随分時間が流れたような気がする。でもそんなに実際は経ってないような気もする。
クリスマスツリーも年越しそばもお屠蘇もお雑煮も何もない年末年始を無我夢中で乗り越えたような記憶があるが、それさえもぼんやりしている。
毎日歩き走り雪が降り積り相変わらず家の周りの騒音は酷くなるばかりだ。月と星がくっついた日もあったし、離れてしまった空を呆然と見つめたのもつい最近のこと。
気がつくと僕は日本に向かう飛行機に乗っている。丸い窓の外には左翼と白い雲と明るい光があり、ライトに照らされたPCのスクリーンに文字を増やしていく様は、過去の何処かでさまよっている自分を未だに探しているような気さえある。
でも僕は未来に向かっている。
それもどこか懐かしいようなその景色の中へ、時に運ばれるように、背中を押されるようにして。
ぴをブルックリンの別の地区に住む友人に預けに行った帰りに、摂氏マイナス10度の中なぜか歩く羽目になってしまった。その町のアーケードは光のページェントが素敵で携帯カメラを向けて写り込んだのは「夕焼けの赤く染まった空と雲が闇に向かい始めた顔」だった。
「よし。このまま歩き続けてみよう。どれくらいかかるかわからないけれど」
ここ1ヶ月万歩計のおかげで随分家の周りを歩いたけれど、全く知らない場所を歩くのは全然違うスリルがある。大きな墓の周りに沿って歩く。どんどん闇の包装紙に包まれて夜リボンを結ばれようとするその景色に僕は一喜一憂しながら鼻をすすった。確かに寒いを通り越して顔や耳が切れるように痛い。冷凍庫の中にいる。そんな感じ。お腹がすいてきた。
中国系の人が多いその地区の「寿司、日本料理、アジア料理全般」と書いてある店のドアを開けた。中国人経営の店、一目でわかった。「1人なんですが」と席に案内してもらう。
元々1ヶ月前はダイエットをやるつもりなど毛頭なかった。だが歩きと走り、節食によりどんどん減る体重の変化が興味深くて、つい1ヶ月弱の間に10キロも落としてしまう。
「それって明らかにやばいよ。食べても食べても痩せる。そんな体質になっちゃってるよ。しばらく運動はやめて食べれる物から少しずつ胃に入れて戻したほうがいいよ」
友人たちは口々にそんなことを僕に言う。帯状疱疹なるものが内股や首に出てさすがの僕も何かものを食べなければという気になる。て言うか、食べてない意識はないのだ。めかぶや納豆、オレンジにりんご。グラノラにヘンプ、赤身の肉、セロリ、緑野菜。でも毎日の運動時間が5時間を超える日もあるのでおそらく消費カロリーが高すぎて体の免疫は落ちる一方だったのだろう。さすがに炭水化物を少しは食べようと思い立つ。
3日前以前よく通ってた近所のイタリアンへパスタを食べに行ってみた。好物の「魚介のタリアテッレ」を頼む。昔はそうは思わなかったが、運ばれてくる料理の量が多くてそのビジュアルだけで「うっ」となってしまう。ところがそろそろと胃に入れてみると、あれあれ不思議、大好きなものの記憶を胃が覚えているのだ。あっという間に完食できてしまう。やった〜!
