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【銃魔のレザネーション】第三章『宮中異変』
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「銃魔のレザネーション」のシナリオを担当した
カルロ・ゼン自らがノベライズ!ゲームでは描ききれなかった戦争と政争の裏側が明らかに。
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前回までのお話はこちらから第三章 『宮中異変』セイムとは、議会であり戦時における国王大権を発動する唯一の機関である。厳密に言うならば形式の上では『国王大権の代行、輔弼、助言を司る』に過ぎないのだが、事実上はセイムの承認なくして何一つ機能しないといってよい。故に、誰もが言うのだ。セイムは、王の大権すら制御しうる、と。その強大なセイムは、国家の非常時において二つの権能を発揮しうる。一つは、国王の要請に応じ必要な兵力を呼集する軍制に関する権能。もう一つは、必要とあらば大半の費用を徴収する徴税の権能である。革命軍との会戦により膨大な有翼魔法重騎兵を喪失したコモンウェルス。軍の求めに応じ、セイムはついに正規軍に歩兵部隊を設立することを決議する。もっとも、その人事についてはセイムにおいて小さからぬ波紋を内部では招いていた。摂政ヤーナの任じた議会徴募兵指揮官の人選を巡り、宮中では幾人もが眉を顰めたのだ。なにしろ、『銃』などという武器を手にして戦う部隊を率いることなどコモンウェルスの常識でいえば左遷も同然だ。そんな地位へコストカ・ポルトツキー伯爵を任じる、という衝撃は小さくない。勇猛さで鳴らすポルトツキー封建騎士団を解体し、伯爵にペガサスよりの下馬を強いる措置は内外に絶大な波及効果を及ぼした、というべきだろう。同時に、それは決意表明でもあった。『勇者を下馬させてまで、銃兵を重視している』。周囲が望むと望まぬとにかかわらず、コモンウェルスの軍備に関し、ヤーナ流とでもいうべき改変が断行されていく、と。理由は至極単純だろう。シュヴァーベン革命軍も、コモンウェルス軍も、まだまだ根を上げるには早すぎるのだから。そんな折に、コモンウェルス南方において勃発した王位僭称者の蜂起。ただでさえ右往左往して物の役に立ちそうもなかったセイムは、ここにおいて完全な無能を示す。鎮圧か、対話か、討伐か、はたまた……と議論が迷走していく中で、結局、形式的にセイムへ諮ったヤーナ摂政が討伐へ出征。端的に言ってしまえば、勝利自体は確約されているも同然であった。なればこそ、自分の執務室で情勢を追った報告書を手に、宰相ことモーリスは苦笑していた。これほどヤーナ殿下の優位が確定している状況にあってすら、見たいものしか見ない連中は、『ヤーナ陣営』と『カール陣営』を両天秤にかけるという愚行を平然と働いている。僭称者カールのところへ、誼を通じようと人、手紙、金を送っている連中は、戦後の後始末をどうするのかな、と愉快になるほどだ。「やれやれ、カールとかいう愚物を愛でるセイムのご同輩らの気がさっぱり知れませんよ。同類、相哀れむというやつですかね?」モーリスの読むところ、蜂起し、王位を僭称するカール・ソブェスキ閣下には知性が足らず、軍事的才覚が人並みに過ぎず、止めに正統性すら怪しいのだ。これで、曲がりなりにも王位を僭称できる厚顔無恥さだけは評価するべきと反論されれば一理はあるかもしれない。けれど、それも怪しいだろう。モーリスの見たところでは『心の底から自分にその資格がある』と信じ込んでいる愚かさが故の愚行。結局のところ、セイムの愚か者と最底辺決勝戦を戦わせうる程度の人物だ。「とはいえ、これで賽は投げられた。鎮圧できる叛乱というのは、往々にして鎮圧者を強力にしますからねぇ」セイムが手をこまねている間に、問題を解決。内実がどのようであれ、ヤーナ摂政の実権と回り回ってソブェスキ王家の権威は跳ね上がることだろう。けれど、と彼は苦笑する。セイムの議員というのは、プライドと肥大したエゴの塊だ。王家の権威などというものを認めよといわれたところで、もとより不承不承なほど。まして、曲がりなりにも敬意を示していた歴代の為政者と異なり……ヤーナ摂政はセイムを完全に形式的な存在として遇している。無論、法律上は瑕疵がない程度に重視してはいるのだろう。だけれども、実権も与えられず、政策にも参与させてもらえないという点がプライドだけが高い人間をどれ程苛立たせるのかをヤーナ殿下は軽視しすぎだ。これで、セイム議員にとって都合の悪い書簡、証人を叛乱鎮定時に確保すれば、ますます『議会対策』を怠ることになるだろう。セイム側も、反発しようにも首根っこのところを抑えられているとなれば、表向きは沈黙せざるを得ないだけに、却って反感を募らせるのが目に見える。「あげく、これですか」ぺらり、と懐より取り出すのは先日の外交会談の記録。自由都市同盟元老院のレオナルド・レダン議長その人と、コモンウェルスの摂政であらせられるヤーナ・ソブェスキ閣下の会談だ。本来であれば、公式の外交会談としてセイムの典礼関係者を活用し壮麗な儀式を司るべきであるだろう。けれど、二人とも徹底した実利主義者らしく公式の晩餐会を投げ捨てての実務者協議。セイムに対して通知されるのは、貿易再開と協調路線を王政府が選択したという事後の通知のみ。もちろん、とモーリスはヤーナ摂政の意図を理解はできる。自由都市同盟とコモンウェルスの関係は、入り乱れているのだ。それだけに、セイムという愚者の会議にゆだねることで長引かせたくもなかったのだろう。そこまでは、大いに共感できるが……だとしても後始末なりアフターフォローなりはしてもいいだろうに、ヤーナ閥とでもいうべき面々は考慮すらした素振りがない。「無理もありませんがね、貿易の利を『賄賂』に使わない時点でセイムが激発寸前だということに無頓着なのはさすがに危険かな?」自由都市同盟との貿易協定で貿易量が激増するというのは、コモンウェルス全体にとってみれば大変に好ましい話だ。しかして、世の中にいる人の大半は、『自分の取り分が10増えるから、嫌いな奴の取り分が100増える』という類の協定には心の底から反発する。今回の協定にしたところで、王政府主導である。それだけに、セイムの懐へ流れ込む取り分はさほどでもない。個々の議員が掠め取れる量ともなれば、正しく微々たる雀の涙も同然程度になるだろう。挽回のために、セイムが主導して貿易を発展させる……というのもまた難しい。なにしろ、セイムと自由都市同盟の関係もまた簡単ではないのだ。「敵というには親しすぎるが、友というには険悪に過ぎ、さりとて隣人であるがゆえに無視も許されない」コモンウェルスの強大さを背景とした栄光ある孤立とでもいうべき、一国主義。ヤーナ殿下閥が、コモンウェルス内部で協調する必要性を見出さず、それが故に国内での調整や妥協が下手なのと似たようなもの。大多数のコモンウェルス貴族は、『他国』と対等に交渉するという必要性を見出してこなかっただけに、この手のことがえらく後手に回っている。「そんな隣人相手に交渉できるセイムに属する政治家は、私ぐらいでしょうからねぇ」とどのつまり、ヤーナ殿下とその周辺がどう考えているにせよ、セイムの政治力学でいえば、モーリス・オトラント『宰相』は宰相位としてヤーナ・フランツ体制に奉仕するという一事をもってヤーナ閥に『近しい』とみなされている。頼みたくはないだろう。そして、それだけで交渉を諦めてしまう程度の人材しかいないのがセイムの現状でもあるのだ。……ヤーナ殿下が匙を投げたくなるのも気持ちはよく理解できる。「正直に言えば、自由都市同盟なぞ話が通じるほうでしょうに。やれやれ、我が親愛なる英知を誇りしセイム議員諸氏は言葉を失ったのですかね?」モーリス自身の経験則から言えば、むしろ一番簡単な部類でもある。実際のところ、両国の関係は敵どころか積極的な交流すらあるほどなのだ。一例としてみれば、自由都市同盟の自由商人らはコモンウェルス各地で歓迎されている。逆もまた真なりであり、コモンウェルス市民は優秀な魔導技術の運用者として自由都市同盟の各都市で大手を振って生業を営んでいる。片方は、政体として完全な都市共和制であり、他方は完全な選挙王政。市民という言葉にしたところで、近似した概念ながらも差異が伴うがゆえに、微妙な距離感が常に付きまとうというのも言葉の綾。「頭を下げれば、商人とて利益のために飛びついてくるでしょうに。頭の下げ時を知らない人々は、これだから困る」結局のところで問題となるのは『セイムの貴族』と『自由都市同盟の豪商ら』が感情的にこじれているという一事だけなのだが。けれど。あるいは、とどのつまり。問題なのは、感情なのだ。その事実を、モーリス・オトラントはほどなくして端的にヤーナへ説かざるを得なくなっていた。それは、アホことカール・ソブェスキ閣下の叛乱が見事に粉砕され、南方情勢の緊張がオルハン神権帝国との間で高まっているある日のことだった。珍しくヴァヴェルの宮中に足をヤーナ摂政一行が運んできた、と知らされた際に嫌な予感はしていたのだ。形式にせよ、ヤーナ摂政は『きちんと、セイムに報告だけは行う』のだから、何がしか報告すべき事態が起きているのだろうとモーリスも察しは付けている。例えば、というべきだろう。『自由都市同盟』からの『援軍要請』だ。同じくシュヴァーベン革命軍を敵としているとはいえ、自由都市同盟は『貿易相手』であって、同盟相手とまでセイムの議員らは認識したがらない。対等な同盟、などと口に出すことも憚られる始末なのだ。「率直に申し上げます。摂政殿下、グダンスク港への派兵は思いとどまっていただけますでしょうか?」「モーリス、説明」「グダンスク港は、元々コモンウェルスを離反した都市です。その際に、セイムにおいて有力な閥の利害と正面から衝突しており……」宜しいですか、と面子や利害の説明に持ち込みかけていたモーリスを遮るヤーナは怪訝そうな表情だった。「ストップ。何十年前の話をしているの?」「たかだか、何十年でございますが」分かった、という言葉と共にヤーナは話題をそらすように問い返してくる。表情からすれば、理解はしていないのだろうけれども、論点を変えることにされたらしい。「……聞きたいのだけど、グダンスク港が何故離反したのか知っていて?」「卑劣な自由都市同盟の銅臭にやられました者どもが~」「ストップ。建前はいいから、真相を説明しなさい」困りましたな、と嘯きつつもモーリスは随分と前に調べていた事実を口にする。「統治していた家系が断絶したことをいいことに、接収しようといくつかの閥が動き出したのはよいのですが。どうやら、グダンスク辺境伯家の断絶は『毒殺』だったようで」「下手人は?」「さっぱりです。しかし、『高度な魔法毒』であり『呪殺』を併用したものであった、と」病気に見せかけるようにして、だんだんと食欲を削ぎつつ体を衰弱させしめる魔法毒と呪いの類。更に付け加えるならば、お家断絶前のグダンスク辺境伯家に仕えたお抱え侍医のうち、天寿を全うしたといいえる医師は一人も見つかっていない。まぁ、典型的な陰謀があったのだろう。「断絶する前は、辺境伯を務めたほどの名家よね? そんなところの魔法防御を抜ける下手人が特定できない、と」「不思議なこともございましたものでございます」嘯きつつも、内心ではつくづく同感だった。「私に言わせてもらえば、当時のグダンスク辺境伯家の家臣らが『市民蜂起』という建前で自由都市同盟に離反したのも道理よ。だから、こちらから殆ど攻め込んでいる記録がないのね?」「はい、摂政殿下。その通りかと」「で、当時、あほなことをやらかした連中はどうしたのかしら。ひょっとしてだけど……未だにセイムで大きな影響力を保っていたりする?」良いところを抑えた質問であった。知性はさておき、辺境伯家を脅かせるほどの権勢がある閥。たかだか数十年で没落すると断言することは、とてもできやしない。それどころか、というべきだろう。現在に至っても、真相不明と公式に言わしめる程度には影響力も強いのだ。「恐れながら、臣といたしましては……御身を忠心より案じまする、卑小な私めの不安をお汲み取りいただけますれば、幸甚でございます」「戯言はほどほどにしなさい。兵は出す。出さざるを得ない」「……摂政殿下の御意に従いまする」故に、不承不承という表情でモーリスは頷く。軍事的にも財政的にも、自由都市同盟との協調路線を放棄すれば、それこそシュヴァーベン革命軍とやらに蚕食されかねない。従って、出兵は既定事項なのだろう。なればこそ、逆説的ながらモーリスとしては楽しい祭典の仕込みもやりようがあるのであるが……とはいえ、一言だけ付け加えておく程度には誠実な陰謀家でもある。「ですが、ヤーナ摂政殿下。留守を預かりまする宰相として言上つかまつることをご容赦くださいませ」「続けなさい。なに?」「臣の影響力をもってしても、セイムの殿下に対する敵愾心を抑え込むことは不可能になりつつあります。グダンスク港へ出兵なされますると、遅かれ早かれ、『セイムにとって都合の良い人物』が求められることになるかと」「……私も、あなたも、フランツも、挿げ替えられる、と?」「あくまでも、可能性にございまするが」恐ろしいことに、可能性がございますとだけ伝えておけば最低限の警戒はしてくれることだろう。「ふん、あなたがその首魁じゃないことを祈るばかりね。ちがって、モーリス?」「なんとも、震え上がるばかりにございます。臣には、夢にも思いつかない暴挙にございますれば」「笑って言うな。さて、もういいかしら? 援兵を連れて行かなければ」「はっ、ご武運を」◇それから少しばかり、時がたったある日のことだ。「セイムの連中、グダンスク港の戦勝でついに我慢できなくなりましたか。まぁ、連中にしてはよく我慢したほうと褒めてあげるべきですかね?」モーリス・オトラント宰相は来るべきものが来たなぁ、と嗤っていた。グダンスク港での勝報と、自由都市同盟との関係深化。まことにもって、目出度い限り……と本来であればコモンウェルスの国益上の配慮からセイムとて言祝ぐべきなのだろう。けれども、セイムの議員を突き動かしているのは理屈ではない。利益配分機構としてのセイムに対し、正面から泥を塗るも同然の行為をヤーナ・ソブェスキ摂政殿下はなされてしまっている。そもそも、フランツ王の即位に際しても貴族らの特権、慣習的権利に対する尊重を神輿に語らせていない時点で、ヤーナ摂政の人気は極めて低い。アッシュ・イグナス・オトラントの三辺境伯がこぞって王政府を支持しているがゆえに、表立ってこその反発は出ていないものの、逆を変えれば兵権を握る有力な面々の武威によって無理やりに静謐さを保っている危うい均衡でもある。致命的なのは、モーリス自身が当主を務めるオトラント辺境伯以外の辺境伯家はさほど閥を意識して根回しを得意とするタイプではない、ということだ。良くも悪くも、辺境防衛のために自己完結してしまっている。おかげで、というべきだろうか。ヤーナとその指揮下の面々は、セイムに漂う雰囲気に対する鋭敏さが欠落と形容してもはばかりがないほどに払底している。悪意についてだけは、ヤーナ殿下は実に平凡だとモーリスは笑い出したいほどであった。あの方は、能力と意欲が反比例している。それだけならば珍しくないだろうが……いい意味で反比例しているともなれば実に珍しい。「それでいて、性格そのものは……しごく平凡だ。感性は凡人のそれというほかにない」口に出してみれば、いやはや。これ以上に適切な形容もできないのではないだろうか、とモーリスは苦笑してしまう。観察する限りにおいて、ヤーナ・ソブェスキ第三王女というコモンウェルスの摂政は不思議と矛盾に満ちている存在だ。彼女の望むものは、自分の小さな幸せ。可愛いものを愛で、まったりと趣味に浸り、お茶できる程度の生活だろうか?庶人ならば、好ましい隣人だろう。しかして、彼女はコモンウェルスにおける最大の権力者だ。その気になりさえすれば、彼女はフランツ王から簒奪すらなしうるに違いない。その後の統治がどのようなものになるかはさておくとしても、だ。王位には手が届く。普通ならば、モーリスとて遊びがてら誘惑の囁きでも行っていただろう。自重したのは、ひとえに彼女の性格を見極めるにたる距離に立っていたからだ。彼女は、フランツを弟として大切にしている。そして、弟の手にしているものを奪おうという発想には嫌悪すら抱くだろう。エゴを極限まで肥大化させるのが常識ですらある立場にありながら、依然としてそのような人格?世の中には、自分にすら予想が付かない出来事もまだまだあるのだ、とモーリスをして驚嘆させられたものである。「……まったく、奇跡のような人格だ」彼女は、ヤーナ・ソブェスキは『まとも』すぎる。権力に付きまとう欲望と悪意を理解できない。いや、正確に言うならば『想像できない』のだ。本人の資質からして、決して策謀や陰謀ということを理解できない頭ではない。知性はあるのだが、発想として沸いてこない類。有能な怠け者にして、権勢よりも自身の時間を大切にするタイプには、人を押しのけて地位を狙おうという発想がそもそも欠けているということだろう。単純に言えば、向き不向きの問題だろうか。「悪意とは、権力の闇とは……彼女の真逆にあるものなのだから。さて、どうなることやら……」……だからこそ、少しばかり楽しみでもあるのだ。一体、ヤーナ殿下は悪意にさらされたとき、どう反応するのだろうか?「だが、フランツ陛下が鍵だろうなぁ。……まるで、母熊だ。おお、くわばらくわばら」そして、彼は、来るべき日に備えてささやかな準備を入念に行っていく。もちろん、というべきだろう。『善良なる臣下』として、極めて、『誠実』に、だ。よい臣下の務めとは、主人の不得手な分野を補佐することも含まれる。コモンウェルス第一の臣下である宰相たるモーリスにしてみれば、摂政殿下の補佐もまた職分。主君の意を汲むのは当然の心構えである。故に、というべきか。職制上の業務に対し、モーリスは主観的にも客観的にも瑕疵なく忠実かつ清廉であるように心がけていた。本来の気質とは全く真逆であり、小さな悪戯や陰謀の衝動に襲われることがなかったといえばウソだ。だが、モーリスは欲望を制御する術を知っている。短慮な猿でもあるまいし、と良いワインを寝かすように時間をかけることの楽しみも知っているだけに、辛抱に辛抱を重ね、敢えて意図的な清廉潔白さを演出したのだ。