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まずは挨拶から。紗津姫はレンズの向こう側で優雅にお辞儀をした。
「みなさんこんにちは。彩文学園将棋部の神薙紗津姫です。これまでブログで私たちの活動情報を発信してきたんですけど、えー、新たに動画撮影に挑戦ということで、ちょっと緊張しています。ここはどこかというと、高遠女流四段の喫茶店をお借りして収録しています。初めて来たんですけど、いいお店ですよね」
言うほどには緊張していないように見えた。店の落ち着いた空気のおかげでリラックスできているのだろう。
「今回は将棋をテーマにフリートークをしようということで、素敵なゲストをお迎えしました。私の親友で、研修会員の出水摩子ちゃんです。よろしくお願いします」
「よろしく。紗津姫ちゃんが相手なら何時間だってしゃべれるから!」
「じゃあまずは、摩子ちゃんがこれから飛び込んでいく女流棋界について、どうですか?」
「いいわ。何を話そうかな」
「こんにちは、高遠でーす」
高遠女流が画面に入る。ふたり分の紅茶を置くと、カメラ目線でピースした。意外とお茶目な人らしい。そして来是の分も置いてくれる。ふわっと優しい香り。紅茶には詳しくないが、とてもいい葉を使っているようだった。音が入ってはまずいので、収録後に飲むことになりそうだが。
「最近よく聞くのが、女流のレベルが上がっているって話ね。大和さんがついに奨励会三段に上ったし」
「心躍るニュースでしたよね」
プロ棋士とは養成機関の奨励会を突破して四段になった者のことを指す。ゆえに、これを突破していない別制度の女流棋士は、狭義の意味でプロ棋士ではない。そしてまだ女性で奨励会を抜けられた者はいない。
そんな中、女流棋士の活動と並行しながら奨励会員として腕を磨いている者がいる。
大和雲雀(やまと・ひばり)女流名人。現在、女流最強と目される第一人者で、彼女がプロ一歩手前の奨励会三段に上ったニュースは、伊達名人の例の会見と同じくらい大きく報道された。十月から最難関の三段リーグを戦うことになっており、今や将棋界でもっとも注目されている棋士のひとりである。
「摩子ちゃんの目標は、やっぱり大和さん?」
「うん。あの人を倒さないことには、タイトルホルダーになれないだろうから。私、女流タイトルの全制覇が夢なんだ」
「それと、男性の棋戦で優勝することですよね。女性棋士の誕生より難易度が高いですよ」
「この世界に入るからには、そのくらい高い目標を持たないと! で、女流のレベルが上がっているって話に戻るけど、それでも男との差はまだまだあるわ。紗津姫ちゃんはどうしてこんなにも差があると思う?」
「一説には、脳の仕組みの違いだとか……。でもそれは違うと思います」
「そうよ! 女が本質的に男に劣っているなんてことはないわ。どうして女流が男の棋士になかなか勝てないのか? そんなの、練習不足だからに決まってるじゃない。だから男と同じ環境に身を置けば、きっと同じレベルに辿り着けるはずよ」
「すごい人になると、一日十時間の研究をするっていいますけど」
「そこまでできる人が、トッププロになれるのよ。私、それくらいのことはやる覚悟があるわ。まあ高校を卒業してからになるけど」
「それでも他にイベントのお仕事とかあるから、研究だけしたいというわけにはいきませんよね」
「そうね。となると、遊ぶ時間を削ることになるかしら」
「んー、息抜きとのバランスは取ったほうがいいと思いますよ?」
「紗津姫ちゃんと遊ぶ時間だったら何より優先するわ!」
ふたりはカメラに映っていることなど、まるで意識していないように滑らかにしゃべっている。これだけトークが上手ければ視聴者の評価も高まるはずだと、来是はほくそ笑んだ。
紗津姫と出水は紅茶を飲んで一息入れると、次のテーマに移る……。
