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  • あなたの持ちものを欲しがる人に売ることをビジネスとは言わない(中編)|橘宏樹

    2022-07-04 07:00
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    現役官僚である橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。
    マーク・ザッカーバーグが象徴するように、アメリカ社会・グローバル市場において大きな影響力を持つユダヤ系の人々。彼らの力の源泉は何なのか、橘さんならではの分析をおこない、日本の経済状況との比較からみえてくることについて解説します。

    橘宏樹 現役官僚のニューヨーク駐在日記
    第5回 あなたの持ちものを欲しがる人に売ることをビジネスとは言わない(中編)

    在米ユダヤ人はいかにしてのし上がったか ~成功率を高めた4つの執着~

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    ▲正統派ユダヤ人が多く住むブルックリンのウィリアムズバーグ地区にて。散歩する家族。

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    ▲正統派ユダヤ人が多く住むブルックリンのウィリアムズバーグ地区にて。散歩するカップル。

     さて、前編では、ユダヤ人コミュニティの力強さの現状、具体的にはエリート層に占める「率」の高さについて述べました。「率」が高い、ということは、コミュニティ内にある種の勝ちパターンが共有されていて、その成功の果実が数世代にわたって積み上がっている可能性を示唆します。中編では、在米(特にニューヨークの)ユダヤ人がいかにして成功を積み上げてきたか、歴史を振り返るとともに、その勝ちパターンの中身について洞察を試みます。僕は、彼らの非常に特殊な歴史的・文化的事情に起因する「4つの執着」がうまく連動して相乗効果を発揮してきたことが、在米ユダヤ人の社会的地位を大きく押し上げたのだと考えています。

     現在の在米ユダヤ人の圧倒的大多数のルーツは、1880 年代から 1920 年代までの30年間に、ロシアで起きた「ポグロム(破壊)」と呼ばれる大規模なユダヤ人迫害と極貧生活から逃れてきたロシア系ユダヤ人です。この時期に250万人以上のユダヤ人が米国入りしたと言われています(2020年のユダヤ人人口は全米で約750万人)。ちなみに、残りの少数派はドイツ系ユダヤ人移民なのですが、彼らはもっと前から米国入りして全国に散らばっており、白人社会にほぼ溶け込んでしまっていました。もちろんナチスの迫害から逃れてきたポーランド系・オーストリア系・ドイツ系ユダヤ人もいますが、さらに後発の少数派です。

     ロシア系ユダヤ人移民の多くは、衣服をつくる職人でした。人間なら誰もが使う普遍商品を生産できる「手に職」を持った人々です。20 世紀初頭のニューヨーク市の衣服産業は、米国全土の既製服のシェアの約半分、婦人服では75% を占めており、さらに衣服労働者の約8割までもがユダヤ人だったと言われています。体力勝負の肉体労働では黒人やインド人などにはかないませんし、肉体労働よりは労働付加価値の高い産業で遮二無二働いたのが彼らの出発点でした。

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    ▲正統派ユダヤ人が多く住んでいる「ウィリアムズバーグ」と、最近開発が進むイケてる地域「ダンボ」は隣り合わせ。雰囲気のギャップが激しい。

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    ▲賑わうダンボ地区。マンハッタン橋を覗くこのスポットはInstagramでも大人気。

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    ▲ダンボ地区の芝生。ブルックリン橋越しにマンハッタンの摩天楼を眺めてくつろぐ休日のニューヨーカー。

    ①土地への執着

     そんな彼らが極貧からのし上ることができた理由には、まず「土地への執着」があると思います。ロシア系ユダヤ移民第一世代は、過酷な環境の下、低賃金で長時間働く一方で、狭い家に多くの下宿人をおいて家賃収入をコツコツ貯めていきました。アメリカでは、急に帝国に襲われて、土地を追い出され着の身着のまま追い出されることはありません。安住の新大陸で初めて土地の所有に目覚めたわけです。そして、じわじわと不動産業界に進出していきます。
     在米ユダヤ人は不動産業で大当たりしました。勝因は、白人富裕層による支配があまり行き届いておらず参入障壁が低かったこと、特殊な生活文化を共有するユダヤ人同士の紹介ネットワーク内で借り手・貸し手を探しがちだったので、ユダヤ人以外に富が搾取されることが少なかったこと、宗教上の理由で人口をどんどん増やしていたので、閉じた社会内でも需要が拡大し、ユダヤ経済圏が発展していったこと(第二次大戦後は、ホロコーストで失われたユダヤ人口を取り戻すべく、さらに拍車をかけて「産めよ増やせよ」にいそしんでいます)、衣服産業も不動産業も、戦後のアメリカの超好景気に上手く乗れたこと、などなどの事情から、資本蓄積が順調に進みました。そして、マンハッタンにも多くの物件を所有するようになると、入居してくる他民族の若者、野心的な若い芸術家や音楽家などとの交流も増え、時代の先を読んで出資するセンスもまた磨かれていくことになります。

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  • [特別無料公開]窓ぎわにトットちゃんはもういない(『水曜日は働かない』第2部第1話)|宇野常寛

    2022-07-01 07:00
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    本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の新著『水曜日は働かない』(ホーム社)から一部を特別無料公開してお届けします。
    本書の第2部「2020年代の想像力」第1話で綴られた「窓際にトットちゃんはもういない」。黒柳徹子のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』を読んだ宇野常寛が、「規格外の個性」を排除しがちな今日の情報環境と、その居場所について思いを馳せます。