それでいて、『改心した』などと囁かれてはたまらないだけに、風見鶏として誰にでもよい顔をしつつ、法は最後の一線を守って見せるというきわどい綱渡りもこなして見せた。誠実に職務に励み、誰とでも親しく交わる一方で、『えこひいき』はしない。ヤーナ摂政殿下や、その指揮下の人間はそれを奇怪に思わないのだろうが、コモンウェルスの政治文化においては異端なのだ。コモンウェルスにおいて、友達に特別待遇を用意しないということは、誰かの友達ではなくなった、と同義とされている。銅臭香しいコモンウェルス政界のパラダイムに従えば、友情とは即ち権力と権益を分かち合う同盟の麗しい言い換えだ。『誰にも特別サービスを提供できない政治家』というのは、その時点で無条件に落ち目とみなされる。なればこそ、宰相位にとどまっていたモーリス・オトラント辺境伯の権勢は表には見えずとも急速に低下し始める。凋落、と人はささやきあうものだ。『あの宰相閣下は、小さな利権一つ用意できないのだ』と。かくして、オトラント辺境伯家の前に門前市をなすほどの来訪者も徐々に数を減らしていく。頼むに、値しないお方、という風聞はそれほどの影響力を持つのだ。もっとも、誰もが先を見通せぬというわけでもない。唯々諾々とその現状に甘んじるモーリス宰相の姿を目の当たりにし、知性ある貴族たちは即座に帰郷を決意していた。戻るか、残るか迷っている面々にとって運命の分かれ道となったのはセイムへ『宰相』を通さずに提出された一つの提案であった。・急速な諸外国との関係悪化。・軍事的脅威の増大。・極め付けが、宰相の指導力不足。これらを検討するべく、ヤーナ摂政殿下、フランツ陛下のご臨席をたまわりたいとし、臨時セイム公会の開催を求める声は、モーリス・オトラント宰相の反対を押し切り、賛成多数で可決されてしまう。その瞬間、力なく統治すべき所領で裁可すべき案件が山積しているがゆえに、一時的に帰郷をと力ない表情で願い出たモーリス・オトラント辺境伯は領地への帰還がその場で許可されたのだ。はっきりといえば、都落ち。政治的に、孤立し、権勢を保てなくなった宰相が寂しく田舎に引っ込む。権勢に興味のある人間ならば、喜んで追い出しこそすれども、引き留めなぞしないだろう。ただ、というべきだろうか。モーリスにしてみれば、それはちょっとしたサービスだった。目先が利く人間であれば、その瞬間に『宰相殿が帰られるのであれば、我らも』と名乗り出ることができるのだから。「ふーむ、意外にいましたね」もう少し、愚者だらけかとも思ったのですが……と嘯きつつも、モーリスはゆるりとペガサスの馬首をヴァヴェル郊外の駐屯地に集っているヤーナ摂政の軍営へと向けていた。都落ち、ということで所縁の者ども、一族郎党を悉く引き連れての離脱。外見だけみれば、政争に敗れた都落ちと映ることだろう。まぁ、沈む船に残りたい連中がそう見るのであれば、そう見させてあげるのも自由ではないか、とモーリスとしては思うのだが。ただ、船が沈むというときに、見殺しというのも人としていけないだろう。だから、とばかりにモーリスは救命のために一手、手配するのだ。首都まで帰還してきた軍勢といえども、ヤーナ指揮下のソブェスキ封建騎士団は相変わらずの緊張と規律を保っているらしい。ちらり、と周囲を観察すればいつでも兵を動かせるように整えている。これで通常の警戒態勢というのだから、指揮官の力量もずば抜けていることは一目瞭然だ。悲しいかな、こういった軍事的な手腕がモーリス自身にはない。それだけに、この点では素直にうらやましいほどであるのだが……得意なことは、まぁ、得意な人に任せてしまうに限る。自分の来訪を知らされたと思しきアウグスト・チャルトリ騎士団長が顔を見せたところでモーリスは挨拶もそこそこに本題を切り出す。「ああ、騎士団長殿。少しよいですかな?」「宰相閣下? 私にご用でしょうか」「ちょっとしたご助言ですよ。確か、卿はヤーナ摂政殿下の近衛でしたな? ちょっとした助言を。卿は近衛だ。両殿下のおそばに控えた方がよろしいでしょうな」モーリスにとって、それは、珍しく心からの助言でもあった。ヤーナ摂政殿下は、戦略はさておき戦術は並み。一応、ポトツキー老が傍仕えとして侍ってはいるのだろうが……騎士と騎士団では意味が違う。「両殿下のおわす場所は宮中ですぞ? 宰相閣下、武官がまとまって大きい顔をするのはよろしくないでしょう」「見事なご配慮ですな。ですが迂闊でもある」「迂闊ですと?」はぁ、とため息をこぼしつつモーリスは指摘していた。「セイム公会開催中は、武装した貴族らが堂々と宮中を闊歩するという事実をご存じか? 市民の権利として認められているのですぞ?」「……存じ上げませんでした。そのような権利があるのですか?」迂闊な、とばかりに臍を噛む武人の表情に浮かぶのは危惧。「王族の意を汲んだ武装兵がセイム開催中の市民を脅迫しないように、と。何百年前かにできた規則で認められているのですよ。さて……ヤーナ殿下の護衛は現在のところいかほどに?」「……ご忠告に感謝を。一隊を引き連れて、向かおうかと」武人とはいえ、さすがに話が早い。一礼し、立ち去りたいのだがと全身から漂わせ始めたチャルトリ騎士団長へモーリスは朗らかに笑って見せる。「ええ、くれぐれもよろしくお願いしますぞ」用を済ませれば、あとは礼儀正しくお暇するまで。笑いださないように気を付けつつ、せいぜい、悄然と知人に別れを告げたように表情を作り直すと、また悠々とモーリスはヴァヴェルに背を向けて所領へとペガサスを向けなおす。これで、首都の政変は大いに荒れることになるだろう。チャルトリ騎士団長は、ヤーナ摂政の近衛にして、歴戦の軍人だ。間に合えば、護衛対象を守り抜こうと奮戦するだろう。間に合わなければ、まぁ、残念ではあるが……助言だけならばたいした手間でもない。それに、主を討たれて発憤した彼らが大いに復讐戦へ励んでくれことも期待できる。とはいえ間に合うだろう、と踏んでいるのだが。ちらりと陣営へ目を向ければ、ペガサスに騎乗した有翼魔法重騎兵らが即時と形容するほかにない迅速さでヴァヴェル目がけて進発している。「やれやれ、あのヤーナ殿下が見落とされているとはな。案外、あの方は『頭が良すぎる』のだろう。下々のことに、これほどまでに無頓着なのもちと怖いですね」困るんだよなぁ……とモーリスはそこで苦笑する。私は、いま、ヤーナ殿下の知性を楽しんでいるのだ。横車を押されては、本当に困る。愚か者というのは、往々にして大切な知性の結晶がどれほど楽しいものかを解しないのだから度し難いほどだ。◇貴族らの連盟がセイムを掌握し、王家の捕縛を命令。その第一報を受け取ったときのヤーナ・ソブェスキの一言は、ささやかな議論を歴史に招いている。「……『やるき』ありすぎでしょ」殺意の高さを皮肉ったとある者は解釈した。行動力の無駄な高さをあざ笑ったとも伝えられる。はたまた、掛詞をもてあそんだともいう」確かなのは、一つ。その日、ヤーナ・ソブェスキとフランツ・ソブェスキを狙った襲撃者は、ヤーナという同時代人に比較してあまりにも血の気が多すぎた。辛うじて、というべきだろうか。「……まさか、宮城でこのような狼ぜき沙汰が生じるとは。このポトツキー、痛恨の不覚でありました」「爺はよくやってくれた。どちらかといえば、私の失態だわ」頭を下げるイグナティウスに対し、ヤーナは貴方のせいではない、と小さくほほ笑む。「議員ってアホじゃないの?こんな事だけはあっさり決められるとかどうかしているわね。まぁ、してやられた私が口にするべきではない、か」近侍していたイグナティウスの機転により異変を察知した一行は、宮中の一角に籠ることには成功していたものの、状況は絶望的だった。「……困ったわね。アホさ加減を読み違えていたのか。こんなに短絡的だったとは」有体に言えば、ヤーナにとって『愚者』の思考ほど理解しがたいものもないのだ。連中が愚かであるということまでは理解しえても、なぜ、そのように考えるのかまでは理解するのが非常に難しい。頭のいい人間であれば、往々にして侵すミス。「セイムの出頭要請はおびき出すための罠、か。本当に迂闊だったわ……」小さくつぶやくヤーナにしてみれば、事は自明だ。セイムという公的な輔弼機関が、『王』と『摂政』を物理的に襲撃するなどとは夢にも思わなかった。『まさか、そんな馬鹿なことをしないだろう』という確信すらあったといってよい。……セイムと王家は契約関係にあるのだ。推戴した王を『政治的に無力化』することこそありえども、フランツ自身は『もし朕が法、自由、特権、慣習に反することがあれば、王国の全住民は朕に対する忠誠義務を解除されるだろう』と、王権を制約するべき宣言を口にしていない。そして、形式的にせよヤーナは『法、自由、特権、慣習』を遵守してきた。今の今まで、セイムに手を付けすらしなかったほどだ。モーリスのようなセイムで選出された宰相すら、黙って使っている。……批判される謂れはないはずなのだ。それを、ここまで、道理を押しのける?ロゴスを沈黙させるにしても、契約までも投げ捨てると?「……ああ、獣を人と取り違えていたわけか。私としたことが、また、随分と酷い勘違いをしていたものね」「何を悠長なことを!姫、陛下を連れてはやくお逃げ下さい」逃げよ、と告げてくれる爺の心遣いはありがたい。「外まで逃れられれば、異変に気づいた将兵を糾合することも可能でしょう」「逃れられると思って?さっきから、アホみたいに武装した連中を見てるんだけど」「私が時間を稼ぎます。どうか、その間に」「無理よ。爺、あなただってろくな武装すらしていないのよ? 時間を稼ぐと言っても限界があるわ」二度目だからって、もう一度死ぬのはイヤだった。痛いのも、苦しいのもご免こうむりたい。でも、私のミス。フランツを巻きこむのはダメ。「仕方ないか。……うん、仕方がない」だから、とヤーナは周囲の侍従らに短く告げる。「誰か、フランツの服を目立たないものに着替えさせて」何を、とフランツが目線で問うてくるのを意図的に無視し、ヤーナはそれを口に出す。「私が囮になるわ。その間に、何としても連れ出してね」「ね、姉さま」「……ごめんね、フランツ。立派な王様に、あなたならなれると思うから。ううん、なれるから」義務を果たそう。最後の最後で……と覚悟を決めたヤーナがフランツの頭を撫でて立ち上がりかけた瞬間のことだった。突如、外で駆け回る足音と剣戟の響きにヤーナは体を強張らせる。足音からして、重層のプレートメイル。叛徒だろうか?しかし、それにしては『叫び声』が多すぎる。自分たちを追っているにしては、騒がしすぎるのだ。何事か、という疑問はやがて希望に転じる。「陛下!? 殿下!?いらっしゃいますか!」叫び声、しかして、敵意を感じないそれ。「ええい、叛徒ども、どけい!逆賊! わが槍のサビになるか!」あれは。「ソブェスキ封建騎士団の前に立ちふさがる愚か者の末路を教えてやるぞ!」あの声は。「かかれぇ!陛下を、殿下をお救いするぞ!」「ここよ! アウグスト、ここ!」思わず、というべきか。気が付けば、ヤーナは声を張り上げていた。ちらり、と見ればこちらに駆け寄ってくる近衛らの姿。「殿下! 陛下! 遅くなり申し訳ありません!ソブェスキ封建騎士団、ただいま御前に!」荒い息のまま、頭を下げる武人の姿は、来ないとばかり思いこんでいた助け。「アウグスト! 来てくれたんだ!」「御意。陛下、殿下、われらがここに!騎士諸君! 陛下と殿下をお守りしろ!」フランツに微笑み、自分へはお任せをと頭を下げてくれるアウグストと騎士諸君の何と頼もしいことか。なればこそ、というべきか。「げっ!?」「……お察しいたします」救いの手に感謝していたヤーナは、水を向けた主の存在をしって表情をこわばらせるのだ。アウグストに問えば、自分たちの危機を察したのは風見鶏ことモーリス・オトラント宰相というではないか。「くそ面倒な相手に借りが出来たわけか。ずいぶんと高い借りね。嫌なタイミングで恩を売られること」だからこそ、それは驚きではない。落ち延びた先に転がり込んだ瞬間に、一族郎党を引き連れて顔を出してくる貴族のご一行。「姫様。オトラント宰相が、姫様にお会いしたいと……」「通して」そいつは、相変わらず胡散臭い笑みを張り付けながら優雅に典礼通り一礼して見せるではないか。「摂政殿下に置かれましては、ご機嫌麗しゅう。ああ、元・摂政殿下でしたか」「……モーリス、そろそろ腹を割って話しましょう。あなた、こうなることは分かっていたわね?」次回、2016年3月17日(木)更新予定!
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【銃魔のレザネーション】第二章『政治の季節』
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カルロ・ゼン自らがノベライズ!ゲームでは描ききれなかった戦争と政争の裏側が明らかに。
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前回までのお話はこちらから第二章『政治の季節』結論から言うならば、間に合った。ヤーナ・ソブェスキ指揮下で進発した救援部隊は、ボージュにて包囲されていた友軍の残存部隊との合流に成功。追撃戦だ、とばかりに散開していた革命軍を最高のタイミングで横合いから殴り飛ばし、孤立していた部隊を収容しておきながら損害は微々たるもの。壊滅的であったロスバッハ会戦の後始末としては、望みうる限りおいて最高の成功であった。なればこそ、否応なく注目をも集めてしまう。統制された暴力を、合理的に行使しえる集団。組織的に戦闘可能な有翼魔法重騎兵とは、ロスバッハで一敗地に塗れたるとはいえ……脅威そのものが消滅したわけでもない。そんな有翼魔法重騎兵が、依然として組織的に展開しているという事実は大勝利に酔っていた革命軍をして夢から目覚めさせるに十二分すぎたのだろう。ヤーナ率いる救援部隊を追う革命軍の追跡もまた執拗かつ迅速であった。いくら機動力に優れるペガサスとて、負傷者と敗残兵を収容して後退するとなれば、離脱中に足の速い敵騎兵に捕捉されるのは時間の問題でしかなかった。故に、ヤーナとて警戒はしていた。組織的な追手が、こちらを追いかけてくるであろう、と。なればこそ、アウグスト指揮下のペガサスを、あえて偵察任務に投じることまでやってのけた。一戦して疲弊していたであろう騎士らは、それでもよくやってくれる。長距離索敵飛行中だった幾班が、追手の詳細を的確につかんだのだ。その報は、ほどなくして殿軍という形で、負傷者と追手の間に位置することになっていたヤーナの下へと届けられることになる。「殿下、偵察がもどってまいりました。敵の増援です。詳細な報告は、こちらに」己の騎士から報告を受け取るなり、ヤーナ・ソブェスキは気に入らないとばかりにため息をこぼす。「……大規模な敵騎兵や歩兵の増強、か。これを相手にするとなれば、ずいぶんと骨が折れる仕事になりそうね」ぼやきつつ、勝算を求めれば見込みがないでもなし。追撃部隊を相手取り、正面からぶつかっても勝てないというわけではない。ヤーナの指揮下にいるのは、爺とアウグスト。どちらも、優秀な指揮官だ。率いる部隊にも指揮系統に乱れはない。そして、自分自身の近習らを投入すれば。アウグストの言うように、叩けば勝てるだろう。こういっては何だが、自分の鍛え上げた騎士団であれば、できだろうとは信じている。だから、というべきだろうか。ヤーナは口にする。「国境線は固めなおしたし、停戦よ、停戦。これ以上は殴り合うだけ不毛じゃない。私の役目は、臨時の摂政。国境線を固めなおした時点で、私の担当は終わり」さっさと纏めて、帰路に就くわよとアウグストと爺に命じる。色々と二人が言ってくるものの、結局のところ、ヤーナは聞く耳を持つわけにはいかないのだ。はっきりと言えば、理由はいくらでもあるが主として二点に収斂できる。第一は、気分の問題だ。目先の勝利という名声に対してヤーナは全く興味をそそられていない。つまり、会戦に突入する意欲そのものが欠乏しているのだ。これで野心なり名声への渇望なりでもあれば、意欲もわくのだろうが……そもそも、名が売れることで否応なく付きまとう義務は糞面倒だと投げ捨てるタイプである。生まれながらの王族という立場があるのだ。戦果を求めて会戦に臨むというリスクを侵さずとも、国境を固めなおすだけで十二分にセイムへの恩ならば売ることができる。セイムの混乱を収め、挙句、私兵でもって危機を救う。まともに考えれば、これ以上を望まずとも以後はセイムから相当な配慮を引き出すことができるに違いない。つまり、ここで頑張るべき理由があまりない。義務でもない限り、積極的に勤労精神を発揮しようという酔狂さをヤーナは持ち合わせてはいない。第二に、より重要にして死活的な要素はパワーの問題だ。というよりは、こちらが全てだろう。物を言うためには、一定の力が必要となる。どこの世界でも変わらない真理だが、こと権力の世界では指図されない為にも、侮られずに尊重される程度には力が必要なのだ。コモンウェルスのように、高度に発達した文明でも例外ではない。魔法を使用することができるすべての人間に対して市民権を付与する政体においてすら、貴族という階級ははっきりと存在しているのである。権力の原理は不変ですらあった。力なき貴族、力なき王族など、態のいい駒だ。駒でなく、生きている人間として自由に呼吸することを欲するのであれば、軍事力を手にするしかない。むしろ、軍事力があって位があるというほどに力というものをコモンウェルスは暗黙裡にせよ『高貴なるものども』に求めてやまない。コモンウェルス軍の構成をみれば、一目瞭然だろう。封建諸侯軍という私兵の寄せ集めと、常備軍という国王直属の混成軍である。この点で、コモンウェルス貴族であるならば、有事に備え兵を養うのもまた権利であり義務でもあるとみなされるのである。『田舎に引きこもる』という選択肢をとっていたヤーナですら、自前の騎士団をもつことが当然の権利として認められたのもその延長だ。というよりは、ある種の義務と認識されていたというのが正しい。故に、コモンウェルス広しといえども、臨時摂政であるヤーナ・ソブェスキが公的な権限によって動員できる兵力は『父王ジョナスが失ってくれやがった常備軍の残骸』と、『心服定かでない封建貴族らからなる諸侯軍』の混成部隊となる。子飼いというには余りにも程遠い。