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【2】
「ずいぶん遅くまで寝てたわねえ」
朝十時ごろになってようやく起床した零次は、沙羅の呆れ顔に迎えられた。
「ああ、うん……おはよう。でも姉さんだっていつもこのくらいに起きるじゃん。今日は珍しく早起きしたの?」
「あたしも起きたのはつい三十分前だけどね。つか、顔色悪くない? 昨夜、帰ったときから元気ないみたいだったし。何かあった?」
「いや……別に」
「ひょっとして、メルティ先生に迫られまくった? 搾り取られた?」
「そ、そんなわけ……ないだろ。下品だな」
メルティが関わっていることには間違いない。どのようにごまかすか、動きの鈍い頭で懸命に考える。
「……歓迎会が終わったら先生とは別れたよ。それから……クラスのみんなでカラオケに行った。で、疲れた。それだけだから」
「はしゃぎすぎて疲れたって感じじゃなかったんだけどねえ。そもそもあんた、音痴だからカラオケは嫌いとか言ってなかった?」
「い、今は違うんだよ。姉さんの知らないうちにカラオケの楽しさに目覚めたんだ」
「あっそ。……まー、これ以上は聞かないであげるけど。さっさと朝飯食いなさい」
何か作る気はしなかったので、シリアルだけで済ませた。それから食器を片付けることもなく、全身の力を抜いてボーッとしていた。沙羅はもう一言も口を利かず、新聞に目を通していた。
零次はようやく落ち着いて、事の次第を整理する。
メルティは……かつて父親に不老長寿の魔法をかけられ、そのまま数百年の歳月を生き続けてきた。あまりにレアな魔法らしく、彼女の体の秘密を得ようと付け狙う同族が、後を絶たないという。
崇城朱美もまた、魔法使いだった。魔法犯罪を取り締まる組織、国際魔法警察機構――通称IMPOの一員。メルティの監視役として学校に潜り込んだ、魔法戦士。
そして――メルティは零次に魔法の戦いを見せたかったと言った。それが零次を魅了する計画の最終段階であると。
「はあ……」
零次が受けているショックはふたつある。ひとつは、メルティの周りには危険があるということ。零次に危害は加えないとメルティは言う。しかし、彼女の周りはそうとは限らないというわけだ。実際、昨夜の襲撃者は零次もろとも殺すつもりだったと、崇城は断言した……。
もうひとつは、その崇城がメルティと同族だったこと。隣の席の、憧れの女の子。生まれて初めて一目惚れした美少女が……自分とは違う世界に生きていた。非日常の住人だった。メルティが魔法使いだと知ったとき以上の衝撃だった。
これからあのふたりと、どう接していけばいいのか……せっかくの日曜日は、深い悩みに彩られそうだった。
インターホンが鳴った。応対する気が出ない零次は、気怠い声で言う。
「姉さん出てよ」
「仕方ないわねえ」
沙羅はあからさまな溜息をつき、玄関先に出て行って……慌てて戻ってきた。
「あんたにお客さんよ」
「……誰?」
「崇城さんだって。何あの巨乳は!」
来訪者はまぎれもなく崇城だった。昨日と同じような黒い衣服で、クールな眼差しをしている。
出てこれる? そう聞いてきた彼女に素直に従って、零次は近所の公園に出向いた。
家では話せないとなれば、メルティの件に決まっていた。木陰のベンチに腰を下ろし、零次は彼女の言葉を待った。
「一晩寝て、落ち着いたかしら」
「まあ、昨夜よりはマシっていう程度だけど」
「それで、どう? 感想は。私が魔法使いだって知って」
下手に遠回しにせず、直接的に尋ねてくる。
「ただ驚いたとしか……」
「そうね。ろくな言葉が見つからないし、受け入れがたいでしょう」
だが、受け入れなければならない。
何事も立ち止まっていては物事は解決しない。昨夜の記憶だけピンポイントで忘れるなんて器用なことができない以上は、受け入れて、今までどおり日常生活を送らなければいけないのだ。
「国際魔法警察機構……IMPOっていうのはさ、正義の味方って解釈でいいの?」
