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■5
「春張、これを見てくれ!」
放課後、浦辺が一枚の紙を差し出してきた。それがなんなのかはすぐにわかった。
「おおー! 写真でも先輩は綺麗だな」
この前の取材記事が、無事に新聞になったのだった。モノクロ写真の紗津姫は、実物と比べても微塵も美貌を失っておらず、むしろその淡さが新しい魅力を滲み出していた。
それだけでなく、本物の新聞のようにレイアウトがしっかりしていて、文字も読みやすい。これなら将棋部に興味を持つ生徒が増えてくれるかもしれない。
「女王、新年度に向けて……うん、まとまってていい記事じゃん。新聞記者の才能があるんだな」
「もっと褒めてくれ。これ、先輩からも認められててさ。俺が神薙さんの専属記者に任命されたんだよ!」
「そりゃいいや。じゃあこれからも取材に来てくれるんだな」
そこへ、依恋がドヤ顔で割り込んでくる。
「紗津姫さんだけじゃなくて、あたしのことも忘れないでよね。将棋部の超大型新人として大々的に特集してよ」
「将棋部の? ほー、依恋個人としてじゃなくて将棋部のか」
「べ、別にいいじゃない。それで、どうなの浦辺くん」
「うん、次は例の交流戦ってのを取材させてもらいたいんだけど、ふたりでメンバーの座を争うんだろう? 選ばれたら考えるよ」
「へえ……」
途端に、依恋の目に炎が灯った。
交流戦のメンバー決定戦は、今日だ。
依恋とは練習で何度も対局してきたが、今までで最高の真剣勝負になるだろう。
しかもミニ合宿を境に、将棋に対する姿勢が前向きになっていた。もともとどんな習い事でも飲み込みの早い依恋だったが、単にコツを掴んだとか、そうした次元ではない気がする。
心配事がなくなって伸び伸び指せる――そう言ったことを思い出す。心配事とやらが何なのかは知ろうとは思わないが、とにかく依恋は日に日に強くなっている。
だが、負けるわけにはいかない。紗津姫と席を並べて戦いに赴く。その栄誉を譲ることはできないのだ。
普段より緊張感を持って、来是は部室へ向かった。その後ろを依恋が付いてくる。
紗津姫と関根部長は、すでに用意を整えて待っていた。
「ちわっす。部長、これ」
「お、できたのか。あとで目立つところに張っておこう」
上機嫌で新聞を受け取ると、関根はふたりに着席するよう促す。
「じゃ、さっそく始めようか。今日の部活はこれだけだ」
「本番と同じ、三十分切れ負けで行いますね」
将棋盤の脇にデジタル式の対局時計が置いてある。ふたつの時計が内蔵されており、スイッチを切り替えることで、一方の時計が止まるのと同時にもう一方の時計が進むという仕組みだ。
互いの持ち時間は三十分に設定されている。三十分切れ負けとは、この持ち時間を使い切ったら自動的に負けることをいう。
「うわ、時間制限ありってのは緊張するな」
「今までこれは使ったことなかったですけど、将棋は時間の配分も大事ですから。まずはぶっつけ本番で覚えてもらおうということで」
「上等だわ。でも時間切れじゃなくて、あんたは投了させて負かすわよ」
依恋のやる気は天井知らずに上がっている。これでメンバーに決定すれば、次の新聞で取り上げてもらえて、おおいにアピールできるからだろう。来是はそう考えた。
「……もしこれであたしに負けるようだったら、紗津姫さんに追いつくなんて到底無理なんだからね」
「ん? どういう意味だよ」
「別に。忘れて」
紗津姫に追いつく……将棋の腕で?
あまりに大それたことで、今まで考えたこともなかったが……もし、そうなったとしたら?
紗津姫は自分のことを、すごい男だと認めてくれるかもしれない。そんな夢が頭をよぎった。
しかし今は対局に集中しなければならない。雑念を振り切り、来是は盤と雌雄を決する幼馴染をまっすぐに見つめる。
振り駒の結果、先手は来是と決まった。
「お願いします」
「お願いします」
来是はすぐさま▲7六歩と角道を開く。
「春張くん、時計を」
「あ、すいません」
慌てて対局時計のスイッチを押す。ほんの数秒のロスが後々に響くかもしれないことを考えると、押し忘れは絶対に避けなければならない。
依恋も時間をかけずに△3四歩。彼女は決して居飛車で指すことがない。初手は飛車先を突かずに角道を開けるというのは、今後ずっと確定事項だろう。
互いに出方を窺いながら、序盤の駒組みを進める。依恋は「四間飛車」(左から4筋目に振る)で、美濃囲いにしてきた。しかし来是は、定番の矢倉囲いにはしていない。左翼側の銀将を右に展開して、中央を圧迫せんとする陣形だ。
「ふうん、今までこういう指し方はしてなかったわよね。新しい作戦?」
「なんとなく、かな」
迷いない手つきで▲2六銀。攻めのほうは例によって棒銀を目指していた。
ワンパターンと言われようが、この大一番ではもっとも慣れ親しんだ攻撃が一番だ。
「じゃ、あたしはこんな風に」
依恋は4筋の飛車をひとつ左にずらし、3筋に移動させた。
一度初期位置から振った飛車は、ずっとそのままの位置でいるかというと、もちろんそんなことはない。作戦と状況に応じて変わることがある。
今まで見られなかった手なので、来是には少し悩む。こちらの出方を窺うために一手パスのようなことをしたのか、あるいは自分の知らない定跡なのかもしれない。またあるいは、ただの勘で指しただけかもしれない。
――ひとつ深呼吸。
いずれにしても、やることは変わらない。恐れずに踏み込むことだ。
それからちょうど十手進行した。もうふたりともしゃべることはなく、紗津姫も関根も黙って見守る。駒を打ち付ける音と対局時計のスイッチを押す音だけが繰り返し響く。
持ち時間は、互いに残り二十分。
来是は迷っていた。毎度のことだが、どう棒銀を炸裂させるかに。
彼は今日まで、棒銀を得意技をするべく、依恋相手には九割方この戦法で挑んできた。様々なバリエーションを紗津姫に教えてもらったので、二回に一回は成功してきたのだ。
では今はどうか。突破できそうな気もするし、できない気もする。
来是の銀は変わらず2六で機会を窺っている……というよりは手をこまねいている。それと向かい合う形で、依恋の角が2四の位置にある。
ここで▲2五銀と進めたところで、角はあっさり後方に引いてしまうだろう。そうしたら真後ろに戻れない銀は、生かしどころが難しくなってしまう。
どうする。ここは角で活路を見出すか。それとも他に何か――。
そのとき、小さな閃きのスパークが脳裏に走った。
「……っ!」
何度もその先の展開を想定した。背中に興奮の汗が垂れる。
そして決断する。
これなら大丈夫――行ける!