なればこそ、ヤーナが『唯一信用できる兵力』である手勢は『こんな辺境部での小競り合い』で消耗するには貴重すぎた。脳裏によぎるのは、ピュロスの勝利。議会対策に、忠誠定かならぬ貴族らへの牽制には兵が欠かせない。裸の王様というのは、生殺与奪の権をよそ様に握られた王様なのだ。フランツと自分の安全のためにも、ソブェスキ封建騎士団を摩耗させることはできない、というのがよりヤーナが消極的となる現実的な理由だった。勝てようが、活用できない勝利のためにリソースを投入するなどヤーナに許されるはずもないのだ。そして、戦闘を選ぶべき理由がない以上は、為すべき方針も決まっている。かくして、というべきだろう。彼女より持ち掛けたるは外交交渉。シュヴァーベン革命軍の現場指揮官もまたリスクを厭った結果として、停戦は、現地の判断という形をとりつつも恙なく成立する。◇もっとも、というべきだろう。『コモンウェルス』が『外交』によって活路を切り開くというアプローチは、古今にほとんど例を見ないのだ。観察者にとってみれば、大変に興味深い一手であった。「ほう、停戦ですか」「はい閣下、どうやら、現地協定という形式のようでありますが……」「交渉で撤兵に持ち込める、と」報告書を受け取ったモーリス・オトラント辺境伯は実に興味深いとばかりに我知らず声を上げていた。「……孤立していた友軍を救出し、二辺境伯の身柄を確保。挙句、追撃してきたシュヴァーベン革命軍と暫定的とはいえ停戦協定を成立させる?」「まことに僭越ながら、お見事であらせられました」「いや、全くですよ」いやはや、とモーリスは部下の言葉に苦笑しつつ頷いていた。羽檄に応じ戦地へ駆けて行かれたヤーナ殿下の才覚といい、指揮下の有翼魔法重騎兵といい、羽は腐っていないらしい。やれやれ、鳶が鷹どころかペガサスを産み落としたということですかねと苦笑するほかにない成果だ。世間も大いに感心することだろう。だが、本当に注目すべきは戦闘を回避しようと交渉を選べるということに他ならない。勝っているときに、交渉という選択肢を考慮できる人間というのは稀なのだ。程よいところで手打ちにできるというだけで、それは恐るべきバランス感覚を証明してくれるだろう。誰も否定できない武勲、暫定的とはいえ協定の成立により時間を確保。挙句が、手ごまの消耗を極力回避する姿勢。いずれにしても、ヤーナ殿下は非常な傑物としての片鱗をみせつけてくれた。全く、ジョナス陛下という愚物の娘とは思えないものだと、モーリスとしても実にワクワクさせられる人物であった。「やれやれ、では、当分はヤーナ殿下のおかげをもちましてコモンウェルスも安泰というわけですね」「はい、偵察に宛がっている手のものからは、シュヴァーベン革命軍が停戦協定を遵守するようだ、とも」「念のため、ハイマット方面に間者を増やしておくように。軍部隊、特に砲兵の動向に注目するようにだけ伝えておいてください」「かしこまりました。では、私はこれにて」「ええ、ご苦労様です」一礼と共に退室していく部下の足音が完全に遠ざかるのを確認し、やれやれ、とモーリスはそこで肩をすくめて見せる。セイムに屯する愚者どもにしたところで、これだけの成果を前にしてはぐうの音も出ないことだろう。ヤーナ殿下のお見事な手腕ということに対し、モーリスとしては絶えて久しく感じていなかった新鮮な感動すら覚えている。何はともあれ、急場の応急手当は終了。ロスバッハ会戦の大敗北以来、大混乱に陥っていた王都ヴァヴェルの情勢も多少は落ち着きを取り戻すに違いない。戦場の季節から、政治の次元へと舞台が転じることだろう。「……順当に行けば、あとはフランツ殿下の即位、ということですかね」ならば、とモーリスは算段とめどをつけてゆく。ロスバッハで現王ジョナス陛下がお隠れ遊ばし、目下、コモンウェルスの王位は空位となっている。まずもって、この状況を解消することから始めなければならないだろう。「王位継承権の順序から行けば、現存する唯一の男系嫡子であるフランツ・ソブェスキ殿下が継承権第一位。それに次ぐのが、女系のヤーナ・ソブェスキ殿下ご自身。まぁ、法律からすれば間違いなくフランツ殿下でしょう」もっとも、とモーリスはそこで少しだけ苦笑する。「法律というのは、往々にして『守られない』わけでして。だからこそ執行者を必要とするのですよね」ヤーナ殿下は、法律上で唯一の有力な対抗馬だろう。そういう意味で彼女自身がフランツ殿下の王位へ挑戦しない限りにおいて、法の観点からみれば『フランツ殿下の王位』は事実上約束されたようなものだ。他の代替候補は、継承法の正統性から言って泡沫も同然。王位継承法と正統性の観点から見て、それはどう言い繕うとて揺らぎようがない。「さてさて、オペラというには少々滑稽に過ぎるオペレッタの主演たちがそこまで頭を回せるものでしょうか」嘲笑しかける彼の手元に届いているのは『某貴族』からの熱烈なラブレター。王位を諦められないとある貴族が、自身を支持するように叫びまくる書状の一つ。つまらない人間であるが、先王ジョナス陛下の婿の立場に我慢ならず、婿養子を称し始めたとか。まぁ、誤解を招く素地としてジョナス王が親し気にふるまいすぎた、という問題もあるのだろう。「ジョナス陛下にしてみれば、特に深い考えがあったわけではないのでしょうけれどもね? 蒔いた種は、刈り取らねば無責任というものでしょうに」モーリスの見るに、ジョナス王が可愛がっていたという時点で資質は察しが付く。ユニマール朝のアホ、ジョナス陛下の間抜けぶり、そして自意識過剰な幻想の世界にお住まいな青い血と称する猿。ところが驚いたことに、調べさせれば『破産寸前だった』はずの彼は資金を大量にばらまきながら、私兵まで集めているというではないか。「錬金術でもありますまいし、金など何処から生み出したものやら」猿回しにだって、猿を回すための人手と投資が必要なのだ。きっと、南の友人諸君が手厚く手配してくれているに違いない。となれば、彼らの期待するのは一寸した騒乱程度。お猿さんが王位をとろうが、とれまいが、興味はないはずだ。もし、本心から王位継承権争いへオルハン神権帝国が介入するつもりであれば、陰謀としての熟成度合いが薄すぎる。やはり、オペレッタとなることだろう。とはいえ、全く持って不愉快極まりないことに違いはない。南は、この、モーリス・オトラント辺境伯累代の所領があるというのに。「やれやれ、少しは勤勉に働きつつ趣味も楽しむことにしますか」全く、義務とは面倒なものだ。さりとて、遊びと本業を混同するわけにもなかなかいかない。塩梅が難しいとは、このことだろう。ならば、と彼はそこでほほ笑んでいた。「オペレッタを拝見するための席を抑えなければなりませんね」劇場のチケットというのは、きちんと手配しなければならない。最高に楽しい舞台をどうして、立ち見する必要があるだろうか。「ミッテルロージェに近しい位置を予約しなければ。やれやれ、人気の席ですからねぇ、私も手を回してみますか」仕事と楽しみは、両立されてしかるべきなのだから。◇戦勝、国境部の暫定的な秩序回復、そして議会の開催。史書を書き連ねるのであれば、それで十分だろう。白馬金羈とばかりに壮麗な詩文として唄うにたる成果なのだ。歴史書の数行に要約されるであろう順当にして、誰もが納得するであろう流れ。『ヤーナ第三王女の輔弼を受けフランツ王が登極せり』という一文に至るには、しかして歴史書が往々にして省略する煩雑な思惑が入り乱れているものだ。そもそもとして、というべきだろう。コモンウェルスの王政は『選挙王政』なのである。セイムこそは王を選び、誰もが服する法を定め、諸外国との条約を認める主権者の議会だ。認められた権限は絶大であり、強大なセイムの同意なくしては王といえども課税も戦争も独自に始めることすら許されない。無論、例外的な措置を認めることはあり得るだろう。例えば直近の事例として国王戦死という異常事態を前に、茫然自失状態におちいっていた議会より臨時摂政位という方策でもって、ヤーナ殿下が指揮権をもぎ取っていた。その決断はなるほど、正しい結果をもたらすことができたのだろう。セイムは、適切に『委任』したとも言いえる。だが、そこでヤーナ・ソブェスキは完全に誤解していたのだろう。自分が乗り込んだ瞬間のセイムは、ただ大敗北によって『混乱』していたに過ぎず……本来は有能とまでは言えないにせよマトモな統治機構なのだろう、と。なにしろ、というべきだろうか。セイムへの信頼、セイムの実績、セイムの伝説はコモンウェルスという国家において一つの神話とすら化して久しいのだ。コモンウェルスにおいて、王と市民はセイムを通じての契約関係にある。形式の上ではさておき、実質において主権者たる市民の代表たるセイムと首脳としての国王という対比が適切であると語られるほどなのだ。故にコモンウェルスとは共和政であり、王政でもある一方でセイムという議会がすべてを輔弼してきていた。いうなれば、国王は君臨すれども統治せず。ヤーナの知る限りにおいてすら、議会ことセイムは有能な実務者として賞賛されて久しい。◇故に、ヤーナは単純に事態を楽観していた。彼女の心境を語るならば、フランツが王様になること自体は仕方がないと納得してもいる。なにしろ(継承権下位の自分以外に)他の候補がいない以上、選択の余地はなし。とはいえ、だ。フランツの年齢は、わずかに9歳なのだ。どう考えても、政治を行うのは無理だろうという彼女の判断は妥当だろう。ということは、と彼女は考えたのだ。摂政として自分が名目上の儀礼職や形式的な権限を代行しつつ、統治ということについては議会が選ぶ宰相が仕事するであろうと。王権の過度な発揮を望むでもなく、ただただ、議会と強調しつつの穏健な政権運営を目指す方策。時代が時代であれば、あるいはセイムが建前通りに機能するのであれば、それでよかった。ヤーナにとって不幸なことは、彼女が中央政界との繋がりを完全に絶っていたという一事に尽きる。ヤーナ・ソブェスキは王族であるがセイムに議席はなかった。(なにしろ、政治に興味がないと宣言し、堂々と自領にひきこもっていたのだ。議席などあるはずがない。)故に彼女は、知らないのだ。セイムが、コモンウェルス最大の立法府にして統治機構が、どれほど制度疲労に陥っているのか、という事実を。いうなれば、セイムという議会の実態を知らぬがゆえにヤーナ・ソブェスキは完全に誤った見通しを抱いていたのだ。セイム議会の演説席にて『賢明なるセイム議員諸君、臨時セイム議会の開催を宣言する!』と告げた瞬間、彼女は皮肉に気が付くべきだったのだ。賢明なセイム議員という存在が、どれほど希少なのか、ということを。かくして、彼女の楽観とは裏腹に議論は紛糾し会議だけが躍る羽目になる。会議は踊る。されど、進まず。セイムの議事進行を表するならば、まさにその一言が相応しい。誰もが、責任を避けつつ自分の取り分を最大化しようとする究極のジレンマ。協力すれば、取り分が増えるとしても、抜け駆けされないという保証がどこにもないのだ。故に、多少先が読める人間がいたところで、じり貧が避けがたくある。それこそ、モーリスの知るセイムという愚か者の国際展示場の実情だ。故に、心底から彼は驚愕したものだ。「まさか、ヤーナ殿下がセイムの実情をあそこまでご存じないとは」ぽつり、と震える声でつぶやかざるを得ない。あれでは、オペラ座の内部構造も知らずに、脚本だけを書き上げるかのような無謀ことをヤーナ殿下はやられているも同然だ、と。「地方に隠遁していたとはいえ、知ろうと思えばいくらでもセイムという愚か者たちのオペレッタを眺める術はあったはず。やれやれ、ヤーナ殿下の政治嫌いは想像以上ですね。興味すら抱かれていないというのは、まんざらの嘘でもないらしい」それこそ、政治や権力闘争に興味があれば、政治というものを味見するぐらいは可能なだけの権威と権力が第三王女という地位にはある。が、どうやら……ヤーナ殿下が時折隠し切れず顔面に浮かべてしまう戸惑いや苛立ちからすると、どうやら、初体験ということらしい。モーリスにとっては新鮮極まりない発見だった。「やれやれ、あのお方は英邁な資質をお持ちのようであるが……陰謀家や政略家としては素質に乏しいようですねぇ」根回しや、細かい調整という部分ができないわけではないにせよ。面倒極まりないセイムという空間へ、本能的に嫌悪や苛立ちを覚えるタイプともなれば、ある意味ではジョナス王の血を引いているといえなくもない。だが……とモーリスはそこで苦笑するのだ。ジョナス王の場合、『自分の手に負えない厄介な連中』とセイムを認識しているのに対し、ヤーナ摂政は『なぜこんな自明のことも理解できない愚かな連中なのか』と瞠目しているというべきだろう。小さく見えるかもしれないが、決定的に異なる差異。ジョナス王が単に苦手意識を持っていたことに比較すれば、ヤーナ殿下のそれは、頭の良い人間が、往々にして陥る陥穽だろう。賢明な人間というのは、『愚か者』が存在することを理性や理屈の上で知っていても、なかなか現実として理解していないのだ。『幾なんでも、そんな馬鹿なことはしないだろう』というヒトの理性に対する過信。ふと気になり、いくばくか探りを入れた時点でモーリスは確信しえていた。調べてみれば、ヤーナ・ソブェスキという指揮官は戦略に卓越し、戦術面は部下にゆだねるタイプだった。大きな図面は描ける一方で、細かい実務を補佐する手足を必要としている。だからこそ、というべきだろう。優秀な人材をああまでも、集めようと頑張るわけである。そして、というべきか。「勝利を約束してくれる上司が、自分を信頼してゆだねてくれるともなれば……まぁ、あの方の下に優秀な人材が集うわけですねぇ」さぞかし、やりがいに富んだ職場というわけだ。苦笑しつつも、モーリスとしてはだからこそヤーナ閥とでもいうべき政治権力の主体が存在しないことを危うく思う。「強く、賢く、そして閥として満ち足りている、と。やれやれ、典型的な自己完結型封建領主の一派ですね」極端なことを言うならば、ヤーナ殿下とその指揮下の人間は『自己完結』してしまう組織機構なのだ。外部の閥と取引し、あるいは妥協するという必要性をこれまで学んできていない。「こんなことにでもならなければ、絶対に表舞台に立とうとしない性格。強いていうならば、有能な怠け者の典型ですかね、ヤーナ殿下は。故に、傍に集う人間もまた同類か、そのありかたを良しとしてしまう」近衛として傍に侍るアウグスト・チャルトリ騎士団長など、典型的な軍人だ。『職分』を遵守する優秀な手駒としては抜群なタイプであるにせよ、閥の政治を担当させるにはあまりにも不向き。一応、王領副宰相であるイグナティウス・ポトツキー老はこの辺の機微を理解してはいるのだろうが……ジョナス王に度々諫言をかまして疎まれていた経緯から、政界におけるルールこそ承知しても、好き好むタイプでもない。結論、ヤーナ殿下の閥はそもそも論として政治を得意としていない。「私以外の辺境伯らや軍人貴族と誼を通じるのも簡単なわけだ。政治をさほども好まれない面々にとってみれば、ある意味お仲間というわけですからねぇ」辛うじて、というべきか。辺境伯のように、否応なく政治に首を突っ込まざるを得ない立場の人間ともヤーナ殿下は先の出兵で縁を結んでいる。例えばイグナス女辺境伯、アッシュ辺境伯の二人。そして、中央政界にも一定の地位を占めるポルトツキー伯爵なども軽視はできない。けれども、というべきだろう。どいつもこいつも、モーリスからすれば政治音痴もよいところだ。モーリスの知る限りにおいてアッシュ辺境伯は完全な武人肌。それこそ、チャルトリ騎士団長の同類だ。ポルトツキー伯爵にしたところで、伯爵家そのものが尚武の家風と聞いている。代々の武官職で、しかも純軍事部門の合間に街道警備や巡回裁判に混じった程度。イグナス女辺境伯だけは、多少の政治手腕がないわけでもないのだろうが……どちらかというまでもなく、彼女のそれは『理想主義者』の『正論を掲げての政治理論』だ。老練ゆえに現実思考のポトツキー老と比するのもあれだろうが、ある意味では清濁併せ呑むことを嫌うという点で老の同類ということになる。「うわぁ……これは、また……」思わず、うめき声をこぼしたくなる程に面倒な事態が予想されてしまう。モーリスとて、遊ぶのは嫌いではない。だが、混乱で楽しみたいのであって、混沌に巻き込まれたいのではないのだ。現状、コモンウェルス政界は微妙な均衡の上に辛うじて成り立っている。機微を理解している第一人者が纏めてくれるのであれば、モーリスも遊びようがあっただろう。けれども寝技で合意を形成するなり、対立派閥との汚い交渉を行ってきたという経験がヤーナ殿下とその周辺にはない。なまじ、優秀なればこそ、その必要がなかったともいうべきなのかもしれないが……有能で狡い手段を必要とせず、楽しむ素質もないとなれば……浮世離れした選良共ということになる。機微を理解するどころの話ではない。この手の類は、個人差はあるにせよ権勢や地位に対する欲求が非常に鈍感だ。他者それを理解しえていないであろうことも、容易に察しが付く。……根源的に地位への渇望、権勢への衝動が乏しい閥にして、有能な怠け者が頭。下手をすれば、当人たち自身すら閥の形成を自覚していないやもしれない。「ん?」ふと、モーリスはそこで自分の思考を再検証する必要に気づく。「……閥を形成しているかも、無自覚だとすれば?」閥として、地位を確保するという発想が、未成熟なのではないだろうか?「ふーむ、これは、案外と……私のポジションがあるかもしれませんね」ミッテルロージェに近い席をヤーナ殿下閥の人間がとらないのであれば。一つ、自分がお邪魔させてもらっても殿下は黙認ないし妥協することも期待できる。「ま、大丈夫でしょう。試金石としては、悪くない。試してみますか」仲間外れは寂しいですからねぇ。そして、とモーリスはさっそく行動に移っていた。なにしろ、言うではないか。『善は急げ』と。◇コモンウェルスの宮中、王族の住まう一角を訪れてみればまぁ、とモーリスはあきれ顔で隣のポトツキー老へ視線を向ける。見てくれるな、と無言でそらされる老の顔に浮かぶのは苦渋のそれ。これはまた、傅役殿も随分と苦労されたことに違いない。「爺。また?」のほほーんという擬音が聞こえてきそうな声で、だらけている当人はこちらに視線すらよこそうはとしない。これが、ヤーナ殿下の地か。「いえ、本日はお客様がお見えです」「客? って……」ごほん、というポトツキー老のせき込みにようやく気付いたのだろう。