    窓ぎわにトットちゃんはもういない(『水曜日は働かない』第2部第1話)|宇野常寛

     黒柳徹子がその少女時代を綴った『窓ぎわのトットちゃん』は、1981年に発売と同時に大きな反響を呼び、戦後最大のベストセラーのひとつに数えられている。その発行部数は累計800万部、世界35ヶ国以上で翻訳出版され、日本発の児童書の代表的な存在になっている。
     僕がこの本を知ったのは小学生の頃で、このうちの「畠の先生」というエピソードが切り出されて国語の教科書に載っていたことがきっかけだった。物語は、小学生のヒロイン(トットちゃん=黒柳徹子)が、小学校の授業の一環で近所の農夫から畑のメンテナンスを教わる、というもので、そこで披露されているエピソード自体にとくに心惹かれるものはなかった。もっと言えばちょっとひねくれた子供だった僕は、この本が教師に好かれるタイプの優等生がよく読書感想文の題材に選ぶ本であることを知っていて、なんだかしゃらくさいなと感じていたこともあった。だから僕はそれから30年と少しの間、この本を通して読まなかった。

     そんな僕がトットちゃんと再会したのは、もう2年半ほど参加し続けている勉強会に、リモート参加していたときのことだった。会を主宰する人物がこのコロナ禍における自宅待機とリモートワークの生活は、都会における疎開生活のようなものだと述べた。そのとき僕は、疎開というものについて一度ちゃんと考えてみたいなと思った。それは日常と非日常の中間にある、とても奇妙な時間のように思えた。普段の日常の生活とは確実に異なっている。しかし、旅のような一過性のものではない。それはいわば、終わりの見えない仮住まいのようなもので、その点においてこのパンデミック下の日常と似通っていた。そして、僕が疎開という言葉を聞いたとき、まっさきに思い浮かんだのがなぜかこの『窓ぎわのトットちゃん』だったのだ。担任の、僕のことが露骨に好きではなかった女性教師が、トットちゃんはこのあと戦争が激しくなって疎開するのだと述べていたのを、僕はずっと覚えていてそのことがふと頭に浮かんだのだ。
     そして僕はその夜にこの本を、スマートフォンでKindle版を購入して、一気に読んだ。

     未読の読者のために、かんたんにあらすじを紹介しよう。舞台は戦時中の東京、物語は高名なバイオリン奏者の長女として、裕福で文化的な家庭に生まれたトットちゃん(黒柳徹子)が尋常小学校を追われるところからはじまる。この尋常小学校でトットちゃんは問題児童として扱われていた。授業中に学校のそばを通りかかったチンドン屋を窓から身を乗り出して呼び込む。教室の机の、天板が蓋になっているつくりに感動して授業中何度も何度も開け閉めする。図画の授業で、画用紙からはみ出す部分を天板に直接クレヨンで描く。黒柳本人によれば、本書の出版後にこうしたトットちゃんの言動は学習障害の一種であるのではないかという指摘が相次いだという。今日においてはこの種の児童の言動を個性の一つととらえ、その個性に見合った指導方法が開発され、実践されている学校も少なくないはずだが当時の尋常小学校は対応不能と見做してトットちゃんを退学にしたのだ。もちろん、トットちゃんはその状況を理解できない。ただ、母親に新しい学校に移るのだと言われて、連れて行かれることになる。そして出会ったトットちゃんの新しい学校が、この物語の舞台となるトモエ学園だ。これは、今日で言うところのフリースクール的な側面を持つ私立の小学校だ。作中に「校長先生」として登場する小林宗作が、いまの自由ヶ丘学園の附属幼稚園と初等部を引き継ぐかたちで創設した学校で、彼がヨーロッパから日本に紹介したリトミックを基盤においた教育を実践することをコンセプトに掲げていた。しかし、トットちゃんにとって大事だったのは研究者としての小林の理論の実践として行われた音楽と体操へのアプローチではなく、むしろその児童ひとりひとりの個性を尊重し、多様性を愛する「校長先生」としての姿勢と、その結果生まれた今日の基準で考えても寛容で自由な校風にこそあった。
     この物語はトットちゃんのその自由で、ユニークな言動が読者を驚かせる物語であるかのようにはじまる。しかし、それはこの物語の半面にすぎない。この物語の残り半分は、そんなトットちゃんが小林のつくり上げたトモエ学園という楽園の魅力に次々と出会い、そしてそのことで少しずつ自分の世界を広げていく物語として綴られている。
     そう、いま通して読んで痛感するのは『窓ぎわのトットちゃん』とは、尋常小学校に居場所を見つけられず小学校低学年にしてその自由さ(近代社会においては「障害」と見做される)ゆえに世間の「窓ぎわ」に追いやられたトットちゃんが、トモエ学園にはじめて家庭以外の居場所を見つけていく物語であり、そして大人になった黒柳があの頃に「校長先生」が何を考えていたかを想像しながら振り返ることで小林宗作という教育者の横顔を描いた物語であるということだ。

