• このエントリーをはてなブックマークに追加

  • 第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(前編)|福嶋亮大

    2023-09-19 07:00
    550pt
    1794ba6448d9f3b5584ebacfacaf6e2e556c182d
    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。
    今回は19世紀ヨーロッパにおける社会思想について分析します。アメリカ独立戦争やフランス革命の反省から、個人の人権尊重への意識が高まった前半期から、自然科学が優勢となった後半期にかけてどのような思想の変遷があったのでしょうか 。

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ

    1、消費社会と管理社会の序曲

     一九世紀ヨーロッパの社会思想史は、大きく前半と後半で分けることができるだろう。アメリカ独立やフランス革命を経た一九世紀前半には、誰もが自由や幸福を追求する権利をもつという理念が、多くの思想家たちに抱かれていた。彼らは、恐怖政治に陥ったフランス革命の限界を見据えつつ、貧困をはじめとする産業社会の問題に立ち向かう新しい社会体制を構想した。
     特に、一八二〇年代から四〇年代のフランスでは、サン゠シモンおよびその後継者たち(生産の優位を掲げ、人間による地球の開発を正当化し、社会を束ねる世俗宗教を支持した)からルイ・ブラン、ブランキ、さらにはプルードン(中間集団を一掃して個人を国家に依存させるサン゠シモンとは異なり、自立した個人がその労働を通じて自由と尊厳を得るアソシエーションを構想した)に到る社会主義者が、さまざまな国家像や労働観を示した。彼らはイギリスの産業革命のインパクトを強く受けつつ、しかしイギリスを「反面教師」として、労働者を中心とする社会革命のシナリオを描いた[1]。
     しかし、このような変革の機運は、一九世紀後半のヨーロッパでは萎んでしまう。革命運動が下火になる一方、自然科学や医学の重要な発見に伴って、形而上学よりも実証主義が優勢となり、経済的には繁栄期を迎えた。むろん、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争といった争いはあったが、それらはいずれも短期間に終わり、その戦域も限られていた。このおおむね安定した社会では、変革のエネルギーはビジネスや科学に向けられた。芸術家もそれと無関係ではいられない。例えば、一九世紀後半のドイツの教養市民層に根ざしたブラームスは、社会問題には無関心を貫く一方、ナショナリズムには熱烈に反応した。彼の音楽も、人類全体に呼びかけるベートーヴェン的な交響曲よりも、小規模で親密な室内楽に傾いた[2]。
     現代の政治学者ジョン・ミアシャイマーは、ナポレオン戦争後の一九世紀の大半が「多極的な安定構造」の時代であり「ヨーロッパ史の中で最も紛争の少ない時代になった」と評している[3]。フランス革命やナポレオン戦争のような血なまぐさい沸騰を目の当たりにすれば、その後にすさまじい変革の時代がやってくると考えるのが自然である。しかし、一九世紀ヨーロッパはかえって、大国どうしがバランスをとる相対的な安定期に入った。このような政治的不発の感覚が、当時のヨーロッパ的精神風土の根底にある。
     騒乱と変革の時代から、安定と均衡の時代へ――その折り返し点を示す象徴的な出来事が、フランスの二月革命のたどった奇妙な顛末である。一八四八年二月、経済政策に不満を抱いたブルジョワたちが、フランス国王ルイ゠フィリップの体制(七月王政)を倒して新政権を樹立した。このほとんど誰にも予見できない不意打ちとして起こった革命は、ただちにヨーロッパ各地に飛び火する。フランス革命以前のヨーロッパへの回帰を企てた「ウィーン体制」の旗振り役であった保守派のメッテルニヒも、オーストリアからロンドンへの亡命を余儀なくされた。フランスの革命はヨーロッパの「諸革命」(いわゆる諸国民の春)へと発展したのである。
     しかし、この不意に始まった諸革命は、あっという間に沈静化してしまった。革命運動が行き詰まるなか、ナポレオンの甥ルイ゠ナポレオン・ボナパルトが、一八五一年にクーデタを起こし、市民の絶大な支持を集め、翌年にはナポレオン三世として帝政を樹立した。彼がよく弁えていたのは、たとえ独裁者であってももはや民衆の「世論」を無視できず、禁止や抑圧という強権的なやり方では政権を保てないという、政治の新しいルールである。彼の体制はあくまで普通選挙の結果であり、民意の支持なしには成り立たなかった。
     こうして、いったん勝利したはずの市民革命が、皮肉なことにかえって反動的な帝政を呼び込んでしまう――しかも、このドタバタ劇の後、社会は表面的には安定と繁栄に向かった。オリジナルのナポレオンが軍事的な拡大をめざしたのに対して、そのシミュラークルとしてのナポレオン三世はむしろ商業的・平和的な社会を望んだ。彼の政権下で開催された一八五五年および六七年のパリ万博では、産業社会そのものが神聖化され、不衛生であったパリの街もジョルジュ・オスマンの指揮のもとで「改造」された。さらに、「貧困の根絶」を目標とするナポレオン三世は、金融と産業の発達によって貧困を除去しようとするサン゠シモン主義の継承者であり、労働者用の共同住宅やリハビリ施設を建設しつつ、新しいベンチャー・キャピタルの創設にも手を貸した[4]。
     この「第二帝政期」のフランスを覆ったのは、ナショナリズムとポピュリズムを背景としながら、産業そのものを宗教として、労働者の福祉や社会保障にも配慮するマイルドな権威主義であった。この新たな統治システムは、上からの一方的な禁止ではなく、ミシェル・フーコーの言う「管理」の技術を駆使しながら、世論を味方につけようとする[5]。そう考えると、一九世紀後半のフランスが、今日のポストモダンな消費社会・管理社会の序曲になっていることが分かるだろう。この時代を批評することは、ポストモダンの前駆的環境でいかなる芸術や社会思想があり得たのかという問いを惹起せずにはいない[6]。 
  • 勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」(後編)