自分の顔を見るなり、げっ!? とばかりに顔面を歪ませてみせる。ああ、全く、脇が甘いことでいらっしゃるとモーリスは内心の可笑さを堪え、殊更に丁重な素振りで一礼して見せていた。もちろん、当てつけである。とはいえ単に趣味で当てつけを行っていた、というわけでもないのだが。自室で寛げるとは……余程後ろめたいことをしていない証左なのだろうとアタリをつけているのだ。ちと、うらやましいというヤッカミもキチンと込めておいた。ムスッとした反応もまた、なんとも楽しいものであるのだから。加えて言うならば、取り繕った表面を見せられるよりも余程ヤーナ殿下とその一党のありようを見ることができて幸いだった。「おお、うるわしい朝にございますな。殿下の親しげな笑顔をいただけるだけで、一日の活力が湧いてくる思いであります」なればこそ、確信と共にモーリスは最大限の笑みを浮かべつつ、再び一礼を示す。「……ああ、ありがとうね? で、用件は?」「摂政殿下、臣はこのたびセイムより宰相を拝命しました。さてさて、殿下のお力になることが出来ればとつとめてまいりますぞ」軽くヤーナ殿下の表情が痙攣しかけたのは、また、なんとも感情の読みやすいこと。さすがに、摂政という地位からすれば、宰相という席を自分の手勢以外に抑えられれば面白くないぐらいはあるのだろうか?「殿下、差しつかえなければ……一つだけおうかがいしたいことが。……なぜ貴族たちにご芳情がないのでありましょうか?」故に、問う。政治に対するヤーナ殿下の感性を。「……モーリス? 芳情とはなんのこと?」「殿下をしたう忠実な臣下たちに、殿下からのお志をいただけないことでございます。……諸卿が気に病まれておいでですぞ?」「え?」ぽかん、とばかりに零れ落ちるのは困惑の声?ちらりと部屋の隅で近侍しているポトツキー老に視線を向ければ、またしても、さっとそらされる始末。まさか、と軽い頭痛を堪えつつモーリスは言葉を重ねていた。「……殿下、言葉遊びがお気に召さぬならば申しあげましょう。ようは、賄賂です。賄賂。即位の支持を金で買ってください」王になる、ということはコモンウェルスにおいて『選挙に勝つ』と同義だ。古の時代、コモンウェルスの貴族たちが高潔さと英知を誇っていた時代であれば……『なりたい』人物ではなく、『推戴したい』人物が選ばれていたのだろう。今日では、王位継承権保持者の中から『セイムにとって都合の良い人物』が選ばれている。都合の良い人物になるのは簡単で、金貨を積み上げればだいたいは事足りる。逆説的に言えば、積み上げられた金貨が零れ落ちる音でもない限り、即位に賛成する拍手すら買えない始末。だからこそ、セイムの貴族たちはヤーナが買収を持ち掛けてこないことに困惑しているとモーリスは語らざるを得ない。そして、というべきか。「……議員達にフランツの即位を認めてくださいと金を払えってこと? じょ、じょ、冗談じゃないわ! いくらなんでも、馬鹿にしすぎ!」激発するヤーナを目の当たりにすれば、確信もできようというものだ。「ありえないでしょ? ふざけてるの?」「ふざけるなど、とてもとても。殿下、ご理解ください。フランツ殿下は、まだ王ではありません」ヤーナ・ソブェスキは本心から驚き、そして怒りをあらわにしている。なんとも、初心なことではないか。ジョナス王の即位時すら、あの無能で偏屈なジョナス王ですら、ソブェスキ家の私財を総動員して莫大な金穀をばらまいた。当時の記録を読んだモーリスの感想としては、相場よりも随分と吹っ掛けられたらしい。おかげでセイムに苦手意識を抱いた、というのは穿ちすぎというわけでもないだろう。だからこそ、ソブェスキ王家はセイム対策に汲々としてきたのだ。その一門で最も有力な第一人者となっているヤーナ摂政が即位にかかわる必要経費というものを知らないとはセイムの議員たちには想像すらできなかったに違いない。なればこそ、モーリスですら意表を突かれていた。政治にかかわりながら、かくまでも全うな感覚を保てることを言祝ぐべきか、不勉強をなじるべきか、全く、迷える愉悦とはこのことだろう。「……お金ですむ問題であれば、さっさとすませるに限りませんか?」自身が口にしたのは、宥めすかすような言葉。「仮定として聞いておくわ。賄賂、断わった場合は?」ほう、と考えさせられたくなる言葉であった。反発なり、峻拒なりだろうとあてをつけていただけに、返されてきたのは予想外の言葉。『王位を買う』という選択肢のほかを模索するために『払わない』という選択肢が真剣な考慮の俎上に上ること自体が珍しい。「……失礼、少々考えさせていただいても?」「ええ、あなたの意見を聞かせて頂戴」「御意。では……」セイムの議員たちにしてみれば、王の即位時に『臨時収入』を得ることができるのはもはや伝統も同然なのだ。即位を認める引き換えの賄賂は、結構な額の収入だ。手に入らないとなれば、あてが外れたと騒ぐどころでは済まないだろう。即位時に、票を売るのは自分の権利だと信じて疑わないセイムの愚物どもから、利権を取り上げるも同然だ。猛反発は必須、と読まざるを得ない。その一方で、コモンウェルスが置かれている政治的な環境を考慮すれば……正統な王位継承者であるフランツ殿下の正統性に揺らぎはない。何時もであれば、『対立候補』が名乗りを上げうるだろうが……対立候補足りえるヤーナ殿下にその意思はない。したがって、票を買うために双方が賄賂をばらまき、賄賂費用が高騰するという本末転倒な事態は避けられるだろう。王位に興味津々の間抜けも居ないではないものの、継承法を完全に無視するわけにもいかない手前、セイムが彼を呼び出すことも難しい。故に、とモーリスは苦笑交じりに自身の推測を口にする。「そうですね、王位そのものは、かろうじて認められるでしょう。ですが、諸卿の反発は留まるところを知らぬかと」王位が長らく空位であることを良しとするわけにもいかないのだ。拒めるだけの理由がなければ、さしものセイムとて不承不承、フランツ殿下の登極は可決することだろう。とはいえ、理屈だけで納得できる人間のことを『できた人間』と呼ぶのは、往々にして納得できない愚者が多すぎるから。セイムの貴族らが、不本意な賛成票を投じさせられたと騒ぎ出せば……先にあるのは混沌だ。モーリスの読みでは、十に九は確実だろう。なにしろ、とモーリスは胸中で嗤う。「さすがに、殿下ほどの知性をおもちなればお分かりかと。ここで、揉めることになれば大惨事ではございませんか?」さすがに、現状でフランツ・ヤーナ陣営に挑みかかるという蛮勇を抱く愚者はいないにしても。フランツ王が、自分たちにとって都合が悪いとなれば『代わり』を模索し始める程度にセイムというのは愚かでもある。……そして、コモンウェルスには『フランツ/ヤーナ』といったジョナス王直系以外にも、『代用品』足りえる程度にソブェスキ家と縁の深い連中もいないではないのだ。先ほどから気になっているジョナス王の婿殿とて、無理をすれば既成事実を積み上げて王位に挑みかかるぐらいはできるかもしれないのだから。「……ど、どこまでも人の足元をみる連中ということね!? ……私が、セイムの貴族たちに屈するか、屈しないか。つまるところ、貴方はそれが知りたいと?」「御意。貴族たちをどこまでも尊重するかどうかでございます」御意と頷きつつ、モーリスはちらり、とヤーナの表情に浮かんだ嫌悪の色を読み取っていた。ああ、と小さく口元を緩めながらモーリスは確信する。随分と、面白そうじゃないか。素敵な予感があるとは、このことだ。「さて、殿下のご存念やいかに? 貴族の意をくむのか、それとも敵対する覚悟があるのか。コモンウェルスの国王は市民によって推戴されるものです。その正統性はただ血統にのみ限るのではありませんぞ」無限の王権は、市民の同意によってはじめて成立する。王位継承者とは、まだ王ではない。王となっていないのであれば、制約付きの無限の王権ですら、王位を継承するまでは発動しえない。故に、策謀の余地が残されている。策謀の余地が残されているということは、モーリスにとって遊び場が残されているということでもある。だからこそ、モーリスは知りたいと願うのだ。ヤーナ・ソブェスキ。この歪な才覚者がなにを思い、言葉を発するのだろうか、と。「難しい問題ね。とはいえ、決断も必要か」改めて、モーリスはヤーナの答えを待つ。「一度しか言わないわ。良く聞きなさい……『クソ喰らえ』よ」「殿下? よろしいのですか?」思わず、と。本当に、自然に。モーリスはぽかんとした表情で訊ねてしまっていた。「モーリス。私はね、セイムに期待していたの」それは、分かる。彼女は、ヤーナ殿下はセイムの実情を知らなかったのだろう。モーリス自身も推測をつけているのだ。なればこそ、セイムへ失望した、と語る声色の背後にある怒りも失望もある程度までならば理解はできる。「セイムの大人たちがフランツを助けてくれるだろう、と。……お礼だって、そのためならばいくらでもしたわ。でも、それは順序が逆」ヤーナの目を見つめれば、揺るぎはなし。「フランツを助けもせず、危機にあっては傍観し、そして金の無心?」瞳に映っているのは怒りと侮蔑の色。「セイムという議会はクソの塊よ。期待するだけ、無駄と理解したの」だが、とそこでモーリスは困惑する。政治的生き物として、せざるを得ない。今迄羅列された言葉は、随分と率直にして直截な本音だろう。結構なことだ。それこそが、知りたかったことでもあるのだから……自分に不都合はない。けれども何故、彼女は『股肱の臣下』でもない自分へこのようなことを口にするのだ?「貴族って、どこまでも自分本位なのよね? 私の大切なフランツのことを、どれぐらい真剣に考えてくれるかしら」「殿下、青い理想論でございますか? われわれとて、コモンウェルスのことを思っておりますぞ」咄嗟に舌を動かし、空疎な建前でヤーナの言葉を遮らざるをえないほど、モーリスは困惑していた。ヤーナより、信を置かれるいわれが自分にないことは、モーリスとて理解している。これまでの経緯からすれば、むしろ警戒されているほうが自然だろう。それが順当というものだ。許されるならば、声を大にして問いたいほどである。何故、それを私が聞かされるのですか、と。「建前はいいの。本音で話すわ。それとも、あなたは『議会の知性とやらを信じている』の?」「……フランツ殿下に、不本意な思いなどさせたくないというヤーナ殿下のお気持ち。臣はよくよく理解いたしました。ですが……よろしいのですかな? セイムを信頼しないのであれば、行き着くところは非常に限られますが」なればこそ、モーリスは困惑をぬぐえぬままに言葉を重ねる。自分がヤーナ殿下の信を得ようと美辞麗句を連ね、懐に入り込んでいるのであればほくそ笑むこともできようが……直截な会話を交わすべき前提もない状況で親しくされれば戸惑いは恐怖にすら転化しうる。「王権の強化。貴族のわがままを許さないだけの権限を強化、あとはそうね、弱体な中央政府を強化するのだから……嫌われるんじゃないかしら?」……そこまで理解しているならば、という一言を飲み込むのも簡単ではない。辛うじて自制したモーリスは、さらなる言葉が続けられるまで固唾を飲んで待つしかないのだ。「叛乱も時間の問題かしらね。でも、モーリス。一つだけメリットがあるわ」メリット、とつぶやく彼女は明日のランチを語るかのような気軽さだった。「主導するのは、私。フランツじゃないの。フランツはすごくいい子だし、頭も悪くない。だけど、誰が見ても9歳児に決定権なんてないわ」だからこそ、異常だ。モーリスをして、咄嗟には理解しえない理論。いや、気高い自己犠牲の精神とでも説明すればある程度までは理屈を付けられなくもない。ヤーナ摂政殿下がどのようにお思いであれど、世間一般では確かにフランツ王子をヤーナ殿下の傀儡とみなすことだろう。それは、道理だ。「君側の奸を除き王室の難を靖んずると名分がある。負けるつもりはない、でも、私が負けてもフランツは助かる見こみがある。なら、私は姉としてあの子の障害物を壊しておくの。理解できた?」理解できるし、非常に納得もできる理屈ですらある。だが、とモーリスとしては心中で壮絶に混乱せざるを得ない。やはりたった一つだけ、どうしても確認しておきたかった。「……殿下、なぜ、それを私に?」「はっ、面倒な男! 口に出さないと分からない? あなたのことだから、どうせ察しがついているでしょ?」困ったことに、とモーリスは心中で苦笑して見せる。実は、『わからない』のだ。「さてさて、なんとも。ですが……戦乱をのぞまれるのですね? 下手をせずとも、内乱ですが」「あなたは、のぞまないの?」「無論のこと、のぞんでおりませんぞ。臣は、平和を愛するものですので。ですが、臣は王意にまつろうもの。御意を奉じるまでであります」作りものの笑顔を張り付け、無意味な言葉を重ねつつモーリスは懸命に思考する。なぜ、と問う疑念。けれども欲の薄い人間の目的を読むのは、いつだって難しい。「口元のにやつきさえなければ、信じそうになる言葉ね。結構、では、戦争の準備を始めましょう」ぼつり、とそこで重ねられるのは決意だろうか。「……面倒ごとというのは、一瞬で片づけてしまうに限る」「それもずいぶんと率直なご意見です。……臣を信用なさるので?」「いえ、まったく。だけど、あなたは勝ち目がない私にえんえんと助言を垂れるほど善良?」「……おみそれいたしました。では、楽しむことといたしますか」◇何時になく強硬な王家の姿勢で危ぶまれていたにせよ、だ。他に適切な候補者がなく、軍権そのものを王家が掌握している戦時である。当選そのものは、つつがなくというのが大枠の予想であり、モーリスの読みとも変わらない。フランツ第四王子の当選そのものは確定していた。もっとも、波乱なく選挙戦を戦い抜きたいのであれば賄賂はやはり必要不可欠。なればこそ、モーリスが『裏工作』を一切行わずに成り行き任せの投票を議事進行役として告げた瞬間に、セイムの議員たちが『自分以外が賄賂をもらっているのではないか』と疑心暗鬼の色を浮かべるさもしい様は見ていて楽しめた。つまらない儀礼に、恭しい表情のまま参列するちょっとした役得とはこのことだろう。こんな慎まやかな程度の喜びでも、無いよりはましである。「セイムの選挙結果をお伝えいたします。皆様、セイムは厳正にして公正なる信任投票の結果……」さて、どうなることやらと思いつつ、彼は結果を口にする。「フランツ・ソブェスキ殿下を、コモンウェルス王に推戴いたします! 市民諸君、陛下に忠誠を!」宰相である自分が選挙結果を読み上げると同時に、列席した貴族らがそろって頭を垂れる光景は宮廷画家が壮麗に描いてくれることだろう。できることならば、とモーリスは出来ぬこととは分かって居れども願うてしまうのだ。渋面をかみしめている連中の表情を、画家がどうにかして残してくれれば楽しいだが、と。かくして、王として初勅を告げることになるフランツ王の治世が形式的には始められる。「朕は、ここに王権の発動を宣言する!」王権の始動を告げる幼王の宣旨。「全市民の信頼と信託に対し、朕は誠実かつ熱意をもって取り組む」伝統の一節を口にするフランツ王の所作は、気負いとは無縁のそれ。けれども、フランツ王が気負いなく口にしたのは爆弾の投下にも相当する衝撃的な文面でもある。「朕は法を尊重しよう。王国の全住民よ、諸君は朕と同じく法の前に平等である。厳格な法と市民的自由と義務の履行を朕は諸君に求めたい」本来ならば、それは次のような契約の文面でなければならない。『もし朕が法、自由、特権、慣習に反することがあれば、王国の全住民は朕に対する忠誠義務を解除されるだろう』と、王権を制約するべき宣言。それを、フランツ王が放つ初勅は含んでいない。コモンウェルスの貴族らにとって、それがどれほど衝撃的かはざわめき始めているセイム議場に立ちこめ始めている不穏さを見れば一目瞭然だろう。だが、大仕事をやり終えたとばかりにテトテトと壇上から降りていく幼い王の背にそれを理解しているという様子もうかがえない。あるいは、とモーリスはふと愚考してしまう。ヤーナ摂政殿下に置かれては、『フランツ陛下』に何一つとして事前知識を持たせることなく、即位の辞を記した原稿を与えたのではないだろうか。そうでもなければ、とモーリスは垂れた頭の下で苦笑する。事の重大さをわかっていれば、あの素直な子供がこうまでも躊躇いなく口にできる文面ではないのだが。とはいえ、とモーリスとしても楽しい、全くもって楽しいシーズンの到来を確信しえる。『もし朕が法、自由、特権、慣習に反することがあれば、王国の全住民は朕に対する忠誠義務を解除されるだろう』との一文を欠いたフランツ・ソブェスキの即位宣言は衝撃を全列席者にもたらすものだ。すでに、不穏の種は蒔かれている。フランツ王の即位宣言はセイムへの心づくしが欠けていたことと相まって、『貴族の慣習的権利』を取り上げるおつもりだ、という著しい憤激を引き起こすに違いない。公然と不満が語られる穏やかならぬ雰囲気の中で、フランツ・ソブェスキは即位を果たす。彼の治世がどうなるのか。それは、モーリスにとって先行きが楽しみな謎である。◇あるいは、なればこそ、というべきか。彼は、自室でぽつり、と不満げにつぶやく。「……さて、またラブレターですかね。気持ち悪い手紙なことで」先立ってのセイムでフランツ王の即位が支持されたというのに。相変わらず、自分こそが正統なコモンウェルスの王位継承者だと称するお手紙を親しくいただく身ともなれば、身の振り方を考えなければならないところだ。モーリスとしてみれば、セイムでよい席をとったのは笑い転げるためであり、誰かの後始末をするためではない。所領のある南方に基盤を持つ大貴族が、馬鹿げた妄念に突き動かされるとあらば……仕事が増えて仕方がないではないか。「とはいえ、お手紙を一方的にいただくのもあれだ。お返事を書くのは、人間としての礼儀でしょうね」しぶしぶ、という態で『諫める』手紙を書くべく羽ペンに手を伸ばしかけたところでモーリスは暫し黙考する。普段であれば、遊ぶことも考えるのだろうに。「なぜ、『制止』しようとおもったのですかね?」ぽつり、と自問すれば答えも自ずと明らかになる。「面白さを感じない? なるほど、興味の対象が移っている、と」まぁ、無理もない。不思議の塊を見ている方が、愚者の愚かさを嗤うよりも遥かに健康的というものだ。ハタと気づくのは、その瞬間だった。「猿回しの猿、私は楽しめませんけれどもね? 殿下や陛下はお楽しみくださいますかね? ふーむ、忠実なる王家の臣下として、ちょっとしたご奉公というのも悪くはないでしょう」であるならば、とモーリスは書きかけていた手紙を焼き捨て、空疎な美辞麗句だけを書き連ねた時候の挨拶文を書き上げる。無意味に壮麗にして、無意味に荘厳な文。クルクルと巻いて、封緘のために封蝋を押せば雰囲気も抜群だ。往々にして、愚か者は中身まで理解できないので『文が帰ってきた』という事実だけで飛び上がって軽率な行動に出てくれることだろう。「おっと、臣下の家族をヴァヴェルに招いておかねば。まぁ、フランツ陛下の即位を記念し忠誠を改めて、という名目か何かでいいでしょうね」誰か、所領に心得たるものを配置することも怠れない。ヤーナ殿下の動向を観察するうえでも、戦地での振る舞いや統治手腕というのは情報がいくらあっても多すぎるということはない。けれども、というべきだろうか。モーリスとしてみれば、まったく楽しくない『仕事』でしかなかった。「やれやれ、やはり絵は自分で描くに限りますね。よそ様の下絵をなぞるばかりでは、ちっとも面白くない。おもちゃを与えられて喜ぶ子供ではないのですよね。遊び、というのは遊び相手がいてこそだというのに」陰謀、謎、分からないこと、遊び相手。それらはすべて、自分で見つけてこそだ。楽しそうに遊んでいる面々の遊び場に混ざったところで、同じように楽しめるという保証はない。悲しいかな、王位を僭称せんとする愚物程度では、モーリスの趣向に叶いそうにもないのだ。「しかし、まぁ、仕方がない。この好機に、少し、仕事をしておくことにしますか」セイム内部に、それとなく風説を流して……自分が『ヤーナ殿下閥』だという認識を蔓延させておくことにしよう。せいぜい、自分の地歩固めに使おうじゃないか。「やれやれ、おっと、ため息は幸せを遠ざけるといいますがね。勤勉に過ぎるのも考え物、ということですかねぇ。私も、無責任に生きていければ楽しいのでしょうけれども」どいつもこいつも、目先のことすら見落とすセイムの中で綱渡り。酔っ払いがフラフラとさまよっているようなもので、まともな人間にしてみれば、まっすぐ歩くだけでも簡単ではない。「憂いあればこそ、楽しみもあり、とでも思わねば。さてさて、オペレッタというにはちと演者も演目も凡も凡ではありますがね。踊りたという愚か者が躍るぐらいは応援して差し上げますか」笑えると、楽しいのですけれど、どうですかねぇ……と嘆息したいほどにつまらない演目と演者。期待しない方が、良さそうであった。
