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午後からは紗津姫との指導対局を集中して行い、あとは詰将棋の続きというカリキュラムになった。三時のおやつにチョコレートを食べていると、なるほど脳の疲労が緩和される感じだった。これからは部活のときにも堂々とお菓子を持ち込めそうだ。
「そういえば先輩は、普段どんな風に勉強しているんですか?」
「私は主に、プロの棋譜を並べています。スポーツでもプロの試合を見て研究するっていうのがありますよね。あれと同じです」
最初に部室に行ったとき、紗津姫がひとりで将棋盤に向かっていたことを思い出す。あれは棋譜並べをしていたのだ。
「じゃ、じゃあ俺は先輩の棋譜を並べてみたいです!」
「そんなの記録してないんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。だいたい頭の中に入っていますから」
紗津姫はあっさり言ってのけると、すべての駒を初期位置に戻した。
「これは去年、私がアマ女王を奪取したときの棋譜です」
紗津姫は後輩ふたりに一手一手意味を示すように、ゆっくり双方の駒を進めていく。
来是も依恋も、無言で盤面に見入った。
まず違うと感じたのは、歩の使い方だ。初心者はたとえ歩であっても、自分から「さあ取ってください」というような進め方はなかなかできない。
しかし紗津姫は臆することなく歩を進軍させる。一見タダで取られそうだが、そうすると相手の駒がいたスペースに、今度は持ち駒を打つことができる。そうして攻めを継続することができる。
かといって取らずに放置していると、さらに歩を前進させてしまう。……つまり歩を突いた時点で、紗津姫の優位が確定したようなものなのだ。
歩を活用する局面は、他にも随所に見られた。紗津姫の手にかかれば雑兵ではなく一騎当千の武将のような働きだ。
「はー、なんか歩だけで相手を引っかき回しているような……。たいして役に立たない駒だと思っていたのに」
「将棋は歩から、なんていう言葉もあるくらいです。これを使いこなせれば有段者にもなれますよ。……ここで相手が投了しました。簡単な7手詰です」
相手陣が壊滅状態なのに対して、紗津姫の王様は強固な囲いを保っている。圧勝と言っていい終局図だった。
紗津姫に比べたら、自分はただ駒を動かしているだけ。取られると危機を感じたらすごすご引いたり、特に理由もなく駒の交換を挑んだり。ひとつひとつ意味のある指し方をしていない。ただただ感服するばかりだ。
「やっぱりすごいな、先輩は。相手だって前回のアマ女王だったわけですよね」
「ん……」
依恋も小さく唸るばかり。紗津姫と自分との圧倒的な棋力差を、あらためて理解したようだ。
「また後日、私が覚えている限りの棋譜を書き留めてお渡ししますね。参考になればいいのですが」
「参考にしまくりますよ! ……ところで先輩って、将棋を始めてたった三年って聞きましたけど、そんな短期間で上手くなれたのはどうしてですか」
「上には上がたくさんいますから、あまり上手いと言われると面映ゆいですけれど……そうですね、やっぱり将棋が大好きというのが大きいと思います」
「好きこそものの上手なれってやつ? そんな単純な理由だけじゃないでしょ」
依恋は疑ってかかるが、紗津姫は首を横に振った。
「本当にそれ以外、理由はないんですよ。アマチュアがどれだけ将棋が上手くなったって生活の糧になるわけじゃありません。進路や就職が有利になるわけじゃありません。それでも、この最高の頭脳ゲームが好きなんです。心が満たされるんです。そう、恋愛に近いでしょうか」
「れ、恋愛ですか?」
「細かい理屈は抜きに、私は将棋が好きで、好きであるからには一生付き合っていきたくて、私もまた愛されたくて」
「愛されたくて……って誰によ」
「将棋の神様、ですかね。これはダメな手だったと叱られるだろうなとか、この手は褒めてくれるだろうなとか……目には見えないし声も聞こえないけど、そういうのを想像するのって、とても楽しいです。すると、伸び伸びと指せるようになって。とまあ、将棋が上手くなったのは、あくまで好きの延長上のことなんですよ」
もう何度目か数え切れない。将棋への愛を語る紗津姫を、来是は恍惚として見つめていた。
これが、趣味を満喫している人間の目。なんて生き生きしているのだろう。
好きと決めたら何があっても一直線。どんなに辛いことがあってもぶれることなく付き合い続けていく……。
「そうだったのか、将棋は恋愛だ!」
「芸術は爆発だ! みたいなノリで言うのやめてよ」