マンガ起業論・補足版 2013年8月11日
ワンピース、21世紀以降のマンガにおける
「進撃の巨人」の価値
なぜ「進撃の巨人」がすばらしいか。
これを語る言葉を不勉強ながらあまり聞かない。
宇野常寛が言及した、彼が得意とする、若い世代を取り囲む現代社会からの言葉くらいが聞くに値するものだが、それは「進撃の巨人」の社会学的引用であるからして、マンガそのものの言葉を作りたい人間にはまだ足りない。
宇野が言ったのは、すでに敵がいない今の世の中に現れる不気味な存在としての巨人、ということであった。
これは「進撃の巨人」の語った物語の説明としてはうなずけるところでもある。だが、「進撃の巨人」がなぜここまでマンガ市場や、さまざまなプレイヤーにコミットした説明には至らない。
それはやはりマンガの批評がないからである。
「進撃の巨人」をマンガ批評するならばこう語るべきなのだ。
『20世紀のマンガ文脈をほぼ網羅し、それを戦後マンガの代表でもあり、王者であるジャンプマンガのスタイルで作り上げたワンピース以降、初めてワンピースに使われていない文脈で描かれたマンガが「進撃の巨人」なのである。これはつまり、21世紀以降新たなワンピースを生み出す最初のピースになる可能性が大であるからである。』
批評とはそもそもアカデミックであるべきであり、アカデミックであるということは人文科学でるということだ。そして人文科学とは、歴史が基礎となるのである。
「海外のアートがなぜ理解しづらいか」は、この「歴史にいかに接触するか」と「アートの目指していること」を知らないからであり、アートはギリシャ時代からアカデミズムそのものなのである。そして人文科学の基礎はギリシャ哲学であるのだ。
さて、ワンピースにない「進撃の巨人」の文脈とはなにか?
ライトノベル的であるストーリーやキャラクターなどは当然ながら、そこはさして重要とは考えない。なぜならそれは進撃以外のマンガでも、若い作家に当然はぐくまれる、言ってみれば流行りだからである。
ではなにが「進撃の巨人」で最もすばらしいか?それはあの絵だからである。
漫画とは、「絵画」であるからだ。
よく言われることで、業界で陰口的にたたかれる、「進撃の巨人は絵が下手」という点に語ってみる。
この言は、要約すると「デッサン力がない」という意味である。
…これは実は何も語っていないことに等しい。
なぜか? 絵で最も重要なのはデッサン力ではないか? 的確な筋肉の位置、目玉の大きさ、骨格、完全なパース…。これらが絵のすばらしさを量的に規定できるのはないか?
そうではない。
「絵画」とはそんなものを全く要求していない。なぜなら、もし上記設定が正しいならば19世紀に写真機が発明されたときに「絵画」などは滅んでいるからだ。実際、肖像画という、デッサン力のみに帰依する絵画は滅んだ。
では人は「絵画」に何を望むのか? それはその作家による世界の新しい解釈と、新しい歴史の解釈=つまり新しい未来である。
この絵は新しい!とか、こうきたか!と、よく読者の方が思うのは全く正しいのである。要はそれを言語化できる批評が絶無だっただけである。いるのは提灯記事を書くものと、既存の村社会に何とか入ろうとするものだけだったのが、マンガにとって不幸だった。
エロマンガがなぜマンガ業界にとって大事なのかは前述のことがあるからである。この女の子の描き方はすごい、こんなおっぱいの描き方があったのか!と。それを見て、一般誌の作家がぱくったり、そのエロマンガ家が一般誌に来て業界を席巻する時もあった。
ではなぜ「進撃の巨人」がワンピース以降の新しい提言をしているのか?
それは『インターネット以降のピクシブなどで語られる、キャラクター画法を真に受けて描かれた、若い人間が、その情熱だけで描き切ったものであるからだ。つまり、20世紀までの編集部指導や、先輩作家による技術伝承から外れた、集合知により描かれた絵』であるから素晴らしいのだ。
加えて言うならば、当然あの「巨人」のキャラクターも素晴らしいのだが、あれは言ってみればただの新しいキャラクターである。ただ、マンガを商品たらしめるのはこのキャラクターなので、いうまでもなく超重要である。
ワンピースの絵を構成しているのは、言うまでもなくそれまでのジャンプ絵であり、鳥山明である。彼の描く扉絵などを見ればその影響は見て取れるだろう。
では「進撃の巨人」の集合知の絵、とはなにか?