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【銃魔のレザネーション】第一章『銃魔のレザネーション』
ニコニコゲームマガジンで配信中の
「銃魔のレザネーション」のシナリオを担当した
カルロ・ゼン自らがノベライズ!ゲームでは描ききれなかった戦争と政争の裏側が明らかに。いつからだろうか。いつから、この国は間違えてしまったのだろうか。エリーゼ・ユニマールは考える。いつから、この国は後戻りできなくなってしまったのだろうか、と。ハイマットの壮麗な白い宮殿。その内奥、一室に集う貴族『諸賢』の中に混じって微笑の仮面をかぶり列席するエリーゼの内心は暗澹たるものだ。黒い瞳を微かに揺らしつつ、彼女はままならぬ状況に目を伏せる。染み一つないシルクのテーブルクロスが上に並ぶは贅を極めた正餐(フルコース)。ちらり、と目線をサーブされた磁器へ向ければまた呆れたこと。オードブル一つとっても『富』を誇示せずには居られないのだろう。場所が『こんなところ』でなければ素直に堪能したくなるに違いない。……ここが、今、エリーゼ自身の招かれている場が『飢饉の対策会議』でないとすれば、の話だが。おおよそ、まともな倫理観と道徳心をもつ人間ならば、それだけで罪悪感からフォークとナイフを手元から取りこぼしそうになる。シュヴァーベン地方は、収穫期を迎えつつある。豊穣の秋、お腹いっぱいに子供たちが食べられるべき秋。にも関わらず、早くも……酷いところでは餓死者を出しつつあるというのに。会議と称して、王政府の高官らが浸るのは『飽食の宴』。顔面に貼り付けたる笑顔にヒビが入らなかったのは、奇跡に近い。現状は、深刻極まりない。エリーゼは、嘆かわしい現状を前にいつも顔で笑い、心で泣き続けている。喫緊の課題である飢饉の問題。だが、とエリーゼはいっそ『不作』であればと皮肉な思いすら抱いてしまう。事実は、まったく逆だ。ユニマール朝の農業収穫は、隣国、コモンウェルスより導入された魔法技術の活用により、年々、堅調に増加している。今年とて、収穫高は最低でも例年並みか微増が確実だろう。にも拘らず、とエリーゼは歯噛みする。国内の貧困層どころか、平民層全般が穀物を購えていない。穀物そのものは収穫されているのに、である。その理由は、極めて単純だ。生産された穀物の大半は輸出に振り当てられ、国内市場に十分な量が行き渡らないにすぎないのである。自由都市同盟の方が、『高く買い取る』という理由でもって『徴収』された穀物は恐るべき規模で国外へ流出していく。わずかに国内に流通する穀物は、物不足を反映して大幅な値上がりを示し始めていた。悪いことは重なるもので、値段が上がるとふんだ商人たちの売り惜しみまで始まりつつある。このままでは、餓えた貧困層を中心としての暴動や打ちこわし騒動もありうるだろう。もはや、まともに生活しようにも食料価格は、とても手の届くところにないのだ。飢え死にを大勢が迫られているとあらば、倫理的にも、青い血の義務としても、放置することなど本来は許されるはずがない。だからこそ、山積している所領での職務すら投げ打ってエリーゼはハイマットの会議へ駆けつけていた。そして、案内された『会議室』が『正餐室』であった瞬間に全てを諦めざるを得ないと悟り、彼女は幾度なく味わってきた絶望をまた一つ重ねる。華やかな会場にあってエリーゼの苦悩を理解し、分かち合える人物は一人としていないだろう。理解者であり、師でもあったヨハンナ先生すら『貴族にあるまじき軽率さ』を口実にハイマットより追放される始末なのだ。壊れた世界で、一人、正気を保つのはたやすいことではない。「おや、エリーゼ殿下。杯が進んでおられません様だ。お口に合いませんでしたかな?」「……いえ、ルメーリア公。良いワインだとは思うのですが、なじみが薄く。やはり、統治に追われる身では学ぶ機会が乏しいからでしょうか?」ホスト役であるルメーリア公爵の言葉に、エリーゼはポツリと苦言を呈してしまう。随分と迂遠なことだ、と自分でも思わざるを得ないが。統治に忙しい、という嫌味と取られかねない一言。されども、というべきか。嫌味とて、彼らには通じないのだ。エリーゼ自身、とうの昔に諦めている。「なじみが薄い?」「殿下、お言葉ではありますが……そのように下々に関わるなどと」「さよう。ご趣味に苦言を呈するのは無粋ではありますが……」まるで、学者より自身の専門領域での無知を告白されたかのように大様な驚きを見せる貴族ら。誰もが、この場に並ぶ誰もが『ワインの知識』を誇り、『統治』という義務は省みもしないのだ。毎度のコトながら、教養こそが全て。実学とは、下々のいやしむべき所業と断言して憚らないおつもりなのだろう。だからこそ、エリーゼのように数少ない良識人はいたたまれない。されども、この場に会って、ホスト役であるルメーリア公だけはエリーゼの発言を笑い飛ばさない。それどころか、なじみが薄いという発言に頷いて見せていたのをエリーゼは視野の端で捉えている。そして、好々爺然とした笑みとともに会場へルメーリア公は問いかける。「皆々様は如何でしたかな?」どのワインと見ましたか、と公爵からワイン通ぶりを問われれば……誰もがこぞってその知識を疲労しようと鋳物なのだろう。王政府の施策に対する下問は聞き流すというのに。「良いワインだとは思うのですが……さて」「ポルトールの10年物! ヴァヴェルですら中々に流通しない代物でしょう?」「いや、この仄かな土の柔らかさは……トラジメーノの限られた環境の代物に違いありますまい!」喧々諤々、まるで、ワインの試飲会もさもありなんとばかりに語り始める彼ら。「エリーゼ殿下、殿下はいかが思われますかな?」「……残念ながら、と申し上げます。お恥かしながら、私は飲んだことがないと」奇異の視線を一身に浴びてなおエリーゼは、しかし、恥じることはないとばかりに微笑み返してみせる。『苦しいときこそ、笑いなさい、エリーゼ』ヨハンナ先生の教えが、こんなときに活かされることを喜ぶべきだろうか? それとも、ヨハンナ先生を初めとする改革派がごっそりと失脚してなお『血統』故にハイマットに地歩を残せた自分の運命を呪うべきであろうか?「殿下のワイン教育係は、更迭されたほうが宜しいでしょうな」さらり、と隣のアンジャール公がしたり顔で寄越す助言。そのなんとも的外れな内容に、エリーゼの乏しい気力がどれほど削がれたことだろうか。ワインの教育係?そんな人を雇う余裕など、ない。限られた家産でもって、荒れ果てた国土を支え続ける家産は限界まで酷使している。必要なお金も物も持ち出しばかり。最低限の対面を保つ以外に、資金は全て内治につぎ込まざるを得ないのだ。そうでなければ、明日にでも破綻は避けがたい。かくほどまでににこの国は荒れ果てているというのに。「いやいや、アンジャール公。むしろ、その人物を賞賛すべきでしょう」「ルメーリア公?」ぽかん、としたアンジャール公爵らに対し、ルメーリア公が典雅に笑ってみせる。面白がるような表情と、ちらり、とエリーゼへ寄越す賞賛の眼差し。「殿下のお言葉が正しいのですよ」お見事です、と此方へ語りかけてくるルメーリア公。「ルメーリア公?」「はて?」訝しげな面々に対し、ご老人は高らかとボトルを取り出して胸をはる。「皆々様、ご紹介させていただきましょう。モルヴィッツの地所にて……我が半生を賭して作り上げた国産のワインです」誰もが、信じたがたいとばかりに、隣席と言葉をささやき交わす。ルメーリア公その人の自慢げな笑みに、室内が一瞬の内にざわめき始めていた。これでは、ワインの試飲会ねとエリーゼは小さく溜息を零すほかにない。「こ、国産?」「モルヴィッツで、これほどのものを作れた……と!?」列席者がぽかん、と手元のグラスを覗き込む光景。「さよう。いや、コモンウェルスと自由都市同盟の連中から技師やら何やらを確保するのは苦労しましたが」「では……これを飲んだことがあるのは……」「我が一門の面々を除けば、今日、皆様が初めてでしょう」ルメーリア公が重々しく頷けば、ああ、なんという皮肉だろうか。貴族らによる、『賛嘆の声』が私へと飛んでくるではないか。彼らは、私が、『未知のワイン』と見破ったと思い込んでいる。「ははは、これは一本取られましたな」「いや、エリーゼ殿下の御前でお恥ずかしい。知ったかぶりをいたしました」『なじみがない』という自分の言葉を、誰もが『初めて飲むワイン』と『見破った』と讃えてくれるわけである。……そもそも、ワインに通じる間もないだけなのだけども。「ワインに通じていないが故のまぐれでしょう。皆様のように深い知識がある方々ならば、似たような味に思い当たられるのも道理かと」「ははは、そう顔を立てていただけるのであれば実に幸いです」「エリーゼ殿下に、ご叱責を賜るのではないかと。いやはや、お優しいお言葉に安堵するばかりであります」皮肉ね、と心中でぼやきつつの言葉は品の良い謙遜と受け取られる始末。そもそも、エリーゼ自身にワインの教育係が居ないといえばどれ程周囲が驚くことだろうか。いっそ、吐露してしまいたいほどだ。衝動を飲み込み、敢えてエリーゼは本題へと話題を何とか引き戻す。「さて、ご列席の皆様と優雅に酒宴と参りたくはありますが……国王陛下と王政府より信託された責務を果たさねば」こんな面々とでも、飢饉対策を共にしなければならない。そうしなければ、王政府の握っている金穀でもって餓えている人々を救済することすらおぼつかないのだ。この会議が、権限握っているという超現実。そうである以上、どれほど不毛で徒労感に塗れようとも遣り遂げるほかになし。「エリーゼ殿下のお言葉とあらば、いたし方在りませんな」「左様、さて、今回の議題は何でありましたかな?」「ああ、それならば確か……北部の治安悪化と飢餓問題でしたな」ようやく、始まる会議の本題。されど、されど。「北部の治安悪化? 奇妙ですな。どなたか、ご存じですか?」「いや、そのようなことは特に。私の所領も北部ですが、聞いたこともありませんな。北部は静謐そのものですぞ」「ハンボーホ要塞からも異常の報告がありませんでしたが」誰もが、真顔で疑問を浮かべるという異常な状態。けれども、彼らにしてみればそれが当たり前なのだ。現地に足を運んだこともなく、経営の実務を下に任せきりになっている貴族ら。そんな人々に、判断をゆだねざるを得ないことのなんと無謀なことか。無論、というべきなのだろう。貴族らとて愚かに生まれるのではない。貴族としての環境が、彼らを知的に異形な生き物とならしめるのだろう。エリーゼの知る限り、知的に誠実な貴族が真っ先にこの違和感に耐え切れなくなる。多くは匙を投げ、自領に隠遁してしまう程だ。無理もないだろう。とは思うものの、しかし、ここで投げ出すこともエリーゼには許されない。なればこそ、違和感に揉まれつつも彼女は最善を尽くし続ける。「諸卿のお言葉にやや反するようですが……ドッガーランドにて騒乱が起きているようです。現地よりは悪質な盗賊と貴族崩れが暴れている、という報告が」エリーゼが取り上げるのは、少数の官僚らと協力して自身で手を回して手配させた現状をまとめた報告書。これですら、元となった報告書からすれば、相当に抑制的な表現に切り替えられている。悪質な盗賊どころか、正規軍の武装した脱走兵が部隊ごと放浪。貴族崩れと形容される連中に至っては、『本物の貴族』すら混じっていることが確認されている。それも、紋章院に記録されているような家柄の連中まで、だ。憚りや配慮を延々と繰り返し、極端に薄めた報告書となったそれですら……会議へ上げることには相当な苦労を強いられている。「誠なのですか? エリーゼ殿下、お言葉ですが……誣告なのでは?」「もしくは、誤報か大げさな慌て者の痴れ事でしょう。そのような報告、現地の貴族からは飛び込んできていない」恐るべきは、というべきか。ユニマール朝の疲弊しきった官僚機構制度は、機能させるだけで大仕事。それらを乗り越えて、辛うじて上申させている危機の報告はあっけなく、それこそちり紙のように脇に追いやられてしまう。「となると、ふむ。残るは食糧不足の問題ですか」「失礼ながら、どちらかと言えば過剰な輸出が原因です。輸出制限を検討すべきと王政府からは」まともな提言、良識こそが、この場に置いては『異端』なのだ。「また、困ったご意見を聞きましたぞ」「自由都市同盟の業突く張り、ああ、失礼。商人共との貿易も契約がありますからな。平民相手とはいえ、金を持っている連中を軽視するわけにも行きますまい」「全くですな。そもそも、いかに王政府といえども貴族の所領に介入されるのは如何なものか。貴族の忠誠心を蔑ろにされるのも困りものですな」誰もが、真顔で、それを口にする。エリーゼにとって、冗談でしょうと問いかけたい内容。しかして、彼女は同時に知っている。貴族達は、どこまでも、大真面目にこの言葉を口にしているのだろう、と。「王家に列なるエリーゼ殿下に申し上げるのも誠に恐れ多くはありますが、王政府と王家にご諫言いただけませぬか」「『それは、許されない』と。ずばり、申し上げるべきでしょうな」沈黙しつつ、かすかに拝聴していますよと顔を動かすエリーゼの所作をどう解釈したのだろうか。「とはいえ、殿下。殿下とて、国王陛下に申し上げにくいことではありましょう」「急ぎではありませぬ。貴族らの総意としては、反対であるとのみお伝えくださいませ」「折を見て、苦言を呈していただければ、それで宜しいかと」さも、鷹揚そうに伝えられるは戯言。エリーゼにとって、しかして内容は暗澹たる結論を意味するものでしかない。会議の出席者は、権限を持つ人間らは、誰一人として『問題に取り組む』ことを一顧だにせず、王政府へのクレームでもって結論としているのだ。「ふむ、名案ですな。では、この気まずさをワインで洗い流すといたしましょう」「ルメーリア公の逸品、そのような用途に使うのはちと気が引けますな」「なに、諸賢の好評を頂ければそれが何より」笑顔を保ち、ただ、時が過ぎるのを待つばかり。エリーゼの心は、早くも、悲鳴を上げ始めていた。……飢饉、飢餓、餓死者。豊穣な大地を持つはずのシュヴァーベン地方で『また』、『農民』が餓えて斃れていく。青い血を引くと称する人々、ノブレス・オブリージュを果たすべき自分達のなんと無能なことだろうか。何も、何もできない無力さ。そして、会議という形式すら放棄された空間に広がるのは……『飢饉対策』という建前すら忘却された会話だ。青い血、ノブレス・オブリージュ。その全てが、呪わしくすらある。私の属するユニマール朝は腐りつつある。否、根底は朽ち果てた。……過剰な形式主義、過剰な貴族特権、過剰な貴族主義。華やかさの直下に、何が潜んでいるかを見ようともしない。それが、現状。なんと、素敵なんだろうか。
◇
