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shirobako評 神のいない国で語られる物語 その1
現代日本における日本画とは漫画だ、と明言したのは現代アーティストの村上隆の言葉だ。
漫画と同様にアニメも日本の文化と認識されていると言っても過言ではないはずだ、少なくとも海外ではネットワークを通じてむしろアニメの方が認識される機会も多いだろう。ではこの二つの文化の共通点は何かといえば、その祖を手塚治虫という一人の人間に遡れること、それはつまりキャラクターを使った表現だということだ。
(この他にアートの世界でも村上隆やカオス※ラウンジだ)
ではこの国でキャラクター表現が発展したのはなぜか。
もともとは手塚治虫がディズニーのキャラを換骨奪胎して生み出したのがこの国お近代のキャラクター文化である。これらは大塚英志や伊藤剛の評が詳しいだろう。
余談を言えば、映画表現の取り込みで近代漫画は成立したのではなく、このキャラクター表現、キャラクター文学とも言っていいものが近代漫画というべきなのだ。それゆえ手塚をスタートにする。
ではなぜ手塚のキャラクター表現はなにをもって成立したかといえば、キャラクターに「死」を与えたことで始まる。太平洋戦争で天皇=神を失った日本人の前に現れた、もしくは残されたのがこのキャラクターという概念だ。太平洋戦争敗戦後、日本人は神ではなくキャラクターを通して死や神聖を考えるようになったのだ。つまり生命を持たないキャラクターに生命を与える、もしくは奪うことによって、それらの概念をなんとか、かろうじて考えることができたのだ。
つまり手塚は、ディズニーの空っぽなキャラクターに「死=生命」を与えることで命を物語ることができたし、生命を与えることで必然、ほかの物語を語ることもでき始める。愛、夢、未来、様々なものをだ。
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