あの絵はインターネットでアマチュアがマンガを発表するようになってからよく見た「とりあえずデッサンをちゃんと取れないので、線を重ねて最適解を読み手にゆだねる」絵である。これはネット最初はマウス線で描かれたへろへろの線を何とか見れるようにするために、ネットの中で伝染していった手法である。やがて回線が太くなると立派な絵がネットを席巻し始めるのだが、そうすると今度は、上手な絵の描き方、というのがネットの中に開発されていく。そして、マンガのような絵の描き方も。そして、それらを真に受ける若さを持った作家がついに商業誌でそれらを開花させた。そこには編集もマンガの手法もなかったが、完全にマンガであったのだ。
そしてもうひとつ大事なのが、構図である。マンガは「絵画」であるならば、なぜイラストレーターがなかなかマンガを描くのに苦労するのか? それはマンガの持つコマを構図に取り入れる概念が捉えづらいからである。
手前味噌ではあるが、ひとつの例を挙げる。
拙著の「一年生になっちゃったら」というマンガで、ギャグのシーンでよく使った構図で、なにか面白いことをやった=Aというキャラクターをコマの中で右に配置し、それを見てリアクションするキャラクター=Bというのを左に配置する。Aは空間的に奥に配置し、ほぼ全身が画面内に入り、Bは右側面を見せ、その表情を見せるために画面手前でAに比べて大きく描かれる、という構図である。これは非常に古典的な構図で、手塚治虫の時代から使われる構図である。
つまりこれが歴史である。
これにより、見るものにはこれがマンガという絵画である、ということを知らせ、マンガの存在性を正当化せしめる。
あとはこれを敷衍して見開き全体に使ったりする。
よく「この作者は誰々の影響を受けている」と言うのは、以上のことを日本読者は経験則的にできるのがこの国のマンガ産業の隆盛であり、批評が甘える原因でもある。
「進撃の巨人」を歴史的に見れば、その構図は透視図法やカメラのレンズなどに影響を受ける以前の西洋絵画、初期ルネサンスのヤン・ファン・エイクや、ベルセルクにも影響を与えているヒエロニムス・ボスなど初期フランドル派のようである。
この時期の絵画はその後の盛期ルネサンスにかき消され、資料が少ないがルネサンスの初期であるからには聖書絵画からの自由を求めた自然主義であることは間違いなく、20世紀までの型が決まりつつあったマンガの描き方から逸脱した「進撃の巨人」が重なるのは、絵画とは世界を解釈する機能であることを考えれば、「進撃の巨人」が新たな
時代を作らんとしている証でもある。
構図のもうひとつの意味性に、物語性がある。
それは、カメラの配置やキャラクターの目線や、画面の濃淡、などなどでさまざまな意味性が出せるのだが、これは既存の絵画論にも出ていることであると思うので割愛する。
そして「進撃の巨人」においてこの構図もかなりチャレンジングなのである。
「進撃の巨人」の構図は、空間的に整合性がなかったり、構造物が設計思想的にありえなかったりするのだが、それはまったく明後日からの指摘なのだ。あの画面構図は、物語に帰依した構図なのである。
巨人の禍々しさ、キャラクターの恐怖感、そこのみに特化した構図であり、マンガを絵画として捉えるならばそれ以上の機能は必要ないのである。
以上、述べたとおり、進撃の巨人」とはワンピース以前のマンガではなく、中堅以上の作家には描けない、そして、漫画が絵画であることをワンピース
以前の漫画の手法を使わないことによって逆に証明してくれたのだ。
(本当はこれをブリッジに、「風立ちぬ」を絵画的に語り、映画視覚表下として語ることもしたかったがタイムオーバー。2013年8月10日)