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『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四
本日のメルマガは、ライター/編集者の徳田四による寄稿文をお届けします。
近年のアニメシーンで話題の「ガールズバンドアニメ」。〈日常系〉の臨界点としての、かつての『けいおん!』と2010年代のアイドルブームからの転換は何を意味しているのか。昨年のヒットから話題の絶えない『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』の達成を中心に考察します。『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ
『ぼっち・ざ・ろっく!』『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』『ガールズバンドクライ』――2022年から毎年立て続けにヒットしている「ガールズバンド」アニメが、アニメ業界を震撼させている。2010年代以降のアイドルブームからの大転換、かつての『けいおん!』(2009)をはじめとする〈日常系〉の再解釈、「百合もの」の勃興、ロックンロール神話の再興、声優陣によるリアルライブと「2.5次元」、アニソンのグローバル化、3DCGアニメーションの現在地……ざっと思いつく限りでもこれだけの論点が提示される。いま「ガールズバンド」をどう語るべきか。アニメ視聴者にとっての最優先事項である。
表面的には「音楽アニメ」の主流が「アイドルもの」から「ガールズバンドもの」に転換しつつあると受け取れる。そして一般的には『ぼっち・ざ・ろっく!』が最大のヒット作とされているが、しかし実は『BanG Dream! It's MyGO!!!!!(It's MyGO!!!!!)』こそがいかに革新的なのかを示すことが、この転換のメカニズムを明らかにするだろう。
『ぼっち・ざ・ろっく!』のヒットでもたらされたことは、『けいおん!』の再評価、すなわち〈日常系〉作品と、声優による生演奏ライブのポテンシャルを再解釈する機運である。この二つの遺伝子は現在どのように継承されているのか。まずは2010年代のアイドルアニメについて、〈日常系〉との比較から簡単に振り返ろう。
『けいおん!』から『ラブライブ!』へ
2010年代のアイドルアニメを象徴する『ラブライブ!』(2013)と『けいおん!』の共通点は、多くの論者が指摘してきた[1]。〈日常系〉の最高傑作の一つである『けいおん!』は、このジャンルの諸作品が描く「いまこの瞬間のゆるいつながり」の肯定性をロックミュージックに乗せて描き、音楽アニメのあり方、音楽シーンにおけるアニメ声優の扱いを一変させた。評論家の宇野常寛は、実写青春映画『リンダ リンダ リンダ』(2005)との共通性を見出しながら同作を評して「ロックの意味を書き換えた」と論じたほどである[2]。敵を見失った「反権威の象徴」から端的な「〈日常〉の肯定」へ。放課後ティータイムによってロックミュージックは更新されたのだ。
その後2010年代になるとAKBグループやももいろクローバーZが牽引した「ライブアイドルブーム」と合流し、音楽アニメもアイドルを題材にした作品が頻出するようになる。象徴的な作品が『ラブライブ!』で、『けいおん!』とのスタッフの共通性(脚本家の花田十輝)などから両作は度々比較されてきた。特に「軽音部」「スクールアイドル」といった「部活もの」の設定は「日常」「青春」の刹那性を表現するのに相性がよく、さらにアイドルライブにおけるパフォーマーとオーディエンスの一体感を高める演出[3]や、(主に10代の)アイドルが持つ「キャリア形成の不可逆性」が刹那性を高めるうえで相乗効果をもたらし、アイドルこそが「いまこの瞬間の日常」の肯定性を歌い上げるのに極めて適していた。転じて2010年代の、特に前半期においては「復興」「町おこし」のアイコンとしてアイドルが機能することもあった。
「いまこの瞬間」の肯定機能としてのアイドル像は、たとえば『ラブライブ!』作中で結成されるアイドルグループ、μ'sの楽曲のリリックにも反映されている。
奇跡 それは今さ ここなんだ
みんなの想いが導いた場所なんだ
だから本当に今を楽しんで
みんなで叶える物語 夢のStory
(KiRa-KiRa Sensation!)〈日常系〉作品は時に〈空気系〉と呼ばれることもあり両者はほぼ同義として扱われているが、アイドルによる〈日常〉の肯定は、いわば「熱気」あふれるものとして一時代を築いたのである。
ところがSNS社会の進行とともに、アイドル産業が抱える構造的問題がやがて指摘されるようになる。たとえば香月孝史が指摘するように、アイドルの(ファンサービスとして事実上不可欠な)「プライベートの投稿」すらもコンテンツとして消費される状況は、労働上の問題があると認識されるようになっていった。香月はこの構造を「日常化するドキュメンタリー」として批判的に分析している[4]。まさに「日常」に潜む問題として、アイドルが「日常」のことを自己言及的に発信すれば、むしろその「日常」は崩壊する(「労働」として回収される)という矛盾を抱えるのである。
「アイドルによってこそ〈日常〉は肯定し得る」ということと「アイドルがアイドルであろうとし続ける限り、アイドル自身の日常は失われてしまう」という二つの言説が両立してしまうジレンマが生じたのだ。
この(もはやアイドルに限らなくなってきた)問題を「アイドルの立場」から端的に告発した作品として、乃木坂46一期生・高山一実原作によるアニメ映画『トラペジウム』(2024)がある。アイドルを夢見る女子高生の東ゆうは「日常化するドキュメンタリー」の問題に極めて自覚的で、あくまでも「演出」としてボランティア活動に参加しその様子をSNSに投稿するなどして、彼女が「アイドルとして好ましい」日常を過ごすさまが露悪的に描かれる。
▲東が「日常化するドキュメンタリー」にあまりに自覚的なことと、それでもなおアイドルという職業に固執し続けるさまが狂気的であるとして、公開当時一部のアニメ視聴者から頻繁に話題にされていた。しかしこの問題の「深刻さ」について本編の分量の大半が割かれる一方で、「解決」について何かを提示する試みはほとんど放棄しており、終盤は一度アイドル活動に挫折した東の再起とアイドルとしてのある程度の成功が、半ばダイジェストのような形であっさりと描かれて物語は幕を閉じる[5]。こうした脚本の展開自体が、「この問題についてはアイドル自身もファンも芸能プロダクション側も認知しているが、解決については誰も手をつけられないでいる」構造を暴露してしまっているかのようであり、ある意味でアイロニカルな悲劇として受け取れる。
『トラペジウム』がこの2020年代になって「アニメ」化したことは示唆的である。現実と同じようには「日常化するドキュメンタリー」が問題化されないアニメの世界においてもこの事態がメタ言及されるようになったことは、ジャンルとしての成熟(≒転換期)を象徴している。
それでは近年の「ガールズバンドもの」の代表作の一つ『It's MyGO!!!!!』が、このようなアイドルを取り巻くメディア環境に対しての「カウンター」としてパンクロックを奏で、音楽アニメの新たな地平を切り開くとすれば? 本題に入ろう。注
[1]高瀬司「スクールアイドルの輝きの向こうへ 『けいおん!』から読む『ラブライブ!』」(「ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ」青土社、2016)。
[2]『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2011)や『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版、2018)における〈日常系〉の分析より。
[3]松本友也「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」(『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』青弓社、2022)では、アイドルに求められる「アマチュア性」とファンの主体性がライブでの「一体感」の醸成にどのように関係しているのかが分析されている。
[4]香月孝史「絶えざるまなざしのなかで アイドルをめぐるメディア環境と日常的営為の意味」(前掲書)
[5]そもそもこの作品の物語自体「ダイジェスト的」だとする否定的な意見が公開時にしばしば見られた。もっともこれは高山が小説家としての技量的には発展途上であるという以上の指摘にはなり得ないが、しかしこの「ダイジェスト」ぶりは、結果的に視点人物でもある東ゆうの周囲への関心のなさ(なにもかもが「ドキュメンタリー」の演出要素でしかないという認識)を表しているかのようだ。「ごはんはおかず」から「春日影」へ:〈日常系〉再解釈
『It's MyGO!!!!!』にも、たとえば先に引用したμ'sの楽曲や『けいおん!』の劇中歌「ごはんはおかず」「天使にふれたよ!」のように〈日常〉のつながりを自己言及的に肯定する楽曲が登場する。「春日影」である。
雲間をぬって きらりきらり 心満たしては 溢れ
いつしか頬を きらりきらり 熱く 熱く濡らしてゆく
君の手は どうしてこんなにも温かいの?
