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山田玲司のヤングサンデー 第94号 2016/7/25

いい「トーク」とは何で決まるか?

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「漫画で伝える」のと「トークで伝える」というのは似ている。
確かに漫画家には、「話すのが苦手だから漫画で伝えようとしたんです」という人種も多くて、シャイな人も多いけど、話してみると「トーク」が面白い人が多い。

そういう人は「何がおもしろいのか」が、わかっていて、かつ「それを伝える技術」もあるわけです。
そして、そういう人の漫画はやっぱり「わかりやすくて、面白い」のです。

それはともかく、そもそも、その話が人を惹きつけるかどうかは、どういう部分で決まるのだろう?

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「好き嫌いの話」

僕が知る限りの話だけれど、「飲み会」なんかで交わされる会話の基本は、ほとんどが「これが嫌」か「これが好き」というタイプの話だ。

「あのタレント、ムカつくよね」とか「今の仕事が嫌」とか「Jポップ嫌いなんだよね」とか「あの中華屋の餃子が好き」みたいなヤツだ。

要するに「何が好き」「何が嫌い」という事を感じたまま話しているタイプのトークだ。

何やら人の脳には「扁桃体」という「好き嫌いを感知する器官」があるらしいんだけど、その手の話は基本的に「扁桃体」がしゃべっているわけで、共感はできても面白くはない。

それでも多くの女達は「共感」が目的で会話をしている、と仰るので、それで場が楽しくてストレスが開放されるならそれはそれでいいんだと思う。

でも、そういう話には「知らない世界の発見」も「知的感動」も、ほとんどないので、人との会話に何らかの期待をしてしまう人には、この手の会話は「不毛な時間」に感じるだろう。

おまけに「これが気に入らない」という話は、元気な人を萎えさせる。
「これが好き」という話も、相手によっては萎える場合も多い。アイドルとかアニメとかの話にはこの手のものが多いので、必然的に「同じ村の住人」としか会話できなくなってしまう。



「分析話」の限界

「好き嫌いの話」の1つレベルの上にあるのが「それはこういうことじゃないかと思う」とか「これはこういう関連性があるよね」とか「そもそも、それの源流はこれよね」みたいな「分析話」だろう。
「ポケモン好きなんだよね」とか「ポケモン嫌いなんだよね」みたいな話から、「ポケモンって昆虫採集だよね」とか「あれは西洋文化の植民地政策の流れを感じさせるよね」みたいな話にもっていけると「トーク」の面白さは1段階レベルが上がった感じになる。
つまりは聞き手に「新たな驚き」を与えられる可能性が出てくるのだ。

分析は基本的に「類似性」や「関連性」や「その問題の背後にあるもの」なんかを発見して、独自の解釈をするパターンになる。
これがいい感じだと、その人の話は「面白いトーク」になるけれど、下手をすると「知識自慢」になったり「理屈が過ぎてうんざりさせたり」することもある。
オタクが集まって話をすると、分析がいつのまにか「自分はいかにそれを知っているかバトル」になっていて、これもまた不毛な時間になってしまう。

とは言え、まだ「持論」を展開できる人の話は、単に「好きだの嫌いだの」「痩せたの太ったのだの」見たままの事ばかり言っている人達の話よりははるかに面白いものです。

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本当に面白い話とは?

これは僕の個人的な印象なんだけど「この人の話は本当に面白い」と思った人の話にはいくつかのタイプがある。