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俺の棒銀と女王の穴熊〈4〉 Vol.28
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俺の棒銀と女王の穴熊〈4〉 Vol.28

2014-03-12 18:00
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    【女流アマ名人戦決勝トーナメント Aクラス決勝戦 依恋VS山里.二】


     予定どおりに飛車を成り込めた。
     相手陣の弱点はすでに見えている。▲2四桂と打って金を狙えば、瞬く間に突き崩すことができる。その一手が間に合うかどうかが、勝負の分かれ目となる。
     しかし桂馬を持っているのは相手も同じ。今、浮き駒となっている金をめがけて放たれた。
     これは迷う必要はない。下がってかわす一手。しかし山里は銀打ちで追撃してくる。

    【図は△6七銀まで】
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    「む……」
     依恋は四通りのパターンを考えた。
     
    1.▲同金と取る。
    2.▲4八玉と早逃げ。
    3.狙いの▲2四桂で攻め合う。
    4.それ以外。

     1は一番自然のように思えるが、△同桂成とされて攻めが早まるのではないか。
     2はすぐに却下した。危険すぎる。
     3も却下。時期尚早である。
    「ちょっと失礼」
     持ち込んだペットボトルの水を一口。冷静に、冷静にと心の中で繰り返す。
     ……どうにか受けなければならないが、1以外の方法はあるのだろうか?
     しかしこれは先手がよくなる変化があるのだ。なければならないのだ。
     今こそ紗津姫に教わった受けの基本を思い返す。
     何よりも駒を連携させること。遊んでいる金銀を手順に玉の側に寄せることが肝要だ。この局面でそれを実現させる一手は……。
     瞬間、脳裏にまばゆい閃きが走る。これが定跡だと確信する。
    「……これよ!」
     ▲5八金寄。
     こうすれば△同銀とされても、4九にいる金を上がって守りを継続させることができる!
    「うーん……さすが」
     山里のつぶやきに、依恋は苦笑いを浮かべた。対局の最中、顔に出すだけならまだしも、言葉にして心理を明かしてしまうのは大悪手である。ブラフの可能性もなきにしもあらずだが、この子がそういうタイプとは思えなかった。
     それから数手が進む。まだ反撃のゆとりはない。ここが正念場だ。山里の龍が八段目に寄って、詰めろがかけられる。しかし依恋はじっくり時間をかけて読み、冷静に対処する……。

    【図は▲4八金まで】
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     ▲4八金と逃げる。着手の瞬間、依恋の体は重石が取れたように軽くなった。
     専守防衛はここまで。これでもう窮地は脱したという確固たる自信。
     もはや切れ模様となった後手、山里はしかし、悲愴な顔は見せない。
    「いや、満足です」
    「……それはよかったわ」
     依恋は思った。この子もあたしたちと同じ教えを受けてきた。勝負は二の次。何より自分の将棋で楽しむことが目的なのだと。
     以降は形作りのような進行となった。山里はと金を作って挟撃体勢を築くが、今度は依恋の玉にまだ詰めろがかからない。
     ――来是。あたし、ついにやったよ。
     満を持して打った桂馬で防御を破壊する。後手陣はもはや受けが利かない。
     横歩取り4五角の退治は、ここに完遂した。己のセンスだけで定跡を辿ることができた。
    「まいりました!」
     山里は晴れ晴れとした表情で頭を下げた。

    【投了図は▲3二桂成まで】
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    「はー、通用しませんでしたね。あっけなく返り討ちにされて、むしろ清々しいです」
    「やっぱりあたしを試したんだ?」
    「まあ、その、これで私が勝つようだったら、ファンはやめようかなって。勝手なこと言ってごめんなさい! でも私、本当に依恋さんに憧れてて」
    「いいわよ。あたしも勉強になったわ」
     依恋は右手を差し出す。山里は頬を真っ赤に紅潮させながら、ギュッと握手に応えた。
     ――勝った。
     優勝だ。初段になれるんだ。歓喜の波が四方八方から押し寄せて依恋を飲み込んでいく。興奮の渦に溺れそう。
     早く来是に報告したい。よくやったなって褒めてもらいたい。
     でも紗津姫さんが勝つのを待ってからでいいかな。依恋はそう考えて、名人戦クラス決勝戦のテーブルへと足を運ぶことにした……。


