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【第155回 直木賞 候補作】『天下人の茶』伊東潤
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【第155回 直木賞 候補作】『天下人の茶』伊東潤

2016-07-11 11:59

    五更の天も明石潟。〳〵。須磨の浦風立ちまよふ。雲より落る布引の、滝の流れもはるかなる。芦屋の、灘も打過ぎて。難波入江のみをはやみ。芥川にそ着きにけり。〳〵

     主君信長の仇を討つために道を急ぐ、あの時の己の気持ちが乗り移ったかのように、地謡の声が高まる。
     『明知討』も終盤に差し掛かった。
     ―あの時のわしになるのだ。
     シテとして自らを演じる秀吉は、かつての己になりきろうとしていた。
     薄絹を隔てて見える後陽成帝は微動だにせず、こちらを見据えている。
    強風が紫宸殿の前庭に吹き込み、能舞台の四方に焚かれた篝をさかんに煽る。

    しばらく是にて諸卒を揃へ。敵の中へ切つて入り。彼の逆徒を討つて信長公の孝養に備へばやと存候。いかに誰かある。

     左、右、左と三足後退しながら、両腕を横に広げた秀吉は、右手の扇を横からゆっくりと差し上げ、正面に向けて高く掲げた。
     ―上様、ただ今、参りますぞ。上様の仇を、この藤吉が取ってみせまするぞ!
     あの時、秀吉は本気でそう思った。そう思わない限り、あれだけの速さで京都に向かうことなど、できようはずがない。
     ―だが、それは偽りだった。わしは己に都合の悪いことを忘れ去り、真の忠臣になろうとした。
     秀吉も明智光秀も、傀儡子に踊らされる人形にすぎなかったのだ。
    「やっ」
    「はっ」
     秀吉を追い立てるように、囃子方の拍子や掛け声が熱を帯びる。
    ―わしは、傀儡子を殺せば自由になれると思い込んでいた。しかし傀儡子は、死した後も、わしの手足を操り続けておる。
     ―舞うのだ。ただ舞うのだ。
     秀吉は無心で舞うよう、己を叱咤した。しかしそう思えば思うほど、傀儡子の糸が体に絡み付いてくる。
     ―そなたは、ずっとわしを操るつもりなのだな。
     傀儡子が死した後、秀吉は、どうしたらよいか分からなくなった。とにかく、傀儡子が秀吉を操るための道具とした茶の湯だけには近づきたくなかった。それまで狂ったように執心していたのが嘘のように、秀吉は茶の湯から遠ざかった。
     ―茶の湯こそは、傀儡子の糸だったのだ。
     途方に暮れる秀吉を救ったのは演能である。舞っている間だけ、秀吉は自由になれた。
    爾来、秀吉にとって舞うことだけが救いとなる。己の意思で自在に手足を動かせる喜びに、秀吉は浸った。しかも一度、面をかぶれば、己以外の何者かに変身できる。  
    ―別の誰かを演じることで、わしは、この忌まわしい現世から逃避しようとした。
    だがそれは、一時の幻想にすぎなかった。
    ふと気づくと、手足には糸が結ばれていた。その先をたどっていくと傀儡子がいた。
    「殿下とわたくしは、一心同体でございます」
     傀儡子は笑みを浮かべ、確かにそう言った。
     秀吉は恐ろしくなり、糸を切って逃れようとした。しかし焦れば焦るほど、糸は体に絡み付き、身動きが取れなくなる。
    遂には着物の裾の方から、もう一人の秀吉が這い上がり、身を重ねてきた。
    結局、秀吉は何物からも逃れられなかった。
    ―それでも、わしは舞っている間だけ、己を遠目から見ることができた。
    そのことに気づいた秀吉は、お抱え作家の大村由己に、『吉野詣』『高野参詣』『明知討』『柴田討』『北条討』といった、自らの事績や自らが経験した出来事の謡曲を書かせた。
     ―わしは己を舞う時だけ、この忌まわしい己から離れられるのだ。
     秀吉は、かつての己を舞うことで己の足跡を確かめ、己の実在を実感できた。
     それでも傀儡子は、一心不乱に舞う秀吉に糸を絡めてくる。
    「この世は、太閤殿下とそれがしが、創ったも同じではありませんか」
    傀儡子の言葉が脳裏を駆けめぐる。
    秀吉は無心に舞うことで、それから逃れようとした。
    ―舞うのだ。わしを舞うのだ。さすればわしは、わしでいられる。
    しかし舞えば舞うほど、疑問は頭をもたげてくる。
    ―これらの事績や出来事は、本当に現世にあったことなのか。あったとしても、わしではない誰かの身に起こったことではないのか。
    何かに圧迫され、呼吸が苦しくなる。
    ―わしは豊臣秀吉だ。まごうかたなき天下人ではないか!
    そう言い聞かせようとすればするほど、疑念の黒雲が胸内に広がる。
    ―いったい、わしは誰なのだ。
    囃子方の掛け声や地謡の声が突然、耳によみがえる。いよいよ『明知討』も大詰めだ。

    時刻移してかなふまじ。日影を見ればなゝめなる。雲の旗手の天津空。水無月のみなせ川。山本伝ひ山崎の。宿の東に打出て。敵陣近く、よせて行く

     秀吉が上げ足の姿勢を取った。左右の足を膝より高く上げ、一歩、一歩、踏みしめるようにして、秀吉は歩いた。
    戦の鬼となり、主信長の仇を討つという闘志が、全身にみなぎる。
    この姿勢は高度な鍛錬を必要とし、足の筋肉に過度な負担を強いる。だが、激しい稽古を重ねてきた秀吉に不安はない。

    云ひもあへぬによせてより。〳〵、声々時を作りかけ。やいばを揃へてかゝりけり

     秀吉は己に挑むように舞った。
    鼓の音が耳朶を震わせ、囃子方の「ヤ声」と「ハ声」が秀吉を煽り立てる。
     秀吉は己になり切ろうとした。
     だが秀吉には分かっていた。
     ―わしは命ある限り、傀儡子からは逃れられぬ。



    ※7月19日18時~生放送
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