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☆
『今回はいけるという感触があり、そのとおりになってよかったです。夢はもちろん名人です。』
『諦めずに頑張ってきてよかったです。これから出遅れた分を取り戻していきますので、応援よろしくお願いします。』
宮野謙也四段、そして倉下龍太郎四段。
ふたりの新プロ棋士誕生の記事を、大和は『週刊将棋新聞』でチェックしていた。普段は購読していないのだが、無念の気持ちを忘れないために、わざわざ将棋会館に寄って買ってきたのである。
特に年齢制限ギリギリで合格した倉下は、一般紙からも取材されるほど、注目を集めていた。どんな業界でも、苦労人は応援されるものだ。
もちろん大和に、彼を応援しようという気はまったくない。男性棋士と女流棋士の違いがあるとはいえ、同業者であり商売敵なのだ。それに、来期には自らも四段に昇るつもりでいる。必ず公式戦でリベンジすると、無表情の下で闘志を燃やしていた。
新聞をしまうと、大和は伊達と盤を挟んだ。今期最後の指導だ。倉下に敗れた将棋を並べていき、気になる局面から検討していく。
「ここが唯一の疑問手だったな。あとはすべて最善と言っていい」
伊達は惜しい、という言葉は使わない。勝負師にとって、そんな言葉は何の足しにもならないことがわかっているからだ。
微に入り細にわたり、ふたりは精査を続けていく。先手後手どちらが有利になるかは、いまだ明確なことはわからない。
深い。あまりにも深すぎる。もっと研究に費やす時間が欲しい。そのためにも奨励会など、さっさと抜けなければならない――。
「雲雀、ひとまず戦いは終わったんだ。しばらくは奨励会のことは考えないで、気分転換でもしたらいい」
まるで心を読んだかのようなタイミングだった。呆れ半分に、大和は聞き返す。
「清にぃは、気分転換にどんなことをしてるの」
「最近は、漫画やアニメを見始めている。子供の頃以来だな」
「どうしてまた」
「今度、将棋漫画の監修をすることになってね。そうなると、最近の流行も知っておく必要があるだろう?」
「うらやましい。その役目、代わって」
「ああ、雲雀は漫画アニメが趣味だったか。よほど忙しくなったら、考えておこう」
ふと、大和は思いつく。
倉下戦での出来事について、話してみよう。
あのとき、指さないで彼が戻るのを待ったことを後悔はしていない。しかし、この名人の意見を聞いてみるのは損ではないはずだ。まったく予想外の観点から、示唆に富むことを教えてくれるかもしれない――。
大和が簡潔に事実のみを伝えると、さほど間を空けずに名人は答えた。
「雲雀の選択は、間違っていない。指して勝ったところで、ずっと気になってしまうだろう?」
この答え自体は予想していた。すべての棋士の模範たる伊達清司郎が、相手のトイレの最中に指して時間切れを狙うなど、よしとするわけがない。
「しかし、倉下くんの度胸はたいしたものだな。おそらく、雲雀が指さないと確信していたんだろう」
「確信していた……?」
「雲雀には女流のトップというプライドがあると、信用していたんだ。それでも、大博打には違いないだろうが……。いずれにせよ、倉下くんはその賭けに勝った。人生を投げ打った賭けに。用を済ませて、局面が動いていないのを見たとき、おそらく彼は負ける気がしなかっただろう」
将棋の技量で負けるのは、かまわない。自分が強くなればいいだけの話だからだ。
だが、それ以外のことで負けたとなると……いったいどうすればいいのか? 大和はじっと兄弟子の言葉の続きを待った。
「やはり、賭けるものがある人間のほうが、強くなるということかな」
「……そんなことない。将棋は技術がすべて。そう言ったのは清にぃ」
「そうだったな。でも、最近考えが変わった」
「どうして」
「技術がすべてなら、コンピューターが最強ということになってしまうだろう? そんな結末は、つまらない」
希代の名人は、大和を見ていない。未来を見通すといわれるその目で、八十一マスの盤のみを静かに見下ろしている。
「我々プロが目指す将棋の神髄、その果てにあるものは、きっと、ただの技術ではない。ではなんなのか? 間違いないのは、人間の精神が関わっているということだ。人間そのものと言ってもいいか」
「……よくわからない」
「僕もまったくわかっていないさ。辿り来て、未だ山麓。ま、雲雀も行き詰まったら、何か賭けるものを見つけるといい」
賭けるもの。そんな都合のいいものが自分にあるだろうか。
――深く考えるまでもなかった。あった。誰もが「これがあるじゃないか」と言えるものが。
だが、現実にはそう指摘する人間は決して現れないだろう。
だから、自分で決めなければならない。
大和はすぐに決めた。技術がすべてではないという兄弟子の言葉は、もう彼女の心臓に刻み込まれた。
強くなれるなら、なんだってする。
「よし。四段になれなかったら、女流棋士を引退する」
「そうか」
伊達はどこか満足そうに微笑んだ。