ねぇお願い どうかこのまま 離さないでいて「春日影」は女子中学生バンド・CRYCHICが作曲したもので、ボーカルの高松燈がメンバーとの絆と感謝を歌ったものである。口下手かつ「天然」で周囲に馴染めない性格だった燈はバンド活動を通して初めて他人との友情を感じ、その思いを「春日影」の歌詞に乗せたのだ。
ところがこの「春日影」が演奏された直後には、むしろ必ず何らかの「決別」が訪れてしまう。
CRYCHICが「春日影」を演奏し、初めてのライブを成功させた直後、バンド発足者である豊川祥子はなぜか姿を現さなくなってしまう。数日後、雨の中傘も刺さずにずぶ濡れの状態でスタジオに現れた祥子は、突然バンドからの脱退を宣言する。ドラマーの立希は祥子が無責任だとして糾弾するが、それをベースのそよがなだめる。そよは全員がこのバンド活動を楽しんでいたはずだと、解散するのはおかしいと、周囲に問いかける。そしてギターの睦が答える。
私は、バンド、楽しいって思ったこと……一度もない
そよは絶句する。CRYCHICは事実上の解散となった。そして時は流れ、彼女らが高校1年生になった時期へと場面は移る――。
これが「第1話の冒頭」で描かれるシーンである。
▲「アニメ『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』#1 冒頭部分の一部を公開!」
動画タイトルからは信じられないほど険悪なシーンである。続く第7話においても「春日影」は演奏されるが、やはりそこでも「日常のつながり」の肯定には失敗する。元CRYCHICの燈、立希、そよに新メンバーとして愛音と楽奈が加わってバンド活動が再開し(後に「MyGO!!!!!」として正式に発足する)、いよいよ初めてのライブを迎えた場面だ。
CRYCHICに未練を持つそよは、あくまでも「春日影」は練習曲として位置付けていたものの、本番中に楽奈が即興的に「春日影」のイントロフレーズを弾き始め、なし崩し的に演奏が始まってしまう。やむをえず演奏に加わるそよだったが、そこで偶然ライブ会場に訪れていた祥子を目撃してしまう。そして、かつてCRYCHICの絆を歌った「春日影」が別バンドの曲として演奏されるのを見て、祥子は泣きながらライブハウスから駆け出していってしまうのだった。そしてライブ終了後、そよはメンバーに対して激昂し、バンド活動に姿を見せなくなってしまう。
▲【アニメ切り抜き】なんで春日影やったの!?
「春日影」演奏直後、そよの激昂シーンは国内外(とくに中国)の視聴者から度々話題にされる。バンド演奏を通じた「日常のつながり」の肯定は、『It's MyGO!!!!!』においては必ず失敗するのだ。むしろ「日常の自己言及的な肯定」自体が原因となって日常自身が自壊するとさえ言ってもいい。
そのことは第7話の映像演出にも表れている。同エピソードではライブ直前のシーンまでメンバーの楽屋での様子が描かれるが、それはBGMもない定点カメラの視点で描かれる。監督の柿本広大はこれについて「MyGO!!!!!の自然なやりとり」を撮りたかったと述べている[6]。定点カメラによる「ドキュメンタリー」風アングルで、自然なやりとり、すなわち「日常」的な姿が描かれたわけだ。
しかしその直後彼女らが直面するのは「つながりの崩壊」である。ここでは『ラブライブ!』が『けいおん!』を継承したのとは逆の事態が起きていて、〈日常系〉的メンタリティを音楽に乗せることにむしろ挫折することから物語が始まるのだ。
「アイドルもの」が成熟期を迎え、音楽アニメが継承してきた「〈日常〉の肯定」がむしろ困難なものとして描かれること、これを「日常の不可能性」と呼んでおこう。そしてこの「日常の不可能性」にどのように立ち向かえばいいのか、音楽アニメとしての射程が問われるのはこの意味においてである。[6]『TVアニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」official guidebook FOTPRINT』(ブシロードワークス、2024)p.87
「日常の不可能性」と「ちいさな一瞬」としてのつながり
かつて放課後ティータイムが歌った「ごはんはおかず」のような〈日常〉の素朴な肯定が不可能となれば、別の回路が必要になるだろう。『It's MyGO!!!!!』においてそれは「ポエトリーリーディング」という形で現れる。
ポエトリーリーディングとは一般的には音楽に合わせてある程度のリズムで、かつメロディを排して詩を読み上げることを言う。『It's MyGO!!!!!』においては燈の「心の叫び」としてポエトリーリーディングが登場する。
先述した第7話での「春日影」の演奏後、そよの断交を期に事実上の活動休止に陥ったバンドメンバーだったが、燈はバンド活動の再開とメンバーとの和解を決意する。そしてたった一人で、詩の朗読という形でライブ活動を始めるのだった。
「春日影」を歌ってしまったことへの後悔、メンバーへの罪悪感、それでもなお感じている絆を、言語化しようともがく。言葉にしきれない思いの輪郭が少しずつ現れていくかのように、ライブを行う度に詩の内容は徐々に変化していく。こうした燈の姿に感化された楽奈、やがて立希も、燈の「ライブ」に参加するようになり、後に愛音も燈の説得によりバンドに復帰するのだった。
そして燈、楽奈、立希、愛音の4人でのライブ本番当日、そよが観客として姿を現す。そよを見つけた燈はステージを駆け降り、演奏に加わってもらおうと彼女の手を取る。バンドを「終わらせにきた」つもりのそよはそれを頑なに拒否するが、ついにステージまで上げられてしまう。愛音が、エレキベースのストラップをそよの首にかける。楽奈がアルペジオを弾き始め、燈のポエトリーリーディングが加わる。立希のドラムフレーズが重なり、やがてアドリブセッションとしてライブ演奏が始まった。
一緒に泣きたいよ
一緒に笑いたいよ
僕らの道が平行線だとしても
昨日を握ったまま ズキズキふるえてる
痛いほど伝わるから君を離れないうたう 手と手をつなぐうた
ほどきたくないんだ ずっと一緒にいよう
うたう 僕らになれるうた うたう
ここではじめよう もう一度メンバーは輪を作り、お互いを見つめながら演奏が進む。演奏をバックに、CRYCHICの思い出、初ライブを決意した瞬間のカットが走馬灯のように次々と差し込まれる。過去を受け入れ、「つながりの肯定」の自己言及に唯一成功する瞬間である。
うたううた うたういま ああ届いて
君の胸に まだ間に合うかい「つながり」への意思は歌詞の「意味」によってだけではなく、端的な言語の「音」としても表現されているだろう。発音上、母音の連続は省略・接続され「うたうたうたう」と発声されるこの歌詞は、音素レベルで循環構造を成しており、バンド(輪)の「つながり」を象徴しているかのようである。
やがて「詩超絆」として実際に音源化するこの演奏は、作中では「即興でたまたまできた曲」として扱われ、二度と演奏されることはない。「つながり(日常)の自己言及的な肯定」が成功するのはほんの一瞬の出来事で、それを反復することにはまたしても困難が生じるのである。
