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【1】
夏に区切りはついたが、青空を支配するまばゆい太陽と強烈な残暑は、少しも秋という雰囲気を感じさせない。
それでもこの九月一日、深見零次(ふかみ・れいじ)の胸は爽やかな気持ちにあふれていた。
目の前には以前通っていたよりも白い、清潔感のある四階建ての学舎がそびえている。大気はムシムシと暑いが、少年の心は健やかな風に吹かれていた。
彼は転校生だ。今日より、この新しい土地の新しい学校で過ごす。
親の仕事の都合で転校を余儀なくされ、せっかく友情を育んだ幼馴染やクラスメイトとも別れなくてはならなかったが、それをいつまでも引きずってはいなかった。
過去を忘れるわけではない。しかしまた新たな、嬉しい出会いがあるはずだと前向きに考えていた。そうでなくては、快く送り出してくれた前の学校の仲間に申し訳ない。
新しいというのは、それだけで素晴らしいことだ。
ここではどんな日常が待っているのだろうか? どうせたいして変化などないだろうと思いはするが、せめて期待の心だけは持ちたかった。
たとえば学校一美少女なクラスメイト。
たとえばいつもクラスを混乱させる豪快な悪友。
たとえば七十年代のドラマのような無駄に熱血している教師。
なんでもいい。とにかく零次が新天地で求めているものは、一にも二にも刺激だった。あと一年半の決して長くない高校生活を、面白おかしく過ごしたい。ただただそれだけを願っていた。
「おっし!」
両の頬を叩いて気合いを注入し、零次は校舎へと足を踏み入れた。
零次の割り当てられたクラスは二年A組。転校生なので、靴箱の位置は五十音順の最後のほうだ。深見の名札を確認し、下足をしまって新品の上履きに履き替えると、意気揚々と階段へ向かった。
職員室は階段を上ってすぐのところにあった。
すー、はー。一度深呼吸してから……すすっとスマートに入室する。
「おはようございます!」
はじめが肝心とばかりに、零次は元気よく挨拶をした。
「おはよう深見くん。ようこそ我が校へ」
ホクホク顔で出迎えたのは、学年主任の若林だった。少々頭に白いものが混じる五十代の数学教師で、目尻の垂れたその表情は、いかにも人のいいおじさんという雰囲気だ。
「みなさん、転校生の深見零次くんです。拍手で迎えてあげてください」
パチパチとクラッカーのように鳴り響く温かい拍手。
零次は瞬間的に理解した。
この私立鳥津学園、いいところだ。私立だか都立だかわけわかんないところも乙だ。きっと素晴らしい高校生活が送れるに違いない。この職員室のハートフルな空気だけで、薔薇色……とはいかずとも、桜色くらいの華やかな日々を想像できた。
あとは、担任がいい人であればモアベター。
「担任の先生は、どちらに?」
母親と一緒に訪れた事前手続きの際は、若林にいろいろと案内してもらったが、担任となる教師の姿は見ていなかった。
前の学校での担任は、零次の価値観からすればつまらない人間だった。淡々と真面目に仕事をこなすだけで、あまり生徒とコミュニケーションを取ろうとしなかった。それだけならまだしも、日本のこれからは先行き不安だの、事実なのだろうが暗い話題が好きで、クラスメイト一同からひんしゅくを買っていたものだ。
少なくともあの教師よりはマシな人だといいなあ。できれば二十代の美人がいいなあ。女教師って響き、たまらん! そんなことを考えた。
「すまないが、まだ来ていないんだ。転校生の栄えある第一日目なのだから、早く来るようにとお願いしてあったのだが……」
「はあ」
ひょっとして遅刻癖のあるうっかり屋さんなのだろうか。「ちこくちこく~」とか言いながら廊下を走り、すってん転んでパンツとか見せているんだろうか。それで顔を真っ赤にして涙目になって「はうぅ~」とか恥じらうのだろうか……。零次は若い衝動に任せ、二十代の美人ドジッ子女性教師という想像を好き勝手に展開させていた。
「おお、君が我がクラスの転校生か?」
背後から妙に幼い声がした。
まるで小学生みたいな、ひどく可愛らしい女の子の声。
はて何事? 零次は目をパチクリさせながら振り向く。
「おお、メルティ先生! いらっしゃいましたか」
若林がますますホクホクした顔になる。
零次の目の前にいるのは、艶やかなブロンドの髪をした……やはり小学生みたいに小さな、あどけない女の子だ。零次は背が高いほうではないが、彼女の身長はそんな零次の腹あたりまでしかなく、風が吹けば飛んでしまいそうなほどに小柄だった。
その身にまとっているのはミニサイズながら、まぎれもなく社会人を象徴するビジネススーツだ。それもピンク色。子供体型とのミスマッチ具合が可愛いと言えなくもない。
まだ状況がよく理解できなかった。
「先生? 誰が?」
「私だよ。転校生くん」
少女、いや幼女は自信満々な笑顔で言った。
零次はなんと反応したらいいものかわからず、若林に視線を移す。
「君の担任となるメルティ先生だ。とても素晴らしい方だよ」
零次はまたしてもなんと反応したらいいものかわからず他の教師を見たが、ニコニコ顔で笑うだけだ。
「なんかのドッキリ企画ですか?」
「違うって。この私……メルティ・メイシャ・メンデルが君の、二年A組の担任なんだ」
メルティと名乗る幼女は、ブロンドの髪を大人っぽい仕草で掻き上げる。
どうやら冗談ではないらしい。零次は間抜けのように口をあんぐりさせた。
「幼女が先生?」
「文句があるかな?」
「文句どころかあらゆる言葉が思いつきませんが」
「ふふ、徐々に受け入れてくれればいい」
「……」
人は本当に驚くべき出来事に遭遇すると、その驚きを表現できなくなるほど神経が麻痺するのだと零次は知った。せいぜい一二〇センチというところの身の丈の幼女教師に対して、ひたすら瞬きを繰り返して見つめるしかできなかった。
「さて、深見くん。新しい学校で戸惑うこともあるだろう」
あなたに戸惑ってるんですが、とは言えなかった。
幼い、しかしよく通る声で、彼女は宣言する。
「だが私が保証する。君の学園生活は――必ず素晴らしいものになる。私が担任であるからにはね」