先日、
[S] 「イチローチョップスティック」に怒る人に贈る言葉見つけた
で、
当事者でもないのに勝手に怒り出す人というのは、自分が「正義感」という名の、強い「攻撃性」を宿していることを気づいた方がいいと思う。というイケダハヤトさんの言葉を紹介したのですが、あれこれ考えているうち、あることに気づきました。
実は、「攻撃性」そのものは誰でも持っているのです。たいていの人はその攻撃性と心の中でうまく折り合いをつけているので、ほとんど自分でも気づいていない人もいることでしょう。
たとえば街でマナーの悪い人を見かけた瞬間、一瞬心の中に殺意がもたげることもあるでしょう。それでも普通は自然にそんな感情は抑制され、せいぜいぶつぶつと愚痴のような気持ちが心の中を巡るくらいに落ち着きます。一瞬殺意を持ったことにも気づかないかもしれません。
それでも、内なる攻撃性は存在するのです。
かつてはこういった人間の負の面は、臭いものには蓋をしろ的に、正面から取り合うことはありませんでした。「攻撃性」を表面に出した人は凶暴な人であると見なされ、それ以外の人は「攻撃性」のない人と見なされました。ネガティヴな感情は、持ってはいけないことになっていて、ないことにされています。
しかし、たとえば子育てをしている親であれば、赤ちゃんが泣き止まず殺意を感じた覚えがあるのではないでしょうか。もちろんそれで本当に殺してしまう人はごくごく一部ですが、ニュースなどで育児に疲れ子供を殺してしまう事件を見た時、「自分もちょっと歯車噛み合わなかったら、ああなってたかもなあ」と共感することもあるでしょう。
みんな「攻撃性」を内に秘めているのです。
いつ、人は内なる攻撃性に見て見ぬ振りするようになるのでしょうか。
小学生の頃は、攻撃性をむき出しにして友達や兄弟とケンカしますが、ケガしたり、させたり、怒られたりで、割に合わなくなり、そういった暴力的な攻撃性は落ち着いていきます。
そして中学や高校の思春期では、精神的に成長し、その過程で、本気で誰かを憎むこともあるでしょう。しかし、この頃にその攻撃性を暴力として露出すると、本当に相手を殺してしまえます。数人で殴る蹴るすれば、武器がなくても簡単に人を殺せます。あるいは精神的な方法に訴えても、相手を追い詰め自殺に追い込むことができます。私たちは簡単に人を殺せるのです。
ですから、自らの攻撃性はコントロールしなければなりません。一方でコミュニケーション能力も高くなり、多くの人は、日常的にはあからさまな敵意のむきだしをしなくなっていくでしょう。
このあたりで、自分から「攻撃性」はなくなったと感じるようになるのかもしれません。そして、「当事者でもないのに勝手に怒り出す」人は、それが自分の「攻撃性」からでなく、「正義感」からと誤解するようになっていくのではないでしょうか。
しかし、もう私たちはこのような潜んだ「攻撃性」を互いに隠す必要はありません。ネットの匿名のつぶやきやブログを見れば、そういった秘めたる攻撃性や恨みの告白がいくらでもあります。誰もがそんな感情を抱えていると暴露されたのです。「人生あるあるw」で笑いあえる時代になっていいのです。
そのような社会になれば、思春期を経た子供達は、自分から「攻撃性」がなくなったと考えるのでなく、折り合いがついたと考えることができます。であれば、その後何かのきっかけに再び「攻撃性」の感情がもたげたとき、それを素直に認め、コントロールしやすくなります。正義感などの理由で無理に正当化することなく。
また、子育てに苦しむ女性にもやさしい社会になるのではないでしょうか。比較的穏やかな性格であれば、人生むき出しの「攻撃的」な感情をほとんど経験することなく成人する人もいるでしょう。