ゆっくりしている場合じゃないんだけど……。
「……」
適当な言い訳で坂本くんを呼んでもらおうと思ったが、七海くんが私をじぃっと見つめてくるので言い出せなかった。何? なんか顔についてる? こめかみに冷や汗が一筋流れ、間が煮詰まってきた頃、彼は口を開く。
「それにしてもびっくりだよ。まさかヒロが女を連れ込むなんて」
「ぶふっ」
思わず噴き出すものもないのに噴き出しそうになってしまった。
「ち、違いますよ、そんなんじゃないです。私はシャワーを浴びにお邪魔しただけで。大体、彼には田中さんって彼女がいて同棲しているんでしょう?」
「田中さんかぁ……。でも彼女、昨日は一晩中、僕の部屋にいたけどね」
「えぇ!?」
浮気……? というか、七海くんは何者なの? ここに住んでるの?
沸騰した水のように沸々と湧きあがる疑問に成す術もなく固まっていると、
「にゃあ」
と、背後で鳴き声がした。ぞわぞわと全身の鳥肌が立ち、体から力が抜けて動けなくなる。振り返らなくても分かる。私のパーソナルスペースに、奴がいるのだ。
いつから、そこにいたのか。祖父の家でのように、猫はいつの間にか私の領域に侵入してくる。
鈴の音がして、ソファの肘掛に黒猫が颯爽と下りてきた。しっぽをゆっくりと揺らし、足を追って座った。
「ひいっ」
な、なんで……なんでよりにもよって私の隣に来るの……。目を瞑り、猫が立ち去ってくれることを祈るが、一向にいなくなる気配がなかった。
「おやおや、猫は苦手?」
「は、はいぃ……」
七海くんは「へえ」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なんとかしてくださいよぉ……」
半径二メートル以内に入られたら私にはもうどうしようもない。動けないので、外的要因に身を任せるしかないのだ。
しかし七海くんは助けてくれる様子がない。ただにやにやと私を見ているだけだ。この人、ドSじゃないですか!
膠着状態に陥っていると、廊下に続いているであろう奥のドアが開く音がする。
「あれ? 八重樫さんもうあがってたんすね。……あ! 悠之助までいるじゃないですか、やだー!」
現れたのはヒロくんだった。七海悠之助くんを見て顔をしかめる。
「おや、ヒロ。僕にそんなに会いたかったの?」
一方で七海くんはにやりとからかう笑みを浮かべた。いや、いいから取り敢えず猫をなんとかして……。
「んなわけないっすよ! 俺が花の水やりしてたら七海妹の格好して抱き着いてきたせいで慌ててジョウロの水外にぶちまけちゃったんじゃないですか! お前のせいだー! このシスコン! 犯罪者予備軍! 睡眠不足!」
あれ……それじゃあ、昼間から着衣水浴びしちゃったのも、今猫が傍にいるのも、全部七海くんのせいなんじゃ……。
責める視線を向けると、彼はまるでそれを意に介さないようにてへぺろりん、と舌を出してウインクした。あ、ちょっと殴りたい。
「ヒロ。シスコンで犯罪者予備軍というのは、まぁアレだけど。睡眠不足というのは訂正させて。このくまは別に睡眠不足のせいじゃない」
気になるのそこなんだ……。
「お前のくまのことなんてどっちでもいいんです、俺は田中さんを探しに来ただけ」
「田中さんなら、そこにいるよ」
七海くんが指さすのは――私。
え? ……私が田中さん……ってどういうこと? 私が坂本くんの彼女ってこと? まさか、坂本くんは私に好意を……? 家に連れ込んだのもそういうアレで……。
「あっ、田中さん! そんなところに!」
坂本くんが私を見て、目を血走らせる。
「え? え?」
困惑する私を無視し、彼は私に飛びかかってきた。しかし七海くんが間に入り、咄嗟にローテーブルを盾にしたので彼は志半ばで撃沈した。
音に驚いたのか、私の隣にいた黒猫がりんりん、と鈴を鳴らし、ドアの隙間から廊下に出て行く。……助かった。
七海くん……私をからかうばかりの意地悪な人ってだけではなく、こうやって守ってくれる部分もあるんだ。
倒れた坂本くんが起き上がり、頭を抱えながら猫が出て行ったドアに向けて手を伸ばす。
「あぁ、田中さん! 待って! 俺ともふもふしましょう!」
「ヒロは田中さんに干渉し過ぎ。猫は集団性はないんだから、干渉されるのは嫌がるよ」
……ん?