▲詩超絆(アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」#10 挿入歌)なぜ「即興」の、「ポエトリーリーディング」の楽曲としてなら、ほんの一瞬でも「日常の肯定」を成しうるのだろうか。あるいはなぜ「ポエトリーリーディング」が必要とされたのか。
ポエトリーリーディングは、歌詞を「言語記号」として強調する。本来「歌詞」はあくまでもメロディという「音楽記号」としての機能から逃れられないが、ポエトリーリーディングにおける「歌詞」は端的な言語記号として現れる。そして楽器隊による演奏(=音楽記号)との衝突・分離が起きるために「歌詞」の言語性は相対的に強調されるのだ。
したがってポエトリーリーディングで綴られた歌詞の内容は、それがそのままボーカリストの「本心」であるかのような演出をより強調する[7]。『It's MyGO!!!!!』において「日常」は素朴に肯定されるものではなく、そうまでして本「心」の叫びとして、力の限りを尽くして強調してようやく肯定されるものとして現れるのだ。しかしそれでもなお「日常」の肯定に成功するのはほんの一瞬で、それも偶然起きた出来事である。それほどまでに「日常の肯定」が困難なものとして、希少なものとして描かれる。
つまりここでも『けいおん!』や『ラブライブ!』が描いていたような、「卒業」という時間的有限性から〈日常〉の刹那性を相対的に強調したのとは逆転した現象が起きている。前提として「日常」が不可能なものだからこそ、それを成り立たせるには困難が伴い、かつそれはほんの一瞬しか現れないという意味での「刹那性」にたどり着くのである。「いつか失われるかもしれない(「卒業」による有限性)」からこその刹那性ではなく、「最初(第1話時点)から失われている」からこそ一瞬だけ立ち上がる刹那性である。
そのことはアニメ放送時点での最新曲「迷路日々」の「ちいさな一瞬 あつめたい」というリリックが的確に表現している。
迷いながら 戸惑いながら歩く
めいろの中で 僕らは居合わせてた
名前のない感情 ああ 抱きしめてる
ちいさな一瞬 あつめたいちっぽけだって 隠さないでいたいよ
はみ出したまま 不揃いな僕らでも
いびつな言葉で ズレては すれ違ってさ
傷つけたことに 傷ついてる
それでもこの手を ほどかないただし「迷いながら」「戸惑いながら」というように、やはりはっきりとそれを断定するには至らない、わずかなためらいも見出せるだろう。そのことは歌詞の「音楽記号」としての側面にも現れている。
理論的な話に踏み込むが、たとえば引用したサビに頻出するボーカルのロングトーンの音は「ド#(C#)」である。それに対して楽器隊は伴奏(コード)として「ソ(G)」を鳴らす。詳細な説明は省くが[8]、ベース音の「ソ」に高い「ド#」を当てるのは限りなく不協和音に近い(厳密に不協和音というわけではないが)。ためしに適当なピアノアプリか何かで「ソ」「(より高い)レ」「(より高い)ド#」を同時に鳴らすとどれほど不安定な響きであるかがわかるだろう。
歌詞の水準では「つながりの肯定」を望みながらも、編曲の水準では随所に不協和が生じているのだ。あるいは逆の言い方として、不協和(=日常の不可能性)が生じるのは前提のうえで、それでもなお一瞬だけ生じる「つながりの肯定」への意志を持ち続けるという決意の現れだとも解釈できる。
ライブって、一瞬で……
でも、あのときの気持ちや、眩しさは、確かにある
そういう、一瞬一瞬を沢山かさねたら、一生になるんだと思う燈が最終話で口にしたこのフレーズは、その宣言である。「ちいさな一瞬」としてのつながりの肯定を、試行錯誤しながら「一生」重ねること、それが「日常の不可能性」への「反抗」としての、MyGO!!!!!が奏でる新たなパンクロックの形である。
▲【Official Music Video】迷路日々 / MyGO!!!!!【オリジナル楽曲】[7]たとえばポエトリーリーディングの楽曲を制作する音楽ユニット・MOROHAはこうしたポエトリーリーディングの特徴を生かしたエモーショナルなリリックが評価されている。
[8]この曲のキーがDメジャーであるとして、パワーコードで弾かれたGをG△7の省略形だと解釈すれば、それに対してボーカルメロディのC#がオルタードテンションの#11thを担っていると思われる。ボーカリストが何の補助もなしにこの音を当てるのは非常に難易度が高いはずだが、このロングトーンの直前に毎回楽器の音がブレイクし、そこに差し込まれるアカペラの上昇メロディがC#のロングトーン発声に対して補助的な機能を果たすのだろう。大ガールズバンド時代宣言
「日常の不可能性」への「反抗」というイメージで思い出されることは、2020年の世界的なパンデミック進行の直後、「ロック」が音楽シーンにおいて「復権」したことである。ラッパーのmgk(Machine Gun Kelly)が同年9月に発表した「ポップパンク」のアルバム『Tickets to My Downfall』は、全米Billboard 200で1位を獲得した[9]。まさに「日常」が一瞬にして「不可能なもの」に変容したあの時期、その鬱屈さへの「反抗」としてロックミュージックは再起動していたのだ。
パンデミックが引き起こしたのは日常の崩壊、とりわけ「青春の自明性」の崩壊である。それこそ「部活動」や「文化祭」が計画通りに開かれないまま卒業を迎えてしまった学生は大勢いるだろう。
それ以前に21世紀社会では中間集団(家族や企業、地域共同体など)の衰退による、大衆の個人化が進行していた。プライベートの人間関係は社会から与えられるものではなく「選択的」にならざるを得ず、その関係性の不明瞭さはしばしば社会問題にもなった。「友人関係において、関係の維持を保証する材料は、『お互いの納得感』以外にあまりない。しかし、納得感には、継続性に乏しい、という欠点がある。今、関係性に納得していた友人が、その後も、納得し続けてくれるかどうかは、わからないのである」[10]。
石田光規は『友人の社会史』(晃洋書房、2021)において、2000年以降「無菌化された友情(=本来なら生じるはずの、対人関係におけるいざこざを一切除外した友情)」の物語が急増したことを、新聞記事の分析をもとに明らかにしている。〈日常系〉がゼロ年代に流行したこともその現れの一つであろう。
しかしそこにパンデミックによって「学校」という舞台も破壊されうることが明らかになったいま、いよいよその「無菌化」もフィクションにおいて機能不全を起こしつつあると言えるだろう。さらに言えば〈日常系〉における人間関係の「無菌」性は、キャラクターたちが同性同士である(異性愛的恋愛関係に発展しにくい)ことで支えられていたと指摘されることがあったが、現代のジェンダー観でそれを言うのは難しい。
