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部室にいるときと同じく、時間を忘れて練習を続けた。ふと気づけばもう午後五時半を回っていて、外はぼんやりと薄暗い。小腹も空いてきた。
「夕飯はどうするんだ。また出前?」
「そのつもりだけど、何にするかはまだ決めてないのよね」
「よかったら私、作りましょうか」
紗津姫がポンッと手を合わせる。
「先輩が料理するってことですか?」
「ええ、また碧山さんにおごっていただくのも悪いですし。食材はありますか?」
「冷蔵庫にあると思うけど……」
「じゃ、お台所を貸していただきますね。おふたりはそのまま詰将棋をやっていてください。できたらお呼びします」
ずっと正座だった紗津姫だが、痺れる様子もなく立ち上がり、和室を出て行った。その超人ぶりに驚くと同時に、こらえきれない喜びが湧いてきた。
「先輩の手作り料理か……! こんなに幸せでいいのか?」
「な、何よ。手作り料理くらいで大げさな」
「そういう依恋は、料理できるのか」
「……できない」
「いろんな習い事したのに、料理は習わなかったんだな」
「い、いいじゃない。そんなもん、お嫁に行く前に覚えればいいのよ」
「お嫁かあ。そうだよな。お前もいつか結婚するんだよな」
「……あ、当たり前じゃない。ていうか、女の子なら料理を覚えるべきなんて、偏見よ」
「またまた。自分が苦手だからってそういうこと言うもんじゃないぞ」
「知らない!」
何の怒りがパワーになったやら、詰将棋対決は午前に続いて依恋の勝利に終わった。
やがて紗津姫から声がかかり、ダイニングルームに向かってみる。
「おお……すごい!」
刻み野菜たっぷりのチャーハン、中華風スープ、魚の照り焼き、ジャガイモとウインナーのマヨネーズ炒め……飾ったところは何もない、けれどとても温かそうな夕食がテーブルに並んでいた。
「想像以上だ……」
「たいしたことじゃありませんよ」
来是は食卓ではなくエプロン姿の紗津姫に見入っているのだが、彼女は気づいていない。
「むむ……美味しそう」
「依恋、将棋だけじゃなくて料理も先輩に教わったらどうだ」
「べ、別にそんなの……」
「構いませんよ? 部活やこのミニ合宿を通じてわかったんですけど、私って教えたがりみたいです」
……つまり、あんなことやこんなことも教えてくれるのだろうか。
にへらっと唇が歪みそうになった瞬間、みぞおちに依恋のエルボーが入った。
「げふっ!」
「何を想像してるのよ。スケベ」
「簡単に俺の考えがわかるお前が怖い……!」
三人とも席に着く。来是はこの世のすべての食材と偉大な先輩に感謝を込めて両手を合わせた。
「いただきます!」
手始めにスープを一口。わずかにとろみがかかっており、まろやかに舌を包む。絶妙に優しい口当たりだった。そしてしっかりした旨味が、すーっと喉、食道、胃に染み込んでいく。
「お口に合いました?」
「こういうときに何と言えばいいのか……」
「普通に美味しいでいいでしょうが」
依恋も満足そうに箸を動かしていた。
普段の家での夕食より、よほど楽しかった。将棋のことばかり考えて疲労していた頭脳が、たちどころに回復していく。
味や栄養のおかげだけでなく、紗津姫の手作り料理というのが大きかった。後輩をねぎらう気持ちがたっぷり詰まっているのがよくわかるのだ。
「ところで食後はどうしますか? 自主練をするというのもありですけれど」
「あたしはパス。ボディケアしたい」
「俺もさすがに休みたいかなあ」
「なら、私も休みます。おふたりとも、今日は本当によく頑張りましたね」
「今のうちにお風呂入れておくわ」
依恋はバスルームの給湯スイッチを押した。
風呂……その二文字だけで、来是は新たな妄想にふけることができそうだった。きっとおっぱいがお湯に浮くんだろうなあとか。
「来是、レディファーストだからあんたは最後に入ってね」
「な、なにぃ? つまり俺が先輩のあとに……」
女王のあそことかあそことかが浸かった湯を共有できてしまうのか? そこまで考えたところで、依恋が若干引き気味に目を細めた。
「……やっぱあんたが先に入りなさい」
「えー」
「そのほうがいいですね。私、お風呂は長いほうなので」
夕食が終わり、洗い物担当は来是が言いつけられた。しかし先輩の使った食器を洗えるなんて最高だと、ちっとも苦にはしていない。
依恋はバラエティ番組やニュース番組を適当に流している。面白いものは特にないようだが、他にすることもないので仕方なく見ているという状況だった。
「将棋の番組ってのはないんですか?」
「それなら、明日の朝にやりますよ。とても参考になると思います」
「そういえばありましたね。一度もまともに見たことはなかったけど」
そのうちに、お風呂が沸いたとアナウンスが入った。
「んじゃ、お先に入らせてもらうから」
そして十分後。
「すっげえ湯船広かったな! うーんと脚を伸ばせて疲れが取れたよ」
「ちょ、ちょっと! 出るの早すぎない?」
「俺、いつもそんくらいで出るけど。水ある?」
「勝手に飲んでいいわよ」
まだ濡れている髪をバスタオルでわしゃわしゃしながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
「お風呂っていうのは、もっとゆっくり入るものなのよ。男ってみんなそうなの?」
「どうかなあ。でも先輩だって早く入りたいだろうなって思ったし」
「まあ、私のことは気にしなくてもよかったのに」
「……先輩先輩って、そればっかり」
美味しそうにグラスの水を飲む来是の横を通り抜けて、依恋はバスルームに向かい……途中で足を止めた。
「紗津姫さん、一緒に入らない?」
「一緒にですか?」
「女同士で話したいことがあるし」