だから今日この「中国人のやっている日本料理屋」でしっかり再び食を摂取しようと思い立ち、メニューの中から「海老の天ぷら」をセレクトした。櫓のように組まれたエビ天に洒落た形のカットされた野菜天。これもご飯以外ほぼ完食。上出来上出来。だんだん食べることのポジテイブエネルギーが心と体に蘇っている。この調子だ。さあ、もう少し歩こう。僕は膨らんだ胃をさすりながらマイナス10度のブルックリンへと再び飛び出した。
大きな墓地は想像もつかないほど広がっていて、延々歩かないと僕の家の方向には辿り着けない。携帯のGPSアプリで現在地を確かめつつ白い息を吐きながら雪道を闊歩闊歩。
バーンスタインの墓があることでも知られる有名なその墓地は、春には何千本もの桜に包まれるそうだ。真冬の今は半分夜になったブルーの世界にひっそり佇んでいる。写真を撮りながら歩く。
それにしてもブルーノートツアー以後、先に進んだ暦のトラックを遅れないよう必死で追いかけてなんとか今日までたどり着いているが、心と体は未だ、クリスマスの2日ほど前にいる。つい最近とはいえ前の年だ。トミジャズのカウントダウンで華々しく新しい年に滑り込むのに成功し、それなりに2017年を10日ほど過ごし、いよいよ阪神大震災のチャリティイベントに向かうため機上の人となるはずで、どこかブルックリンを離れがたい気持ちが僕を歩かせているような気もした。
楽しいはずの日本への旅なのにここを離れるとなるといつもこうだ。冷えた空気を一気に吸い込むと咳こむので用心しながら吸う。そうこうしているうちネイチャーコーリングがやってきた。胃腸が悲鳴をあげたのだろう。トイレトイレ。
しかし歩いても歩いてもガソリンスタンドや工場、住宅以外、バーやレストランなどは一軒もない。1ブロックの距離は相当あり、僕は極寒の中じんわり汗をかきはじめた。気を許すとお尻が一気に開き「華厳の滝」が流れ出る悪夢がよぎる。平常心だ、平常心。そうあればあと数ブロックは余裕に持つ。余計なことを考えずただただ歩けばいい、右足出して左足出してまた右足を出せばいい、人生のように、やり過ごすのだ。そうすればこのブルックリン雪砂漠を抜けれるはずだ。
そのマインドコントロールでなんとか歩き続け、先に一軒のスポーツバーを見つける。砂漠にオアシス。ドアを開ける。
「外は身を切る寒さだよ。赤ワインをちょうだい、グラスで。あ、それとバスルームはどっちかな?」
僕は涼しい顔で上着を脱ぎカウンターの椅子にかけると席を離れる。トイレに入り中から鍵をかける。ズボンを下ろす。慌てるな。そこからの記憶がない。とにかく滝修行無事終了。よく持ちこたえた、と自分を褒めてやりたい。席に戻ると小さなグラスに山盛り赤ワインが注がれている。一口すする。外の冷たさと反比例でメガネが曇ってしまうほど高温の室内で、白人と黒人のおじさん二人が天井から吊るされた巨大TV画面を見ながらフットボール観戦をしている。赤ワインが喉を通ると「ふわっ」とあったかさが体中に蘇る。はあ、幸せだ。
明日の今頃は日本へ向かう飛行機の中。そう思うとバーカウンターの鈍いテカリさえも愛おしい。NYにはこの手のスポーツバーがごまんとあり、酒を飲みながら人々はスポーツ観戦に勤しむ。こんな大雪の日に、墓場にほど近い小さなバーで居合わせた3人の男たちとバーテンの白人の女の子。世間話をし、目線を交わし、時々笑う。
「ごちそうさま。じゃ、また雪の中へ戻ります。ワインと温かい時間をありがとう」
「Sir、気をつけて。相当心臓に負担がかかるので、休み休みにね」
「うん」
バタン。後ろで閉まるドアの音で再び真冬の凍結した足元が広がった。一面の銀世界に街灯が滲む。少しワインで温まっている間にすっかり外は夜に変化していた。キュッキュ、ビーンブーツの底を雪に擦り付けてしっかり歩を進める。凍り付いた雪はシャープでナイフのように靴底を切りつける。足形も犬のおしっこも、瞬間で氷の芸術に変えてしまう自然の圧倒的力に、僕は一体何を挑んでいるのか。10年目に入ったNYでの日々の中で、今日はもしかしたら最上最低の気温のはず。すれ違う人と励ましあいながら歩いているとだんだん景色が色めいてきた。
下北沢や大阪アメリカ村的賑わいの景色が目の前に広がってきた。と同時にさっきの赤ワインが早速下半身でそわそわ行き場を探し始める。僕は赤に変わり始める信号を渡りどこか休憩場所を探す。そんな時見つけたコーナーのレストラン、ドアを開けるとつけまつげの陽気なおばちゃんのバーテンが「ようこそ!」と僕にコースターを勧めた。
「赤ワインをグラスで」またこれだ。
「何にします?カベルネ?サンジョベーゼ?」
「サンジョベーゼでお願い」
「了解。いい選択ね」
