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☆
自分以上のボディを持つ女の子なんて、そうそういないと依恋は自負している。
子供みたく白い柔らかな四肢、陶器のように理想的なカーブを描く腰回り。そして男を恍惚とさせずにはいられない、形と大きさを兼ね備えたバスト。遺伝子レベルで約束された天性のスタイルは、まさにグラビアアイドル顔負けだ。
何より、それを維持するための努力も、一日たりとも怠ってこなかった。
そんな依恋でも、この女王の存在感ある裸体には息を飲んだ。
「すごくいい石鹸ですね。いい香りがするし、泡がふわふわです」
「安物なんか使っていたら、お肌が荒れちゃうもの」
母性がたっぷり詰まったような、依恋よりも二回りは大きな胸。しかしそこ以外の箇所はキュッと引き締まっていて、少しの無駄も感じさせない。自分が男だったら、きっと夢中で見ていただろうなと思う。
「さぞかしうらやましがられているんでしょうね、その胸」
「重くて大変です。たまに足下も見えづらいし。でも、大きすぎて恥ずかしいとか、もっと小さければなんて思ったことはないんですよ」
「ふうん? 大きすぎてイヤだっていう巨乳の子は珍しくないみたいだけど」
「だって、ひとつしかない私の体ですから。自分を好きになるのが、よい人間になるための第一歩だと思います」
「……それも将棋を通じて得た悟りってところ?」
「そうですね。盤と向かい合うことで、穏やかな精神と、自分を好きになる心が磨き上げられました」
「紗津姫さんって、何でも将棋のおかげって言いそう」
依恋は胸の大きさで負けていることなど、さほど気にしてはいない。
もしかしたら、いやきっとあいつは80センチ台よりも90センチ台のほうが好みかもしれないけれど、それだけのことで負けるなんて微塵も思ってはいない。
問題なのは、この数週間接してきてわかってきた、彼女の人柄。
悔しいけれど、自分よりも……いや、そこらの大人よりもよほど成熟している。礼に始まり礼に終わる将棋というゲームが、彼女の人間性を磨いていったのだろう。
おまけに料理もできる。先ほどの夕食で、来是がどれほど喜んでいたか……。
紗津姫は体を洗い流して、依恋と寄り添うように湯船に浸かる。豊満な胸が見事に浮いていた。
「女同士の話とは、恋の相談ですか?」
「え……」
不意打ちを食らって、依恋は首から上が凍ったように固まった。
「碧山さんは、春張くんが好きなんでしょう?」
「え、えええ? べ、別に、あ、あたしは、ああ、あんなやつのことなんか」
「こうして裸の付き合いをしているんですから、隠し事はしなくてもいいですよ。見ればだいたい、わかっちゃいますから」
「あ、あうう……」
「それに、もともとふたりだけで合宿する予定だったんでしょう? ご両親が不在ということがあらかじめわかっていたからですよね。しかも家の中で過ごすというのに可愛い服を着てお化粧までして。もう誘惑の準備万端という感じでしたし」
「……」
依恋は真っ赤になって顔の下半分を湯面に入れる。
もう言い逃れは通じない。これもやはり将棋で磨いた洞察力のおかげなのだろうか?
「よければ、おふたりの馴れ初めを聞かせてくださいな」
「馴れ初めって言い方はおかしいでしょ。……まあいいわ」
頬を染めたままで、依恋は初恋の男の子のことを一から回想する。
誰にも話したことのない秘めた想いを、どうしてわざわざ自分から話そうとしているのだろう? ……そうさせてしまうのもまた、この女王の魅力なのかもしれなかった。
「もう十年以上も前ね。来是が隣に引っ越してきて、新しい遊び相手になりそうってあたしから近づいていったの。そのときは、たくさんいる友達のひとりにすぎなかったわ。……でもだんだん、あいつのことが気にかかるようになって。ほら、あんな名前だから周りにからかわれて、よくふてくされてた。おまけに慣れない土地でしょ。ひとりでいることが多くて。だからあたしが、もっともっと面倒見てやろうって思って」
「まあ、そんなに小さな頃からご立派ですね」
「自然とあたしたちは一緒にいることが多くなった……。ただそれだけよ。あいつはあたしに何もしていない。悪ガキから助けてくれたとか、迷子のところを見つけてくれたとか、乙女がキュンとなるようなイベントは全然なかったわ」
「それだけで、好きになっちゃったんですね」
「は、はっきり言わなくていいの!」
しかしその通りだった。来是は一度として、依恋を感動させるような言動は見せたことがない。
自分が連れ出そうとすれば、いつも断ることなく付いてきてくれただけ。