     トットちゃんの通ったトモエ学園は、大正自由教育と呼ばれた欧米の自由性を重視するオルタナティブな教育運動の潮流を引き継いだ学校だ。実際に、21世紀の今日に改めて読むと、トモエ学園の先進性と、そのユニークなアプローチには驚かされる。
     まず校舎は払い下げられた鉄道の車両を運んできて、並べて使用している。この車両は教室、この車両は図書室とそれぞれ用途が決まっていて、児童はそこで授業を受ける。新しい校舎、つまり車両がやって来るときは、児童の有志が講堂に泊まり込んで、そしてトラクターが車両を運び込むダイナミックな光景を目撃することになる。
     授業もユニークで、担任の教師は朝に児童が教室に集まると、その日1日にやることを黒板に書き出す。そして、児童たちはそのうちの好きなものから、勝手に手を付けてよいと言われる。その結果、ある児童は本を読み、ある児童は絵を描き始める。基本的に自習が中心で、教師はその自習に手を貸していく形式が取られていく。
     昼食シーンも印象的だ。小林校長は、児童の家庭に対して「海のものと、山のものを持たせてください」とだけ通達する。そして講堂に全校の児童を集めた昼食時には、小林校長とその夫人がそれぞれの弁当を覗き込んで回り、「海のもの」と「山のもの」のどちらかが欠けていれば、それをその場で追加していく(小林夫人が作ったおかずが振る舞われる)のだ。
     そしてフリースクール的な側面の強いトモエ学園は、全校生徒が五十人前後と少ないにもかかわらず実に多様な個性を持った児童を受け入れている。小林校長の三女のミヨちゃん、おしゃれなサッコちゃん、わんぱくな大栄くん、東郷平八郎を大叔父にもつ「お嬢様」の税所さん、など個性的な児童が次々と物語に登場する。ちなみにトットちゃんの初恋の相手となる「泰ちゃん」とは後に世界的な物理学者として知られるようになる山内泰二のことだ。
     そして「どんな体も美しいのだ」と考える小林宗作は当時何人もハンディキャップを背負った児童を受け入れている。トットちゃんの学年にも小児麻痺を患う泰明ちゃんや身長が伸びない体質の高橋君といったハンディキャップを背負った児童たちが所属していて、物語に登場する。そして黒柳はトモエ学園では、その身体の条件が徹底して個性のひとつとして扱われていたことが強調する。もちろん、彼らはその身体に不便さを覚えている。しかし、トモエ学園にいる限り、彼らはそのことで引け目を感じることはない。たとえば、運動会は近代スポーツとはまるで異なる発想でつくられたユニークな競技ばかりで構成され、必ずしも身体が大きく、「健常」であることが有利に働かないように設計されている(その結果、運動会でいちばん活躍するのは前述の「高橋君」なのだ)。

     太平洋戦争の最中に、このような学校が存在し得たことに、いまさらながら驚きを禁じえない。それは、黒柳自身も後に強く感じたことのようだ。同書の後書きによれば、小林宗作は、自分の教育方針と「時局」との相性の悪さに十二分に自覚的であり、そのため極力新聞や雑誌などの取材を拒否していたのだという。トモエ学園は、戦時下の日本の中に例外的に存在した、隠されたユートピアだったのだ。実際に、大正自由教育の衰退は、昭和前期の戦争へと向かう「時局」の影響が大きかったという。

     そして『窓ぎわのトットちゃん』の結末はトモエ学園の焼失だ。1945年春──東京大空襲でトモエ学園は焼失する。そのとき、トットちゃんは家族と東北地方に疎開に向かう最中で、トモエ学園の焼失には立ち会っていない。代わりに、もうひとりの主人公である小林宗作が燃え上がるトモエ学園の校舎(講堂と車両たち)を前に、再起を誓うシーンで物語は幕を閉じる。「おい、今度は、どんな学校、作ろうか?」と、学校と同じ「巴」という名を持つ息子に語りかける。黒柳は『窓ぎわのトットちゃん』の末尾をこう結んでいる。〈小林先生の子供に対する愛情、教育に対する情熱は、学校を、いま包んでいる炎より、ずーっと大きかった。先生は、元気だった。〉──そして、後書きでは戦後に小林宗作が、併設されていた幼稚園を再建し、国立音大の保育科の創設や、同学のリトミック教育にかかわったこと、そして念願の小学校の再建はついに叶わず69歳で没したことが語られる。

     黒柳徹子にはもうひとつの自叙伝がある。『トットチャンネル』と題されたそれは、大人になったトットちゃんこと黒柳徹子が、黎明期のテレビの世界に飛び込む青春記だ。そして、そこで描かれるまだ産声を上げたばかりのテレビの世界がトットちゃんにとって、第二のトモエ学園になる。黒柳はN‌H‌Kがテレビ放送開始に合わせて募集した専属俳優(当時はそのような制度があったのだ)のひとりだ。このとき、それまでラジオを舞台に活躍していたN‌H‌K放送劇団は、翌年のテレビ放送の開始に合わせてテレビの生放送を念頭に置いた5期生の募集を行った。

     音楽学校の声楽科の、少なくともプロの声楽家になるレベルには達することのできなかった学生だったトットちゃんは、偶然見かけた新聞の募集広告をきっかけに両親に隠れてN‌H‌Kを受験する。黒柳にとって幸福だったのは、そのテレビという産声を上げたばかりの世界が、その未熟さゆえに彼女の個性を包摂し得たことだ。
     黎明期のテレビは、今日のような権威あるものではなかった。そこにテレビのプロといえる人々は基本的に存在せず、ラジオや、演劇、映画など周辺の分野の、それもどちらかといえばそれぞれの世界からいろいろな理由ではみ出して来た人たちが手探りで、見よう見まねでなんとか放送をしている……それが当時のテレビだった。テレビの受像機自体が高級品で一般家庭には手が出る類のものではなく、大きな喫茶店や街頭テレビに人々が群がるというよく知られた昭和の光景すら、まだ出現していなかった頃に、ほんとうにこの国のテレビが産声を上げるその瞬間に黒柳はテレビの世界に飛び込んだのだ。