さっきの店でやったのと同じようにダウンをハイチェアの背もたれにかける。笑顔で別の男性のウエイターに「バスルームはこの奥だよね?」と尋ねてみる。「そうだよ右手奥」「ありがとう」さっきのネイチャーコーリングの緊急事態に比べると随分余裕だ。落ち着いてトイレのドアを閉めてゆっくり用を足す。この放尿感。いきなり温かい場所でホッとすると武者震いがする。カウンターに戻るとサンジョベーゼが並々注がれ、僕を今か今かと待っていた。
華厳の滝事件を未然に防ぐのに一役買ったスポーツバーじゃ赤ワインは赤ワイン、1種類だった。それがここじゃサンジョベーゼなど選択肢がある。随分進化した。「お味はいかがですか?」そんな会話さえ今日は格別に嬉しい。ふーとため息を吐きながら大きなグラスに注がれるワインを回したり揺らしたり眺めたり。ああ、明日から日本か。
「あ。それってうちの近所じゃないですか? 今からジョインしますから待っててください。そこってよくビヨンセがカウンターでワインを飲んでいる場所なんですよ。行きます行きます。10分以内に」
誰かと話がしたくてテキストしたら、その友人がたまたまご近所さんだったことが判明。旅行代理店をやっている彼女は、南極探検隊のように顔の真ん中だけしか出てないフードを被り、雪を払いながら到着する。
「何こんな日に歩いてるんですか?心臓大丈夫ですか?」
「いやいや歩くつもりなかったんだけど成り行きというかね」
ブルックリンをたった10日ほど離れるのに心が切なくなって、それを振り払おうとただ歩き始めたと告白してみようか。歩くつもりなどなかったのにビヨンセ御用達のこの店まで辿り着いてしまった。
「私はキャンテイ。わ? いい味ね、注いで頂戴」
「僕の二杯目は?」
「同じのにする?」
「いや、スペインの」
「テンペラーニーニョ、ね?」
「それそれ、それに」
「じゃ、改めて雪の日に乾杯!」
「Long Walkに乾杯!」
行き当たりばったり筋書きがどんどんupdatedされる。友人はお腹が空いていたのかホタテのグリルとイカスミのパスタを注文する。僕も横で少しだけつまみながら、話に花が咲く。
「帯状疱疹は楽になりました? あ、少し回復してる。いいことです。精神的なストレスも大きかったんじゃないかな?」
「そうだね。年末年始は悩み多き日々だったもんなあ」
「それでゴールは見えた?」
「うん。未来へ進む、だね」
「未来へ進む、か。いいね」
「人は終わったことをあれこれ考えるけれど、もう過去をそれ以上いじっちゃいけない時ってのが必ず来る」
「その時に?」
「その時によいしょと、がむしゃらに前へ進む」
「なるほど。今年は楽しい年になりそう?」
「そうだね! 新しいことがいっぱい待ってる予感がする」
2時間ほど会話に花が咲いた後、手を振って僕たちは闇の街へとそれぞれ消えた。ずいぶん温まった。賑やかな街を携帯で撮る。これだけ寒いと人と話した方がいい。寡黙だと死んでしまう。すれ違う人と「Happy New Year! 」「Same to you!(あなたにもね!)」すると突然、手元の携帯のスクリーンが灯りを落とした。
???
GPS機能や万歩計アプリ、調子に乗ってパシャパシャ写真まで撮ってるうちにバッテリーを酷使してしまったらしい。我が家まで後1時間ってさっきでてたよな。おそらく左ななめ前方あたりをまっすぐ行けば早晩知ってる通りや景色に出くわすだろう。焦らない焦らない。
住宅をいくつ抜けただろう。全身凍傷になりそうなくらい痛い。再びどこかで休みたい。もう1時間半は優に歩いている。キイテナイヨ〜! 左だと思っていたら右が正解とか、否、やっぱり左とか、迷い始め、どっちから来てどっちへ向かっているのかわからなくなる。2017年の冬に歩く男は携帯が落ちただけで全く無力だ。あ〜あ!そんな時雰囲気のあるバーを見つけたので、又ワイン&トイレ休憩を思いつく。数人の客がバーテンダーの若いスケーターっぽい感じの男の子と楽しげに笑い合っているのが窓越しに見える。バタン!ドアを開けて雪を払いカウンターの隅に腰掛ける。
「赤ワイン、ハウスでいいよ」
「寒かったろ?外?」
「そりゃもう、寒いなんてもんじゃないよ」
「じゃあ、並々注ぐから、ゆっくりしてってくれよ」
「サンキュ。そうさせて頂くよ」
スポーツバーの名前もないテーブルワインによって助けられ、ビヨンセ御用達のレストランのカウンターで空気に当てながら飲んだ高級ワインに助けられ、今度は又名前のない(あるのだろうが客にはわからない)ハウスワインに戻って乾杯だ。歩き疲れたのも手伝って一気に眠くなる。フワーと至福のときを呼ぶ力のあるフルボデイの赤だった。