そう、それが嬉しかった。人が人を好きになるきっかけは、本当にささやかなことなのだと依恋は知った。
「中学卒業まで、そんな感じで冴えない男だったの。でも心機一転、あいつは名前負けしないように男らしくなろうって決めたの。まずは部活を一生懸命やろうって」
「将棋部を選んでくれたのは、本当に嬉しいです」
「ふん。あなたが美人でスタイルいいから、ていうかそのホルスタインみたいなおっぱいにフラフラ引き寄せられただけよ」
「あらあら」
紗津姫は優雅に笑い、揶揄されても平然と受け流していた。
「けれど、それはただの取っかかりなのですよね。彼はちゃんと将棋を好きになってくれています。そして碧山さんは、春張くんと一緒にいたくて入部して……同じように将棋を好きになってくれました」
依恋は自問した。はたして自分は将棋を好きになっているのだろうか。
……たぶん、なっている。
これまで経験してきた多くの習い事と同じ。最初はとても苦労するけれど、その面白さがわかるとどんどん続けたくなる。
男も女も、大人も子供も同じフィールドで戦うゲーム。頭脳ひとつで相手を負かすのは最高に気持ちがいい。負ければとても悔しいけれど、疲れるスポーツと違ってすぐさまリベンジできるのもいい。
「そうね。あたしも将棋、好きかな。数ある趣味のひとつにしてもいいとは思ってる」
「そのくらいでいいですよ」
「とにかく来是は変わったわ。夢中になれることを見つけて、驚くほど積極的になった。……自分の考えも、ズバズバと口にするようになったの」
ここから先は言えない。
来是が変わったのは将棋以上に、あなたのおかげなんだって。恋を知ったからなんだって。あいつが本当に好きなのはあなたなんだって。
……そんなこと、口が裂けたって言えやしない。何だか泣きたくなってきたので、お湯で顔をバシャバシャ洗ってごまかした。
紗津姫も両手でお湯をすくって、心地よさそうに顔にかける。雫に濡れる表情は、いっそう艶っぽくなった。
「じゃあ、今度は私の番ですね。私が好きな人の話」
「え? 紗津姫さん、好きな人いるの?」
「いえ、今のところはまだ。彼氏にするならこういう人がいいという話です」
「そ、そっか」
実は私も春張くんが……などという展開はなさそうで安心した。
「今まで私、いろいろな人にアプローチされてきました。学園祭でクイーンになってしまってからは特に。でもそのたびにお断りしてきました。恋人になってくれる人には条件があるんです」
「条件?」
「はい、それは……」
一呼吸おいて、紗津姫は打ち明ける。
「私と同じくらい将棋が好きで、私よりも強い人です」
依恋は言葉がなかった。どれだけハードルが高いことを言っているか、わかっているのだろうか。
「そんなの、プロくらいしかいないんじゃないの?」
「いえ、アマチュアでも私より強い人はたくさんいますよ。同年代に限定すると、さすがに少ないと思いますが」
「……なんでそんな厳しい条件を?」
「私には夢があるんです。私は将棋の素晴らしさを多くの人に伝えたいと思っていますけれど、一番に伝えたいのは……未来に生まれるだろう、私の子供です」
紗津姫は遠い将来を想うように、腹部に手を当てる。その仕草は、ハッとさせられるほど美しかった。
「物心がついたらすぐに将棋を教えて、一番好きなゲームにさせるんです。そしていつか、名人になってもらいたい」
「名人……」
以前、プロ棋界の基本を教えてもらったことがあった。その中でも印象的だったのが、最高の権威と栄誉に預かれる将棋の頂点「名人」。江戸時代に徳川家康が制定してから四百年の歴史があるという……。
「将棋界にはいくつものタイトルがありますけれど、名人って、誰より将棋が好きでないと……そして将棋の神様に愛されないとなれないんですよ。そんな将棋大好きで、将棋の神様に愛される人間のお母さんになりたい。それが私の夢です」
「……」
「となると、パートナーになる人も私に理解を示してくれるほど将棋が好きで、強い人がいいですよねってわけで。探すのはとても苦労しそうですけど」
誰より綺麗で可愛い女の子になる。誰もが振り返る女王様になる。
そんな自分の夢と、なかなかいい勝負じゃない。何だか愉快になった。
「あたし、スケールの大きなことが好きなの。その夢、応援してもいいわ」
「ありがとうございます。困難な夢ですけど、だからこそ追う価値があるんです」
来是がその条件を満たすことは、ほとんど無理のはずだ。実力で追いつくまでにどれほど時間がかかるかもわからないし、追いつける保証だってない。
安心していいわよね。依恋はようやくリラックスして肩まで湯に浸かった。