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【史上最躍の棋士】
その記事を見たとき、神薙紗津姫はほとんど初めての不機嫌顔を見せて、将棋部員一同を驚かせた。
史上最強の棋士は誰か? この問いは、将棋ファンの間で議論が絶えない。
名人位十八期を誇り、生涯A級の座を維持した十五世名人の大山康晴。大山のライバルにして初の三冠王、新手を次々と編み出した升田幸三。現代にも通じる将棋感覚を持っていたとされ、江戸時代最強の呼び声も高い天野宗歩。そして現在の名人である伊達清司郎……。
純粋に将棋のテクニックのみを比較するなら、研究の最先端に生きる今の棋士に分があるのは間違いない。しかし過去の棋士が現在のテクニックを吸収したら、優劣はわからないのではないか。そうしたIFを想像しながら、将棋ファンはいつまでもこの議論を楽しむのだ。
では逆に、である。
史上最弱の棋士は誰か?
こんな問いが持ち上がるのも必然かもしれない。そして、インターネットという限定された場においてだが、ほぼ満場一致でその棋士の名は挙がるのだ。
【「史上最弱の棋士」と呼ばれた将棋棋士・大熊五段、棋界最高位の伊達名人に劇的勝利 大金星にネットも沸く】
春張来是はこの記事が表示されたスマホを、すぐにポケットにしまった。愛する先輩のいろいろな顔を見たい……常日頃そう思っているが、怒りや不機嫌といった負の表情は、見たいものではなかった。
「あまりにも大熊五段に失礼です。ネットでそういう風に言われているからって、こんな見出しを付けてしまうだなんて」
「いや、そうですよね。……すいません。こんなのを見せてしまって」
恐縮する後輩に、紗津姫は元の柔和な表情を向けた。
「来是くんが悪いわけではないですよ。ただ、話題最優先ではなくて、もうちょっと見出しに配慮してくれたらと思って。書いた人は将棋専門のライターじゃないですから、仕方がないのかもしれませんが」
「でもさ、デビューから最短記録でフリークラスに落ちちゃったんでしょ。実際、史上最弱なんじゃないの」
率直に疑問を投げかける依恋。しかし紗津姫は笑顔で即答する。
「そんな人が、伊達名人に勝てると思いますか?」
「まあ、そうなんだけど……。っていうか、名人に勝てるくらいなら、どうしてフリークラスなのよ。デビュー直後は、よっぽどサボっていたとか? あるいは、デビューできただけで満足しちゃったとか。燃え尽き症候群みたいな」
「そんなことはないと思います。きっと、少しだけ巡り合わせが悪かったんですよ」
名人への道である、最重要棋戦の順位戦。A級、B級1・2組、C級1・2組と五つのクラスに分かれ、デビューした棋士は原則、最下位であるC2クラスからスタートする。
しかしC級2組の棋士が三回の降級点を取ると、フリークラスというクラスに陥落し、一定の条件をクリアしなければ、十年で強制引退させられる。
つまり制度上、十三年がプロ棋士の最短の寿命となる。仮にそんな事態になれば、その棋士はマイナスの意味で将棋界の歴史に残ってしまうだろう。
だが――それを土壇場で回避できるかもしれないとなれば?
人間はドラマが好きだ。とりわけ、絶体絶命からの逆転劇が。
「なんにしても、応援したくなっちゃいますよねえ。上手くいけば、引退回避できるんでしょう?」
金子の発言に、来是は力強く頷く。
「今まで名前すら知らなかったけど、これから要チェックだな!」
――こんな風に、彼は全国の将棋ファンから話題にされている。
名人の座から陥落したら引退すると公言した伊達清司郎。
史上初の「女性棋士」の期待がかかる女流名人、大和雲雀。
最近の将棋界は、この両トップの話題で占められていたが、また新たな注目を集める棋士が登場した。
大熊大吾五段。順位戦通算勝利数、わずか五勝。華も実績もありはしない。史上最弱と心ない揶揄を飛ばされながら、迫る引退との戦いに身を投じる男である。