     放送劇団の選抜試験で、黒柳はいわゆる優秀な受験生ではなかったという。筆記試験はぼろぼろで、ほとんど正解できない。音楽学校の声楽科の学生として、歌は並以上に歌えるがそれ以上のものではない。履歴書持参を郵送可と勘違いして送付して送り返される。実技試験では、指定されたセリフを普通に読んでいるだけなのに、面接官たちが大爆笑する(黒柳は自分の声と話し方が変わっていることに、当時全く自覚がなかった)。面接では、父親がテレビのような業界を志望すると嫌がるから受験していること自体を秘密にしているとバカ正直に喋ってしまい、すぐにまずいことを言ったと気がついてしどろもどろになりながら謝る。しかし黒柳は採用される。恐るべきことに今日にいたっても彼女にその自覚があるのか怪しいのだが、これらのエピソードから伝わってくることはひとつだ。当時のN‌H‌Kに集まった黎明期のテレビマンたちは黒柳の、自身では劣性であると感じている部分を個性として愛した、いや、「面白がった」のだ。黎明期のテレビの世界はトットちゃんの、「基準」から外れた個性を、社会のネジや歯車には絶対になれない規格外の部分を明らかに素材として「面白がった」のだ。

     こうして、トットちゃんは再び自分の居場所を手に入れたのだ。実際に当時の黒柳徹子という女優には巧みな技術はなく、その磨かれていないがゆえにナマのまま露出する個性で愛されていく。彼女の出世作はラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』という子猿の三兄弟の冒険を描いた児童向けのドラマだ。黒柳は同作でかわいいチビ助の三男のトン坊を演じた。同作は、今日では当たり前のことになっているが子役ではなく成人女性が男の子を「演じる」という試みがはじめて行われたことで知られている。そして、その試みの中核にいたのが特徴的な声質(黒柳は入局後に自分の声をはじめて録音して自分で聴き、その声質の特異さに「自分はこんな変な声だったのか」と絶望したという)と、無自覚に独特の抑揚で話す黒柳徹子という天然の個性だったのだ。
     同作に抜擢されるまでの黒柳は明らかに劇団の劣等生だったと思われる。実際に、当時の黒柳はいわゆるモブを演じては、目立ちすぎない演技と発話がどうしてもできずに降ろされることを繰り返していたという。基本的にすべての番組が生放送である黎明期のテレビ放送において、黒柳の常にそわそわと落ち着かない挙動は放送事故の温床以外の何物でもなかったのだ。しかし、生まれたばかりのテレビの世界は徐々にそんな彼女の天然の個性を発見していく。当時のテレビにとって、未完成も放送事故も日常茶飯事で、黒柳の規格外の個性がもたらすトラブルは問題……ではあったのだろうが、「大したこと」ではなかった。むしろこの時期のテレビという未成熟な世界で求められたのは、洗練されたものでなくとも人を惹き付けるもの、未成熟なままでもただカメラを向けるだけで人を惹き付けるものだった。そしてそれがトットちゃんの天然の個性だった。実際に黒柳は当時同僚や先輩から、変な話し方をするだけでいい仕事が回ってくると陰口を叩かれていたらしい。しかし、このエピソードはテレビというものの本質を表している。
     映画からテレビへ、テレビからインターネットへ──情報の自己完結性は下がり、代わりに双方向性が増大する。映画は完成された情報を観客が受け取るものであるのに対して、生放送中心のテレビの情報の完成度は低く、現場で起こっていることに常に影響を受ける。雨が降れば屋外のスポーツ中継は中断し、黒柳のようなそそっかしい役者がいれば物語の辻褄が合わないまま強引に生放送ドラマが終わることも珍しくない。また映画が一度劇場に足を踏み入れて、席に着いた途端に観客は孤独になり、ひとりスクリーンに向き合うことになるのに対し、テレビは街頭で、家庭で、多くの場合複数で同時にガヤガヤと談笑しながら視聴される。これはつまり、テレビは本質的におしゃべりの素材であることが求められることを意味する。映像技術は放送技術と結託することで、情報の自己完結性を低下させられる代わりに双方向性を獲得した(現代風に述べればシェアされるようになった)のだ。そして、このとき街頭の、お茶の間の談笑の素材として求められるのは、必ずしもプロフェッショナルの完成された演技ではなかった。むしろただカメラをそこに向けるだけで、食事や手仕事の合間に眺めていても、チラ見のひと目で分かる個性だったのだ。

     そして、当時のテレビは黒柳自身がそうであったように、こうした未成熟の、あるいは規格外の個性が集まる場所だった。『トットチャンネル』の事実上の続編である『トットひとり』には、森繁久彌、渥美清など黎明期のテレビを支えた「怪人」たちのエピソードが次々と紹介されることになる。彼らもまた、少なくとも黒柳と出会ったあの頃は彼女とその方向性こそ違えど十分に規格外の個性を持っていた。