したがって(時期的には偶然)アフターコロナの時代に登場した『It's MyGO!!!!!』は、「無菌化」とは別の仕方で「日常の肯定」を試みた作品だと解釈可能である。さらに言えば『ぼっち・ざ・ろっく!』『It's MyGO!!!!!』『ガールズバンドクライ(ガルクラ)』はいずれも学校の「部活動」ではない舞台(いわゆる「外バン」)の物語だ。音楽バンドはまさに「選択的」な人間関係の象徴であるし、とりわけその関係を「いざこざ」を含みながら(=無菌化せずに)運営していく困難を描いたのが『It's MyGO!!!!!』である。
「つながりを保証する場所(の自明性)」の崩壊を経験した少女たちが、いかにして「日常」のつながりを立ち上げるか。第11話で楽奈が呟くセリフは、この作品の主題を象徴している。
ライブハウスやってた。SPACE。一生あるって思ってた。なくなったけど……。
でも、居場所って、また誰かが作るんだって。つまり「パンデミック後の青春への希求」「〈日常系〉の機能不全」「日常化するドキュメンタリーに直面したアイドル(の成熟)」、この三つの合流地点に位置するのが『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』であって、こうした時代性(への反逆)を新たなロックミュージックの定義として奏でるための舞台、それが「大ガールズバンド時代」[11]である。
近年のバンドアニメブームに対して、半ばネタ的に呼称されるこのワードの定義を、ここで宣言しようと思う。そして『It's MyGO!!!!!』こそがこの新時代の地平の原点Oである。
ここにおいてロックミュージックの新たな転換を見出すことができる。「最初の」ロックが「反権威」の象徴だとして、それを表明できるのは商業的に評価されたものだけだという矛盾を抱えており、その矛盾に耐えきれずにカート・コバーン(ニルヴァーナ)は自死したのだ[12]。
やがて反権威性を脱臭することで新たな定義を試みた、放課後ティータイムによる「〈日常〉の肯定」としてのロックもいまや不可能性に突き当たっている。そもそもその「持続」は不可能であることを『けいおん!』自身が明らかにしてしていたのであって、むしろ卒業という「時間的有限性を持ち出さなければ〈日常〉を肯定できなくなった」のが〈日常系〉の臨界点としての『けいおん!』である。
今や〈日常〉は、持続性に乏しいどころか、前提として壊れている。したがって〈日常〉を肯定するためにこそ、(「アイドルもの」との差別化という商業的要請も相まって)むしろカウンター精神が呼び起こされるのである。
[9]「マシン・ガン・ケリーが自身初の全米1位獲得。ロック・アルバムが首位になるのは約1年1ヶ月ぶり」(2024年6月9日閲覧)
[10]石田光規『友人の社会史』(晃洋書房、2021)p.178
[11]「大ガールズバンド時代」とは「BanGDream!」のアニメシリーズで発明された用語である。
[12]『反逆の神話〔新版〕: 「反体制」はカネになる』(早川書房、2021)などのカウンターカルチャー研究を参照されたい。「idol」としてのAve Mujica
『It's MyGO!!!!!』にはMyGO!!!!!とは別にもう一つ、「日常の不可能性」への反逆を試みたバンドが登場する。「春日影」の作曲者、豊川祥子率いるAve Mujicaである。
▲「Ave Mujica」(Official Anime × Live Video)
ゴシック・メタルを思わせる曲調はMyGO!!!!!と対照的だ。Ave Mujicaは、CRYCHICを脱退した後に祥子が結成したバンドとして登場する。祥子の脱退理由については詳細には語られないが、最終13話でその理由が推測されることになる。最終場面で帰宅した祥子の足元には大量の空き缶ビールが映し出され、彼女はこう呟く。
ただいま……クソ親父。
そして唐突に画面は暗転し、物語は幕を閉じる。
祥子は裕福な家庭の生まれであったが、恐らく両親の離婚(と父親が親権を得たこと)によって家庭環境が急激に悪化し、このことがCRYCHICの脱退に関係していると推測されている。こうした家庭の問題に加えて、MyGO!!!!!メンバーによる「春日影」の演奏によって友人関係も崩壊し、あらゆることに絶望した祥子が「全部忘れ」るために結成したバンドがAve Mujicaである。
Ave Mujicaは作中描写や曲調(パンクロックに対してのメタル)、グッズ展開の仕方などからMyGO!!!!!とは対をなす存在として登場する。典型的なのは両バンドのライブ演出で、第12話と第13話において両バンドのライブシーンが描かれる際に、その対照性がはっきりと表れている。端的に言えばMyGO!!!!!がパンクバンドとしての「飾らなさ」を表出するのに対して、Ave Mujicaのライブはミュージカルであるかのような凝った演出をなす。
たとえばMyGO!!!!!のフロントマン・燈がMCについては無計画だったのに対して、Ave Mujicaはメンバー紹介のためだけに、約4分間にわたり各々が名乗りを上げる寸劇をおこなう。「人形に命が吹き込まれている」という設定のAve Mujicaでは、メンバーは素顔を隠すための仮面をつけており、それぞれに役名が与えられているのだ(5人のメンバーが「ドロリス」「オブリビオニス」「モーティス」「ティモリス」「アモーリス」を名乗る)。そしてはっきりと自身の役名を名乗ることは、自身の「偶像」性を徹底するということである。
▲『バンドリ! カバーコレクション Extra Volume』
左側がMyGO!!!!!の高松燈、右に描かれているのがAve Mujicaのドロリス。こうした構造を踏まえてアニメ声優陣によるリアルライブについて言及しておこう。「BanG Dream!」シリーズのメディアミックスプロジェクトでは、アニメ声優が自身の演じるキャラクターに扮して実際にライブ演奏をおこなうが、Ave Mujicaのライブは単なる「キャラクターの再現」とは言い切れない奇妙なリアリズムが生じることになる。Ave Mujicaの声優陣が演じるのは厳密にはキャラクターそのものではなく、キャラクターたちが演じているという設定の人形劇である。いわば「キャラクターの演技の演技」だ。Ave Mujicaはアニメの世界においても「虚構」として登場するわけだから、アニメ世界と現実世界における姿、どちらが「ほんとうの」Ave Mujicaなのか? どちらのほうが「虚構」的なのか? という問いを無効化してしまう。2次元と3次元を貫通する「虚構(偶像)」性――Ave Mujicaが徹底して「偶像」であるということは、ある意味ではよりラディカルに「アイドル(idol)」的であるということになる。
アイドルに求められるのは、特に国内においてはパフォーマンスそのものよりもむしろそこから滲み出る「パーソナリティ(その人らしさ・その人の個性)」だということは指摘されてきた[13]。しかしAve Mujicaのように完璧な「偶像(idol)」を徹底することは、むしろ「パーソナリティ」の存在を否定することになる。「idol」性を徹底することで、逆説的にパーソナリティという個人的なものが享受されること(アイドル的な消費のされ方)に抵抗するのだ。
