少し前ですが、 甲子園優勝の大阪桐蔭主将大阪桐蔭主将、中村選手が中学時代に綴った作文というのが話題になりました。
「障害者をかわいそうだと思うことが許せなくなった」甲子園優勝の大阪桐蔭主将、中村選手が中学時代に綴った作文
ここで出てくる「かわいそう」という言葉に対する反発、私自身も10代の頃、非常に強い感情で同じように考えていました。当時は安達祐実の「同情するなら金をくれ」という言葉が有名で、「その通りだ。安易な同情は迷惑だ。『かわいそう』なんて言葉はおかしい」と「かわいそう」全否定してました。
ところが、20代を過ぎ、ある時気付いたのです。そういえば昔は「かわいそう」を激しく嫌悪してたけどなんでやっけ?と。上に書くように自分の歴史としてはそうだったことを思い出すのですが、そのときの激しい感情というのはもうまったく思い出せません。30代以降、たまに思い出そうとしますが、できず、ずっと諦めていました。
そんな背景の中、中村選手の作文を読み、少し昔の感情を思い出すことができました。
子供の頃はこんな風に考えていたように思います。相手の気持ちを考えるといっても、生半可なやり方では本当に相手の立ち場になって考えることなんてできないし、だから、そこまで真剣にやってもいないのに、安易に「かわいそう」なんて言うなんてあり得ない。そんな風だっんだと思います。
45歳の今、その考え方にはいくつもつっこみをいれられます。
そもそも、他人の気持ちなんて分かりっこありません。「お前に俺の気持ちがわかってたまるか!」みたいなテンプレセリフがありますが、これは内心、(俺の気持ちを分かってくれよ)という悲鳴にも聞こえます。でも、実際は他人の気持ちをその人の立ち場で完全に理解することはできません。だって他人ですから。双子とかなら違うかもしれませんが。
昔はみんな同じという社会で、で、みんなで畑を耕して、工場で寸分違わぬ製品を量産してましたので、他人の気持ちも理解できるという建前でしたが、建前でしかなく、で、「お前に俺の気持ちがわかってたまるか!」なんて叫びも出てきますが、今はそんなこと言われても「うん、わからない」という時代です。
だからといって、相手の気持ちがわからないと諦めるわけではありません。それが共感です。
今は、相手の気持ちを完全に理解することはできないけど、お互い共感できるところがあれば、そこでコラボしてなにかやろうという時代で、だから、エンジニアとデザイナーだってコラボできます。
ですから、共感ベースでばんばん「かわいそう」と感じればいいのです。「デザイナーのクライアントあるある」みたいな話を読んだら、エンジニアはなんとなく自分の世界に置き換えて、「うんうん、あるある、それは悲惨(かわいそう)」と共感すればいいということです。本当にデザイナーの立ち場にはたってないかもしれませんが、いいんです。おかえしにエンジニアあるあるを語れば、デザイナーも「うわ、わかるわー」と鳥肌立ててくれることでしょう。
そんな風に別に否定する必要はない「かわいそう」という感情はいくらでもあります。「かわいそう」という単語を見ただけで目くじら立てることはありません。特に大人はそれだけ人生経験が増えますので、自分の体験に近い形で「かわいそう」と感じることがどんどん増えていきます。逆に言うと子供の頃は経験が少ないですから、大人が「かわいそう」という場面に適応して、型として「かわいそう」と言ったり感じたりし、つまりまねごとの共感ですから、そういう使い方に子供同士反発しあうこともあるでしょう。
似たようなことは「がんばれ」にもあると思います。安易にがんばれと言ってはいけないと最近は良く言われますが、全否定するほどひどい言葉ではないのではないかと考えています(心の底から「頑張れ!」と言えるようになりたい)。
一方で、身の毛のよだつ「かわいそう」もあります。それはたとえば「障害者は『かわいそう』でなくてはならない」と考える人が発する「かわいそう」です。障害者を支援する人には、障害者が自立しようとすると無意識かわざとかむしろ妨害する人が