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【第155回 直木賞 候補作】『家康、江戸を建てる』門井慶喜
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【第155回 直木賞 候補作】『家康、江戸を建てる』門井慶喜

2016-07-11 11:59

     天正十八年(一五九〇)夏、豊臣秀吉は、相州石垣山の山頂にのぼり、放尿をはじめた。
     眼下に小田原城をながめつつ、秀吉自身を除けば日本一の大名である徳川家康へ、
    「ご覧なされ」
     上きげんで告げた。
    「あの城は、まもなく落ちる。戦国の梟雄・伊勢新九郎(北条早雲)あらわれて以来五代一百年をかぞえる北条家が、あわれ、われらの軍門にくだるのじゃ。気味よし、気味よし」
     家康は、横で放尿につきあいながら、
    「気味よし、気味よし」
    「されば家康殿、このたびの戦がすみしだい、貴殿には北条家の旧領である関東八か国をそっくりさしあげよう。相模、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸、じつに合わせて二百四十万石。天下一の広大な土地じゃ。お受けなされい」
    「格別のおぼしめし、かたじけなくお受け申します」
     家康がそんなふうに快諾したことが、のちのち東国の児童の好んで囃すところとなる、
     ――関東の連れ小便。
     なる言葉の由来なのであるというのはもちろん後代の、講釈師あたりの作り話だろう。もっとも秀吉がこの小田原攻めの陣中で、家康に「関八州をやろう」と申し出たことそのものは事実であり、家康は、
    「…………」
     沈黙を余儀なくされた。さしもの家康ですら、即答し得なかったのだ。
     家康はいったん駿府城にかえり、家臣たちに相談した。家臣たちは口をそろえて、
    「断固拒否すべし」
     猛反対した。或る者は、あぐらをかいたまま、
    「ただもらうだけなら結構ですが、そのかわり現在の所領である、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃をぜんぶ差し出せとは関白様はどういうご料簡か」
     と床板を手で乱打したし、或る者は、
    「おもてむき小田原征伐の功に報いると見せかけて、じつは殿様を本領の地から引き剥がすのが真の目的。そうに決まっておりましょう。父祖の代より心の底から臣服している侍や百姓どもを殿様から奪い、そうして殿様のもつ強大な力を弱めようという深謀遠慮。やはり関白様は狡猾じゃ。狡猾な猿じゃ」
     憤慨のあまり涙を落とした。家康は、
    「ふむ、ふむ」
     と、じゅうぶん耳をかたむけた上、しかしはっきり、
    「わしは、この国替えに応じようと思う」
    「殿様!」
     家臣一統、驚愕したが、家康はむしろ何かおもしろい狂言でも見せられたような笑みを浮かべて、
    「ほかならぬ関白様のお話じゃからのう。ことわると、あとが怖いわ。それに関東という土地は、なかなか望みがあるような」
    「ありませぬ」
     べつの家臣が、断言した。
    「なるほど関八州となれば面積もひろがり、いちおうは石高も増しましょう。しかしながら実際には安房の里見氏、上野の佐野氏、下野の宇都宮氏、常陸の佐竹氏等がいまだ天下に服属しておらぬ」
    「ただちに殿様の手に入るのは、のこりの四か国にすぎぬ」
    「その手に入る四か国もこれまで長いあいだ北条家に臣従いたしておりまする故、いざわれわれが徳川の旗をかかげて乗りこんだところで、地下人どもは言うことを聞かぬばかりか一揆すら起こしかねぬ。領国経営は困難をきわめる」
     家康は、こういうときは引く男だ。
    「おぬしらの危惧、よくわかる」
     と、ひとしきり家臣たちの功績や忠誠に対して感謝の辞を述べてから、
    「ここは初志をつらぬかせてくれぬか。くりかえして言う、関東には未来がある」
     ――殿、ご乱心。
     誰もがそう確信した。家康はこのとき四十九歳。ふつうなら未来どころか過去の生涯をふりかえり、清算すべきを清算し、そうして子々孫々のため良き死の準備をすることをこそ意識すべき年齢だろう。未来などというものは、若い連中の現実逃避の口実にすぎぬのだ。
    「これで、徳川の家も終わったか」
     結局。
     家康は、我意を通した。
     石垣山の陣中へもどり、秀吉の前に参上して、
    「国替えのお沙汰、ありがたくお受けつかまつる」
    「そりゃ、まことか」
    「まことに存じまする。この家康、このような千載一遇の機をあたえてくださった関白様には心の底から感謝しておるのでございます」
     秀吉は、五十五歳。トントン床をふみならし、ほんとうに雀躍りをはじめた。じゃま者を僻地へ追い払ったことが、よほどうれしかったのだろう。
    「そうと決まれば、徳川殿、のう、さっそく出向かっしゃれ。のう、のう、今月のうちに」
    「そのつもりでおりました」
    「で、入部先はどこかな」
     どの城に入るのか、と聞いている。家康は、
    「はあ、それが……」
    「酒をもて。酒じゃ」
     と、秀吉はまだ陽も高いというのに近習の者に命じてから、ひとりで勝手に話を進めた。
    「やはり関東の中心といえば小田原じゃな。城の大きさ、街の大きさ、京への近さ、あらゆる点から見てそこしかあるまい。あるいは鎌倉も悪うないかの。いまでこそ無城の地ながら、むかしは幕府の根拠地じゃった。源氏の裔を称する徳川家には打ってつけの地かもしれぬ。城などは築けばよい」
     が、家康の口から出た地名は、
    「江戸」
    「は?」
    「武州千代田の地の、江戸城へ居住おうかと」
     秀吉は雀躍りをやめ、目をぱちくりさせて、
    「はあ」
     まわりの者も、あっけに取られている。
     なるほど、そういう城はこの世にある。もう百年以上も前、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌がそこを根拠地としたころには関東の名城などと呼ばれたこともあったらしいが、現在は小田原の一支城、ただの田舎陣屋にすぎぬ。
     秀吉は、
    「まあ、それが徳川殿のご意志なら」
     狐につままれたような顔をした。反対する理由もなかったのだろう。
     小田原城落城から一か月もせぬ八朔(八月朔日)の日に、家康は、はじめて江戸に足をふみいれた。
     江戸城を見たとたん、
    「……こいつは」
     家康は、呆然と、
    (わしは、たしかに乱心しておったかもしれぬ)
     想像以上のお粗末さだった。
     なるほど大手門があり、本丸があり、本丸のまわりを二重の防壁でかこんでいるところは城郭めいているが、その防壁はしかし石垣ではない。ただの芝生を貼った土手にすぎず、その土手の上には木や竹がぼさぼさと生い茂っていた。
    「これは、まるで荒れ寺のようじゃ。のう?」



    ※7月19日18時~生放送
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