あの日から10年が過ぎた夏、僕(宇野)は石巻と気仙沼に暮らす二人の知人を訪ねることにした。その中で歩いた仙台、閖上、女川、そして陸前高田。10年後のいま、これらの土地を走ることではじめて見えるものたちとは。いまだ「復興」が続く土地で闘い続けるヒーローたちとの旅の記録。
前編はこちら。
(初出:『モノノメ 創刊号』(PLANETS,2021))
10年目の東北道を、走る|宇野常寛(後編)
石巻のヒーローたち
石巻は、10年前に僕が歩いた被災地の一つだった。石ノ森章太郎の生家に近く、少年時代の石ノ森は文化の香りを求めて郷里の山村から本屋と映画館のある石巻に通い詰めていたという。このような特別な関係から、石ノ森の愛したこの国の「萬画(石ノ森はマンガという文化の多様化と成熟を理由に、この字を充てていた)」の歴史と精神を伝える美術館が、この街に建てられている。僕が10年前にこの街を訪れた理由の一つが、この石ノ森章太郎と石巻の関係にあった。僕は当時石ノ森が生んだヒーロー──特に仮面ライダー──についての批評を書いていた。震災が起きて、津波が石巻を襲って、たくさんの人が死んだ。この街には石ノ森が生んだヒーローたちの像が街のあちらこちらに立っていたのだけど、その大半がこのとき一度流された。しかしそれでも、ある仮面ライダーの像が奇跡的に残っていた。僕はそのことをある新聞記事で目にして、この街に足を運んでみようと思ったのだ。この手の扇情的な記事に心を動かされたというよりは、その記事に添えられた写真の風景──廃墟に立つ仮面ライダー──を目にしてみたい、という不謹慎な動機が僕を動かしたのだ。
そのときのことを、僕は鮮明に覚えている。僕は友人とタクシーをチャーターして、まだ瓦礫も撤去されていない石巻の街を見て歩いた。そのとき、タクシーの運転手──当時50代半ばに見えた男性──は、津波で壊滅した市街地を案内しながらこう言った。「このあたりは、津波が来る前からダメだったんだ」と。そこは地方都市にありがちなシャッターの下りた、さびれた商店街だった。そこに津波が押し寄せてきてすでに経済的に、文化的に死んでいた街を物理的にも殺したのだ。
あれから10年──「復興」したはずの石巻の街は、やはりさびれていた。あの津波から生き残ったであろう、レトロモダンな店舗兼住宅の大半にシャッターが下りていた。何のために、この街は復興したのだろうか、と僕は思った。この街に来る途中で、僕たちはおそらくは人間が居住するには相応しくないと判断されたであろう沿岸の地区を高台から見下ろしていた。そこは近代建築の白と公園の緑に塗り分けられ、無菌室を思わせるクリーンで、そして無機質な明るさに満ちていた。それは古い漁師町にはお世辞にも似合うものではなかった。しかしこれがこの10年で、この街の人たちが(少なくとも民主主義の建前としては「選んだ」)復興の姿だった。人が住むのは難しいと判断した土地には無菌室のような公園を新造し、そして津波が来る前からさびれきっていた商店街をそのまま復興する。それがこの街の10年だったのだと僕は思った。そしてそんな2021年の石巻の街を、石ノ森章太郎の生み出したヒーローたちが見守っていた。
石巻の駅の前には大きなビルがある。もともとそこは震災の10年以上前にできたデパートだった。街の外側の資本が強引に、地元の商店街の反対を押し切って進出したものだった。そして、デパートと商店街は共倒れになった。そもそも衰退していた商店街はデパートに客足を奪われてとどめを刺され、そしてデパートもまた想定した利益を上げることができずに撤退した。気がつけば、石巻の商業の中心は少し離れた場所にあるイオンのメガモールに移動していた。デパートは罪滅ぼしのように、店舗ビルを寄付して去っていった。石巻市は市役所機能をそのビルに移したが、1階に何のテナントも入ることなく、「空き家」状態が2年以上続いた。それを見かねたイオンが、半ば土地への救いの手として温情的に入居した。こうして、石巻は駅前にイオンと一体化した市役所が立つ街になった。そしていま、その入り口を仮面ライダーV3が仁王立ちで守っている。仮面ライダーは、ある意味においてまだ廃墟の上に立っていた。
必要なのは「復興」ではない
そして、僕たちはそのさびれたものをそのまま復興した商店街の中のある場所を訪れていた。「IRORI 石巻」と名付けられたそこは、「石巻2・0」と名付けられた運動の拠点だ。この旅の目的の一つが、この10年間、この運動を主導してきた人物──松村豪太さん──に会うことだった。