    【女流アマ名人戦決勝トーナメント 名人戦クラス決勝戦 紗津姫VS御堂.二】


     将棋でもっとも嫌な展開――王手飛車を食らう。あっさり穴熊に組まれる。詰みを見逃して逆に詰まされる。人それぞれあるだろう。しかし入玉されること以上にげんなりすることはない。
     とりわけ、必勝のはずがわずかな隙を突かれ包囲網から逃げられてしまい、ついに捕まらなくなってしまったときの悲劇は、筆舌に尽くしがたいものがある。
     将棋のすべてを愛する紗津姫は、入玉も立派な作戦であると考えている。とはいえ、したこともされたこともほとんどない。局面を指定して「ここからどう入玉するか、入玉を防ぐか」なんて練習だってやったことはない。
     つまり全国クラスの彼女をして、こうした展開は圧倒的に経験不足なのだ――。
    「ちなみにうち、受け将棋が信条なんやけど、その究極ともいえる入玉が大好きやねん」
     御堂はまず玉の逃げ道を作るために金をずらした。紗津姫はそれに狙いを定めて龍を寄せる。
     玉が金にヒモをつけつつ逃げたので、持ち駒の桂馬を放って王手する。
     ここまではプロの検討にもあった展開。だが御堂の玉が逃げ込んだ先は……。
    「え、そっちに?」
     紗津姫は虚を突かれ、否応なく考え込む。

    【図は△3四玉まで】
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     この局面、歩を取られながらの龍の王手から逃れるために、△4四玉とするのが自然に思える。プロの検討手順でもそうだった。だが、狙ってこいとあえて無防備な背中を晒している。
    「……まさか、取らせた上であらためて歩を打ち直すほうが固い?」
    「悩んでくれると、研究してきた甲斐があるわ」
     御堂はますます意気盛んだ。すべて狙いどおりに進んでいるのだろう。
     まだ入玉が確定したわけではない。それでもこの先のあらゆる変化を研究しているのだとしたら。何を指しても「想定どおり」と言われてしまうのだとしたら。
     ――敗北。その二文字が目の前に見えてくる。
    「言うまでもないけど、持将棋の目はないで? あんたはうちの王様を詰ますしかない」
     追い打ちをかけるように御堂は挑発する。
     ごくまれだが、双方とも入玉し、どちらの玉も詰む見込みがなくなることがある。そのために引き分けルールが設けられており、これを「持将棋」という。
     持将棋が成立するには条件がある。互いの玉が入玉後、合意によって対局を中断したのち、盤上の駒と持ち駒で点数計算を行う。

    ・大駒――飛車、角行を五点とする。
    ・小駒――金将、銀将、桂馬、香車、歩兵を一点とする。

     これで二十四点に満たなければ負けになる。両者とも二十四点以上の場合のみ、引き分け――持将棋になるのだ。
     大駒三枚に加えて小駒も大量に駒台にたくわえている御堂に、点数勝負で勝つことはできない。そもそも入玉のための手を作っている暇などない。御堂はしばらく自玉が安全だと判断すれば、一気に攻勢に出てくるはず。
     だから、御堂の玉を詰ますしかない。
     ――どうやって? 紗津姫の一手にかける考慮時間が、次第に長くなる。

