「努力」はオワコン、代わりに「やり抜く技術」を学ぶ社会に(その5) のつづきです。
答えがあるかないかわからない課題に取り組む力「やり抜く力」。今まで学校で育むことが難しかった力ですが、もうそんなことは言ってられません。何としてでも取り組まなければなりません。
そこで「やり抜く力」とはどんなものか、分解してみようと思います。
やり抜く力その1/解けそうな問題を選ぶ力
「やり抜く力」の中で一番重要な力は、やり抜くことそのものより、この問題は解けそうだと見極める力です。フェルマーの最終定理は最近証明されましたが、解かれるまでの360年間その証明に挑戦して人生を棒に降った数学者は沢山いたようで、解けそうな問題を選べるかどうかは生死に関わる問題でもあります。
でも私たちは子供のころに沢山そんな経験をします。
去年私たち家族は岩国の錦帯橋に行きました。子供達は錦帯橋には目もくれず、河原で遊び始め、石でダムを作り始めました。目標は「川の縦断」です。錦帯橋は200mくらいあるはずで、そんなのどう考えても無理です。それでも彼らは諦めず、まだ錦帯橋渡ってないし日が暮れそうなので移動しようという時には、数m程にはなっていました。彼らはまだまだやる気満々で「明日の朝もう一度来い」とまで言っていました。
本当なら次の日にも来て、とことんさせてあげたかったのですが、大人の都合でそれはしませんでした。
子供の頃のプロジェクトは、ときにこんな風に途方もなく無謀です。私もいくらでも覚えがあります。そうやって、数々のプロジェクトをこなすうちに、だんだんできるプロジェクトのサイズが分かるようになるのでしょう。
この例にあるように、できる課題を見極める力は、子供の頃に遊びの中で自ら設定したプロジェクトに打ちのめされることを繰り返すことで培われます。
つまり、ある意味、学校だけでなく遊びがどれだけ大切かという話でもあります。子供だけで遊んでいれば、勝手に壮大なプロジェクトをぶち立てて、勝手に暴発していることでしょう。しかし、下手に親が見ていると、「そんな無謀なことどうせ無駄だから止めなさい」とせっかく無謀な挑戦を学ぶ機会を摘み取ってしまいます。そこは見て見ぬ振りをしなければなりません。
と、実は「やり抜く力」は家庭での対応も大切なのですが、それはまた別の機会にするとして、それでは学校は「解けそうな問題を選ぶ力」についてなにができるでしょうか。
一つは今フリースクールなどが取り組んでいると思います。子供達は自由に勉強をする過程で、時には大きすぎる目標を立てて挫折もするでしょう。そんな子供達をどう支えるか、実践的に試行錯誤されているはずです。いずれ体系的な支援方法が確立されていくのではないでしょうか。
もう一つは、学校で行われていることです。図工などです。図工の時間は、私が子供の頃に比べて、はるかに良くなっています。たとえば屏風にことわざを書き、それに絵を添えるといったテーマで作品を作らせます。きちんとレギュレーションを決めて、その中で自由に作品を作っていいのです。そうすることで子供達は大いに想像力を発揮します。その展示会を見たことがあります。感心する作品もありますし、思わず吹きそうになるような楽しい作品がたくさんありました。子供達も楽しく取り組んでいるようなのです。
このような授業では子供達は自分の力量に合わせていくらでも凝ることができます。また、実はもっとすごいのを作ろうと思っていたけど、やっぱりできなかったというのもあるでしょう。うちの次男は、海の中の絵を書こうとして、まず魚を一匹ものすごく丁寧に描いたのですが、そのベースではいつまでも終わらないと悟ったのでしょう。そのあとは大きなタコなどが描かれていきましたw (海の部分は少なくして埋め尽くしたかったようです)
答えがあるかもわからない課題の場合、解けるかどうかもわかりませんから、問題の大きさを見極めるのが非常に難しいですが、でも、図工の時間にどれくらいの時間でどれくらいの作品ができるかというのを繰り返し経験することは、課題の大きさの見積もり能力に直接貢献することでしょう。
この点では学校は昔より「やり抜く力」育成に近づいています。
(つづく)
《ワンポイントミライ》(?)
ミライ: 「やり抜く力」に学校は無力だったと言っていましたが、今回は何もできてないわけではないという話ですね。
フツクロウ: ホウじゃな。
ミライ: なんかずるい。