いつからだろうか。モーリス・オトラントはたまに考える。いつから、何事も楽しくなくなったのだろうか?そこで、彼はいつもちょっと訂正する。楽しさというか、驚きがなくなったのはいつからだろうか? と。コモンウェルスが王都、ヴァヴェル。壮麗さと威厳、そして積み重ねられてきた歴史がかもし出す荘厳さ事態は決して嫌いではない。けれども、とモーリスは嘲笑する。ヴァヴェルの立派さと裏腹に、その地に住まう人間はどうにも愚鈍極まりない。分類してみれば、実に多様な愚か者どもを見つけることが可能なほどだ。オーソドックスに行けば、極めて愚かという連中が数的主力だろう。ついで、どうしようもなく愚か者、辛うじて人間の真似事が出来る愚か者という連中が我が物顔で戯言を叫んでいるのも目の当たりにできる。世界の不思議というべきか、ある意味では謎なのだが……文明圏で呼吸できているのが不思議なレベルの愚か者や、森にでも帰らせた方が当人の為ためとでもいうべき愚者まで平然とそろっている。ヴァヴェル政界を眺めれば、愚者の国際博覧会も良いところ。「……かかしの相手をする方が、まだしも愉快でしょうね」どいつもこいつも愚鈍で、しかして、自分こそがもっとも英知に富んだとすまし顔。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。モーリスが認めうるような知恵者、あるいは辛うじて人間的知性を保つ存在は『愚者』どもに疎まれて辺境行きだ。愚かなくせに、プライドだけはペガサスの飛行限界よりも高いところにあるに違いないのだから片腹痛い。その親玉こそが、眼前で踏ん反り返っているともなれば。ユーモアの一つも胸中で零さなければやっていられるものではなし。やれやれ、とモーリスはそこで表情を取り繕い恭しく拝跪してみせる。「国王陛下、モーリス・オトラント辺境伯、御前に参上いたしました」眼前におわしますは、ジョナス・ソブェスキ陛下。コモンウェルス国王にして、ソブェスキ一門の家長。セイムとの協調関係を重んじつつ、大陸における秩序の憲兵としてコモンウェルスを率いる保守主義者。『稲妻』と号されるほど卓抜した雷撃魔法の使い手であり、即位以前は周辺国との紛争において武名をとどろかした武人でもある……ということは。実に、つまらない男である。「ご苦労、オトラント辺境伯。南方情勢は、いかがか」「陛下の武威とご威光あればこそ、恙無く。オルハンの越境襲撃も絶えて久しくございません。我が辺境は、静謐を保っております」「さようか」秩序の憲兵とは、つまるところ何事も変えられない無能の言い換え。保守といえば、日々を保つことを意味するのだろうが……『進取の精神なき保守』ならばただの度し難い退嬰だ。揚句、稲妻と讃えられる雷撃魔法の使い手であるのは『一武人』としてはまことに結構なことではある。武人としてならば、それを誇るも宜しいだろう。だが、『即位』してからすら『尊号』が『稲妻』という一介の武人から変化しないという一事の裏を悟れないのは度し難い。それは、『統治者』として『称えられる値しない』ということの何よりも雄弁な証拠だろう。それを、理解できないのだ。おお、愚者の展示品、ここにも見つけたり、ということである。統治者、行政官、外交官としての資質ははるかに平々凡々。セイムとの協調関係を重んじる姿勢にしたところで、政治の舵取りが出来ぬがゆえの消極的帰結。こんな男に、才幹を捧げて仕えるのかと幻滅する日々ばかりだ。とはいえ、好き嫌いだけで仕事を怠ればまた厄介ごとも生まれるというもの。「ですが、奇妙な兆候が」「何? いかがした」「オルハンより、ユニマール朝へ幾つか軍需関連の輸出があったと」流石に、戦功を残した軍人だけに『戦』のことならば少しは話も早いのだろう。ぴくり、と眉が動く様からして……セイムや政経といった話題の時よりも食いつきは悪くない。「軍需関連の輸出? 捨て置けんな、詳細を」「西方軍需工廠より、旧式のマスケット銃とその製造設備が発送された模様です」オルハン神権帝国にもぐりこませている、モーリスが情報網の一端がつかんだ兆候だ。軽視するには、余りにも重大すぎる情報だろう。まともに考える頭があれば、まともに物事を見通す眼があれば。だれだって、軽んじたりはしないだろう。『旧式の武器』を『オルハン』が『ユニマール』に『輸出』!それだけで、モーリスは欣喜雀躍して面白い陰謀を嗅ぎ取ったほどである。「詳細は不明なのですが、ポーラ港へオルハンの船が向かっています。シャウエンブルク港や近隣地域にもです」あの化石じみたユニマール朝の似非貴族どもについて、少しでも知っていれば嫌でも想像ができた。眼前の陛下ですら、ユニマールの愚物共と比較すれば世紀の大賢者に見え来ることである。ユニマール朝の貴族評議会と比較すれば、度し難く愚かとモーリス自身が見下す在ヴァヴェルのセイム議員共を『英知の人々』と呼んだって許されるに違いない。それほどまでに愚かしく、手がつけがたいほどに傲慢なユニマール朝の連中だ。何をどうすれば、連中が『嫌いぬいている』オルハンから『旧式』の武器など買うものか。面子にかけて、断固拒否することに決まっている。オルハンからの輸入を発議した政務官など、次の一時間後には隠遁に追い込まれていても不思議ではないだろうに。「まて、オトラント辺境伯」「はっ、何事でありましょうか」ジョナス陛下の知性に期待はしていない。それは、早々に見切りをつけている。しかして、武人としての勘はどうだろうか?仕事をするだろうか? モーリスとしては、そこだけが楽しみな謎だ。しかして、少しばかり、ほんの少しばかりだけ期待して言葉を待てども結果は……いやはや、予想通り。「卿は旧式のマスケット銃とやらで、そのように大騒ぎするのか?」浴びせられるは、呆れ声。拝跪した手前、察するばかりだが……ジョナス陛下の御気には召さないらしい。ああ、と恭しく拝跪し表情を隠しつつモーリスは侮蔑も明らかに小さく哂う。なんと、まぁ、予想の範疇だろうか。「イェニチェリ共ならばいざ知らず、魔法も使えぬ無能者どもぞ? あんな代物では、使い道などさしてあるまい」全く、目の前で何事が進んでいるかも理解できないとは。無能者を哂う、無能な国王陛下というわけだ。魔法が使えるオツムの軽い国王陛下。よりにもよって、これが、コモンウェルスという壮麗な魔法文明のトップ!やれやれ、毎日がつまらなくなるとはこのことだろう。来る日も、来る日も、愚か者の国際展示会へ顔を出すのも楽ではない。どうせ鑑賞するならば、愚か者の実物展示ではなく、壮麗な芸術なり音楽なりを堪能したいものなのだけれども。「大方は、治安情勢の悪化している北部の治安回復用だろう。無能者共の武器一つで、騒ぐまでもあるまい」マスケット、それは『無能者』の為のちょっとした出来の悪い武具。大した使い道もなく、軍事的な脅威でもない。捨て置け、と一蹴されるのは……まあいい。ある程度までならば、仰ることも理解できる。「ですが、オルハンの意図が気にはなりませんか? ご許可を頂ければ、少し探りを入れてみますが」けれども、軍事的な側面はさておき『政治や外交』という要素を考慮するのがまともな統治者の責務なのである。モーリス自身、不真面目な統治者という自覚はあるが、そんな自分ですら違和感を抱くオルハンの『動向』を聞き流すのはありえない。流石に、ここまで噛み砕いて説明すればジョナス陛下にも五分五分の確率で理解できることだろう。重要なのは、とさり気なくモーリスは強調する。「旧式とはいえ、武器を提供するオルハンの意図。探りを入れてみる価値もあるやもしれません」「無用だ、無用」「は?」今、なんと?無用、と即座に断言されるとは思っていなかった。それだけにモーリスとしては思わず顔を起こし、ジョナス国王の表情を直視してしまう。発作的に幻滅しましたと嘲笑しかけるのを堪えるのも、中々に大変だというのに。「さして重要にも思えん案件で、オルハンを刺激する必要もあるまい」「刺激いたしますでしょうか? 大変に失礼ながら、陛下。このような外交方針に関する調査を目的としての接触程度であれば……」「セイムの面々を煩わせる価値のある案件でもあるまい。オトラント辺境伯、進言はそこまでとしてもらいたい」つまるところ、セイムが苦手なだけではないか!これが穏やかな保守主義者、良識的な国王陛下のご実体というわけだ。子供が好き嫌いを口にして、嫌いな野菜を取り除くがごとき幼稚さ。おお、神よ、と発作的に笑い出さなかったのは殆ど奇跡に近いほどだろう。とはいえ、南方防衛を司るオトラント辺境伯としてのモーリスは、やはり、言上せざるを得ない。徒労に終わるとは思うにしても、やはり、職責というのがあるのだ。「さりながら、陛下。この程度の調査ならば」「ひかえよ。セイムの貴族諸君といい、軽々しく対外政策を語るが……我々のような超大国の動きは針小棒大にみられるものと心得よ」「……出すぎたことを申し上げました」恭しく再び拝跪し、御前より退出。私宅に下がったモーリスは政務を放り出すと独り自室にこもる。馬鹿馬鹿しい連中を相手にした後、しばし、飲まねばやってはおれないのだ。一人酒、というのも物思いに耽る上では存外に悪くない。「さて、何にしますかね?」机の上に取り出すは、愛用している酒器。「いつものは悪くないけれど、少し、変化も欲しいところです。……そうだ、あれがあったな。試してみますか」考えた末に注ぐは、ルメーリア公が育て上げたモルヴィッツ産のボトル。あまり期待してなかったのだが……予想以上のものだ、というべきだろう。シュヴァーベンが大地の地味を丁寧にブドウとして結実させ、それを念入りな仕事でワインにたらしめたと確信しえる代物だった。ルメーリア公の家令を買収していた際に、手土産としてもらったものだが……ユニマール朝のお貴族様連中が楽しむには、なるほど、過ぎたものである「とはいえ、このワインを来年も楽しめるかは微妙ですね」ユニマール朝情勢は、激動が予期しうるだろう。オルハンの策動や、積もり積もっている内部の政治的課題は爆発寸前との兆候もある。ワインのように繊細な管理が必要な趣向品を、果たして陰謀の渦中にあっても確保できるかは運任せになる。そして、運に物事を任せるというのは人事を尽くした上での選択肢たるべきだ。「ふむ、悪いものではない。何より、希少な価値がある。……今少し、横流しさせるとしますか」さて、とモーリスはそこで頭を切り替える。ワインを楽しむのも良い。けれども、そろそろ本題を考えるべきだろう。「……やれやれ、あの陛下はやはり駄目だな。旧式の武器を『オルハン』が『ユニマール朝』に『輸出』という異常さをご理解いただけないとは」あの化石じみたユニマール朝の似非貴族どもが、『嫌いぬいている』オルハンから『旧式』の武器など買うものか。まして、『銃』を下賤な装備と蔑む連中だ。整合性が揃わないと気付くはずなのだが。なんだって、そんな単純な疑問すら抱かないのか自分には理解が出来ない。おかしなこと、陰謀の匂いがこれほどに立ち込めているのに。……『無用な刺激』を避けるために、調査するな、と。本音の部分では、セイムを敬遠してだろう。なんとも、器の小さい男だ。そんなジョナス陛下に忠誠を捧げる?馬鹿馬鹿しい。なんと、退屈極まりない。否、否、否。これでは、目の前で楽しい悪だくみに首を突っ込むなといわれるようなもの。全く、オルハンとユニマール朝の外交関係が改善でもしたらどうなるのか?あるいは、とモーリスはそこで視点を変えてみる。銃の輸出は、そもそも、本当に『ユニマール朝』への輸出なのだろうか?ふむ、と考え込めばそれほど悩む必要のある問題もない。ユニマール朝が正式に手配することは、かの国の政情からして不可能。ならば、一部の軍人の独断か? しかし……そのメリットがあまり思い浮かばない。はた、とそこでモーリスは気が付き微笑んでいた。「……いや、『ユニマール朝』への叛乱を煽るとも見れますね?」ユニマール朝への輸出品だが、別に、ユニマール朝が最終受取人であるという話もなし。それこそ、かの国の情勢を考えれば『火種』はいくらでもあるようなもの。燎原を焼き尽くす火を起こすこととて、現状ならば不可能ではないだろう。そして、オルハンにはそれを行う能力がある。成功すれば、『少なくとも』今よりは親オルハンとでもいうべき国家体制がシュヴァーベンの地にできるだろう。失敗したところで、『少なくとも』今よりも無能者や貧困層に対する『ユニマール朝』の抑圧は強化されるだろう。そうなれば、間違いなく多数の流民が自由都市同盟と我々コモンウェルスに飛び込んでくる。この点で、モーリスの念頭に浮かぶのはコモンウェルス西方を預かる二人の辺境伯。「……イグナス女辺境伯は、この点、お甘い。入れる、間違いなく入れるでしょうね」奇妙なまでに、善良であることに拘泥するタイプの女性だ。モーリスには理解できない世界に生きているタイプであり、何がしかの強迫観念すら感じられるが……そこは、まぁ、今回は関係ない。重要なのは、イグナス女辺境伯は『絶対に』流民へ甘い態度を示すだろうという読みだ。「加えていうならば、『彼女』の性格は広く知られてもいますね。オルハンの連中が知っていたとしても、驚くには値しません」さて、と思考を続ければ問題はここから。酒器を傾けつつ、モーリスは少し記憶を漁る。「アッシュ辺境伯は、どうだろうか。……わからないとはいえ、不確実が残る」正直に言って、アッシュ辺境伯のことをモーリスは通り一遍にしか知らない。調べた限りでは、武人だ。しかし、一方でジョナス陛下ほど『愚か』そうでもない。存外、頭の根幹は悪くないのだろう。だが、気質的に戦場を好みすぎるという点では陛下の同類だ。「ということは、『敵』以外には特にこれという方針がないということですね」……そういう意味では、流民の流入に対してこれといった政見を抱いているとも思えない。通過を許すということは、用意に想像されうる。あの手の武人は、敵以外には比較的甘い。甘いというよりも、変な誇りがあるというべきだろうか?どちらにしても、結論は同じだ。「流民、地方情勢不穏……いや、違いますね。ヴァヴェルに流入するでしょう」モーリスの知る限り、動乱にあって歴史的事実として人々は『望まぬ移動を強いられる』。生まれ故郷を逃げ出す人々の大半は、寄る辺がない流民だ。だからこそ、彼らは一縷の望みを抱いて『都市』を目指す。コモンウェルスの場合は、ヴァヴェルに代表される大都市がその対象だ。或いは、自由都市同盟の『ポリス諸都市』も候補だろう。「ふむ……そういう意味では、厳格な国境管理を行っている自由都市同盟よりもわれわれの方が国境は脆弱ですね」やれやれ、と嘆きたいことではあるものの。コモンウェルスの国境はあまりにも広い。壁を築いているとはいえ、スキマもまた無数にあるのだ。軍隊のような大規模かつ組織的な人的移動を食い止めることは出来るだろうが……。「困ったな、流民の浸透までは阻みようがないでしょう。いったい、その内のどれほどが『手に職』を持っているのでしょうね?」魔法文明と称する我らがコモンウェルスは『無能者』の居場所がない。流民のように、貧しく、かつ、魔法も使えない層は都市での生活一つとってもままならないだろう。手に職を持つものならばいざ知らず、故郷から命からがら逃げてきた『無能者』は自ずと生きるために手を汚さざるを得なくなる。そうなれば、とモーリス・オトラントは苦笑する。「第五列、潜在的なスパイ層、或いは我々への叛乱。オルハンにとって、随分と都合の良い手先が出来上がるわけですね」どちらに転んでも、オルハンに損がないという寸法か。意図を読めば読むほど、手堅い賭け。「やれやれ、南の方々が羨ましいことです」遊び相手に事欠かない上に、遊ぶことを許されているとは。……思わず、悪戯に自分も加わりたくなるほどじゃないか。
第一章モルヴィッツにおいて、主将たるエリーゼ・ユニマール将軍は天を仰ぎ、一言、胸中で恨み言を零して溜息。濡れ羽色の髪を苛立たし気に撫で、逡巡を払うように一瞬だけ目をつむり、小さく口を開く。「……ここまでね」後世に曰く、モルヴィッツ会戦と称されるに至る戦い。それは、ユニマール朝滅亡に至るまでにおいてシュヴァーベン革命軍が直面したただ一度の大きな戦いとして知られるに至る。歴史書ならば、そこでページを閉じれば終わるだろう。しかし、未来を知ることなど叶わぬものだ。当時の指揮官であるエリーゼ・ユニマール将軍もまたしかり。その当時、敗北を知るや否や、彼女は『敗北のあと』に『起こるであろう』惨事を予見し、諦観のうちに覚悟を定めざるを得なくなっていた。「撤退します。少しでも、兵を逃さなければ」「エリーゼ将軍!?」まだ、我が軍は、と反駁してくる貴族将校ら。「我が軍はまだやれます!」「光輝溢れる王軍が、退くなどと!」「王家のご威光に泥を塗るが如き所業など!」なんと、おめでたいことかしら。眼前の光景は、とても『まだ』踏ん張れるなどという有様ではないというのに。「我が軍の組織戦闘能力はもはや瓦解しています。これ以上は、無駄な犠牲でしょう。軍曹、将校諸君。撤退戦の支度を」「なりませんぞ! エリーゼ将軍!」こちらを咎めようと叫び声を上げてくる連中には、もうウンザリ。「……心のままに振舞うことが許されるのが、こんなときになるとは」「何ですと?」「衛兵! 諸卿をお連れ出ししなさい! 多少手荒でも許します!」「馬鹿な!? 衛士如きが、貴族を!?」モガモガと叫ぶ連中は、しかし、本営の選抜衛士らに取り囲まれ、抵抗というほどの抵抗もなせずにつまみ出されていく。「初めから、こうするべきだったわね……。せめて、こうなる前に」彼らに足を引っ張られ、揚句、望まぬ場所で会戦を余儀なくされたとは繰言だろう。敗軍の定め。それは、弱者の定めだ。いつだって、勝者からの報復におびえながら逃げ出のびる夜逃げのようなものだろう。まして、とエリーゼは暗澹たる思いで『叛乱軍』、今はシュヴァーベン革命軍と称している敵軍へ視線を向けるなり嘆息を零す。自分達は、『討伐軍』として出兵していた。激発するほどに追い詰められていた人々を鎮撫する意図だったとはいえ、叛乱軍からしてみれば……『抑圧者』だ。叛乱軍は、自分達ら討伐軍の将兵にどのような感情を抱いているか……想像は容易だろう。甘い見通しなど、抱きようもない。「斥候を送り出す余力すらなかったとはいえ、王政府からの情報を盲信したツケね」暴動だと聞いていた。だからこそ、少しでも状況をマシにするために自分で兵を率いた。エリーゼ自身の主観としては、他の貴族が暴威を振るうよりはと願ったのだ。だが、革命軍と称している叛乱者たちは規律訓練ともに行き届いた精鋭ら。政治に足を引っ張られ、足並みもそろわぬ自軍でとても戦える相手ではなし。戦うべきでない相手を前に、将兵が狩られていく光景はエリーゼをして愕然とせざるを得ないものだ。「……撤退します。間に合うかはわからないけれども……これ以上、無益な犠牲を出すわけには。殿軍は、私が指揮します」「殿下、どうかお先におさがりを」頭を垂れ、どうか、と懇願してくれる部下の心意気は在り難い。けれども、私が逃げるわけにはいかないのだ。「指揮官の義務とは、そういうものではないわ。さ、貴方達こそお先にお行きなさいな。そうしてくれると、私も逃げられるから」撤兵の指示を下しつつも、エリーゼは悔悟の念と共に馬上で苦悩する。銃兵に何ができると……私は、侮った、と。それ以上に……『士気』を読み違えていたのも致命的であった。「破れかぶれの暴動とばかり思っていた。……私も、間違えていたというの?」いや、とエリーゼはそこで嘲笑する。「朱に交われば赤くなる。私も、知らぬ間に立派なユニマール朝の愚かな貴族と化していたわけね……」暴動だと聞いたとき、それ以上に思考が進まなかった。虐げられてきた人々の怒り、不満、嘆きを知っているはずだったのに。……何が起きているかすら、気づきもせずに烏合の衆で討伐軍を起こす始末。私は、間違えたのだろう。「討伐戦、鎮定軍として出兵し……挙句、敗北」悲しいかな、ユニマール朝に泥を塗ったのだ。……勝てる戦いでなかった、という弁解は意味をなさない。貴族らにしてみれば。『無能者』と見下す魔法も使えぬ暴徒に正規軍でもって挑み、挙句、多数の貴族を討ちとられた私は、『敗戦の戦犯』だ。「刑死は避けがたし。ならば、せめて……部下だけでも。ここまで付き従ってくれた将兵だけでも、逃げ落とさせないと」それは、ノブレス・オブリージュを謳う最後の矜持。士官として、将軍として、そして、ユニマール朝の連枝として。誰か一人くらいは、責任を取るべきなのだろう。ならば、それは、私でなければならない。覚悟を決めたエリーゼは、だからこそ、別の道をついぞ予期し得なかった。彼女は、思わぬ来客によって己に訪れる未来を、まだ、知らない。
