津田直士さん のコメント
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一般的世間でよく使われる芸術という言葉には、若干の誤解が含まれていると僕は思っている。 本来の意味とは少し違ったニュアンスで芸術という言葉が使われていることが多いからだ。 エンターテインメント作品を商業的に分析したり評価したりするような時に、その誤解は起きやすい。 つまり「商業的な」という言葉に対して「芸術的な」という言葉を使う場合などだ。 このような使い方は、実は根本がズレている。 「商業的」という言葉に対して使われる「芸術的」という言葉の「芸術」には、本来の芸術の意味から離れて、商業主義に左右されないもの、というニュアンスが目立つ。 だから「商業的な成功よりも芸術性を求める作品」という表現が成り立つ。 場合によっては「大衆的な」という言葉を「芸術的な」という表現の対義語的に使うようなこともある。 このような表現をする場合の「芸術」には、作品が1000年前のものだったり、作者が300年前に没していたりして、教科書に載るような作品のイメージが投影されている。 けれど実際のところ、そういった作品が生まれた当時、遠い昔の作者やユーザーが作品にそのようなイメージを持っていたわけではない。 そもそも「芸術」という言葉と、その作品に関する商業的な価値や作者の商業的な価値観は、また別の話だ。 おまけに、たとえ作者自身の収入に結びつかなくても、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品やバッハの作品などの商業的な成功と価値は圧倒的であり、それらの芸術作品は「世界で一番人気のある作品」なのだから、時代を現代に移せば、「世界で一番人気のある作品」を生み出し続けてきたウォルト・ディズニーが、遠い未来に20世紀を代表する芸術家と評価されるのは間違いないわけだ。 このことから、一般的に「商業的な」という言葉に対して「芸術的な」という言葉が使われることの本質的なズレはわかって頂けると思う。 では、芸術の本来の意味、そして僕がYOSHIKIの生み出す作品に対して、あるいは自分自身の音楽的な姿勢について使っている芸術という言葉の意味とは何なのか、掘り下げてみたいと思う。 まず、このような認識のズレが生じる理由について説明してみたい。
音楽プロデューサー/作曲家の 津田直士が、その経験から得た、「主人公という生きかた」をもとに、① 人生の悩みや迷いへの答えを分りやすく答える『その答えは』 ② 世間の話題や素晴らしい作品、アーティストプロデュースや音楽制作などあらゆるテーマで自由に綴る『本能が吠えるまま』 ③ 伝説のバンド X JAPANと共に過ごした記憶が瑞々しくリアルに綴られた著書「すべての始まり」に記されなかった舞台裏とプロデュースの原点を新たな視点で描く『夢と夕陽』 ④ 自分らしい人生を積極的に生きている人にインタビューをして、生きかたのヒントを見つける『ある人生 』といったブログを定期的に展開します。
返信がすっかり遅れてしまいましたが、とても嬉しいコメントです。ありがとうございます。
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