「でもですよ、でもですよ! 田中さんはツンデレって可能性があるじゃないですか! 一人が寂しくない動物なんていません!」
……おや?
「現にヒロは田中さんに嫌われてるでしょ。昨日だって僕のベッドで寝たんだから」
……あらあら?
「な……んだと……悠之助。お前がそんな奴だったなんて、田中さんは俺のペットなのに!」
「って、田中さんって猫かよ!」
「………………………………………………………………………………………」
はっ。
気が付いた時にはもう遅かった。私の全力のつっこみによってこの部屋に静寂がもたらされていた。例えるなら三点リーダーが三十三個続く程の静寂。
私をなんとも言えない表情で見つめる二人。やめて、冷え切った空気が皮膚からしみ込んで痛いから。その、『へえ、こんなつっこみするんだ。意外』って目、やめて。
沈黙を破ったのは、ドアからの怒声だった。
「ドタドタやってんじゃねえ! 店まで響くだろうが!」
乱暴な口調だが、女性のものだ。ドアが勢いよく開け放たれる。
センターで分けられた赤髪、抜群のプロポーション、化粧の上手さ。見た目年齢二十四の大人の魅力溢れるその人は、新緑色のエプロンをつけて後ろで髪をくくっていた。腕を胸の前で組み、眉をひそめて私達三人を上から目線で見下ろす。誰だろう。ここに住んでいる人だろうか。
先ほどとは違う、蛇に睨まれた蛙のような緊張した空気が張り詰める。ちらりと二人を見ると、瞬きが多くなり顔中に汗をかいていた。
「で? 誰が暴れてたんだ?」
しばらく沈黙する私達であるが、こういうのは犯人が名乗りを上げないと解放されないのは小学校で学習済みである。
それを分かっているのだろう、悠之助くんは、覚悟するように唾をのみ込み、呼吸を整えてから言った。
「……杏ちゃん。いきなり一人プロレスごっこはだめだと思う」
「で、ですよね。まったく八重樫さんが一人シャイニングウィザード始めた時はどうしようかと思いましたよ」
私!? ここで私のせいにするの!?
赤髪お姉さんが「あぁ?」と私を睨みつける。咄嗟に視線を外した。怖い怖い怖い。
「お前さんが、八重樫杏か。なんだ、もう来てたんだな。店の方で待ってたんだけどよ」
しかし、聞こえてきたのは拍子抜けに、普通の声色だった。
「どうも、お邪魔してます。……あれ、どうして私の名前……」
「そりゃあまあ、親御さんから聞いてたからな。それじゃ、さっそく始めていこうか。……ほら、男共、私が戻るまで店入っとけ」
「……?」
二人はよく分からないというような顔をしていたが、この部屋から立ち去れることに食い付き、いそいそと玄関へ向かって行った。
そして、二人きり。
初対面で二人きりというのは、いつまで経っても緊張するものである。
というか、さっきから次から次へと巻き込まれっぱなしであるが、私は早いところ猫宮荘へ向かわなければならないのだ。そろそろ本当にここを出ないと。
なんて切り出そうかと考えていると、夏目さんが言う。
「あたしは夏目あかね。猫カフェnatsumeのオーナーであり、この猫宮荘の所有者でもある。ふふん、すごいだろ?」
「え? 猫宮荘……?」
猫宮荘。ネコミヤソウ。
それは私が今日引越すはずで、そしてこれから向かうはずの場所だ。管理人さんとの面接があるから、早く行かなくてはいけない。
「なんだいその顔。八重樫杏だろ? 話は聞いてるよ。このシェアハウス、猫宮荘に入居希望なんだろ?」
おかしい。
考える。
「えっと、猫宮荘ってどこですか?」
「ここだ。二階と三階が猫宮荘。一階はカフェをやらせてもらってる」
「……それで、シェアハウスっていうのは……?」
「他人同士が共同住居エリアで生活するスタイルの賃貸アパート、かな。まぁ、とは言っても各部屋には鍵がかかるし、三階は女子階になってて男子禁制だから。その辺は安心していいぞ」
「……さっきの二人は?」
「坂本はあたしの従弟で東帝大の一年生、七海は法央大学の一年生。二人共、猫宮荘の住人だ。で、私もここの住人ってわけ。今のところあと二人住人はいるぞ。良かったな、仲間は多い方が楽しい」
なるほど。なるほどなるほど。
……なるほど。よく分かった。
「うそ……でしょ……」
こうして、私の猫宮荘の生活は始まろうとしていた。
いや、始めてたまるか。私は今日、ここを出て行く意思を固めた。