◇
そして、知らぬという点ではヴァヴェルの私室で、モルヴィッツ会戦の顛末について報告を受けている一人の男もまた同じだった。彼、モーリス・オトラント辺境伯は珍しく心の底から驚嘆する。「は? ……エリーゼ殿下が投降された、と?」「はい、叛乱軍はユニマール朝の討伐軍第一陣を打ち破りました」コモンウェルスにおいて、いち早くエリーゼ将軍の運命を聞きつけたモーリス。それは、入念に情報を得るべく手筈を整えた成果だ。先見の明、と誇っていいだろう。だが、結果的にせよ入手できた情報は、心底、予想外であった。「よもや、そんなことが起こりうるとは……」感情を人に読ませぬべく老獪さを涵養してきたつもりでも、ぽろり、と本心は零れ落ちるものだ。とりわけ、本心から驚愕した場合は。「双方ともに激戦で疲労したのですか?」「いえ、討伐軍は一瞬で瓦解したとのことです」ほう、と小さく何気さを装って頷きつつも、心中では大いに興味を惹かれてしまう。『瓦解』の二文字で、十分だ。その言葉を耳にした瞬間、モーリスの脳裏では事態が急変したことが確定事項として理解される。ユニマール朝の討伐軍について、内訳を聞いたときは『鎮圧しうる』と踏んだのだ。なにしろ、『エリーゼ将軍』というユニマール朝が持ちうる最高の切り札を切ったのである。オルハンの陰謀も潰れるものとばかり解釈したのだけれども。……その討伐軍が瓦解とは?「辺境伯閣下、それと、叛乱軍ですが……非常に不遜ながら……」「叛乱軍が何か? そこまで言われると、気になってしまいます。言い出しにくいとしても、続けてもらえればありがたいのですが」興味を押し殺し、単なる会話の弾みであるかのように問う。促された密偵頭はためらいつつも口を開く。「いえ、どうにも無能者の集団らしいのですが……自分たちをシュヴァーベン革命軍と称して『無能者』の為の革命を為すと」「革命軍に革命……? ふむ、ああ、ご苦労様です。下がってください」「は、失礼いたします」恭しく一礼し、去っていく密偵を見送るなり、モーリスはうすら笑いを引っ込めて、本心から笑い出していた。「ははははは! 驚きました、驚きましたよ! 無能者の為の、革命? ……これは、想像以上に『やる』ようですね」シュヴァーベン革命軍と命名した人間が誰かは、調査させねばならないだろう。だが、『無能者』の為の革命というフレーズは、実に蠱惑的だ。魔法使いは、眉を顰めることだろう。つまるところ、我々コモンウェルスのおバカどもを刺激するには最適だ。それでいて、人口の大多数を占める『無能者』への訴求力も抜群である。きっと、『無能者』の大多数は感涙すら零して革命の大義を奉じるのではないか?「一石二鳥とはこのことですね。いやはや、何とも欲張りな方たちだ」この計画を考えた人間は、きっと、自分の同類に違いない。楽しそうに遊んでいることだろう。なんとも、羨ましい。妬ましさすら、感じてしまう。そろそろ、自分も混じることを考えてしまうほどに、楽しそうで仕方がない。とはいえ、楽しそうだと憧憬の眼差しを無邪気に向け続けることもできはしない。コモンウェルスは、ユニマール朝の隣国なのだ。対岸の火事は見ていて楽しいが、こちらに延焼する恐れがあれば、話も違ってくるのは道理だろう。辺境伯でもあるモーリスとしては、革命騒動が予想以上に強力な軍事力をこれほど急激に兼ね備えたという事実にも注目せざるを得ない。……まぁ、黒幕は単純だろうけれども。「エリーゼ将軍の部隊だけは、少なくとも『まともな軍隊』。となると……ふむ、困りましたね。思った以上に、厄介な状況過ぎる。オルハンの肝いりが、我々の隣国ですか」オルハン神権帝国の旧式マスケット銃が、こんな結果をもたらすとは。随分と、費用対効果の高い投資を彼らは、『オルハンの同業者諸君』は行ったということだろう。賞賛に値する賢明さだ。ユニマール朝が国内で動かしうる最大にして唯一の『まとも』な軍事力を『瓦解』させしめる実力。土地の名前ではなく、『ユニマール朝』の支配領域すべてに対して挑戦する気概。ここまで揃えば、ユニマール朝の滅亡は必然だ。世人というのは、奇妙なことにこんな単純な帰結にも疑義を挟むがモーリスにとっては、結論はもはや揺るがない。「……さて、この状況、私ならばどう遊びますかね?」玩具は、大事に使う。子供のころから、誰でも教わったちょっとしたルールだ。一度使って、それっきりなどとはマナー違反。玩具は、壊れるまで大切に使うものである。ユニマール朝という玩具で、オルハンの指し手が遊んでいると仮定しよう。自分が、遊び手であれば次の一手は決まっている。まだ、残っている貴族らを焚き付けて弄ぶまで。例えば、コモンウェルスに亡命させて『討伐軍』を出すように請願させるのも面白いだろう。亡命貴族どもは、口先だけにせよ盛大な利権を約束してくれるのだ。暇を持て余しているセイムの貧乏騎士は、こぞって参戦を叫ぶことだろう。セイムに影響力を及ぼしたいと考えられているジョナス陛下も釣れるに違いない。さて、とモーリスはそこで苦笑交じりにボヤいてしまう。「……相手が待ち構えていると考えれば、そうそう簡単に勝利もできますまいに」となれば、苦戦を前提に遊びへ混ぜてもらうべきだろうか。仲間はずれにされるのは寂しいのだ。ちょっと強引にでも、割って入って新しい遊び友達と出会うのも悪くはない。「ううむ、迷いどころですね」とはいえ、感情のままに動けないのもまた世の常。率直に言おう。『国境防衛』を担う貴族としてみれば、泥沼化する戦争にコモンウェルスの遠征軍が引きずられるなど『とんでもなく良い迷惑』だ。これで、コモンウェルスは対岸の火事に自分から首を突っ込み……火傷を負うことになるわけだ。百害あって一利なしの典型例である。南方を考えてほしいものだ、とモーリスは嘆息すら零してしまう。確かに、現状、オルハン神権帝国との小競り合いは絶えている。とはいえ、少し探りを入れれば眉を顰めたくなる兆候は山ほどにあるのだ。第一に、オルハンの奇妙な対外政策。連中はユニマール朝で起きている叛乱を煽っているが、どうにも意図が読めないのだ。モーリスの知るトリル・オルハン皇帝の性格は息苦しいほどの堅実な戦略家。よく言えば、手堅く、悪く言えば『遊びを全く解さない』。付け火をして楽しむよりは、目的があるために付け火を行うタイプだろう第二に、増強されているオルハン軍の動向。タダでさえ、オルハンのイェニチェリ軍団は精強だ。精強さでは群を抜く近衛なれば、我が方の有翼魔法重騎兵にすら匹敵するとみていい。「それが、倍に増強されているとなれば……トリル帝を単なる『内治』の人と片付けるわけにはいかないでしょうに」度々警告を発してはいるのだが……どうにも、コモンウェルス内部に危機感は乏しい。オルハンとの長い平和。『小競り合い』が続くだけで、『本格的な武力衝突にはいたっていない』というだけの理由で。誰もが、明日もまた今日と同じだろうと高を括っている。ヴァヴェルの連中、南方と西方の重大な変化にも気が付けないらしい。実に、馬鹿げたことだ。とはいえ、気付いているからと言って身動きできないのもまたつらいことだ。「ままなりませんか……。やれやれ、お預けを食らうのは楽しくありませんね」
◇近衛騎士にして国王陛下の帯剣従士であり、誉れある黄金法理騎士団に列なりし、ユニマール王朝藩屏であった神と途絶えることなき正統な王家の恩寵深き正義と真理の忠実な擁護者であるエリーゼ・ユニマール将軍閣下に告ぐ!清らかな忠誠、節操を屈せざるを得ないやむなき事情があれかしことは自明なれども忍耐の日々、賊を討つ好機がなかりしことを嘆かれているのは重々に承知申し上げる!しかして、近衛騎士にして国王陛下の帯剣従士であり、誉れある黄金法理騎士団に列なりし、ユニマール王朝藩屏であった神と途絶えることなき正統な王家の恩寵深き正義と真理の忠実な擁護者であるエリーゼ・ユニマール将軍閣下!お嘆きは正当であり、われらもまた同じく悲劇により悲嘆に沈まずには居れないであることをお伝えいたします。どうか、衷心をお受けいただきたい。正統なシュヴァーベン地方の統治者にして、神と正義と真理の元に万民に対し恩寵深かりし壮麗にして正気に満ち溢れし正義と公正の統治者、万国の善良なる友にして助言者であり、真によき隣人で在りし我らが忠誠を誠心より誓いし尊厳に満ち溢れしユニマール朝の高貴にして慈父の如き先帝陛下がお隠れあそばすという鬼神をも悲嘆せずには居れぬ天地開闢以来の一大悲劇に対し、しかして、正義はなされずにはおれないでありましょう!すなわち、これ、正気の噴出であります!我ら義軍を集い、鋭気、正に鋭く、仰ぎ見れば我らが義挙を天と神と正義が言祝ぐことは、青々とした空がものの見事に示してくれることでありましょう!近衛騎士にして国王陛下の帯剣従士であり、誉れある黄金法理騎士団に列なりし、ユニマール王朝藩屏であった神と途絶えることなき正統な王家の恩寵深き正義と真理の忠実な擁護者であるエリーゼ・ユニマール将軍閣下!正義を、為すべき時期はついに訪れたのです!王家の為、国王陛下に捧げられ祝福されし聖なる刃を唾棄すべき反乱者共に、秩序と正義の名の下に振われたし!我らは、大儀に集いしコモンウェルスの兵らを引き連れ、一躍、軍旅につくことでしょう。近衛騎士にして国王陛下の帯剣従士であり、誉れある黄金法理騎士団に列なりし、ユニマール王朝藩屏であった神と途絶えることなき正統な王家の恩寵深き正義と真理の忠実な擁護者であるエリーゼ・ユニマール将軍閣下!勝利と再会を恋しく思います!正義と栄光を共に、麗しき壮麗な宮殿で言祝がんことを願い。正統ユニマール朝義士盟約同盟手元の紙にあるのは、モーリスの読む限り戯言だ。ヴァヴェルという愚者の国際展示場に、新たに展示されるに至ったアホ共の手紙。確か、正式名称を『正統ユニマール朝義士盟約同盟』とかいっただろうか?身の程を弁えず、文明圏で生活できるのが不思議なほどの愚かにして大仰な亡命者らの団体である。そんな連中が、セイムや王政府当局の頭越しにエリーゼ将軍へ送りつけた『内応』を求める書状は……読めば読むほどに笑いがこみ上げてくる代物。これを、愚者どもが本気で書いたと納得するまでには、流石に時間を要したほどであるそもそも、出兵の事実を漏えいされているだけでも、本来であれば言語道断。なのに、『コモンウェルスの兵力』をアテにしておいて、こっそりと手紙を書くという魂胆が理解できない。事後報告すらなければ、ふざけた話と激高しても良いほどだ「やれやれ、随分と我侭なお客様だ。大人しく、お茶菓子でも齧っていればよいのに礼儀正しくガマンすることも出来ないとは」コモンウェルスは……このモーリス・オトラントの庭である。お客人の分際で、こそこそと陰謀を企もうなどという魂胆は全く感心しようがないほどだ。愚者にして、礼節もマナーもならない連中である。さてさて、とモーリスが考えるのは、此処からの対応策が一手。マナー違反のお客様がこっそり『出した積もり』のお手紙は入手済み。折角なので、交渉相手の確保を兼ねた接触の一環として、『エリーゼ将軍』に対する旧ユニマール朝亡命貴族らの接触を『シュヴァーベン革命軍』へ知らせてやったが。「これで、エリーゼ将軍が処罰される……というのは、流石に期待しすぎでしょうね」……エリーゼ将軍が、多少でも先の読める人間であれば『即座の寝返り』など期待できまい。なにしろ、と苦笑してしまう。文章の内容は、まともな知性ある人間ならば笑い出してしまう代物。読めば読むほど、こんな手紙に運命を賭すアホが居るとは思えない。ユニマール朝が『装飾過多、実質過少』だと知っていてもわざわざ羊皮紙にあのようなもったいぶった筆記体でペンを走らせるとは想像の範疇外だ。「まぁ、驚かされたという意味では楽しかったですけれどもね。愚か者のいうのも、時には面白い。展示の仕方が大事なのでしょうね」さてさて、とモーリスはそこで溜息と共に思考を一先ず棚上げする。どうせ結局のところ、とモーリスは醒めた眼で現状を見ているのだ。自分が本格的に妨害すればさておき、そんな義理もモチベーションもない。だから、もう、興味本位で『何が起こるか』を見てみようという腹だった。事実、傍観に徹した結果は予想通りに進んでいく。セイムとジョナス国王陛下はニンジンに突進する奔馬のごとき単純さで介入を決定。大いに、『勝利』を重ねるに至っていた。国境線に位置するロスバッハ要塞の電撃的な攻略に始まり、稲妻のごとくジョナス陛下の軍勢はシュヴァーベン地方を制圧していくというではないか。とはいえ、モーリス自身は『勝利』という言葉を疑っているのだが。いや、疑っているというよりはそもそも信じていないというべきだろう。堅牢極まりないロスバッハ要塞を、形だけの抵抗で陥落させたことは高くついた……というのがモーリス自身の算盤だ。「ふむ、騎兵による補給線襲撃と」自室で報告書に眼を通し、モーリスは小さく笑みを零す。革命軍の指導部は、やはり、相当に『戦略』というのをオルハンに叩き込まれているのだろう。緒戦の優勢により、国王陛下らは随分と楽観的になっていたらしい。その間隙を突かれた、といえば突かれたのだろう。『無能者の叛乱』と侮っている王政府には申し訳ないが。……オルハンの糸引きは相当に狡猾だ。「最初から、そのつもりだったのでしょう。だとすれば、当然の様にロスバッハ要塞に続き、ボージュまで無抵抗で取らせるわけですね」報告によれば、移動中の補給部隊が襲われている。幾つかの街道も遮断されていた。連絡線を狙っての徹底したハラスメント攻撃。「古典的で、教科書的ですらある。いやはや、戦争のやり方もよくよくご存知ですね」シュヴァーベン革命軍の騎兵隊とやら、こちらの有翼魔法重騎兵とは戦わず、有翼魔法重騎兵の居ない部分に全力で攻撃をかけているというではないか。お陰で、というべきだろう。補給の混乱により、ボージュ地方に侵攻している先鋒と後続の主軍の連絡まで途絶えている。一時的な混乱にせよ、侵攻した主軍と先鋒集団までもが切り離されたとは驚かざるを得ない手際の良さだ。「被害そのものは、決して大きなものではないですがね。実に効果的な嫌がらせです。こうなると、身動きをとるのが難しくなる」無能者が主たる構成要員である革命軍は、軍事組織としては『コモンウェルス』のそれに到底及び得ない。だが、それは正面衝突に至れば……の場合だけだ。シュヴァーベン地方を知り尽くした彼らには地の利がある。戦うも、決戦を回避するも、彼らが主導的に選びうる立場だろう。他方、我らがコモンウェルスの状況は非常に苦しい。なまじっか国王陛下親征ということで、大兵を引き連れているのだ。我が方の補給は、敵地に踏み込めば踏み込むほど非常な困難を増していくだろう。「補給線、連絡線を延ばさせるのが目的と読んでいましたが……お見事」こうなると、有翼魔法重騎兵こそ多くとも『点』に過ぎないコモンウェルス軍では拠点制圧は困難だろう。「ジョナス陛下におかれては、未だに勝利を確信されておいでというけれど……戦えば、勝てる? だが、相手が戦ってくれるという保証もないでしょうに」ジョナス陛下の妄言、馬鹿馬鹿しい限りだ。ヴァヴェルで愚かさを誇示するに飽き足らず、戦陣で己の愚者ぶりを世界に知らしめたいと見える。「やれやれ、正面で勝てないから、側面を突く。革命軍とやらのそれは、実に、まっとうな努力ではないですか。それを、理解できないとは……」自分の都合で戦えと叫ぶのではなく、自分の都合を相手に強要する策の一つも立てればよいのに、その素振りもなし。「策を立てる頭がないならば、せめて撤兵を決意するぐらいの知性もあれば宜しいのですが。それすら、望めませんか」まぁ、察しはつく。これほどの大兵を起こして『魔法も使えぬ無能者ども』に追い返される? プライドの高いジョナス陛下にはとても耐えられないだろう。ああ、とモーリスはそこでふと残念な事実に思い立って苦笑していた。「ははは、渋面を見れないのが残念です。あの傲慢な陛下が、どんな表情をされているのやら。帰国された際には、真っ先に拝謁しなければなりませんね」無目的に滞陣し、あげく、無意味に損耗を重ねるのがオチだ。行き着くところは、王権に対するセイムの不信任だろう。帰国した負け犬の顔を見るのが、今から楽しみでしかない。そうなれば、また、随分と『遊ぶ』空間も出来てくる。ついでに、シュヴァーベン革命軍とやらと講和することもできるだろう。「なればこそ、問題は……オルハンの意図です」この事態を引き起こしたのオルハンだ。これほどの結果を得るために、色々な費えを投じたことだろう。問題は、何のためにその投資を是としたのか。ただ、その一点だ。「国境地帯の部隊に増強の兆しはなし。糧秣の蓄積も通常通り? これほどの大きな仕掛けをなしておきながら、オルハンは何をしているのでしょうかね?」念のために、と国境地帯の守りを強化させているのだが、どうにも徒労に終わりそうな気配すら感じられるほどである。「……もしや、我々に仕掛けてくる腹ではない?」ぽつり、と自分の口から呟かれた可能性にモーリスは思わず考え込んでしまう。「わかりませんね。トリル皇帝の人なりからして『領土欲』があるタイプとは思いにくいのですが」ふむ、とモーリスは言葉を弄びながら状況を考える。オルハンの仕掛けた壮大な陰謀。手際のよさ、全てに漂うプロの技量。いやはや、ユニマール朝の青い血を称するお猿どもではとても対処できないに違いない。別段、それはよい。けれども……問題は、『オルハン』の真意だ。いったい、何のために?
