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☆
「じゃじゃーん。昨日の番組、コピーしておきましたよ」
週明けの部活、金子は将棋の駒の柄が盤面印刷されたDVDを持ってきた。もちろん来是も自宅で録画はしていたが、DVDにコピーすることまでは頭が回っていなかった。
だから抜かりがないなと褒めようと思ったのだが……印刷に使われている駒は、彼女の大好きな金と玉だった。
「もっと駒の組み合わせは考えようぜ……」
「じゃあ春張くんには別のDVDを焼いてお渡ししましょうか。碧山さんの写真を使ったやつとか」
「なんで依恋なんだ?」
「うちのクラスでも、反響がすごかったな。我らが学園クイーンが全国デビューしたんだから。あと碧山さんも」
「一番目立ってたのは、このあたしよね!」
「ええ、とても可愛かったですよ」
「ふふん。この新聞には載ってないのが残念だけれど」
練習はそっちのけで、みんな昨日の将棋フォーラムの話題で楽しんでいた。浦辺が記事を書いた新聞もこのタイミングで頒布された。スタッフのインタビューに応じる紗津姫の写真が大きく載せられていて、また人気を集めそうだ。
「テレビに出るというのは恥ずかしかったですが、少しでもこの将棋部の存在が知れ渡ってくれればいいですね」
「部員が増えてほしいっていうコメントはカットされてましたけど……」
「勝負する将棋女子、という方針で編集されたのでしょうね。出水摩子さんがかなり長く取り上げられていましたし」
紗津姫は特に不満はないようだった。
プロに匹敵する実力を持つアマ女王と女流アマ名人。このふたりを素材として与えられたら、自分がスタッフだったとしても、対決を盛り上げるような番組作りをするかもしれない。
とにかく、紗津姫のアマ女王防衛戦は近づいている。
自分にできることは、影ながら応援することだけ……そう思っていたのだが。
「紗津姫さん、しばらくは自分の練習に専念したほうがいいんじゃないの?」
「あら、どうしてですか?」
紗津姫は意外という反応を示した。
依恋の提案は、実に理にかなうものだ。相手の出水はきっと今も、あの将棋センターで元奨励会員やアマチュア強豪を相手に腕を磨いている。アマ女王の座を奪取するために。
スポーツ選手が試合前にトレーニングを積み重ねるような、当然の準備。来是もまた、そうすればいいのではと思っていた。
「どうしてって……あっちはめちゃくちゃ勝つ気で挑んでくるのよ。ちゃんと準備しなきゃ負けちゃうじゃない!」
「んー、神薙は何の大会に出る場合でも、これといった準備はしないんだよな?」
「棋譜並べを毎晩していますが、これはただの日課ですからね。準備と言えるようなものは特に」
「だったら、部活でもそれをやったらいいじゃない。あたしたちは部長に教わればいいんだし、一年同士、自由に対局してればいいし」
「お気遣いありがとう、依恋ちゃん。でもその必要はないですよ」
「なんで!」
だんだん、依恋は苛立ちを隠さなくなっていた。
勝利にこだわらない紗津姫のスタイルは、依恋も重々承知している。しかし今度のアマ女王防衛戦だけは、負けてもらいたくない。来是もそう強く願っている。
勝ってほしいのに、どうして聞き入れてくれないのか――。依恋の紗津姫を思う心が、来是には感じ取れた。もう、単に学園クイーンを目指す上でのライバルではない。慕うべき先輩なのだ。
「私は普段どおりにしていれば力が出せるんです。だから猛練習などはしなくても……」
「そんなだから、この前だって負けたんじゃないの?」
「おい、言い過ぎだぞ!」
「っ……!」
依恋はばつが悪そうに紗津姫から目を背ける。そして早足で部室を出てしまった。
……いつも楽しかった部活に、初めて微妙な空気が流れた。
「碧山さんって負けず嫌いだよな。だから神薙のやり方は、ちょっと歯がゆく見えているのかもしれん」
関根の分析は的を射ていた。紗津姫はベストを尽くしていないと依恋に思われている。
格下が相手ならばそれでもいい。だが、出水は間違いなく紗津姫と互角以上の相手。そうなれば、日々の練習量が最終的にものをいう……。
「あのう、私も神薙先輩は自分の練習を増やしたほうがいいかと。私たちのことは気にしないでいいですし!」
金子が努めて明るく口にする。
紗津姫は肩をすくめて、来是のほうを向いた。
「……春張くんもそう思うんですか?」
「いや、それは」
自分は何のために将棋部にいるのか。
……紗津姫の指導を受けたいからだ。そうしてなるべく多くの時間、触れ合っていたいからだ。
だが、少しくらいは我慢できる。彼女が自分たち後輩の面倒を一切見ないで、話しかけもしないで、棋譜並べだけに没頭していたとしても……。それが彼女の勝利に繋がるのなら。
「……俺も、先輩には勝ってもらいたいです。そのためのベストを尽くしてほしいと思ってます」
「ありがとう。その答えに安心しました」
「え?」
「さっきも言いましたが、私のベストは普段どおりに過ごすこと、春張くんたちと楽しく部活をすることです。依恋ちゃんにああ言われたから、意地を張っているわけでもありません」
「よ、よくわからないですけども」
金子が難しそうな顔をする。紗津姫はもう穏やかな笑みを取り戻していた。
「こんなエピソードがあります。ある年の名人戦で、随一の研究家で知られる棋士が挑戦者になりました。そこで彼は名人の得意戦法の対策をするために、わざわざ関西まで出かけて、その形に詳しい若手と共同研究をしました。彼の一日の練習時間は、十時間にも及ぶそうです」
「じゅ、十時間?」
プロ棋士の勉強はアマとは違うのだろうなとは思っていたが、あまりのすさまじさに愕然とした。
「はい、何がなくとも毎日十時間。まさに研究の鬼ですね。そうして万全の体制で名人戦に臨んだのですが……結果は四連敗での敗退でした。彼の努力は実らなかった」
「マジですか……」
「将棋は厳しいもので、どれだけ努力を積み重ねても、勝てるとは限らないんですね。もちろん努力は大事ですし尊いものです。今挙げた棋士にしても、毎日十時間の練習こそが自分のベストだと思っているはずです」
「つまり、どういうことなんですか?」
金子が問う。紗津姫は盤に向かって、駒を並べ直していく。
「将棋はメンタルの競技です。だから勝利の秘訣があるとすれば、個々のスタイルを決して崩さないことです。私は本当に、みなさんと楽しく部活をしていれば、ベストコンディションでいられるんですよ。もし依恋ちゃんの言うように、たったひとりで自分だけの練習をしていたら……つまらなくて調子を落としちゃいます」
「先輩……」
「もちろん、自分の信じるやり方で結果が出ないことだってあります。ですが勝負とは、将棋とはそういうものなんです。……だからこそ私は後悔したくありません。可愛い後輩たちを放ってひとりで練習して、それでも負けてしまったら、余計にダメージが大きいですから」
紗津姫はこれまでにいろいろなアドバイスを授けてくれたが、今回ほど心の深いところに突き刺さるものはなかった。
彼女は確固たる信念のもとで、勝利への最善の策として――大きな大会の前でも慣れない猛練習などせず、部員との時間を楽しんでいるのだ。
「依恋を連れ戻してきます。先輩の考えを伝えてきますんで!」
「待って。あの子も出て行ったばかりで戻りづらいでしょうから」
「落ち着くまで待つってことですか?」
「そうです。だから指しましょう、春張くん」