このような既存の「アイドル」との差別化は、後述するように「BanG Dream!」というプロジェクトが発足当初から志してきたものだった。MyGO!!!!!もバンド発足後2022年に初ライブをおこなってから約1年間は、声優名とその素顔が明かされず、あくまでもメンバーはキャラクター名義でライブ活動を続けていた。これも一つの「パーソナリティの否定」であり、「アイドル」から「idol」への転換の過渡期的存在としてMyGO!!!!!を位置付けられる。
こうした過程を経てAve Mujicaがどこまでの射程を得るかは続編のアニメ『Ave Mujica』を待つほかないが、少なくとも「BanG Dream!」プロジェクトにおける一つの達成ではある。
[13]『「アイドル」の読み方』(青弓社、2014)p.103
すべてはPoppin'Partyから始まった
「BanG Dream!」プロジェクトが始まったのは2015年だが、そのきっかけはむしろ「アイドル」によって生まれていた。「アイドルマスター」シリーズに出演する愛美(後に『BanG Dream!』主人公・戸山香澄を演じることになる)が、2014年のライブ「THE IDOLM@STER M@STERS OF IDOL WORLD!!2014」において自身の演じるキャラクター・ジュリアに扮してギターの生演奏を披露し、それをブシロード代表の木谷高明が知ったことがプロジェクト発足のきっかけになったことは、ファンの間ではすでに知られたエピソードだ[14]。
このライブをきっかけに、かつての放課後ティータイムのようにアニメ声優が楽器を生演奏することの発展性を木谷が見出し、プロジェクトは動き始めた。当時すでに「アイドルもの」が飽和気味だったオタクカルチャーシーンに対して、アイドルではない音楽コンテンツとしてブシロードが始めたのが、ロックバンドを題材にしたメディアミックスプロジェクト「BanG Dream!」である。
つまり『けいおん!』の〈日常系〉的遺伝子を継承したのが『ラブライブ!』だとすれば、「放課後ティータイム」がその片鱗をみせつけた「アニメ声優のロックバンド」の遺伝子を発展させようとしたのが「BanG Dream!」だと整理できる。
ブシロードはリズムゲームアプリ『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル』(2013〜2023)の運営経験を生かし、2017年に『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』を配信する。同アプリは2024年現在も継続的なユーザー獲得に成功し、コロナ禍を経過してなお、動員の要としてライブ興行を支えるプロジェクトになっている。
一方で「BanG Dream!」のアニメシリーズ第1作はやや不完全燃焼であったことは木谷自身も認めるところである[15]。二つ理由を挙げるとすれば、一つは「主人公の差別化が徹底しきれなかった」ことにあるだろう。アニメ版『BanG Dream!』の主人公・戸山香澄が『ラブライブ!』の主人公である高坂穂乃果のキャラクターを踏襲していることは明らかだが、これがうまく発展しきれていないように思われる。「廃校」を防ぐべく全学年の生徒を巻き込んで「スクールアイドル」活動を始めた穂乃果に対して、香澄がバンド活動を始める必然性はうまく説明しきれておらず、香澄は単にわがままなキャラクターとして受け取られ、アニメシリーズの評判はファン以外の視聴者には振るわなかったのだろう[16]。
もう一つはそもそも「楽曲面での差別化が徹底しきれなかった」ことにあるだろう。Poppin'Partyの楽曲は(ある程度ギターが前面に出ているとはいえ)「ユニゾン」や「合いの手」の多用といった、アイドルソングが定番としてきたアレンジも多くみられる。加えて現在「ラウド系アイドル」と呼ばれる系譜[17]として2012年にはすでに、メタルやハードコアパンクの要素を存分に取り入れたBABY METALやBiSがデビューしているし、ちょうど2017年にはアイドルによるスクリームがリスナーに衝撃を与えた、PassCodeの『ZENITH』がリリースされてもいる。声優が実際にライブ演奏をおこなうという点では画期的だが、アイドル自身のパフォーマンスの過激化がかなり進行していた当時において、やはり「バンドである」というだけでアイドルとの差別化を図るには、何かあと一歩決定打となるものが必要だったことは木谷自身も感じていたのだろう。
したがって「声優の生演奏」という利点を最大化するには、やはり肝心のアニメのクオリティが鍵になるわけだが、その最後のピースが『It's MyGO!!!!!』によって埋められたと整理できるだろう。実際、2024年のブシロードのライブ興行成績は、同作の影響から過去最高値を記録したと公表されている[18]。愛美が「アイドルからの脱却」としての「最初の1音」をエレキギターで奏で、プロジェクト発足から約10年の時を経て、「アイドルではない音楽コンテンツ」として一つの集大成が誕生したと言えるだろう。
加えて言えば、贔屓目を抜きにしてもアニメ『2nd season』以降の「BanG Dream!」の展開は端的に評価に値する。脚本面ではまず、先輩格にあたるバンド・Roseliaやライバル的存在となるRAISE A SUILENとの比較から、Poppin'Partyのバンド運営での葛藤に焦点を当て、バンドごとの「人格」を明確にすることで、上記3バンドのメンバーを含め数十人のキャラクターが登場する物語を破綻なく構成させてもいる。
さらにRAISE A SUILENは『現代メタルガイドブック』(日販アイ・ピー・エス、2022)にて紹介されるなど、アニメファン以外の音楽リスナーからの評価も高く、同バンドの結成エピソードがアニメで描かれたことの意義も大きい。同バンドのライブをはじめ、コロナ禍以降「BanG Dream!」が率先して(クラスターを発生させることなく)ライブ興行を再開・継続させたことも肯定的に評価されるべき事実である[19]。
ちなみに木谷はインタビューにおいて「『バンドリ!』はやっぱり『ガンダム』にしたいんですよね。40年50年と続くものにしたい」と語っている。アニメプロデューサーが自社コンテンツを『ガンダム』にたとえてしまうのは恐るべき臆面のなさだが、この「木谷イズム」とでも言うべき精神は「BanG Dream!」をはじめとしたブシロードのプロジェクトに現れている。
エンタメ企業としては後発であるがゆえに、自社プロジェクトに大胆なカウンター性とクロスオーバー性がみられる(他社IPをふんだんに利用したカードゲーム『ヴァイスシュヴァルツ』など)ブシロードにとって、(アイドルへの)カウンター性と強烈なメディア越境性を持つ「BanG Dream!」はその企業精神の一つの象徴である。そして近年のバンドアニメブームが、シーン内部にとどまらないような変革をもたらすとすれば、「BanG Dream!」がそのゲームチェンジャーとして中心的存在に躍り出ることになるだろう。