     黎明期のテレビの世界は、トットちゃんにとってふたつ目の居場所だった。戦災で焼失したトモエ学園は、意外な場所に、意外なかたちで再生していたのだ。しかし、トモエ学園が戦争という巨大な暴力に蹂躙され、失われていったように第二のトモエ学園であるテレビの世界もまた、失われていく。
    『窓ぎわのトットちゃん』の結末がトモエ学園の焼失であるように、『トットチャンネル』もまた楽園の消失で幕を閉じる。いや、それは正確には消失ではない。トットちゃんはそこが──テレビの世界が──実はトモエ学園とは違う場所であることに気づいてしまうのだ。物語の結末、黒柳は過労で倒れる。週何本ものレギュラー番組に加えて、イベント出演に雑誌の取材──若さの勢いに任せて片っ端からオファーをこなしていた黒柳はある日倒れる。病床で彼女は考える。このままでは、たくさんの番組に穴を開けてしまう。自分の至らなさで取り返しのつかないことになり、たくさんの人に迷惑をかけてしまった、と。しかしそれは黒柳の杞憂にすぎなかった。渥美清との夫婦役が人気のドラマでは、妻役の黒柳は所用で実家に帰っている設定が一言、渥美の口から語られるだけで物語はつつがなく進行した。司会をしていたレギュラー番組は、別の女性が何事もなかったかのように進行を務めていった。黒柳はその現実を、病院のテレビで目にする。そしてこのときはじめて、トモエ学園とテレビの世界との違いを知る。たしかに黎明期のテレビの世界はトットちゃんの規格外の個性を受け入れた。それを面白がり、愛してくれた人もいた。しかしテレビの世界そのものは、トットちゃんの個性を利用することはあっても、その存在を尊重することはなかった。トモエ学園の小林宗作校長がそうしたように、ひとりの人間として尊重することはなかったのだ。たしかにそこではネジや歯車のような規格にのっとった人間よりも、そこからはずれた個性が重宝されていたことはまちがいない。しかし、それはあくまで使い捨ての素材としての重宝だった。カメラを向けて、街頭やお茶の間のおもちゃになりやすい言動があればよい、としか考えられなかったのだ。それは規格外の個性が求められる部品にすぎなかったのだ。トットちゃんは、あれば重宝されるけれど、壊れてしまえばすぐ捨てられ、取り替えられるだけの部品にすぎなかったのだ。

     そして現在──テレビはどちらかといえば、個を抑圧するための装置になっている。僕は何年か前まで、あるワイドショーのコメンテーターを務めていた。そこは意見を述べると視聴者から必ず誹謗中傷を受ける、陰険な空間だった。もちろん、ワイドショーを見て出演者のS‌N‌Sに罵詈雑言を送りつける程度の人間にまともな見識があるはずがない。この種の人たちの能力で出演者の多くに「反論」することは不可能だ。では、どのような類の罵詈雑言が飛んでくるのかと言うと、まずは「死ね」とか「消えろ」とかいう類の人格否定であり、そして次に多いのが「(司会の)加藤さんがまとめようとしているのに、なんでお前は余計なことを言うんだ」という類のものだった。僕は毎週出演が終わるたびにこの類の罵詈雑言を無数に浴びていたが、後者については少し考えさせられるものがあった。要するにここで彼/彼女らはそもそもワイドショーとは、マジョリティの感性を先取りしてコメンテーターが発言し、視聴者が「共感」する快楽を味わうものでなければならないと述べているのだ。もちろん、番組の制作陣もそのことに自覚的だった。僕がとても苦手だったあるディレクターは「視聴者に寄り添う」が口癖だった。たとえばあるシングルマザーがネグレクトで子供を死なせてしまったような事件があったとき、僕はいつも具体的に再発防止のために何が必要なのかを議論すべきだと主張していた。ひとり親への経済的支援は十分だったのか、ネグレクトされた子供のサポートとして行政に必要なものはなにか。こういう議論にしか意味がないと僕は考えていた。しかし、いくら僕が抗議してもテレビマンたちはそのシングルマザーの交友歴や生活のさまなど、プライバシーを暴きたて、ネガティブに演出し、さあ、こんなひどい親が子供を殺した、いっせいにみんなで石を投げよう、そうすると自分は「マジョリティ」の「まとも」な側だと安心できるぞ、と号令をかける番組を放送し、それを視聴率という形で換金していった。そしてそんな番組の姿勢に僕が生放送中に疑問を示すと、視聴者たちが「お前はテレビに出るな」「空気を読め」と罵詈雑言を浴びせてくるのだ。「お前の意見は間違っている」というのはいくら言っても構わない。それは民主主義の基本となる行為だからだ。しかし「お前は意見を言うな」というのは民主主義を支持するなら絶対に言ってはならない、民主主義を根底から否定することだ。この程度の区別もつかない人々の卑しさに支えられて、個性も、多様性も、言論と表現の自由も抑圧する装置で積極的にあり続けるのがいまの「テレビ」なのだ。

     その後のトットちゃんは、黒柳はこの変質していくテレビの世界をどう生きていったのだろうか。『トットひとり』は既にこの世界から退場していった、彼女の仲間たちの物語だ。それは既に失われた豊かさを回顧するものとして記されている。少なくともそこがトモエ学園の再来ではないことを、いまの黒柳はおそらく正しく理解している。そして、黎明期の一瞬だけ成立したかに見えたユートピアが偽物であったことも、そしてその偽物のユートピアですら大きく変質してしまったことも、彼女は理解しているはずだ。

