【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.19
最初は八枚落ちで捻られた来是だが、今は四枚落ちの手合いで指している。駒落ち将棋にはすべて定跡があり、正しい手順を教えてもらったので、もう六枚落ちでは負けることはなかった。
「実にいい指し心地ですね。身が引き締まります」
部活のときよりもいい音を立てて、紗津姫は軽やかに指している。正座する女王は、和室の風景と完全に溶け合って、いっそう美しさを増していた。
この前、プロの女流棋士の写真を見た。タイトル戦では華麗な和服を着ることが多いらしいが、もし紗津姫がそうしたら、どれほど美しくなるのだろうか……?
「……ってこれ、この前教わった定跡と違うじゃないですか?」
「ふふ、こういう手もあるんです」
当然、上手の駒が増えれば定跡は複雑になっていく。さらに、あえて定跡を外すことで下手を混乱させるテクニックもある。来是はどうしたらいいかわからなくなった。
そして、あえなく失着を連発する。その隙に紗津姫は巧妙に金銀を進軍させ、桂馬も睨みを利かす。あっという間に八方ふさがりになって、飛車も角も奪い取られた。
もはや勝ち目はないとわかって、来是は投了した。
「……負けました! くそー、あんな手があるとは」
「この手は何だと相手に思わせて、ミスを誘発させるのも立派な戦略のひとつです。でもふたりとも、今は基本を学ぶ時期ですから、真似はしなくていいですよ」
「どいて来是。あたしの番」
引き締まった剥き出しの脚を折り曲げて、すちゃっと正座する依恋。真正面から見たらパンツが見えてしまうのではないかと思った。
「そのファッションで正座って、あまり似合わないなあ」
「もう、黙っててよ!」
「では、碧山さんも四枚落ちで」
当初、駒落ちはイヤだと言っていた依恋だが、もうそんなことは言わなくなっていた。道場でも駒落ちでやるのが当たり前だし、将棋の上達のためには素直に指導してもらうのが一番だとわかったのだ。
数手進めたところで、依恋は早くも勝ち誇るように笑った。
「ふふん。そっちは攻め駒が少ないんだから、穴熊に囲っちゃえばいいのよ」
「ちょ、それってずるくね?」
「別にルール違反じゃないでしょ?」
「そうですね。どうぞそのまま続けてください」
紗津姫は余裕たっぷりに、依恋が穴熊を完成させるのを見届けていた。
……来是も依恋も、すぐに女王の真の力を思い知ることになった。
「あ、あれ? 攻められない」
「穴熊は手数がかかると言ったでしょう? 攻め駒が少ないとはいえ、その間にこちらもそれなりの準備を整えられます」
依恋は以前のことで味を占めたのか、また中飛車戦法を採用していた。角と協力して相手陣を強襲しようとするのだが、紗津姫の金と銀はいち早く好位置に移動していた。王将自身も守りに参加して配下の駒を支えている。
どう攻めようとしても上手くいきそうにないのが、傍から見ている来是にもわかった。守りを固めようと執心するうちに、完全に出遅れた。来是と同じ失敗だ。
依恋はプレッシャーに押されて、些細なミスをしてしまう。紗津姫は決してそのほころびを見逃さず、容赦ない指し回しを見せる。
依恋は攻め駒を徐々に奪われ、その駒を急所に打ち返され、さらに戦力を削られていく。やがて穴熊もじっくりと剥がされていき……詰まされる前に投了せざるを得なかった。
「すげえ……」
「ふふ、本気を出しちゃいました」
依恋はガックリとうなだれ、完全に涙目だった。
「なんで? どうしてよっ!」
「これが先輩との差ってことだろ。悔しかったら上手くならなきゃ」
「なるわよ!」
「おふたりとも、気分を入れ替えて詰将棋をしてみましょうか」
紗津姫はいったんリビングに戻って、一冊の本を持ってきた。
詰将棋とは特定の局面と持ち駒の状態から、王手の連続で相手の王様を詰ましていくパズルだ。新聞の将棋コーナーによく載っている。来是もここ数日、ネット上の詰将棋にチャレンジしていた。
「終盤力を身につけるのに、詰将棋でのトレーニングは欠かせません。この本は実戦的な問題ばかりを収録していて、とても評判がいいんですよ」
「へー、俺も買おうかな」
「よろしければ差し上げますよ。私はもう何度もやりましたから、全部頭に入っています」
「おお、ありがとうございます!」