「宇宙世紀」という舞台にあらゆるモビルスーツとスピンオフが誕生したのと同様に、「大ガールズバンド時代」というプラットフォームから大量のロックバンドとスピンオフ作品のクロスオーバーが生まれる可能性を考えると、『ガンダム』にたとえた木谷のあの発言もあながち間違ってはいないのかもしれない。まずは2025年1月に控えている、MyGO!!!!!とトゲナシトゲアリ(『ガールズバンドクライ』発のリアルバンド)との対バン企画「Avoid Note」がどのような影響をもたらすか、見届けなければならない。
[14]「ブシロード 木谷高明が語る、『バンドリ!』プロジェクトの軌跡と未来 「何十年も続く作品にしたい」(2024年6月22日閲覧)
[15]同上
[16]ただし、アニメ版に先行する小説版『BanG Dream!』(アスキー・メディアワークス、2016)では、むしろ「歌うこと」に不安を覚える香澄の内面描写が物語序盤から詳細になされている。
[17]冬将軍「2010〜2020年の『ラウド系アイドル』」(『ヘドバン・スピンオフ ヘドバン的「現代のメタル(2010~2020)」100枚とクロニクル』シンコーミュージック、2020) p.98
[18]BUSHIROAD 2024年6月期通期決算説明資料(2024年8月17日閲覧)
[19]「【独占インタビュー】日本経済とエンタメ業界に黄金の20年代がやって来る!! ブシロード・木谷高明会長が2020年の総括と未来を語る」(2024年8月28日閲覧)
(了)▼プロフィール
徳田四(とくだよん)
1996年生。ライター/編集者。もう一度インターネットを「考える」場にするために。PLANETSがはじめたあたらしいウェブマガジン「遅いインターネット」の記事はこちら!
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中心をもたない、現象としてのゲームについて 第41回 第5章-7ハブとしての循環概念を評価する|井上明人
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。
「遊び-ゲーム」の分節を説明できる理論はいかにして可能なのか。「インタラクション」「学習」「循環」といった概念でそれを記述する困難を確認しつつ、改めて「遊び-ゲーム」を分節化すること自体の意義を問い直します。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
第41回 第5章-7 ハブとしての循環概念を評価する5.7 ハブとしての循環概念を評価する
5.7.1 包含関係によるハブ概念としての循環概念前回、「遊び-ゲーム」に関わる現象を観察する4つの観察モデルが、さまざまな遊び-ゲームを捉える説明(学習説や非日常説)の多くに適用可能なものであることを示してきた。
これは、いわば複数の要素間の循環のような現象がゲームを説明する鍵を握っているのではないかということを示すものだった。こうした複数の重要概念が、この4つの観察モデルを通して並列させてみることができるとは一体どういうことなのかを考えてみたい。
「遊び-ゲーム」にとって中心的な概念とは何か、という基本的な問いを考えたとき、その対象となる行為を幅広く説明可能なものとして、第三章では、ゲームを学習として考えるという発想を論じてきた。それと同様に、循環もまた遊び-ゲームに関わる概念を幅広く説明可能なものとなっている。学習説の概念が多様な概念と先後関係を持つというような形で機能し、複数の概念間をつなぐハブとして機能しうるからではないか、というのが現時点での見解だった。
前回までの議論から言えることとして、 ここで循環のモデルとして取り上げた概念系も、そうした性質をもっているということだ。多様な現象を記述できる媒介となりうる性質をもっている。これは遊び-ゲームについての「循環」系の概念を使った説明が、遊び-ゲームのほとんどの領域を記述可能な万能理論的な性質をもっているということを示しているといっていい。それゆえに、ガダマーも、ボイデンディクも西村清和も、多くの論者が循環的な性質の意義を強調してきたと考えてもいいだろう。
では、循環のモデルはハブ概念として、学習説と比較して、どのように評価できるだろうか? 循環的な側面を強調することは、学習説とは異なっている側面がある。
第一に、循環のモデルを用いて遊び-ゲームに関わる諸概念を記述することはできる。しかし、「記述できる」ということは、因果関係や相関関係、先後関係といった仕方で諸概念と関係しているといったことではない。
さまざまな概念を「記述できる」ということは、遊び-ゲームに関わる様々な概念が循環に関わる属性を共通して備えているということである。
言い換えれば、それは遊び-ゲームに関わる様々な概念が、循環に関わる概念の(1)部分集合であるか、(2)もしくは積集合(共通部分)としての性質を持っているということだと考えられる。可塑的な複層構造をもったものは様々なものがあるが遊び-ゲームはその一例となりうるし、循環参照的な推移をするものも様々なものがありうるが遊び-ゲームはその一例となりうる。
すなわち、何らかの包含関係という形で循環に関わる概念は遊び-ゲームの諸概念のハブとなっていると考えられる。
部分集合であるか積集合であるかはさておくにせよ、遊び-ゲームの諸概念を幅広く含むかたちで、循環系の概念は位置づけることができる。学習説が現象の移行するプロセスに着目していたのとは違った関係性によって循環系の概念は概念のハブとしての性質を持っていると見做すことができる。
5.7.2 循環概念は遊び-ゲームだけを含むのか
包含関係的なハブであるということは良いとして、これが何らかの包含関係によるものなのだとすれば次に起こる問題は、これがどこまで広い現象を説明するものなのかということだ。
学習説は、「学習」と省略して呼んではいるが、実際にはフロー体験のような比較的、限定された学習のケースを想定している。では、可塑的な複層構造や循環参照的な順序といったものはどうなのか。
素朴に考えれば、可塑的な複層構造のような話は、記述可能な範囲が広すぎると言っていい。構造化が徐々に進むやや複雑なプロセスをもったような現象を含むものであれば、だいたいのものはこのモデルで記述できてしまう。生命の進化プロセスでも、法の制定過程でも、組織の秩序化が行われるプロセスでも記述できる。記述できる幅が広すぎる。
20世紀後半に多くの学問分野で、オートポイエーシスやシステム論が注目され、それらの理論は、生命システムから社会システムまでかなり広範な領域を説明してきた。こうした一般性の高い話との切り分けをしなければいけない。
説明力は高く、確かに循環のような現象は遊び-ゲームの記述において有用であるが、遊び-ゲームの領域固有の特徴を限定するための説明モデルとしては適切な粒度であるとは言い難い可能性がある。
5.7.3 適切な限定を加えることはできるか?