     そして僕は思う。いま、トットちゃんの居場所はどこにあるのだろうか、と。正確にはこうしているいまも日本中にいるはずの、トットちゃんのような子供たちの居場所はどこにあるのだろうか、と。
     小林宗作がトモエ学園を再興することなく亡くなってから約半世紀、その志を継いだフリースクールも学習塾も活動しているが、この国の公教育は根本的には変わっていない。ネジや歯車のような子供を養成するために、軍隊式の規律訓練を施し、与えられた箱(学級)の中の空気を読むことに長けた子供が「コミュニケーション力の高い」「協調性に富んだ」人間として褒め称えられる。そして、規格外の子供を周辺に追いやり、自分で自分に合った箱を探す能力の価値を教えもしない。
     ではその黎明期にトットちゃんの個性を、「素材」として受け止めたテレビの世界はどうか。そこもまた、前述したようにいまやもっとも積極的に規格外のものを排除するための装置に変質している。たとえば当時僕とワイドショーで共演していたあるコメディアンは、自分の容姿を小馬鹿にする視聴者たちに向けて積極的にその役割を演じることしか番組から求められていなかった。そして彼女も、そうすることで視聴者からの「好感度」を買っていた。そして、何が起こっても「そうですね、大変ですね」「由々しき問題ですね」「なんとかしてほしいですね」と事実上無内容なことしか述べられなくなっていた。そして、番組が毎朝提示する「生け贄」に対して石を投げるように、視聴者をソフトに促す役割を結果的に、しかし忠実に果たしていった。このような場が小林宗作の掲げた理想からもっとも遠い場所にあることはもはや説明の必要はないだろう。そしてトットちゃんは、黒柳自身はこのテレビの世界をどう生き抜いてきたのか。自分の個性を面白がり、居場所を与え、ときに使い捨てにされるテレビの世界をどう生き抜いてきたのか。
     70年代末からの黒柳は『ザ・ベストテン』『世界ふしぎ発見!』などの長寿番組へのレギュラー出演によって、その存在感を維持してきた(している)。彼女の個性は、半世紀以上に亘ってテレビの世界で「面白がられ」続けているのだ。しかし特筆すべきは、やはり彼女の活動の基盤となる長寿番組『徹子の部屋』だろう。同一司会者による最多放送回数のギネス世界記録をもつ同番組は2020年現在、放送45年目、放送回数11000回を超えている。僕が生まれる前から続いているこの番組を、僕は大人になってからはほとんど見たことがない。しかし、こうして黒柳の軌跡を追ってみて、ひとつだけ感じることがある。それは、この番組でトットちゃんは、黒柳は、彼女なりのやり方で小林宗作の遺志を継いだのではないかということだ。『徹子の部屋』に台本はない。黒柳の強い意向で、生放送ではなく収録番組であるにもかかわらずほぼ編集もされていないという。その結果、黒柳とゲストの会話が(大抵の場合は黒柳が無意識に行う独特の進入角度からのコミュニケーションによって)噛み合わないことも多い。そしてこの放送事故に限りなく近いコミュニケーションがこの長寿番組に程よい緊張感を与えていることは間違いない。そう、テレビが面白がった黒柳の規格外の個性が今日にもっとも活かされている番組が、この『徹子の部屋』なのだ。この番組には、噛み合わなさ(を許容する自由)がある。それは、「加藤さんがまとめようとしているのに、余計なこと言うな」と僕に予定調和のコメントを求めるテレビ視聴者のニーズとは真逆にあるものだ。僕はその息苦しさに耐えきれずに局との衝突を繰り返して、最後は決裂してしまったのだけれど、黒柳は他の誰よりも長くテレビに居場所を確保し続けている。それは、彼女の悪意のない噛み合わなさのもたらすもののはずだ。僕はあの頃最大限の悪意を持って、こんなもの(ワイドショー)を見ているとバカになるぞというメタメッセージを届けるために、内側からあの場を破壊することに執心していた。対して、黒柳の無意識のもたらすアプローチはむしろテレビの送り手と受け手を誰ひとり否定しないかたちで、予定調和を破壊する効果がある。そのため、黎明期から今日に至るまで、黒柳の悪意のない噛み合わなさは誰も傷つけない「事故」の供給源として、愛され続けてきたのではないか。
     もちろん、黒柳のアプローチにも限界がある。広く知られるように、黒柳徹子は報道番組への意欲を再三見せながら、今日に至っても実現していない。報道番組は極めて意図的に予定調和を破壊することでしか、有効な問題提起が難しい場所だ。報道番組では黒柳の悪意のない噛み合わなさは、偶然に問題の本質に議論を導くことはあっても大抵の場合は単に空回るだろうし(それはそれで見てみたい、と僕は思うが)、バラエティ番組やワイドショーとは異なり空回ることを面白がる視聴者もいないからだ。黒柳は多くの仲間たちと別れ、いくつかの自分にはできなかったこと──オペラの舞台から、報道番組まで──を諦めながらも、自分なりのアプローチでテレビという箱の中に自分の居場所を見出してきたのだ。そして黒柳の、ときにまったく噛み合わない、予定調和を排したコミュニケーションは結果的に今日のテレビにおいては貴重な、多様な個性を包摂する場であり続けているように思えるのだ。もちろん、実態はそう美しいものではないだろう。近年のゲストをざっと見渡しただけでも、放送局(テレビ朝日)の他番組の宣伝としてゲストが配される傾向は見て取れるし、黒柳の予定調和のないコミュニケーションのもつ、放送事故的な要素自体がもはや長寿番組化することで一種の予定調和として機能してしまっているのも間違いない。しかしおそらく黒柳自身は、いかなる個性も排除しない場としてあの「部屋」を維持しているはずなのだ。かつて、小林宗作がつくり上げ、そしていまは失われたユートピアがそうであったように、そして黎明期のテレビが彼女を(使い捨ての素材としてではあるが)面白がり、受け入れたように。それはもはや機能していないのかもしれないがあの部屋は、テレビという巨大な教室のかなり中心に近い位置に何十年も座り続けるトットちゃんが、窓ぎわに座っている子供たちを排除しない場として続けているもののように僕には思えるのだ。
     そんなトットちゃんの、黒柳の半世紀以上に及ぶ試みはテレビから離れた僕に問いかけてくる。かつてのテレビがそうであったように、インターネットの世界もいま、変質しつつある。そこで誰もが自由に、自分の意見を発信することができた時代は遠い過去のものになり、いまインターネットこそが、第二のテレビとして、いや、テレビの受け皿としてもっとも息苦しい場所になりつつある。閉じた相互評価のゲームの中で誰もがそのときどきのタイムラインの潮目を読み、問題そのものの解決方法の提示やより有効な問題設定ではなく、この問題にどう発言すると他のユーザーからの好感度が上がるか、だけを考えるようになっている。黒柳は結果的にかもしれないけれど、ひとつの部屋を設けて、小林宗作から受け継いだものをテレビの世界の、それも真ん中に近い場所で維持することを選んだ。僕は黒柳と同じ選択はしない。テレビとインターネットは本質的に異なるし、黒柳ができなかったことにむしろ僕の成し遂げたいことがあるのも間違いないからだ。けれど、僕は黒柳がそうしたように自分なりのやり方で、小林宗作が目指したものを引き継いでいこうと思う。