「紗津姫ちゃんは卒業したら、普通に進学でしょ? そして大学棋戦で大活躍ね」
「んー、とりあえず進学と思っていたんですけど……もしかしたら全然違うことをするかもしれません」
「え、就職するの?」
「そうですね、ある意味、就職かも」
「起業するとか? 将棋教室を開いたり?」
「まだはっきりとは決まっていないので、これ以上は言えないんですが……」
紗津姫が何を言っているのか、来是だけがわかっていた。
大学には進学せず、伊達名人のもと将棋アイドルの活動に専念する。そんな進路を真剣に模索しているのだ! カメラを持つ手が震えるほど興奮してきた。
「紗津姫ちゃんがその気になれば、プロ以上に将棋普及の力になれるわ! 言うなれば将棋アイドル? そういうのを目指したらいいんじゃない?」
紗津姫は今、内心ドキッとしただろう。
将棋アイドルの件は、伊達名人を除けば将棋部だけの秘密だ。しかし匿名掲示板でも期待する人間が出てきている。
彼女にアイドル性を見出すのは、それだけ自然なことなのだ……。
「……私、アイドルなんてものに向いているでしょうか?」
「逆に、向いてないなんて人がいるなら見てみたいわ。先生もそう思うでしょ?」
水を向けられた高遠は、即座に頷いていた。
「将棋アイドル、いいんじゃない? この動画を見てる人も賛成してくれるんじゃないかしら」
「ふふ、反応が楽しみね」
「あ、あの、テーマを変えましょう! 駒の書体は何が好きですか?」
「紗津姫ちゃん、マニアックすぎ! でもそこが素敵!」
それからはコロコロとテーマを変えて進行した。照れくさいのを隠そうという紗津姫の意図が丸わかりで、何とも微笑ましい気持ちになった。
撮影開始から一時間ほど経ったところで、そろそろ開店のため切り上げることになった。来是はカメラの電源を切り、ようやくカップに手をつけることができた。冷め切ってしまったが、一仕事終えたあとの紅茶はとても美味しかった。
「すごくいいトークになったと思います! 今日中にはニッコ動にアップしますから」
「あそこは将棋ファンが集まるからいいわよね。私もタイトル戦の聞き手でよく呼ばれるんだけど」
ニッコ動、正式名称「ニッコリ動画」はユーザーがコメントを投稿できるタイプの動画サイトだ。数年前にタイトル戦の生中継をはじめてから、多くの将棋ファンの集客に成功している。一手一手に時間をかけることの多い将棋は、だらだらと見るネット動画とかなり相性がいいのである。
「高遠先生、ありがとうございました。またいずれ来たいと思いますので」
「いつでも歓迎するわ。初心者向けの将棋教室もここでやってるんだけど、あなたを講師に迎えるってのもありかもね。いいバイトになると思うけど、よかったらどう?」
「ええ、そのときはよろしくお願いします」
店を出ると、すかさず出水が紗津姫と腕を組んだ。
「ね、せっかくだからデートしよ! ああ、あんたはいらないから」
「ちょ、ひどくないすか?」
「ふん、あんたに紗津姫ちゃんを楽しませることができるっていうの?」
「ぐぬぬ、それは……」
来是は紗津姫をエスコートする技量も胆力もないと自覚している。だからこそ経験を積むべきとは思うのだが、出水が一緒にいては難しそうだった。
「……まあ、動画アップの準備しなきゃいけないですし、帰りますよ。結構長くなっちゃったから分割とかの処理もしないと」
「そうですか。今日はご苦労様でした。春張くんは最近、強くなりたいというだけじゃなくて、将棋部を盛り上げようと頑張ってくれるから、頼もしいです」
「いやあ、ははは」
すべては紗津姫に、自身の魅力を認識させたいがため。
この真の理由を紗津姫が知ったら、何を思うだろうか。優しい彼女は、特に気にしないかもしれない。それでも好きな人に隠し事をしているという事実は、来是にとって小さな心のトゲだった。
学園祭が終わったら、告白すると同時に、本当のことを話そう。そう思った。