これは、適切な限定をすることが不可能であると言っているわけではない。
概念範囲の広さをめぐる論点は、ビデオゲーム研究に限定した話をするならば、「インタラクティビティ」概念が、ビデオゲーム特有の性質を適切に記述する概念たりうるのか? という議論でも似たような議論がなされてきた。インタラクティビティの概念と「循環」の概念が同じであるかどうかはやや注意すべき点もあるが[1]、可塑的な複層構造や、固定的な複層構造、あるいはその中間のような複層構造は、一般に「インタラクティビティ」という語彙によって想定される範囲とほとんど重なるものだろう。
「インタラクティビティ」はビデオゲームに特有の性質を持つ語彙として、しばしば注目されてきたが、「インタラクティビティ」のあるものはビデオゲーム以外にも、ゲーム以外のPCのソフトウェアや、若干の複雑な挙動をする機械の多くに当てはまる性質である。そのため「インタラクティビティ」をビデオゲーム固有の性質として見做すことはしばしば批判を受け[2]、そして、適切な範囲の限定を加えるための議論も蓄積してきた。
興味深いことに、インタラクティビティの範囲を限定する際に行われる概念化は、しばしば学習説やコミュニケーション説の要素を部分的に採用しているように解釈できるものが多い。
たとえば、オーセット(1997)は「エルゴード的(ergodic)」という概念を導入し、読者が読み通すために「小さくない努力(nontrivial effort)」を要するものだという限定を加える[3]。また、スマッツ(2009)Smuts, A. 2009. What Is Interactivity?. The Journal of Aesthetic Education, 43(4), 53–73.は、反応を返すもののうち、完全にコントロールするものではなく、完全にコントロールされるものでもなく、完全にランダムな仕方では反応しないもの[4]という限定を加える。プロのテニスプレイヤーがまともに勝負にならない程度に下手な相手とプレイするようなときは、あまりインタラクティブな状況とは言えず、何かを習得することが難しいようなときには、その何かが最もインタラクティブであるのだという[5]。こうした概念化は、遊び手による主体的な状況の関わりについての概念化であり、とりわけスマッツによる概念化はインタラクションの議論と学習説の議論を融合させた議論のように読める。
また、クロフォードによるインタラクティビティの概念化は、会話をモデルとしたものになっている。クロフォードによれば、インタラクションとは「二人の行為者が交互に聞き、考え、話す循環的プロセス」だと言う[6]。
ここまで、遊び-ゲームのハブ概念として、学習説、コミュニケーション、インタラクティビティといった概念が強力に機能しうることを述べてきたが、いずれも、インタラクティビティの概念化のために、深く関係を持ちうる学習説やコミュニケーションような概念ハブの特質を借りてくることで、概念の範囲を絞ろうとしているように思われる。
こうした概念の限定の仕方は、遊び-ゲームに関わる範囲を限定する上で、学習やコミュニケーションが強力なハブ概念として機能しうる限りにおいて、説得的な限定にはなりうるだろう。
ただし、ここで与えたい限定は、学習説やコミュニケーションのようなハブ概念に頼らないかたちでの概念の限定がありうるのか? ということである 。学習説やコミュニケーションなどを再記述するものとしての「循環」の適切な概念化のために、学習説やコミュニケーションの概念を借りてしまってはトートロジカルな説明になってしまわざるを得ないため、それらに頼ることはできない。
学習説ほとんどそのものではなくても、学習説の一部を構成する――たとえば「自発性」――のような心的態度を条件の限定に持ち込んで、「自発的に循環の中で揺蕩うこと」あるいは「循環の中で揺蕩うことを拒否しないこと」といった形で限定すれば、それなりに限定できるかもしれない。ただし、循環の観察モデルのなかに心的態度を持ち込むことを正当化できる根拠を筆者はここで持ち出すことはできない。
循環や「インタラクティビティ」といった概念を扱うことの難しさの一つは、「会話」や「学習」といったものに比べると、こうした概念が指し示す範囲についての日常的な意味の範囲というものが日本語ではあまり明確に存在しているとは言い切れないという点がある。「インタラクティビティ」などは英語圏ではかなり日常的な語彙になっているようだがそれでも1960年以後のことであり、非西洋圏では、いまだ日常的な語彙とは言えず、言語圏によっては、かなり専門的な語彙にさえ響く[7]。いわば「日常概念」であるのかどうかのボーダーライン上にあるものだと言える。
それゆえ、この概念が適切な範囲をもった日常概念たりうるかどうかは、現在の原稿執筆時の2024年時点では、議論すること自体がおそらく難しい。この概念がハブ概念として適切な範囲を持ちうるかどうかは、100年後の議論に委ねても良いかもしれない。
2024年の現時点では、「適切な概念範囲の限定を与えることが難しい概念なのではないか」ということを確認するに留めたい[8]。
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勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(後編)
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。
今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。女性性の強いキャラクターデザインの主人公・勇太のビジュアルを引き合いに、戦後ロボットアニメが提示してきた「父性」「母性」のあり方を本作がどのように更新したのか考察しました。池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」母なる勇太、父たるレジーナ