     トットちゃんは結果的にだけれども窓ぎわから離れて、教室の真ん中に座ることを選んだ。真ん中に、あらゆる人(ゲスト)を、窓ぎわの子供たちをも排除しない部屋(『徹子の部屋』)をつくることを選んだ。そして同時にその限界にも突き当たっているように僕は思う。だから僕はいま、どうすれば窓ぎわから外に飛び出すことができるかを考えて、ゆっくりと試し始めている。閉じた相互評価のゲームの中に部屋をつくるのではなくて、その網の目にどうほつれをつくるのか、外側に広がっていけるのかを考えて、試行錯誤しながら実践している。その試みが何かについては、「遅いインターネット」という僕の造語で検索してみてくれればいい。トットちゃんと僕とは方法は異なるけれど、たぶん実現したい価値はそれほど遠くない。そしてこうして、そのときどきの生まれ落ちた時代の条件にそれぞれの方法で粘り強く取り組んでいく姿勢こそ、小林宗作が子供たちに伝えたかったことなのではないかと思うのだ。
     あの日、焼け落ちる校舎を目の前にしながら、小林宗作は再起を誓った。そして「おい、今度は、どんな学校、作ろうか?」とその場にいた長男に語りかけた。この問いかけに、トットちゃんはこの半世紀、ずっと答え続けてきたのではないかと思う。戦災で学校が焼け落ちたなら、またつくればいい。テレビの世界が変質したなら、その中に自由な部屋をつくればいい。そして僕も黒柳がそうしたように、変質するインターネットの片隅に、いや窓ぎわに僕なりの「部屋」を、僕なりの方法で維持していこうと思うのだ。

    [了]

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    ▼プロフィール
    宇野常寛(うの・つねひろ)
    1978年生まれ。評論家として活動する傍ら、文化批評誌『PLANETS』を発行。主な著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)ほか多数。


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  • 芦原妃奈子――なぞる娘|三宅香帆

    2022-06-28 07:00
    550pt
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    今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回取り上げるのは芦原妃奈子の作品。少女漫画における母による娘の支配と、その克服はどのように描かれていたのかを考察します。

    ※7月から、リニューアル準備のためメールマガジンの配信日を「月曜日と金曜日」に変更とさせていただきます。今後とも各媒体での記事・動画の配信や書籍刊行を含め、さらなるコンテンツの充実に務めてまいりますので、引きつづきPLANETSをよろしくお願いいたします。

    三宅香帆 母と娘の物語
    第九章 芦原妃奈子――なぞる娘|三宅香帆

    はじめに―芦原作品のテーマ

    芦原妃奈子の作品の主題は「少女の成熟」である。少女はどうしたら大人になることができるのか。その主題をさまざまな角度から描いているのが作風となっている。たとえば『砂時計』においては母の呪いを解くこと、『Piece』においては父の呪いを解くこと、『Bread & Butter』においては家族をつくることによって、少女の成熟は達成される。芦原作品において、少女が大人になるためには家族という通過儀礼を通らなければならなかった。
    特に母親という主題について切り込む『砂時計』の連載が開始されたのが、2003年。よしながふみの『愛すべき娘たち』の刊行と同年のことだった。2000年代前半のほぼ同時期に、両作家によって母との絆を断ち切る物語が描かれているのは注目すべき事象だろう。
    本章では芦原作品にみる母娘像から、2000年代に描かれた母娘の主題を読み解きたい。

    1.『砂時計』の母娘像

    『砂時計』は母の自死から始まる物語である。
    主人公の杏は、12歳のとき母の離婚をきっかけに島根の田舎へ引っ越してきた。最初は厳しい祖母や田舎の空気に馴染めなかった杏だが、同い年の大悟、藤、藤の妹・椎香と出会い、仲良くなってゆく。そしてとくに大悟との仲を深めてゆくが、ある日突然母親が自殺してしまう。
    大悟は杏を支え続けると言い、ふたりは一緒に成長することを誓う。しかし杏が父に引き取られ東京に引っ越すことになり、ふたりの距離は離れることになる。
    杏の母は、もともと精神的に不安定なところがあった。とくに東京で鬱病になり、アルコール依存症にもなっていたという。故郷に帰ってからも、過労で倒れ、精神的にもさらに疲れ切ってしまう。娘の存在を見て自分を奮起させようともするが、母親に「情けない、しゃんとせえ」と言われたことをきっかけに、発作的に自殺してしまう。
    杏の祖母は、母について以下のように杏に伝える。