「こそばゆい表現ね。まあ一応は、正義側の人間。一般人にとって、決して敵ではないからそこだけは安心して」
「すごいね。世のため市民のため、人知れず戦うわけか。子供の頃から、そんなことしてたの?」
「ええ、両親もIMPOの一員でね。物心ついたときには訓練を受けてた。魔法ってものはごく当たり前に身近にあった。その存在を不思議と思ったことはないわ」
当たり前と当たり前でないの境界線は、非常に曖昧なのだと零次は思った。彼と崇城の違いは、子供の頃から慣れ親しんでいたか否か、それに尽きるのだ。
とすると、自分も遠からず魔法が当たり前だと思ってしまうのだろうか? 人間は慣れていく生き物だと、よく聞く話ではないか……。
「……先生の監視役なんだよな。それだけのために?」
「あいつが鳥津学園に潜り込んだっていう情報が入ってね。すぐさま編入した。かれこれ一年半になるわ」
「ほ、他にも潜入している人はいるの?」
「いえ、私ひとりよ」
「……崇城さん、かなり強いわけ? 単独で任務を任されるってことは」
「私なんかまだまだよ。昨夜だって襲撃者を逃がしてしまったし。修行が足りないわ」
「じゃあメルティ先生より劣るってこと? なのに」
「詳しくは言えないけど、私は固有で強力な特殊能力を持っているのよ。上位の魔法使いが相手でも、確実に逆転できるような、ね。だからこそ私に白羽の矢が立ったの。まあ、一対一で戦闘に突入することは想定していないけれど……万が一のときは、そこそこ戦えると思っている」
静かだが、自信に満ちあふれた口ぶりだった。
「……そういや、先生が倒した連中って、道端に放置しっぱなしだったけど……。っていうかあれ、死んだの?」
「さあね。なんにしても、直後にメールで仲間に連絡を入れておいたから大丈夫。騒ぎにはならないわ」
証拠隠滅を専門とする部隊のようなのがいるらしい。
ここで、ひとつ疑念が沸いてくる。
「でも、崇城さんとしてはいいのかな。一般人がこういう裏の世界? に足を突っ込むのって……好ましくないことのように思うんだけど。そもそも知識を得ること自体がタブーみたいな。先生は最初っからしゃべりまくりだったけどさ」
「呼び出したのは、そのことなのよ」
崇城は心持ち申し訳なさそうに口にした。
「そのことって……? ただ昨日の話の続きをするだけじゃなかったのか」
「あなたの記憶、消させてもらいたいの」
「……え?」
さらりと、とんでもない言葉が飛び出た。
「これからもあなたは普通に生活していくのよ。魔法使いの知識なんて邪魔なだけでしょう? だから忘れさせてあげる」
「ちょ、ちょっと待って。記憶を消すって本当にできるの?」
「ええ、メルティはただの風変わりな担任として、私はあなたの隣のクラスメイトとして認識されるようになるわ。後遺症なんかはない。何も心配はないから。そういうの、できる仲間がいるから」
道理でペラペラとしゃべってくれるわけだ。どうせ消してしまうのだから、いくら話したって支障はない。
「いやでも、記憶を消したって……先生はまた僕に一から教えようとするんじゃ?」
「そうならないように、次からは私が阻止する。あいつがあなたに近づかないように」
「ま……守ってくれるってこと?」
「深見くんを誘惑するにしても、魔法を利用しないのであれば、放っておいてもいいかもしれない。でもあいつの真の計画を知った以上、放置するわけにはいかないわ」
「う、うん……」
メルティいわく「ぞっこん」になってもらうために、魔法の戦いを見せる……という計画。一般人を守る立場のIMPOとしては、それは許容の範囲外と言ったのだ。
しかし奇妙だ。記憶を消すつもりなら、いちいち断らなくても強引にやってしまえばいいではないか。そもそも昨夜の段階でそれができたはずなのでは? 零次は疑問をそのままぶつけてみた。
「……同意を得ないで無理矢理っていうのはちょっと心情的にね。それにこういうケース、初めてだから。こういうところでも、私は未熟なんだと思う」
首をもたげ、上を向いて息を吐く崇城。その横顔は日常的で、零次は少し心が温かくなった。