中古の将棋本というのはいまいち華がないけれど、憧れの女性からのプレゼントには変わりない。来是は天にも昇る思いだった。
「何よ、そんなに喜んじゃって……」
「他にもありますから、碧山さんもあとで好きな本を持っていってください」
「……どーも」
「さて、手始めに詰将棋の面白さがわかるこの問題からやってみましょうか」
紗津姫はその本を開かず、おもむろに駒を並べていく。
攻方――詰める側は5三銀と2五角。持ち駒に銀一枚。
玉方――詰められる側は5一玉、4一銀、6一銀。
玉の両隣を銀が守っているが、攻方も銀ですぐ近くに迫っており、遠くからは角が狙いを定めている。
【3手詰】
「これは昔から有名な、3手詰の問題です。どうすれば詰ますことができるでしょう?」
「すごく簡単そうじゃない。あたしがやるわ」
嬉々として盤面を見つめる依恋だが……だんだん眉根が険しくなる。
「……うそ、どうやって詰ますのこれ。だってこうやっても」
▲6一角成と左側の銀を奪う。すると紗津姫が△同玉と取る。
依恋はおそるおそる持ち駒をつまみ、▲6二銀打と玉頭を攻めるが、玉は軽やかに横にかわしていく。銀はもう一枚あるが、どうやっても詰まない。
「なんで? おかしいわよこれ!」
「春張くんはわかりましたか?」
「……いや、全然。本当に詰むんですかこれ?」
「ふふふ、たくさん悩んでください」
それから数分ばかり、ふたりして唸っていたが、ちっとも詰まし方がわからなかった。
「ギブアップです! 正解を教えてください」
「あ、あたしはもうちょっと……あれ?」
依恋が弾かれたように再び駒を手にした。
慎重な手つきで、▲5二角成。銀を取らず玉の前にタダ捨てした。
「これは銀で取るしかないですね」
紗津姫はすでに満足そうな表情を浮かべていた。6一の銀で馬を取る。
「これで詰みよ!」
自信満々に▲6二銀打。相手の銀が移動したおかげで、こちらの銀を打つスペースを作れたのだ。
「正解です。お見事」
「なるほど、上手くできてるなあ……」
わかってみれば、なんということのない手順だった。しかしそれがわからなかったのだから、いかにこの問題が巧みかということだ。昔から有名というのも頷ける。
「えへへ、来是より先にわかった!」
「ちぇっ、次は俺が先に解くっつーの」
「こんな風に、大駒を思い切って捨てるべき局面というのが、詰将棋だけでなく実戦でもしょっちゅう現われるんですね。そうした感覚を、どんどん養っていきましょう」
「大事なものでも、時には切り捨てないといけない。うん、人生にも通じることだな」
「また適当なこと言って……」
3手詰や5手詰の短手数問題にどんどん取り組んでいった。正解すれば一点という点数制にしたことで、どちらも懸命に思考回路を巡らせた。
「よし、わかった! 初手はこうで、次はこうで……」
「正解です! 春張くんが一歩リードですね」
「くっ……! 次はあたしが正解するわ!」
実戦とはまた違った楽しみが詰将棋にはあった。紗津姫の言う大駒を思い切って捨てる感覚が、だんだんわかってきた気がする。
将棋の初心者はどうしても、大駒の飛車角はもとより、金も銀もなるべく取られまいと必死になる。しかし逃げ回っているうちに相手の突破を許して、気づいたときにはどうあがいても攻め込めないという事態に陥ってしまう。
そんな将棋をいつまでも続けていてはビギナーを脱することはできないのだと、来是は体で実感していた。
ひたすら詰将棋を解いて、二時間ほどが経った。もうすぐ正午になろうとしている。
「そろそろ休憩しましょうか。お腹も空きましたし」
「そういやメシはどうするんだ?」
「デリバリーのピザ、もう頼んであるから。あたしのおごりよ。感謝してね」
「そりゃありがたい。じゃあ届くまでやるか!」
依恋がわずかに一点上回ったところで、インターホンが鳴った。
来是は全然関係ない新聞勧誘の人とかを期待したが、しっかり予約時刻どおりにやってきたピザの宅配員だった。Lサイズのホクホクピザを抱えながら、依恋はスキップで戻ってきた。
「あはっ! あたしの勝ちよ!」
「くそう、あんな手順があったとは!」
「罰として、来是が食器の用意をするのよ。グラスにジュースも注いでね!」
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