◇
「は?」知らせを受け取った瞬間、モーリスは思わず疑問を口から零してしまう。「今、なんと?」取り次ぎ役の顔は、見慣れた自家の人員。冗談や軽率な妄言を口にする類いでないとは知っている。だが、だからこそ。俄かには、その言葉が信じかねるのだ。「はっ! ロスバッハに置いて我が軍と革命軍が激突! 目下、大会戦中です!」『大会戦』?それだけは、起こらないと思っていたいのだけれども。「ご苦労。ああ、下がってくれて結構です」「失礼いたします」恭しく去っていく取り次ぎ役を見送り、独り、モーリスは疑問を口の中で転がす。「馬鹿な。ここまで、定石を保っていた連中が……何故?」破れかぶれ?強硬論を抑えかねた?現場の暴走?率直に言えば、可能性は何れもありうる。だが……『モルヴィッツ会戦』に至るまで『革命軍』は規律正しい軍隊として振舞っている。ハイマット攻略時にすら、略奪騒動がなかったのだ。勝算すら見込めるゲリラ戦を投げ打ち、破れかぶれの会戦を選ぶなどということがありえるのだろうか?「何がしかの意図、理由、必然性があると? しかし……解せません」判らない。それは、即ち気持ち悪さだ。何事かが、自分の知らないところで進められている。また、なんとも不愉快なことだろう。知りたい。何が、起きているのだ?なればこそ、モーリス・オトラント辺境伯は続報を一日千秋の思いで待ち望む。そして、我慢という努力の成果を彼は堪能することが、程なくして許される。「お、お、オトラント辺境伯! 閣下! 緊急です!」飛び込んでくる取次ぎ役の表情は蒼白そのもの。自分の、このモーリスの使う人間だ。そうそう容易には動じたりしないであろう人間が、慌てふためく?「いかがしました? オルハンに越境の動きでも?」立ち上がりつつ、オルハン軍の動向を捕らえそこなったかと舌打ちしかけたモーリスの脳裏に浮かぶのは、越境してくるであろうイェニチェリとシパーヒーらの大軍。コモンウェルス中の有翼魔法重騎兵が粗方、シュヴァーベン地方に出向いているとすれば。ああ、とそこでモーリスは得心する。ロスバッハで、革命軍が無謀な会戦を選んだのも。すべては、『オルハン』の攻勢を成功させる為の盛大な陽動か?一瞬の内に、策謀の線画を引いて見せたモーリスの思考。しかして、彼の予想は完全の動じつつも言葉を重ねようとする取次ぎ役の言葉で覆される。「ち、ちが、ちがいます、ちがいます!」「落ち着きましょう。ええと、では、どこからの報告でしょうか?」「ろ、ロスバッハ、ロスバッハより急使が!」「急使? すでに、会戦に至ったとの知らせならば受け取っていますよ? 続報でしょうか? 戦勝時になにか、トラブルでも?」誰か、主要な貴族が戦死でもしたか?はたまた、奇跡的な巡り会わせでジョナス陛下辺りが死んだか?「ち、違います! 辺境伯閣下!」「落ち着いて。何事ですか?」「お味方が! お味方が、お味方が!……お味方は、大敗北!」大敗北?……それは、大きな敗北ということだ。敗北?……負けた?どこが?我々、コモンウェルスが?「……なんですって?」「遠征軍は壊滅いたしました! 陛下、王太子殿下、王子殿下らは、皆さま、お隠れあそばされました!」「は? お隠れあそばした? 言葉の意味を問わせてください。不敬を承知で確認しますよ。それは、『戦死』ということですか?」「は、奮戦むなしく……陛下を初め、皆様が討ち死になされました!」討ち死に。全滅。戦死?ああ、それは。それは、なんとも。「っと、いけませんね。動じてしまいました。……誤報の線を調べなさい。伝令は? 第一報を持ち帰ったばかりですね?」「は、はい」「では、別の急使が情報を持ってくるまで事実確認を。それと、王都残留の諸卿を招集します。報告書を預かります。その間に、手配を整えてください」ああ、全く。なんと、愉快なことだろうか。こんな日が、こんなにもびっくりする日が来るなんて。ワクワクが止まらないじゃないですか。「会戦の報告が入っている、と。とまれ、手筈を整えて戦勝、敗北のどちらにも対応しましょう」「と、取り乱してしまいました。すみません」「なに、構いませんよ。確報が届くまで、案じるしかないのですからね」では、手筈をよろしくなどと続けて部下を部屋から追い出すなり、モーリスは椅子に深々と腰を下して笑い出す。「ははははは! なんてことでしょう! なんてことでしょうね!」確報が届くまで、案じるしかない?よくもまぁ、とモーリスは心中で笑いだす。「……なんてことでしょう!」勝敗に関わらず、結果を知らせよと命じてあるのだ。自分の手配した情報網の正確さは、他ならぬ『モーリス・オトラント』自身が担保できる。敗北は、つまり、確定だ!うっとおしい国王陛下諸々、まとめて全滅!コモンウェルス史上、初の敗北。正直に言えば、『多少』、やけどをすればよいだろうとは思ったが……『大敗北?』。「……こんな、こんな『楽しくなること』を……『見過ごしていたなんて!』。なんという大失敗でしょうね!」そして、喜色満面に報告書に眼を通せし……彼は、心の底から喝采を叫んでいた。「お見事です!」人形には、魂が宿っていた。操り糸は、とっくの昔に外れている。「分断、補給線荒らしは……消耗戦に引き込むと見せかけ全てが、『自分達の戦場』で決戦に持ち込むための布石」挑発と嫌がらせ。そして……本命はジョナス陛下の弱み、こらえ性のなさを突く為の策謀。「あげくが、ロスバッハ要塞から『我が軍』が飛び出さざるを得ない状況を作り出す!」城外で、革命軍に嘲笑されたジョナス陛下が憤怒のままに飛び出していく有様。匹夫の勇を大いに奮わんとすることだろう。なるほど、想像が容易にできて仕方がない。「そして、いやはや、性格の悪い人も居たものだ。なんなんですか、この地雷とは?」報告書に記載されているのは、戦場観察の殴り書き。地面が、破裂し、ペガサスが混乱の坩堝に取り込まれる光景だ。あきれるべきか、感嘆すべきか迷うところだが。「有翼魔法重騎兵をここまでして、殺しに来る。いや、オルハンのイェニチェリ共ですら思いつきますまい」これは、『魔法』と『銃』を組み合わせて戦うイェニチェリの流儀などではない。もっと泥臭く、無能者が、無能者の力だけで有翼魔法重騎兵に挑むための戦法だ。「私としたことが、なんと迂闊な」ちょっとした余興、戯れに考えていた。大したことには育つまい、と。無聊を慰めてくれるであろうちょっとしたお祭りぐらいの気持ちで呼んでいたのだけれども。なんという愚かな失策だろうか。「『オルハンの道具』だと侮りましたよ。私としたことが、『無能者』の叛乱ということで随分と既成概念に囚われていましたね」無能者という単語一つとっても、非常に危険だなとモーリスは反省をこめて苦笑する。無能者という響きは、『能力がない』かのような響きだが。実際のところは、魔法を使えないから無能であるという魔法至上主義が言わしめたにすぎない言葉だ。『無能者』とは、魔法が使えないという意味でしかない。「ああ、そうか。『無能者』でも『頭』はある。……思考できるわけですね」なればこそ。魔法技術をすべての価値体系に置いて『唯一無二』のものと位置づけるコモンウェルスにあってなお。モーリス・オトラント辺境伯だけは理解できてしまう。『魔法がつかぬ無能者』とて、『遊び相手』たる資格たるや、十全に、完膚なきまでにかねそろえていると。「はははは、これは素敵ですよ! なんてことだ!」狭い世界。退屈な遊び友達。遊び相手に欠き、戯れに火をばら撒いていたけれども。よもや!まさか!友達候補がこんなにも身近にいたとは!「……まったく、今日はなんて素敵な日なんでしょうね!」平民、もっと直截かつ侮蔑的にいうならば無能者。そんな連中について、自分も今の今まで『道具』としかみてこなかった。しいて言うならば、他の魔法使いが活用法に気がつきもしない『便利な道具』だろうか? 魔法を使える人間というのは、往々にして『魔法』で物事を解決する。だからこそ、『無能者』に何かを期待するということが非常に低かった。せいぜい、教育された平民であっても『小間使い』程度。モーリス自身は『小間使い』が何処にでもいることに注目し『情報源』として大いに活用しては来た。だが、考えようによっては。「……いやはや、道具として使い慣れていたが故に読み違える羽目になるとは!」道具使いしていたが故に、思考力に気が付くのも遅れてしまったのだろう。「なんとも、いえ、なんと、本当に愉快なことでしょうね!」世の中において、モーリス・オトラント辺境伯が真っ先に『驚愕』しつつ面白がった情報は受け取り手ごとに異なる反応を招くものでもあった。出来事に対する反応は、十人十色。それぞれ、立場、利害が異なるのだ。無理もないだろう。喜んだ、という意味においては当然のごとく革命軍が勝利を最も言祝いだ。そして、あるオルハンの当局者は、『予想外の成果』にほくそ笑む。これで、陛下の南進はなるだろう、と。好機をかぎ取ったのはオルハンに限らない。マルグレーテ朝は、一様にその知らせこそが『活路』を見出す転機であると理解し、『そうあれかし』とすら願った。オスト=スラヴィア大公国に至っては、早くも、コモンウェルス内部に接触の手を伸ばそうとする始末だ。ある辺境総督が嘆いて曰く、『また、私が苦労させられる』である。他方で唯一、好意的とも同情的とも言いうるのは……自由都市同盟の反応だろう。ある自由都市同盟の老人は、知らせを受け取るなり眉を顰めて『厄介ごとの臭いだな』、とぼやいたという。そして、ある意味では最も当事者中の当事者であるコモンウェルスにおいてソブェスキ家の残された最高位に相当する人物も知らせを受け取る羽目になっていた。その日、というべきだろうか。運命に日において、ヤーナ・ソブェスキはいつもと変わらず念入りにフランツの誕生日会へ向けた手筈を確認している最中であった。そんな彼女の大切な時間に飛び込んでくるのは、イグナティウスの爺。彼が、血相を変えて全力疾走と共にもたらすのはとんでもない凶報だった。「ひ、姫様! た、大変です! 大変なことがおこりました!」「爺?」「議会(セイム)から使者が知らせをもってまいりましたぞ!」ヴァヴェルの煩い連中が、私に何事かとヤーナはイグナティウスから書状を受け取るも、内容は先に爺から告げられる。「お味方が……。お父上の軍勢が壊滅されました! 陛下ほか、姫様の兄君らもうち死にあそばされたと!」爺から告げられる重大な内容に、ヤーナは一瞬、眉を顰める。……父王、ジョナス陛下はろくでもない父親だった。正直に言えば、フランツの育児放棄でげんなりさせられるに十分。あげく、権力欲の塊のような性格は理解したくなかったほどだ。父と娘としての情はお互いに抱きようもない関係。だからこそ、頭によぎるのは王位継承に関するごたごたを招いてくれるとは困ったことねという程度の悩み。だからこそ、局外中立、不干渉を決め込むべくヤーナは言葉を紡ぐ。「あら、大変。議会の皆さんで頑張ってとお伝えしておいて。あ、私、お兄様とお父様がなくなって悲しすぎてなにもする気がないと伝えてね?」「殿下、そのようにおふざけになって……!」煩いわね、と返しかけたヤーナの言葉は、しかし、その瞬間に重々しく割ってはいる男の言葉で遮られる。「その通りです。失礼ですが、殿下。他人事ではありません」「ほえ?」言葉を発したのは、アウグスト・チャルトリ。ヤーナの持つソブェスキ家領土にて封建騎士団長を勤める豪の者。それほどの勇者が、かすかに表情を強張らせての進言?なんでよ、アウグスト? と問うまでも無い。爺は、いつでも、おしゃべりが大好きなのだろう。「チャルトリ騎士団長の申しあげるとおりです! 姫様、いまや姫様とフランツ殿下だけが、正当な王位継承者なのですぞ!」「いや、まってまって。姉さんがいるじゃん。それも、確か二人。どっちでもいいじゃない?」「殿下、議会は外国の貴族とご成婚された王女は継承権を放棄したとみなしております。したがいまして、現状では殿下とフランツ殿下のみに継承権が」事態を把握した瞬間、ヤーナ・ソブェスキは激怒した。最悪の一報が飛びこんできたと理解しえたとき、ヤーナ・ソブェスキは激怒したのである。「(……今ならば、メロスの気持ちがよく分かる!)」必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の不正をのぞかなければならぬと決意した。ヤーナには政治への興味がわからぬ。ヤーナは、可愛いものを愛でる趣味人である。騎士団に号令し、フランツと遊んで暮らしてきた。けれども自分の理想的な生活をおかさんと欲する邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。『もうすぐフランツが10歳になるのよ!? フランツがむかえる二分の一成人式をお祝いする準備もしているの! フランツへのプレゼントやらをはるばる遠方から取り寄せているのよ!? そのおだやかで、平穏な自分の生活がおびやかされるというの!?』そこまで考えた瞬間、ヤーナの忍耐力は限界だった。これ以上、手をこまねけば面倒事の嵐が訪れると感じ取った彼女の行動は迅速を極める。激怒をたずさえたまま、ぷっつんきたヤーナは有翼魔法重騎兵にまたがり、面倒事をもちこんだセイムに向かう。文句の一つでも怒鳴り込んでやると駆け出したのだ。慌てて有翼魔法重騎兵を駆るアウグスト・チャルトリにイグナティウス・ポトツキーの二人。彼らを遥か後ろに引き離したヤーナは駆けに駆け、そして議会に飛び込んでいく。そして、コモンウェルスが首都、ヴァヴェルのセイムに乗り込んだヤーナは……あろうことか、驚愕と呆れのカクテルを飲まされたかのように硬直していた。「(さ、最悪だ! こいつら、何ひとつとして決められていない!)」眼前の光景を前に、ヤーナが抱くのは心からの驚愕。ジョナスという父王以下、統治機構の主要な人間がこぞって戦死した影響は軽視すべきではない。そうだとしても、しかし、『どうするべきか』すら決められない?ありえない、という言葉が思わず喉から出かけたほどだ。「(それどころか、支離滅裂にお互いの責任を糾弾しあうばかり!? 非常時なのよ!? 他にやるべきことがいくらでもあるでしょ!?)」非常時にすべきことには何一つとして手を着けず、すべきでないことは全て繰り返しているような醜態。ヤーナにとって、それは、想像をはるかに下回る現状というほかにない。ヴァヴェルの連中、セイムの議員共、どいつもこいつもアホだとは聞いていた。だが、『政治家』の悪口なんて時候の挨拶のようなもの。それこそ、今日は天気が悪いですねと語りつつ、今の政治家がいかにダメかを語るのもコモンウェルスでは珍しくない風習。……そう思い込んでいたのだ。あまりといえば、あんまりだ。茫然と立ち尽くし、眼前の光景を形容する言葉すら見当たらないのもやむなし。ただ、というべきか。だからこそ、ヤーナは何時もならば鋭敏に気が付き避け得たであろう人物と遭遇してしまう。「おや……そこにいらっしゃいますのはヤーナ殿下ではありませんか」その声に、さっと顔を動かすヤーナの視線の先には……珍しい人物に気が付いたとばかりに微笑む、モーリス・オトラント辺境伯の顔。「(げっ……よりによってこいつ!? いや、ああ、もう、性格破綻者でもこの際いい!)」緊急事態を乗り切るべく、というべきだろう。面倒くさがりなヤーナとしては珍しいことに、実務に重きを置いた問いかけを彼女は発していた。「この混乱をどうして、誰も収拾しようとすらしないの?」「責任をとりたくないのでしょうな」「は? ……はぁ!?」理解できない言葉を吐くモーリスの表情を凝視し、ヤーナは視線で追加の説明を求める。その視線を受けて、かしこまりましたと慇懃に頷いてみせるこの男の所作は全てが礼法にかなった『挙措正しい動作』。こんな時だからこそ落ち着きを保つ、と言えば賛辞なのだろうが……ヤーナとしては胡散臭い物腰としか思えないのがまた忌々しい。「大敗北ですぞ、殿下。国王陛下以下、主要な方々がおうち死に。このような大惨事、過去に前例がございません。軽挙妄動は、大いに指弾されましょう」この局面にあって、まるで他人事のように嘆いてみせる素振りも……また礼儀正しい。なればこそ、ヤーナの脳裏に浮かぶのは『慇懃無礼』の四文字。だが、とヤーナは気を取り直す。今ばかりは、モーリスに腹を立てる時間すらも惜しいのだ。「……あきれた! 何も決められないのね! あきれた議会だ。もう、まかせてはおけない!」「はて? で、殿下?」ぽかん、とほうけた隣の議員をよそにヤーナは議場の中央、演説台にて右往左往している議長から木槌を取りあげるなり、これでもかとたたきつける。響き渡る木槌の音で、漸く議場には一定の沈黙が取り戻され、その瞬間、ヤーナは吼えていた。「非常時に、一体なにをほうけているの! やるべきことぐらい、はっきりしているでしょう!」「で、ですが、この混乱ですぞ!? なにぶん前例がない!」「あなたたち、ばかなの? いいこと!? 問題を前に、あーだこーだ言い争う暇があれば対策! 対策よ、対策をだしなさい!」「殿下、おっしゃることがわからなくはありませんが……。しかし、正統な王政府がない状況で、独断専行もまた……」議員らの反論に対し、ヤーナは頭痛を堪えるように一瞬だけ沈黙する。責任者がいないから、何も決められない。だから、代わりの代理人を選ぶ必要がある。けれども、責任者の代理人を選ぶための責任を取れる人間がいない。だから、何も決められない。けれども、決めないといけない?ここまで典型的な循環論法で思考を停止しているというのは、驚きだった。結論、『こいつらは、もう、だめだ』。「分かった。分かった! もういいわ、私が責任をとる! 私が命令も出す。私が指示も出す。いいから、行動しなさい!」「し、しかし、越権ですぞ!?」決められず、さりとて、責任者を選ぶことすら出来ない無能共。ぶち切れそうになるヤーナの怒りは、しかし、噴火寸前のところで口を開いた一人の男によって静められる。「いえいえ、皆々さまお待ちを。……国王陛下に変事が生じた際、王族の方々が政務を代行するのは前例があります」この混乱の最中にあって、なお、動じない曲者のすまし顔。モーリス・オトラント辺境伯は、何を考えているか窺わせない笑顔のまま、賢しげに言葉を重ねていく。「そうですね、ヤーナ殿下におかれては臨時の摂政をつとめていただけばよろしいかと」いかがですか、と問う男がモーリスという人物でなければ。きっと、ヤーナは心から感謝していたことだろう。だが、今ばかりは。ヤーナとしては、胡散臭い男による好意的な言説の裏を読むことで精一杯になってしまう。はっきり言うならば、不気味なのだ。「確かにおっしゃるとおり。では、ヤーナ摂政殿下の就任を決議いたします! 反対のある方はご起立をねがいます」だからこそ、だからこそ、だ。議事進行役が、モーリスの意のままに自分の摂政位就任を議決にかける様は……至極自然だ。なればこそ、ヤーナ自身の摂政位就任へ誰もが反対し得ない。セイムの議員らが反論を胸中に抱いていようとも、では、反対したとすればどうなる?満場の議員らが、手をこまねいている状況下に置いて、責任をヤーナが担うと申し出ているのだ。それに反論するとなれば……『責任』という要素を背負うことになるだろう。責任者を選ぶか、リスクすら判らぬ責任を負うかとなれば、誰だって責任者に任せようか、と一時的にしろ考える。「……反対者はおりません。全会一致にて、殿下の摂政就任は議会の承認をえました。さて殿下、いかがされるのですか?」そして、誰もが……『モーリス・オトラント辺境伯』が『ヤーナ』の摂政位就任の口火を切った、と認めるのだ。なればこそ、何時の間にか……モーリスが主導者のような顔をしている。それを、誰も、否定しない?これで、また、セイムにおいてオトラント辺境伯の権威が高まることだろう。自分も、相応に遠慮させられることになる。……とはいえ、とヤーナは思案を一時的にしろ棚上げせざるを得ない。「決まっているわ。まずは、前線の建てなおし。出せる兵を全部貸しなさい。行くわよ、私に続きなさい!」国難、あるいは危機にあっては、時間を失うべきではないのだ。次回、2016年1月29日(金)更新予定!
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