    2023-09-12 07:00
    550pt
    244e68c137950d5d58b1aed8be7a4ccbc8fff2ef
    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』
    シリーズ前作にあたる『勇者エクスカイザー』に対し、物語の舞台が国内から地球全体へと広がっていった『太陽の勇者ファイバード』。世紀末的グローバリズム精神を見出せる本作において、「火の鳥」のモチーフは何を表していたのでしょうか。
    前編はこちら

    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
    勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」

    ■「武装」するロボットと脱税

    さて、それではモチーフについても論じていこう。今作において、ファイバードたち宇宙警備隊が身を寄せるのは「天野平和科学研究所」である。これは天野博士(ひろし、という人名であるが、おそらく学術博士でもあるだろう)によって設立された民間の研究所である。宇宙のマイナスエネルギーを観測した天野博士が、その災いから人類を守ることを目的として設立されたものだ。ファイアージェットも元はレスキュー用の航空機として開発されたものと設定されており、戦う際は武装を搭載した別の支援戦闘機フレイムブレスターと合体する。これは玩具にも反映されており、頭部と胸部のデザインが大きく変わることでパワーアップした印象を与えるギミックとなっている。航空機という「鳥」が「炎」をまとうことで、戦う存在へと変わるわけだ。ファイバードとチームを組むサンダーバロンは特殊作業ビークル群の合体ロボットであるし、同様にガーディオンはパトカー・救急車・消防車という緊急救助車両の合体ロボットである。ファイバードは一応「武装」前にもいくつかの武器を搭載しているものの、そのすべてを折りたたんだり格納することを徹底している。こうしたギミックは、「本来は非戦闘用のマシン」が、危機に際して「やむを得ず武装する」という構図を強調する表現であると見ることもできるだろう。

    こうした手続きの意味は、敵対勢力と突き合わせるとよりその色彩を明確にする。敵は宇宙皇帝を名乗り地球を支配しようとするマイナスエネルギー生命体ドライアスと、Dr.ジャンゴという悪の科学者のタッグである。つまり一種の帝国主義と、それを支援する科学技術の組み合わせ――政治と科学の短絡が争いを呼ぶ悪しき存在として設定されているわけだ。一方で、天野平和科学研究所は民間の研究施設であり、ファイバードたち宇宙警備隊もあくまで侵略という「犯罪」に抵抗するために戦う警察組織ということになっている。

    そしてこの政治からの分離という価値観は徹底されている。天野平和科学研究所の財源は先祖の山々を売却した資産であるのだが、驚くべきことに天野博士は巨額の脱税を行うことでその資産を研究に費やしたことが語られる。もちろんDr.ジャンゴのように破壊と侵略に加担するのは悪だろうが、脱税も犯罪である。しかしファイバードの美学においては、税金を収めることはある政府に肩入れすることであり、それは科学の純粋性を損ね、政治との短絡というドライアス側の価値観に接近することなのである。

    また『勇者エクスカイザー』が主に日本を舞台にしていたのに対して、『太陽の勇者ファイバード』では世界を舞台にした国際色豊かなエピソードが見られることも重要だ。ドライアスは、ときに地震兵器や気象兵器を使って、「地球」を単位に侵略を行う。Dr.ジャンゴは自分がノーベル賞を得られないことに憤慨するし、ケンタ少年が想いを寄せるクラスメイトはニューヨークに引っ越す。さらにはアメリカがドライアスに支配され、それを宇宙警備隊が開放、大統領に感謝されるエピソードさえ描かれる。

    こうした設定は「お宝を奪う」という目的を持った「海賊」と戦う『勇者エクスカイザー』を継承しつつも、かなり踏み込んだものである。20世紀に対する反省からグローバリズムの文脈で平和を求める方向性が、世紀末の同時代的なトレンドであったことはすでに何度か述べた。グローバリズムにおける警察的な役割とは、戦後の世界秩序においてアメリカが果たそうとしたものであり、それはむしろ政治的な力を持った科学――強大な軍事力によって実現され、そしてそれゆえにさまざまな軋轢を生んだ。そして日本もまた、戦争の放棄という日本国憲法の理念と、日米安保という現実の間で揺れ動くことになった。その立場に対して脱税を描いてまで「政治的でないこと」を貫く美学、そして科学や技術に対する礼賛は、日本の戦後民主主義的な色合いを強く感じさせるものだ。天野平和科学研究所の掲げる「平和」とは、政治からの分離を意味する。そしてその美学が、玩具のデザインとも手を取り合っているのである。

