【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.25
☆
翌日、トーストと牛乳だけの簡素な朝食を済ませると、予定どおりに八時から将棋を再開した。
「ここはこうやって歩をただで取らせたら、次に角を打って金銀の両取りです」
「おお! なるほど」
「もちろん相手だってそうなることがわかっているから、ほいほいと歩を取ったりはしません。そこで取ってくれないとしたらどう応じてくるか、その応じた手に対する最善手は何か……そんな風に、どこまで読みを広げられるかが勝負です」
「先輩はどれくらいまで読めるんですか?」
「せいぜい数十手ですね。プロは百手は軽く読みますよ」
「はあ……プロってすごいのね」
「ええ、おふたりとも私のことを強いと褒めてくれますけど、プロの足下にも及びません。そのプロの頂点が、名人なわけです。ふふっ」
「? 今笑ったのは何ですか?」
「いえ、なんでも。それより、そろそろ例の番組が始まりますよ」
NHKでは、毎週日曜の朝十時から将棋番組を放映している。初心者向けのテクニックや棋界の様々な情報を扱う「将棋フォーマル」と、公式棋戦の「NHK杯テレビ将棋トーナメント」だ。
時間になり、勉強の場を和室からリビングに移した。
最初の三十分は将棋フォーマル。司会が有名なタレントで来是は目を見張った。
「へえ、この人って将棋ができるのか」
「三段の腕前らしいです。芸能界には、将棋を指せる人が結構多いんですよ」
プロ棋士を講師に、軽妙なトークも交えて番組は進行する。今回は歩の使い方講座で、基本中の基本から教えていた。
「うーん、何か物足りないなあ」
「そう思えたなら、基礎をバッチリ習得している証拠です」
「そ、そうですか?」
思わず褒められて、来是は大いに照れた。
やがて番組はトーナメントに移る。
タイトル戦ではないものの、ラジオ番組だった頃から数えて六十年以上の歴史があるこのトーナメントは、テレビ対局ということもあって多くの将棋ファンの注目を集めている。持ち時間の少ない早指し戦で、その短時間でどこまで深く読み切れるかが試されるのだ。
今日の対局は、ベテランと若手の組み合わせ。一方は禿げ上がった頭がむしろ堂々とした風格を醸し出しており、もう一方は自分たちよりほんの少し年上という程度の風貌。親子ほども年齢差がある対決だ。
「よーく見ておいてください。プロの将棋というものを」
紗津姫はそれっきり黙って、画面に集中した。来是も依恋も、一言もしゃべらずにその対局に見入った。
先手のベテラン棋士が初手を指す。快い音が響いた。プロ棋戦だけに、使用する盤駒は最高級のものなのだろう。
早指し戦なので、どんどん手が進む。どちらもが矢倉を目指す相矢倉模様になった。居飛車党の来是としては、できる限りテクニックを盗みたいところだった。
しかし中盤になると、どうしてそういう指し方をしたのか理解が追いつかなくなる。すぐに解説が入って納得するのだが、チラッと横を見ると紗津姫が時折小さく頷いている。解説がなくとも一手一手の意味がわかっているのだろう。
来是と同じくあまりわかっていないらしい依恋が聞いた。
「これ、どっちがいいの?」
「後手のほうがいいですね。ミスがなければこのまま勝つでしょう」
この人がそう言うならそうなんだろうなと来是は思った。
攻防が続き、局面は終盤に入っていた。ここまで来ると、どちらが優勢なのかやっと来是にもわかってくる。先手玉にじわじわと銀や龍が迫り、矢倉囲いが崩されようとしている。片や後手玉は相手の攻めをかっちりシャットアウトし、まだまだ安全を保っていた。
結局、紗津姫の予想は当たり、後手の若手棋士が勝利した。
「どうでした? とても参考になったでしょう」
「そうですね……」
確かに、アマチュアの自分では及びもつかないレベルの高い一局だった。こうしたプロの将棋を真面目に勉強していけば、確実に棋力アップできるのだろう。
だが……たとえプロでも、縁もゆかりもない人たちから学ぶよりは、すぐ側にいて優しく教えてくれるアマチュアのほうがいい。
「それでも俺、先輩を一番参考にしたいです。だって先輩は、強いだけじゃないですから。その、いろいろと」
「そうですか。では、模範であり続けるように頑張らなくてはいけませんね」
謙遜するでもなく、紗津姫はいつものように微笑んでいた。
それから昼食を挟んで(コンビニで適当に買った)、また指導対局を受けたり詰将棋を解いたり、徹底的に基礎トレーニングをこなした。
そして依恋との勝負は、五分五分になってきた。
当初にあった経験のアドバンテージは、もう完全になくなっていた。上達速度は依恋のほうが上なのだろうか。いくばくかの焦燥感が募ってくる。
「つーか、昨日と今日でなんか……雰囲気が違ってないか? 思い切りがよくなったっていうか。上手く言えないんだけど」
「まあね。心配事がなくなって伸び伸び指せるようになったの」
「んだよそれ」
「ひ・み・つ!」
やがて夕方を迎え、そろそろ依恋の両親が帰ってくるというので、合宿は切り上げられることになった。
門扉の外まで送られた来是は、綺麗なグラデーションの夕闇の下でうんと背筋を伸ばす。
このミニ合宿は、ずっと同じことの繰り返しだったが、着実に自分の血肉になっていると感じていた。もし三日前の自分と対局することができたら、何度やったって勝てるというくらいに。
「碧山さん、どうもありがとうございました。それに楽しいお話もできましたし」
「ううん、こっちこそ」
「何の話だ?」
「なーんでも。紗津姫さん、気をつけて帰ってね」
「ええ、また学校で」
紗津姫は綺麗な足取りで、しばらく手を振りながら去っていった。
「……お前と先輩、ちょっと仲良くなったか?」
「さあ。そう見えたなら、そうなんじゃないの」
依恋は曖昧な返事をするが、明らかにライバル心剥き出しの態度はなりを潜めていた。楽しいお話とやらが彼女に心境の変化をもたらしたのかもしれない。それならそれで結構なことだった。
「なあ、こういう合宿、またいつかやりたいな。そんときも会場提供よろしく」
「気が向いたらね」
依恋は静かに家の中に引き返していく。来是も満足な心を抱えて、すぐ隣の我が家に帰るのだった。
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