【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊
俺の棒銀と女王の穴熊【2】 Vol.26
☆
紗津姫は本当に特別なことはしなかった。部活が始まれば、来是、依恋、金子の三人を相手に駒落ち指導対局のローテーション。まったくいつもの光景が日々続いた。
しかし、ひとつだけ変化があった。手を緩めて勝たせようとは思わず、アマ六段の本気の力で指してきた。
そうなるといかに駒落ちとはいえ、技術と読みの深さではるかに劣る来是たちに勝てる道理はない。一年生トリオはろくに王手もかけられず、立て続けに討ち死にの目に遭った。
「せ、先輩、強すぎだ……」
「ここに桂馬を打たれるのをうっかりしていましたね。終盤に近づくほど、相手の持ち駒のことをちゃんと計算に入れないと」
「はあ、二枚落ちの卒業は、まだまだ先の話か……」
「次、依恋ちゃんやりますか?」
「あ、あたしはもういい!」
対局拒否するほどに、本気を出した紗津姫の将棋はショックだった。来是もその気持ちはわかる。
しかし、これこそが女王だ。
優しく導くだけでなく、圧倒的な差を見せつけることでも、その存在感を示す。ぞくぞくするほどに惹かれていく。これに惚れない男がいるとしたら、関根のようなロリコン以外にはありえまい。
「でも、案外いいトレーニングなんじゃないですか? こうやって本気モードに慣れていくっていうのは」
今度は金子が勝負している。まだ彼女は六枚落ちから卒業できていない。いくら金子の技術が拙いとはいえ、金と銀だけで攻めを完全にシャットアウトする様は、まるで芸術のようだ。
「本番は三番勝負ですから、一局だけで燃え尽きるわけにはいきません。これは気力の維持に役立つトレーニングになってますよ。ひとりでは決してできないことですね」
「平手でやるのが一番なんだけどな。全力で指す機会が少ないってのは神薙の弱点だよな、はっきり言って」
紗津姫以上に「楽しんで指せればそれでいい」というスタイルの関根も、少し申し訳なさそうだった。
自分たちがもっと強ければ、紗津姫の競争相手になれるのに。方針を巡って依恋と言い争いをすることもなかった。
将棋を始めたばかりの人間がそんな風に思うこと自体、おこがましいかもしれないが、この問題は今後も持ち上がってくるだろう。
もっと強くなりたい。来是はかつてないほど痛切に思った。
「一度くらい、出水摩子が通うとかいう将棋センターに行ってみてもよかったんじゃないの? 強い人がごろごろいるんでしょ」
「出水さんはきっと今も、あそこで腕を磨いているんでしょうね。でも本番前に顔を合わせてしまったらと思うと、気まずいですし」
「ああ、それもそうですね……」
アマ女王戦は明日土曜日に迫っている。
練習の密度という点では、間違いなく紗津姫が劣っているだろう。それが勝敗に直結するわけではないのは以前に彼女が語ったとおりだが、来是はやっぱり不安が大きかった。
「そうだ、アマ女王防衛のご褒美、もう決めましたか?」
「ご褒美? 何それ」
「あのときは碧山さん、いませんでしたもんね。要はニンジンをぶらさげることで、やる気スイッチ入れるわけです」
「単純だけど、効果ありそうだよな。本当に臨時の部費を使うんじゃなくていいのか」
「ええ、それはまた別の使い方があるでしょうから」
お金じゃ買えないものがいい、紗津姫はそう言っていた。しかしそういう縛りだと、いったい何があるのだろうか。
「俺たちにできることがあるなら、協力しますけど」
「実は素敵な案を考えているんですが――」
すると紗津姫は、なんだかいたずらっ子のような目をした。
「春張くんを一日、こき使っちゃうというのはどうでしょう?」
「な、なにいいいいいぃぃぃ?」
頭がクラッとした。彼女が発した言葉が、甘い毒のように全身に染み込んだ。
こき使うとはどういうことか?
深く考えるまでもなく、そのまんまの意味だろう。どんな命令でも聞き、彼女の望む行動をしなければならない。
すなわち――この女王の所有物になるに等しい!
「あっははは! それ最高じゃない!」
「意外! 神薙先輩って、そういう一面もあったんですねえ」
依恋と金子は愉快きわまりないとばかりに大笑いしている。理不尽な提案をふっかけられて災難だとでも思っているのだろう。
だがこのふたりは、来是の紗津姫への情熱を完全に見誤っていた。
「わかりました! 先輩の手足となってお仕えいたします! 下っ端使用人のようにこき使ってください!」
そう叫ぶと、依恋も金子も顔をこわばらせた。関根でさえ若干引き気味だ。
「春張くん、さすがにそれはないわー」
「なに言ってんですか! 部長だって小学生からそう言われたら大喜びするでしょうが!」
「むむ、それもそうだな!」
即座に前言撤回する。ますます依恋は呆れていた。
「あの、紗津姫さん? 別の案にしたほうがいいんじゃないかしら」
「いえ、これで決定です。私が勝ったら、春張くんを一日自由にさせてもらいますね」
紗津姫は爽やかな笑みを振りまいた。まるで来是の反応を想定していたかのように。
そうして、一大決戦前の最後の部活が終わった。
アマ女王決定戦三番勝負は、完全に非公開で行われるという。だから将棋部のメンバーで応援に行くことはできない。いかなる結末となったかは、対局後に紗津姫からの連絡で知ることになるだろう。勝利の喜び、敗北の無念。そのいずれも、同じ場所では共有できないのが残念だった。
校門に差しかかる。いつもの別れの時間。だが今日ほど名残惜しいと思ったことはなかった。
次に会うときには、紗津姫はもしかしたら女王ではなくなっているかもしれない。
そうなったとしても、彼女は何ひとつ変わることはないだろう。自分だって、彼女への接し方が変わるわけじゃない。だけど――。
「それじゃあ、また来週に」
「先輩」
「なんでしょう?」
夕日の中の紗津姫を見つめる。大事な勝負を前に、いっそう美しさが増しているように見えた。
アマ女王など、ただの称号。紗津姫はそう思っているだろう。だけど、やはりこの人を女王と呼んでいたい。いつまでも、いつまでも。
「離れていても、応援してますから……勝ってください」
「ええ、可愛い後輩たちの期待に、きっと応えますから」
何よりもいい将棋を。そう主張し続けてきた彼女が、自分たちを喜ばせたいと、今は明確に勝利を目指している。その気持ちだけで、胸が熱く膨らんできた。
「神薙が勝ったら、祝勝会でもやるか? これもご褒美ってことで」
「いいですねそれ! よさそうな店、今のうちにチェックしておきます!」
「それだったら、あたしの家を会場に提供してあげるわ。紗津姫さんのこと、うちの両親も気に入ってるし」
「うちの商店街に、隠れた名店がありますよ! ぜひぜひ」
「いいや、俺が最高の店を見つけてみせる!」
「あたしの家が最高に決まってるでしょ?」
「だからうちの商店街に! 売上にご協力をー!」
なかなか解散しようとしない後輩たちを見つめて、紗津姫は噛みしめるようにつぶやいていた。
「幸せ者ですね、私は」
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