    「…昔っから 弱い子だったけん 気ばっか強いくせに どっかもろくて
     だから心配で ずっと手元においておきたかったんよう…私が殺した…!
     言っちゃいけんのわかっとって はがゆくて…!
     “がんばれ”て…!」
    (『砂時計』1巻)

    杏は祖母の発言を「おばあちゃんのせいじゃない」と否定するが、祖母の罪悪感は杏にうつることになる。杏は過去に母親へ「がんばれ」と言ってしまった経緯もあり、「ママはきっと最初からこうするつもりだったんだ この村に戻ると決めた日から きっと」「あたしはとめられなかった」と思うようになる。
    『砂時計』において、杏は母の死をトラウマとして何度も反芻するが、中でもとくに顕著なのが、杏は母の死に対して罪悪感を持つ点である。たとえば偶然出会ったシングルマザーが「この子たちは私の希望だわ」と言うのに対し、杏は「あたしは母の希望になれなかった」と発言する。母の死を止められなかったという罪悪感から、杏は母の存在に囚われ続けて生きることになるのである。
    そんな杏に対して、幼馴染であり恋人である大悟は何度も支えようとするが、うまくいかずに二人は別れてしまう……というストーリーが『砂時計』の概要となっている。

    2.『砂時計』と『成熟と喪失』の主張の相似

    実は『砂時計』のテーマは、1988年に出版された江藤淳の批評集『成熟と喪失 ―“母”の崩壊―』の主張と似通うところがある。
    江藤は戦後文学を批評しながら、「今後、日本は前近代的な『母性』の庇護も失い、同時に欧米的で個人主義の規律である『父性』を得ることもできないままになるだろう」という主張を行う。女性は母性を引き受けることを拒否し、そのような母性に逃げ込む場も喪失される。かといって代わりに父性が台頭するわけでもないまま、子供は成熟できずにさまようのだろう、と。
    『砂時計』のタイトルにもある「砂」のモチーフとは、杏たちの住んでいた島根県に砂丘があることに由来する。大悟は砂丘に足を踏み入れた時のことを以下のように話す。

    「オレさ 昨日一人で行ったんだ 小雪がちらついてシーズン・オフで人もおらんで 
     なんちゅーか 砂丘の真ん中に立ってるとすげー不安になるんだよ
     目指す指針が何も見えなくて 自分がどこに立ってるのかもわからない
     足元砂にさらわれておぼつかんし」
    「答えが見えなくて 目的も見えなくて
     本当にこっちに進んでいいんか道を間違ったんじゃねえかとか 焦って 迷って
     結局どこにも行けなくて 訳もなく不安になって どつぼに陥って
     ああ こぎゃん状態の時ってあるよなって 杏は多分ずっとこぎゃん状態なんだろうなって 12の冬からずっと」
    (『砂時計』7巻)

    砂に足をとらわれ、どこに向かっていいかわからない。杏は母を喪失してから、ずっとそのような状態にある。かといって父が新たな指針になるわけでもなく、ただ砂丘をさまよっているのではないか、と大悟は言う。
    これはまさしく江藤の主張する「母性が喪失された後の状態」そのものであった。
    とくに杏の母が、思春期のころから前近代的な田舎からずっと出たがっており、しかし離婚を契機に田舎に帰ることになったことが自殺のトリガーだったことは注目すべき点である。杏の母にとって、田舎の閉鎖的で情緒的な、つまり前近代の日本的な空気がなによりも耐え難いものであった。しかし杏の母として、田舎で母親として生きることを選ばざるをえない。それは江藤の言う「女性が前近代的な母を引き受ける」ことそのものだった。
    杏の母は、田舎で母の役割を担うことを拒否する。前述したように杏は「ママはきっと最初からこうするつもりだったんだ この村に戻ると決めた日から きっと」と述べており、まさしく江藤の言う拒否の構造を直感的に理解している。杏の母が拒否したのは、『成熟と喪失』で説明された「母性」そのものだった。
    杏と母は距離の近しい母娘だった。母が自殺しに行く前日、出かける際に杏が「私も一緒に行っていい?」と言ったことが象徴的である。しかし母は杏が一緒に来ることを拒否する。そして杏は母を喪失することになる。
    また江藤は母を喪失した子のことを以下のように表現する。

    「母」の拒否は子のなかにかならず深い罪悪感を生まずにはおかない。つまり自分が「母」にあたいしない「悪」の要素を持っているからこそ、「母」は自分を拒んだと思うのである。
    (『成熟と喪失』)

    これもまた『成熟と喪失』の主張と『砂時計』が同じ話をしている点である。前述したように杏は母が自分の母であることを拒否し、自ら命を絶ったことに、自分に原因があると罪悪感を持ち続けていた。母の希望になれなかったことにずっと罪悪感を抱えているのである。『成熟と喪失』は俊介を、その罪悪感から「彼のなかにほとんど処罰されたい欲求がある」と評するが、『砂時計』の杏もまた母への罪悪感から自らの幸福を許さない傾向がある。
    そして杏は、罪悪感を抱えたまま、母の人生をなぞることになる。母と同じように結婚相手を見つけるが、結局結婚は破談となり、杏は無意識に自殺を図る。妻となろうとし、しかしそれを拒否する、という母のルートをなぞるのである。これは江藤が日本の女性たちについて説明した「母になることの拒否」という行動を杏は母と同じく実行したのだ、という点も強調したい。

    3.喪った母をなぞる「娘」と、その成熟

    しかし『成熟と喪失』と『砂時計』のもっとも異なる点は、ほかでもない子の性別だ。