こんにちは、苫米地英人です。蒸し暑い日が続きますね。

 先日の6月4日の放送では、オタキング・岡田斗司夫さんとの対談、たくさんの人に見ていただけたようで、ご試聴ありがとうございました。3年ぶりくらいに岡田さんに会いましたが、相変わらずパワフルで話題が豊富。彼のほうが1つ年上と、ほぼ同世代なので非常に近しい気持ちで対談できました。

 内容も橋本氏の従軍慰安婦発言についてやらニコ動を一万人にするアイデアやらジョジョの奇妙な冒険の話やら、多岐にわたる話が出来て非常に楽しかったです。また、是非岡田さんとお話したいです。

 

次回の放送は6月18日(火)、実話ナックルズの元編集長で、フリー編集者の久田将義氏と対談いたします。

 

 

 久田氏とは、実は大分前からの知り合いで、実話ナックルズ誌面で、まだ犯人が捕まっていない「世田谷一家殺人事件」のプロファイリングをした時の担当編集が彼だったことがあります。当時の取材時の状況やこぼれエピソード、改めて犯人像についての推理、その他未解決事件についてなどについて、色々語れたらと思います。また、彼のやっている人気ブロマガ「ニコ生ナックルズマガジン」についても、色々聞いてみたいですね。

 

 そして、今後とも、なるべくたくさんの方の質問にお答えしようと思っておりますので、質問、または悩み相談のメール、下記にいただけたらありがたいです。

drtomabech@gmail.com

このメールアドレスがメルマガ運営部のアドレスになります。こちらにいただいたメールは、運営部が管理しますのよろしくお願いいたします。

 そして、さる4月23日に行った放送である、株式会社ドワンゴの取締役であられる夏野剛さんとのスペシャル対談を会員限定動画で投稿しておりますので、また未視聴のかたは是非ご覧下さい。ほかの動画もアップ予定です。

 また、このブロマガ専用の公式twitterを立ち上げております。ドクター苫米地ブロマガ委員会という名前です

 https://twitter.com/tomabechiblomag

 ブロマガや生放送、その他に関する情報などをツイートしていきますので、ぜひフォローをお願いいたします。

 


っても負けても幸せになれないシステムの中にいる


 さて、先週から始まっている、3週に渡って「洗脳力」についてお教えするのがお題の2週目です。前回は「認識したものだけが世界である」という考え方の話をしました。これは夢を実現させるときにとても大事な考え方です。

 世界の認識やとらえ方、世界観を変えるだけで現実世界を変えるのと同じ効果が生まれることになるのです。

 今回は“夢を実現させるため”の、自分の世界観の変え方、現実世界の変え方についてです。

 私の知人に米国の超有名大学院を出て医者になった人がいます。学歴、地位、収入…どれをとっても人がうらやむものばかり。失礼ながらルックスだって悪くありません。

 ところが彼は、私に「先生、私は自分が何をしたらいいのか分からないのです」と電話をかけてきて悩んでいるのです。

 しかし彼は決して特殊な例ではありません。一般的な評価では最上級の成功者の部類に入る彼がこうなっている現象は、資本主義を選択した先進国に共通した大きな問題を提示しているのです。

 競争は必ず勝者と敗者を生みます。必ず勝者と敗者が生まれる以上、つねに勝ち続けられる人など皆無といっていいでしょう。つまり、競争社会は「敗者を大量生産するシステム」といえるわけです。この敗者達は当然、敗北感を味わい、次への競争と進んでいきます。

 では、運良く勝ち続けた人がいたらどうなるのでしょうか? 


その多くが先ほどの医者の彼のような悩みを抱えてしまうのです。彼は競争世界の圧倒的な勝者ですが、夢を持てず、幸せを感じられずに悩み、私に相談してきます。十分な社会的実力を持ちながら、まだ何かと競争せずにはいられない。いもしない敵と延々と戦い続ける人生が幸福なはずはありません。

 勝っても負けても幸福感を味わえないシステム、それが競争原理です。人を幸せにしない、そのようなシステムがいったいなぜ取り入れられ、みな、疑いもなく最善と信じて日々活動しているのでしょうか?

 それは、ほんの一握りの世の中の、0・0000001%くらいの人がいい思いをできるシステムだからです。ごく一部の政治家であったり、ごく一部の大企業の社長であったりといった人たちです。彼らは財力と共に権力も持っています。彼らは自分たちにとって都合のいいこのシステムを私たち一般庶民に植え付けます。このほんのひと握りの人たちのために、残りの大部分、いたほぼ全員が“働き蟻”のように走り回っているのです。

 

理想の自分と競争しても絶対勝ち目はない

 

 この米国有名大出身の医者が「私はどうすれば幸せになれるのでしょうか」と相談の電話をかけてくるらびに、私は「その“私は”はやめなさい」と言います。「“私は”と言っている限り、未来永劫、幸せにはなれませんよ」と。「私」という硬い殻の中に入ってしまっていては、絶対に幸せになれないのです。

 では、私たち(私)とはいったい何なのでしょうか?

「私は苫米地英人です」

 こう答えてもまったく答えになっていません。苫米地英人を知らない人にとっては「誰?」ですし、同姓同名の人間がまったく同じ人間だということになってしまいます。

 では「認知科学者で、コグニティブリサーチラボのCEOで〜」と細かく説明するとどうなるでしょう。絶対に説明しきることはできません。これは何を意味しているのかといえば「私」を絶対的な存在として定義することは不可能だということです。

 しかし、たいていの人は自分自身に対して何か絶対的な価値のようなものを求めます。

「私は特別」

「私は何か大きな目的を果たすために生まれてきた」

 間違いとは言いませんが、こうした考えはたいてい「自分だけが特別であり、他人はどうでもいい存在か、自分が特別であるための単なる小道具」という思考へと陥ってしまいがちです。こうなってしまうと真実が見えないだけでなく、様々な悩みが生じます。

「私は特別なはず。でも今の私はそれとは遠くかけ離れている。なぜだろう」

 今の自分は理想の自分とは違う。どうすれば理想の自分になれるのだろうかと悩むことになるのです。「自己実現願望」とでも言えばいいのでしょうか。

 この悩みは尽きることがありません。なぜならありもしない架空の自分と比較して「あれやこれが足りない」と考えてしまっているからです。ありもしない架空の自分と競争しても勝ち目はありません。必ず架空の自分のほうが勝っているからです。

 ここには大きな勘違いの存在と大事な視点の欠如があります。

 大きな勘違いは述べてきたように「自分という“定義可能な”存在があるはずだ」という勘違い。そして大事な視点とは「他者(他人)との関係」という視点です。

 

他者との関係がわかれば自分が見えてくる


 自分を定義しようとしても説明しきることは不可能。でも自分という存在は間違いなくある。その存在を決めているのは何かと考えると他者との関係と気付くはずです。

 たとえば私は科学者の間では「認知科学者」と認識されます。事務所にいれば「CEO」です。私を社長と言う人もいれば、先生と言う人もいます。

 つまり私が誰かというのは私ではなく他者が決めていて、それはどのように決まるかというと、私と他者との関係で決まるのだということです。もしくは他者にどう認識されているかで決まります。

 こう言われても最初はしっくりこないかもしれません。ここで理解して欲しいのは、自分という存在が他者との関係性で決まることは、それが即ち自分の意思が他者に左右されるという話ではないということです。単に、存在はその人がどういう人かではなく、その人のまわりとの関係がどのようになっているかで決まるという話です。