ピシィ! と快音が鳴る。
来是が指したのは、▲1五銀。
【図は▲1五銀まで】
「え?」
依恋が口を半開きにする。なぜならその銀は、まるっきり無防備だった。
そこは角の射程圏内。飛び込む以上は、あらかじめ▲1六歩として支えを作っておかなければならないはず。だが、来是はそれをしていない。
「何を考えてるの? それ、タダで取れるじゃ――」
怪訝そうに眉をひそめていた依恋は、直後に表情を凍らせた。
銀が1筋に移動したことで、飛車が貫通する。
つまり角で銀を取れるが――飛車を成らせてしまう!
来是は自分で自分の手に興奮していた。銀という攻撃の要をあえて犠牲にし、破壊力抜群の龍を作る。ミニ合宿以来、体に叩き込まれた「駒を捨てる」感覚が、ここ一番で発動したのだ。
「くっ……まだここからよ!」
依恋は仕方なさそうに銀を取って、龍の誕生を許す。そこから小考に沈んだ。動揺しているのが、目に見えてわかった。
銀を獲得したところで、今すぐには使い道がない。対して「龍は敵陣に」の格言どおり、来是は常にプレッシャーを与え続けることができる。そして自陣に控えている角などと協力して、今すぐにでも猛攻を仕掛けられる。
依恋はどうにか龍を潰そうと、懸命な指し回しを見せた。
しかし来是もまた的確に応手を続ける。決して油断せず、全神経を指先に集中した。
「……あ」
残り少ない持ち時間に焦った依恋は、致命的なミスを犯した。あっという間に依恋の玉に「詰めろ」(次に正しく受けなければ詰む状態)がかかる。
まだ粘ろうと思えば粘れるが、このまま続けてもジリ貧。そんな局面で、依恋は絞り出すような声で投了を告げた。
「負けました……」
「お疲れ。交流戦メンバーの三人目は、春張くんに決まりだな」
部長の言葉で、来是は一気に全身の力が抜けた。
「鮮やかな銀捨てでしたね。そこからの着実な攻めも見事でした」
「いや、もう、我ながら会心の出来というか……はは」
俺は……勝ったのだ。
これで、先輩と一緒に交流戦を戦えるのだ。徐々に徐々に、喜びの感情がこみ上げてきた。
「碧山さんもよく守りましたね。最後以外、ミスらしいミスはありませんでしたよ。春張くんが少しでも誤れば、逆転していたかもしれません」
「……慰めなんていらないわよ。負けは負けなんだから。でも」
「でも?」
来是は不思議だった。依恋の頬が妙に紅潮している。それも、悔しくて頭に血が上っているのとはどうも違う。
「悔しいはずなのに、何か、変な感じ……」
「変って何だよ」
「わかんないわよ! とにかく体が変なの! ムズムズする!」
すると紗津姫が、依恋の両肩に優しく手を置いた。そしてお姉さんが妹によく言い聞かせるように。
「それはきっと、春張くんの指し手に惚れてしまったんです」
「は、はあ?」
依恋は思いっきり声を裏返した。
「素晴らしい勝負ができたとき、敗者は勝者に敬意を抱くものです。碧山さんは心を奪われるほどに、あの銀捨ての妙手を、自分を負かした春張くんのことをカッコいいと思ってしまったんですよ!」
「ほ、ほ、惚れてなんかないわよ! もう帰る!」
依恋は鞄を引っ掴んで、足早に部室を出ようとする。
これで部活は終わりなのだから、帰っても何の問題もない。しかし依恋が慌てている理由が来是は見当つかなかった。
それはともかく、言うべきことがあった。
「依恋」
「なに」
「ありがとうな。今までで一番、いい勝負だったと思う」
「……そ、そういうこと、言わないでよ!」
頬だけでなく顔全体を真っ赤にして、依恋は早歩きで去っていった。
「いやー、あの子はわかりやすいねえ」
関根がかんらかんらと笑っている。
「はあ。俺、付き合い長いですけど最近のあいつには首を傾げることが多くて」
「無理もないですよ。年頃の女の子なんですから」
紗津姫もまた意味深げに笑うのだった。