    【図は△1七香成まで】
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     御堂はそれまで使い道がなかった1五の香車を成駒――強固な防御壁のパーツとした。
     この状態で入玉を防ごうと思ったら、▲3七金と打つくらいしかない。しかしあっさり1筋に逃げられる。残りの持ち駒が歩だけでは、とても寄せきれるとは思えない。
     では▲3三龍? これもダメだ。△3六歩などとされて状況は何も変わらないだろう。
     九十一手目以降、はたして私は最善の手を指したのだろうか。しかしこれ以外に方法はあっただろうか。どの手がいけなかったのだろうか。――紗津姫はグルグルと同じようなことを考え続ける。そうするうちに無情に時間は過ぎていく。
     愛しい後輩たちのことが胸中によぎる。
     皆、口を揃えて言っていた。負けるわけがないと。
     それほどの絶大な信頼を寄せられていることが嬉しかった。しかし今は、楔となってほのかな痛みを紗津姫に与えてくる。
     ――みんなの期待を裏切ってしまう。
     負けることよりも、そのことが心苦しい。
     将棋は逆転のゲームと言われる。しかしこの局面、自分に逆転の可能性は……ない。
     ならば自分に残された仕事は、できるだけいい終局図を作り上げること。御堂涼の見事な入玉達成を記念する棋譜にすること。
     百十四手目。最後まで手堅い御堂の一着を見て紗津姫は投了した。

    【投了図は△2八香まで】
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         ☆

     念願の優勝。中央で華々しく賞状を持っての写真撮影。しかし依恋の心は晴れなかった。
     紗津姫が敗北した。あまりにも意外すぎる結末。
     たとえ名人でも三割は負けているという。だから紗津姫が負けたとしても、別におかしなことではない。なのに現実感がない。
     依恋が紗津姫と御堂の対局に駆けつけたのは、終局直前だった。目を疑うような局面だった。この女王がこんな負け方をするなんて。
    「いけると確信したのは△3三歩を打ったとき、▲5二銀とされたとこ。これが▲同桂成なら難解……つうか、後手がどうしても苦しい順があったんよね。自信満々のふりしてたけど、実はビクビクしてたわ。いずれにしても今回は、研究が上手くいっただけのことや」
     感想戦で御堂はそんなことを言っていた。
     研究云々を抜きにしても、たった一度の勝負で優劣が決まるわけはない。紗津姫は実力で負けたわけではない。
     ……だとしても、負けは負け。このことをどうやって来是に報告すればいいだろう。依恋は優勝の喜びより、そのことばかりで頭を支配されていた。
     紗津姫さんは恋のライバル。だけど好きだ。こんなに素敵な女性はいない。だから自分のことのように辛いんだ――。
    「依恋ちゃん、本当におめでとう。来年からは同じクラスで戦うことになりそうですね。金子さんも三位で大健闘ですよ」
     前年に続いての準優勝に終わった紗津姫は、悔しさを微塵も見せずに後輩の快挙をねぎらう。
     この人はそういう人だ。余計な気遣いはいらないのかもしれない。素直に自分の優勝を喜んでいればいいのかもしれない。でも、できなかった。
    「なんか……複雑ね。あたしだけ優勝なんて、考えてもいなかったわ」
    「先輩が負けるなんて、信じられないですよ! アマ女王戦みたく三番勝負ならよかったのに」
    「神薙さん、後輩に愛されているんやねえ」
     御堂女流アマ名人が笑顔で接近する。依恋と違い、思い切り優勝の喜びが沸き上がっているのがよくわかった。
    「九十一手組の先に、あんな光景があるとは思いませんでした。いい経験でした」
    「はは、もう二度とやりたくないやろ? またの機会があったら、途中で変化しとくわ」
    「ええ、入玉はするほうもされるほうも、すごく疲れますよね。それより、名人に弟子入りの件は」
    「話、聞いてくれるって! 名人のネームバリューがあれば、うちの両親も納得してくれるはずや。もう決めたで。仕事辞めて、東京に移住して、そしてプロ入り目指して修行する!」
    「期待してます。ぜひプロになってくださいね」
     自分を負かした相手を祝福する。その光景は美しかった。もし自分が負けていたら、素直にそんな気持ちになれていただろうか。依恋は今また、自分の未熟を思い知った。
    「さ、あとは指導対局会に参加しましょうか。せっかくの機会ですし」
    「そうですねえ、プロの技を吸収したいです。……ん? 碧山さんどうしました」
    「ああ、来是からメールが来てたんだけど……」
     三人してディスプレイを覗き込む。

    『そろそろ結果は出たか? 先輩の女流アマ二冠を祝してパーティーでも開きたいな!』

     紗津姫は何も言わずに微笑んでいた。しかし、どこか寂しそうに見えた。
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