賑わってる店内を横切り僕はもう一つのミッションをこなしにバスルームへ向かう。その店のトイレは薄暗いクラブで匂いそうな洗剤の香りを放つ。暗くて狭い場所でズボンを下ろししゃがむ。なんだか今日はズボンを脱いでばかりだ。また大きくフーと息を吐きさっきの高級ワインをこの店に落とす。
「〇〇ってどっちの方向?」「どっちってあっち?」「あっち?」「そう、あっち?」「でも歩くと1日かかるぜ。キャブ呼びなよ。自殺行為だぜ」「ハハハハハ、歩けるさ」「自分の選択をわかってる?自殺行為だぜ?」「わかってるよ」「本当に?」「ハハハハ」
僕は再び暗闇の雪道に飛び出した。おそらく我が家まであと1時間以内のはずだが万が一来た方向に戻ってる可能性がないように道すがらの人に聞いて何度も確認する。みんな口を揃えてこう言う。
「キャブ呼びなってば。歩ける距離じゃないって」「誰かにダブルで確認した方がいいよ」「遭難するなよ」
そんなこんなで道を聞いている時間以外は黙々と歩き続け、ちらほらうろ覚えだった通りに出る。馴染みの駅にも出くわす。しめた。もう近い。ガソリンはキレそうだが、家が近いと分かれば勇気も湧く。
角をあと数本曲がり、知っている景色に出会い、それを更に幾つか通り過ぎ、あっという間に懐かしの「我が家」に到着した。家にはぴはすでにいない。ガランと整頓された部屋にあと数時間後持っていくスーツケースが一つポツンと置かれている。なんだか引っ越し最後の夜みたいだな、と呟くといきなり人恋しくなる。なので早速バスタブにお湯を溜め長時間歩行で疲れた心と体を労う。あんなに途中飲んだのに(小分けではあるが)体からワインはすっかり抜け失せてさっぱりしたシラフ気分だった。温もりながらあと数時間後に始まる日本への旅に思いを馳せる。この先にどんな景色が待っているだろう。「未来へ進む、か」そういえば指練習のテキストブックや譜面を入れ忘れないようにしないとな。爪切りもだ。
轟音。
うとうとしてた僕はフライトアテンダントの声で目覚める。今はどの辺りだろう?
「Sir、さっきの赤ワインはシラーとかネルダボラのミックスでしたけど、今度はカベルネにします? イタリアンの」
「ええ、じゃあ、それ頂けますか、マダム」
あっという間にJFKからミネアポリス経由で僕は日本へ向かう機上の人になる。 JFK じゃ雪のためまさかの1時間遅れ。タダでさえ30分しかトランジットの時間がないのに「すわ、ミネアポリス1泊か」と覚悟したところ、前の席のインド系アメリカ人が「俺は日本へ行くのにこの乗り換え便を月に2回使ってる。絶対に間に合う。心配しないでいい」と振り返って笑った。「本当ですか?」「本当本当、Monday Night!(彼は問題ない!と言おうとしているのだと思う)」「そっか。Monday Night!」「そうそう、Monday Night!」「ハハハハハ!」
そのあとのミネアポリス空港では一緒にスーツケースを転がしながら走った走った。そして無事に東京行きの飛行機に乗り継いだら同じローの左と右の窓側の席だった。「無事だったね!」「本当に」「いい旅を!」「そちらも!」親指を立て会う二人。
それから又うとうと寝たら、夢で昨夜のブルックリン物語が蘇る。今一体何杯目の赤ワインを注がれているのだろう? 横には友人がいる? いない? 次の飛行機には間に合う? 一緒にインド系の人と走っている? 到着までの時間はあと? えっと、えええっと? 6時間56分くらいか。7時間を切ったんだな。じゃあ、前から観たかった「君の名は」でも観ようかな。
人生はMonday Night! (問題ない。笑)
「どっちってあっち?」「あっち?」「そう、あっち?」「でも歩くと1日かかるぜ。キャブ呼びなよ。自殺行為だぜ」「ハハハハハ、歩けるさ」「本当に?」「ハハハハ」
昨日いた場所に僕はもういない。今いる場所に1分後にはもういない。未来へ進む、か。どんどん塗り変わっていく時間の中に一体何が待っているだろう。
みなさん<
2017年もSenri Garden、ブルックリン物語をよろしくお付き合いください。「9番目のその先へ」も少しずつアップしますね。
文・写真 : 大江千里
As Time Goes By 時のすぎゆくままに(1931)
作曲・作詞 : ハーマン・フィップフェルド
ブロードウェイ・ミュージカル『エブリバディズ・ウェルカム』のために作られた。「君の瞳に乾杯! 」と言う名セリフでも有名な映画『カサブランカ』(1942)のテーマ曲として知られるスタンダードナンバー。
As Time Goes By - Original Song by Sam (Dooley Wilson)
As Time Goes By (Frank Sinatra)