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依恋が戻らないまま部活は進行した。
紗津姫はいつにもまして楽しそうだった。来是が最善手を指すと、まるで自分のことのように喜んでくれる。金子と関根もすっかり気を取り直して、詰将棋に挑戦したりしていた。
「さっきの話の続きですけれど、自分のスタイルを崩さないというのはとても大事です。だけど、少し工夫を加えるというのはありですよね」
「工夫、ですか?」
「将棋以外で、心を充実させるようなことです。たとえば――目標を決めてそれが叶ったら、自分にご褒美をあげるとか」
将棋はメンタルの競技だという。ならば、目標を決めてモチベーションを高く保つというのも、立派な勝つための戦略ではなかろうか。
「勝つことよりもいい将棋――その考えは変わりませんけれど、みんなからアマ女王を防衛してもらいたいって、そこまで強く思われていると知ったら、期待を裏切りたくはないです」
「なるほど、防衛したら何かご褒美が欲しいと。神薙にしては珍しいな。いいよ、臨時の部費が入ったし、それで好きなものを買うとか」
「具体的にはうちの古い棋書とか!」
「商売上手だなあ」
しかし名案には違いない。この前に購入した天野宗歩の本を、紗津姫は何度も読み返している。現代人の目には、はなはだ読みにくい代物だが、実に楽しそうな顔でページをめくるのだ。彼女の精神力向上に、ずいぶん役立っていることだろう。
「それもいいですが、お金では買えないもののほうがいいですね」
「あらら。それじゃ何がいいんです?」
「どうしましょうかね。ふふ、俄然やる気が出てきました」
そう言って、紗津姫は来是に笑いかけた。こっちの頬も緩むような、極上のスマイルだった。
やがて部活の終了時刻を迎え――依恋が戻ってきた。
「もう終わっちまったぞ。何をやっていたんだよ」
「別に」
出ていったときと変わらず、とげとげしい態度。依恋は自分から歩み寄るつもりはないらしい。
しかし紗津姫の思惑を聞けば、きっと理解できるはずだ。来是は紗津姫にアイコンタクトを投げかける。彼女も心得ているようで、小さく頷いた。
「依恋ちゃん、私に勝ってもらいたいという気持ち、すごく嬉しかったです。だから私も最善を尽くすことにしましたよ」
「……そう、それならいいのだけど。どうするつもりなの」
紗津姫は自分の考えを伝えた。
依恋はあからさまに眉根をしかめて、すぐには納得しがたいようだった。
「なんか、上手く言いくるめられてる気がする……」
「これが先輩のスタイルなんだよ。もう依恋がどうこう言うことじゃない。先輩に勝ってもらいたいんだったら、依恋も次からしっかり部活をやることだ」
「依恋ちゃんを教えるのが、私の楽しみなんです。それができないと、調子が狂ってしまいますよ」
紗津姫はいきなり、背後から依恋に抱きついた。彼女のボリュームたっぷりすぎる巨乳が、むにゅうっと形を歪めて押しつけられる。
今月から衣替えをして薄手のシャツに替わり、体のラインがくっきり出ている女子同士が、かくも密着してスキンシップを取っているのは――正直に言ってかなりエロい。
「わ、わかったわよ、好きにすればいいでしょ! だから抱きつかないで!」
依恋は紗津姫をふりほどいて鞄を掴む。そして逃げるように去っていった。
「ったく、困ったやつだなあ……」
「可愛いじゃないですか。あんな後輩を持てて、私は幸せですよ」
全員揃って部室を出る。依恋はさっさと帰ったのかと思っていたら、律儀に部室棟の入り口で待っていた。
夏至も間近なこの季節、日の出ている時間はだいぶ長い。グラウンドを使っている運動部は、春に比べて活動時間を延ばしているようだ。まだ明るい空に、威勢のいいかけ声が響いている。
「紗津姫さんって、将来はどうするつもりなの」
さっきまでの気まずい空気を払拭しようとしているのだろう、依恋が他愛ない話題を振った。
紗津姫の進路――来是も純粋に気になっているところだ。
「とりあえずは、将棋の盛んな大学に行きたいですね」
「神薙なら東大も目指せるんじゃないのか? あそこの将棋部、めちゃくちゃ強いしな」
「ちょ、東大?」
卒業後は紗津姫と同じ大学に進みたいと、先走りにもほどがある野望を膨らませていた来是だが、いくらなんでも東大は手も足も出ない。
「でも大学に行くからには、学びたいことがしっかり決まっていないと、意味がありませんよね。私は――この道に進みたいっていう夢がないんです、今のところ」
「意外ですねえ。学年トップを取るほど頭がいいのに」
金子の疑問に、来是も内心で頷いていた。
紗津姫にとって、将棋はあくまでも趣味だ。プロにはならないと明言している以上、少なくとも今後の生活面での糧にはならない。
だから将棋とは別に、しっかりした人生の目標があるのだと思っていたが、まったくの白紙。もっとも、高二の時点で明確な進路を決めている人のほうが少ないだろう。
全国放送でプロになると言ってのけた出水摩子が脳裏に浮かぶ。彼女のような人は、きっと珍しい。
「ふふ、いい人がいれば、早く結婚して専業主婦にでもなりたいのですけどね」
「け、結婚ですか」
「あー、素敵なお嫁さんになるのが夢って、子供のときに書いたクチでしょう! 私もそんなこと書いてましたよ。いやあ、あの頃は汚れを知りませんでした」
「依恋も純粋さでは負けてないぞ。なんたって女王様になるって書いて、未だにそれを目指してるんだからな」
「その夢は、近いうちに叶うわ。紗津姫さん、あなたに代わってあたしがこの学園のクイーンになるの」
「私は学園クイーンには執着はありませんから、いつでもお譲りしますよ?」
「それじゃダメよ! あなたと競った上でならないと」
闘争心をあらわにする後輩を、紗津姫は微笑ましく見ていた。やっといつもどおりに戻ったなと来是は思った。