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どうもお久しぶりです、ストレートエッジのむぅ©︎です。
突然ですが最近本屋で見た、ある本のキャッチコピーが印象に残りました。
「技巧(クラフト)が芸術(アート)を可能にする」
なんの本かと言えば、この8月に発売されたばかりの新刊『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』(フィルムアート社)です。
「ル=グウィン」というのは、「ゲド戦記」シリーズなどで世界的に有名なアーシュラ・K・ル=グウィン氏のことですね。
本書は、彼女が一九九六年に物語作家に向けて行ったワークショップがもとになっており、一九九八年に初版が、二〇一五年に改訂版が出ています。本書はその二〇一五年の改訂版が底本となっています。
さてキャッチコピーである「技巧が芸術を可能にする」という言葉ですが、皆さんはどういう風に受け取ったでしょうか?
字義そのまま、芸術作品足りうるにはたしかな技術がなければならない、でしょうか?
たしかにピカソの絵は、子どもの落書きのようにしか見えない絵に、何億もの値がついたりしますし、落書きのようにしか素人目には見えない絵にも、ものすごく高度な技術が用いられているのだ、なんて話はよく聞きますよね。
(もっとも、私には皆目わからないのですが……汗)
ですので、上記のような解釈が違うという気はまったくありません。
私がこの話を持ってきたのは否定したいからではなく、むしろ拡張できるのではないか、という提案をしてみようと思ったからです。
すなわち、次のように言い換えることもできるのではないでしょうか?
「技巧(クラフト)が芸術(アート)を可能にする」
「技巧(クラフト)が芸術(アート)を可能にする」
↓
「文章(技術)が物語(小説)を可能にする」
……え?
当たり前のことじゃないかって?
たしかに字義通りに見れば、何を当たり前のことを、と思うでしょう。
ですので、ここに別軸の問いを投げかけてみようと思います。
それこそすなわち、
「同じ内容なら誰が書いても同じになる?」です。
なんでもいいのであなたの好きな「物語」を思い描いてみてください。
小説でも、漫画でも、アニメでも、(実写)映画でも、ゲームだってかまいません。
その「物語」が例えばメディアミックスをしているとして、もし別の出会い方をしていたら、あなたがその「物語」に持つ印象は果たして今と同じだったでしょうか?
最初に出会ったのがもし、
小説ではなく漫画だったなら。
漫画ではなくアニメだったなら。
アニメではなく実写映画だったなら。
実写映画ではなくゲームだったなら。
ゲームではなく小説だったなら。
「アニメから入ったけど小説を見たら印象が違った」
「小説ではイマイチ印象が薄かったけど実写映画はとてもよかった」
そんな経験を、誰しも一度はしたことがあるのではないでしょうか?
それを「媒体特性による印象の違い」で済ませてしまうこともできるでしょう。
ですが今回はそれを、ちーっとばかし深掘りしてみます。
すなわち「同じ内容の物語なら誰が書いても同じ小説になる」のでしょうか?
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