     
  • 勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」(前編)

    2023-09-05 07:00
    550pt
    244e68c137950d5d58b1aed8be7a4ccbc8fff2ef
    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』
    今回取り上げるのは、「勇者シリーズ」2作目にあたる『太陽の勇者ファイバード』です。本作で掲げられる「脱政治的な平和」は、戦後民主主義的なメンタリティからはどのように読み解かれるのでしょうか。

    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
    勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」

    前回はエクスカイザーが確立した勇者シリーズの基礎構造について次のように整理した。前身となる『トランスフォーマーV』においてジャン少年とスターセイバーが「子」と「父」の関係であったのに対して、コウタ少年とエクスカイザーは相補的な関係にある。本稿では、「魂を持った乗り物」という想像力の特徴を、その主体の曖昧さ、中間性・相互性に見出してきた。勇者シリーズは、完全に人間から分離した「魂を持った乗り物」が、人間と相互作用しながら互いに成熟していく構造を持った。これは子供がおもちゃを率いて遊び、一方でおもちゃに理想像を見出すことで成熟していく遊びの構造と対応することで、子供が子供のまま成熟のイメージへと接近することを可能にしている。ゆえに勇者シリーズは、単に物語としてだけではなく、玩具として高い強度を持つ想像力を提示したのである。

    それでは「谷田部勇者」の残りの作品についても、この構造を基準に見ていこう。

    ■「兄」を導入した『太陽の勇者ファイバード』

    『勇者エクスカイザー』に続いたのは、『太陽の勇者ファイバード』(1991年)だ。本作は世界観を『勇者エクスカイザー』と同じくし、その9年後を描いた作品とされている。これは後の勇者シリーズが基本的に世界観の繋がりを持たないことを考えると例外的である。とはいえ、いくつかの設定にその名残はあるものの、これは映像作品中ではっきりと名言されない。玩具それ自体にも特に連動する要素がないこともあるし、そもそもこうした年表的世界観設定が玩具の想像力に与える影響は限定的である。そのためこの設定は本稿ではさほど重要なものと見なさないことにする。

    では本作の玩具とそれにまつわる想像力について、順を追って見ていこう。まずエネルギー生命体である宇宙警備隊が地球のマシンに宿った結果が主役ロボット・ファイバードであり、これは『勇者エクスカイザー』と同様の構造である。しかし最大の特徴は、ファイバードが宿ったのが、人型――成人男性型のアンドロイドであったことだ。「火鳥勇太郎」と人間の名前を与えられたファイバードは、主人公となるケンタ少年と生活を共にすることになる。ケンタ少年は火鳥勇太郎を「火鳥兄ちゃん」と呼び慕う一方、高い知性でさまざまなことを驚異的な速度で吸収しながらも地球の常識を持たない彼を指導していくことにもなる。そして危機が訪れれば、「火鳥兄ちゃん」はファイヤージェットと呼ばれる航空機と合体し、巨大ロボットの肉体を得て、敵と戦うことが可能になるのである。
    746974ebbb07df41f57fd15f138d4533b1d0cc5b

    ▲『太陽の勇者ファイバード』のポスター。火鳥勇太郎が加わっている。 勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p33

    注目すべきなのは、やはり「勇者」に成人男性の姿が与えられたことだろう。『勇者エクスカイザー』において、「勇者」はあくまで家のスポーツカーか巨大ロボットであったため、日常において少年とロボットの活動範囲は限定された領域でしか重ならない。しかし「勇者」が人間の姿であれば、少年とロボットの生活範囲はほぼ完全に一致する。これはドラマの選択肢を飛躍的に拡げる、作劇上たいへん優れたアイディアであった。想像力のレベルでは、『勇者エクスカイザー』で示された少年とロボットの関係性を、「(擬似的な)兄弟」というかたちでより直接的に提示する効果があっただろう。実際に賢く勇ましいながら、どこか常識外れなところを持ち合わせる火鳥勇太郎は、魅力的なキャラクターとして人気を博した。

    ここで火鳥勇太郎が「父」ではなく「兄」と設定されたことは重要である。「親子」の垂直的な構造から「兄弟」という水平的な構造へのシフトについては、『爆走兄弟レッツ&ゴー!』への分析を通じてすでに触れた。スターセイバーが明確に「父」であったことを考えれば、たとえば父を失ったケンタ少年に火鳥勇太郎という擬似的な父を与えることもできただろう。しかし勇者シリーズはそうすることを選ばず、火鳥勇太郎を「兄」と設定し、地球の常識を持たないゆえにケンタ少年の助けを必要とする相補的な存在と置いた。ここから逆算して、コウタ少年と相補的な関係を気づいてきたエクスカイザーもまた「父」というよりは「兄」であったと考えることができる。本稿が「魂を持った乗り物」という概念で説明しようとしているもの――ヒトとモノが相補的に成熟していくビジョンは、勇者シリーズの構造的特徴であり、世紀末、あるいは平成の同時代的な感性でもあるのだ。