ファイヤージェイデッカー誕生は、次のような展開を通じて行われる。かつてデッカードを倒したチーフテンは、紆余曲折を経て再びブレイブポリスの前に立ちはだかる。もともとは相棒を失ったことを悲しむ心を持っていたチーフテンは、しかし創造主たるビクティムが「強い者が全てを手にする」という「悪の心」を徹底させたことで、片方が片方を殺害し、そのパーツを吸収するかたちで一種の「グレート合体」を果たす。これに対抗するためにデッカードとデュークもまた合体しようとする。しかしここで、合体してしまうとどちらか一方の人格が消えてしまうという問題が発生する。そこにはさまざまな設定的理由があるのだが、物語世界においてドラマを成立させるためのエクスキューズにすぎないため、いったん置いておこう。重要なのは、象徴的なレベルにおいて、この対立がいかなるものであるのかだ。結論から言えば、ファイヤージェイデッカーは「母」であった勇太が「父」となり、そして「父」であったレジーナが「母」となることによって完成する。どういうことか、順番に見ていこう。まず、デッカードが「人間の心」を得るきっかけとなったのは勇太その人であった。そして勇太はデッカードに、そしてブレイブポリスのロボットたちに、無条件といえるような承認を与えていく。勇太は常に、心を持ったブレイブポリスたちを丸ごと受け入れる。その一方で、そのあまりの愛情の深さゆえに、しばしば警察組織たるブレイブポリスのボスとして正しくない判断をすることもある。レジーナが勇太のことを「悪い手本」と指摘するのは、勇太にロボットたちを正しい方向に導き、上司として職務を遂行させようという父性が欠如しているからだ。実際、これまで主人公を務めてきた少年たちに比して、勇太には際立って女性的なキャラクターデザインが与えられている。眉の太さなどいくぶんか男性的な記号も入っているものの、基本的にはふたりの姉にそっくりな顔立ちで、美少女の文法としてデザインされていると見てよいだろう。また女子中学校への潜入捜査のために女装するエピソードがあるのだが、これは劇中で似合っているともてはやされ、実際に違和感なく潜入を成功させる。こうしたデザインが物語に先立っていたのか、それとも物語に対して適切なデザインがこうであったのかを論じることは難しい。しかしいずれにせよ結果として、勇太は勇者シリーズにおいて、かつてない母性的な側面を持った主人公だといってもよいだろう。一方でより「成熟した」デザインを与えられたレジーナが、警察組織におけるロボットの理想像を徹底しようとしてきたことはすでに論じてきた。デュークが「人間の心」を持つことを認めず、あくまで「善の心」だけを持つよう厳しく求めてきたレジーナは、強い父性を持ったキャラクターとして配置されているといえる。ファイヤージェイデッカーへの合体は、勇太とレジーナが、その欠落した部分――勇太にとっては父性、レジーナにとっては母性を獲得することによって、はじめて成立する。先にレジーナの側から見ていこう。超AIから悪の心を取り去り善の心のみを持たせたいというレジーナの動機は、その過去に由来していることが明かされる。ロボット研究者であったレジーナの母親は、違法ロボット兵器にかかわったことで犯罪者となってしまった。そして警察官であった父親は、情に流され母親を逃がしてしまったことで職を追われていた。レジーナはそんな自分の両親に対する悲しみと憎しみ――すなわち「悪の心」を封じ込め、かつて遂行されなかった「父性」を貫徹しようとしてきたのだった。レジーナを想うデュークは、次のように問いかける。「人間には、自分を作った者に対する愛情はないのか?」。この言葉をきっかけに、レジーナは自分自身もまた思っていたほど成熟した存在でなかったこと、自らも「善の心」と「悪の心」、愛と憎しみが複雑に絡み合った「人間の心」を持つことを受け入れる。これによって、デュークが「人間の心」を持つこともまた肯定される。すなわち自分の過去に向き合うことで、デュークを丸ごと受け入れる愛情を認めていくことになっていくのだ。一方、勇太はデッカードあるいはデュークが消えてしまうことから、当初は合体を躊躇する。しかしレジーナの指摘を真摯に受け止めることで勇太は成長し、ときにリスクをおかしてでも犯罪を止めなくてはならないと覚悟する。ゆえに、勇太は人格消滅のリスクを飲み込んだ上で、ファイヤージェイデッカーへの合体を命じる。そしてレジーナはデュークを失いたくない愛情ゆえに、一度これを止める。ここに至って、母性からスタートした勇太と父性からスタートしたレジーナは、それぞれ父性と母性を得てその立場を逆転させているのだ。合体に際して、デッカードとデュークは次のように誓いを立てる。デッカードが消えた場合は、デュークが勇太を守る。デュークが消えた場合は、デッカードがレジーナを守る。憎しみの裏側にあるこうした思いやり――デュークの言葉を借りれば「愛情」――を持ったことによって、人格消滅のリスクを彼らは奇跡的に乗り越えるのである。「母性」をまとうジェイデッカー
ファイヤージェイデッカーをめぐる想像力が、勇者シリーズにもたらした画期はふたつある。ひとつは親子の関係が逆転していること。もうひとつはそこに「母性」の論理が持ち込まれたことだ。勇者シリーズの前身となるトランスフォーマーVは、スターセイバーという「父」とジャン少年という「子」の物語からはじまっていたのだった。これまで理想の成熟を体現していたロボットは、象徴的な意味では「父」として存在してきた。勇者シリーズはそうした理想像であるロボットに対して命令する権利を与えることで、子供たちの地位をロボットと対等なものに格上げし、命じる者/行う者として相補的に機能させることで、「父子」から「兄弟」へとその関係を対等なものとして描き直してきた。ジェイデッカーにおける勇太少年とデッカードの関係も、当初はこうした構造を確認している。一方で、デュークのレジーナに対する想いは、レジーナの両親に対する想いと「自らを生み出した者」という条件によって重ね合わされている。これまで「大人」として描かれてきたロボットは、ここではむしろ「子供」の立ち位置を与えられている。ジェイデッカーにおいて、人間とロボットは単なる対等な友人なのではない。それは創造主と被造物の関係であり、この物語における「愛情」とは、創造主から被造物へと与えられる無条件にして無限のものなのだ。ファイヤージェイデッカーは、パトカー・トレーラーと、救急車・消防車のグレート合体であった。犯罪を取り締まる警察は父性を、命を救わんとする救急・消防は母性を象徴しているということができる。グレート合体が対立するふたつの要素を統合することによって成立するのなら、ファイヤージェイデッカーの誕生は、男性的・父性的成熟を目指してきたサイボーグの美学が、その半身に女性的・母性的成熟を取り入れた瞬間なのだ。▲「大警察合体ファイヤージェイデッカー」。その象徴的存在感に見合う威容。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p37
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