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【第155回 芥川賞 候補作】『短冊流し』高橋弘希
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【第155回 芥川賞 候補作】『短冊流し』高橋弘希

2016-07-11 11:59
     綾音が熱を出したのは七月初旬のことだった。
     その日、綾音は私と一緒に朝飯を食べていたが、頭が痛いと言い、茶碗の飯を半分ほど残した。綾音の手を握ってみると、少し熱を持っている。しかし体温計で計ってみると、三十六度八分の微熱しかない。やや下痢もあったので、念の為に保育園は休ませ、小児用バファリンを飲ませ、もう一度、床に就かせた。ピンクのパジャマ姿の綾音は、布団に入るとすぐに寝息を洩らし始めた。タオルケットから伸びる綾音の小さな手を、再び握ってみる。普段の綾音の体温とは、何かが違う。じわりとした温もりの中に、茨のような鋭い熱感が僅かに混ざっている。胸騒ぎを覚え、パジャマの襟ぐりから腋の下へ、体温計をもう一度入れる。一分間、私は綾音の二の腕を支えて、体温計が鳴るのを待った。綾音はもう深い寝息を洩らしていた。アラームが鳴る。綾音の熱は、やはり三十六度八分のままだった。
     会社へ欠勤連絡をした後に、手鍋へ米と水を入れて中火にかけた。昼過ぎに目を覚ました綾音は、喉が渇いた、お腹が空いたと言い、私の作った卵粥を食べ、林檎ジュースを飲み、バナナ入りのヨーグルトまで平らげた。また薬を飲み、床に就いた。それでもう大丈夫だと思ったのだ。食欲さえあれば病気は治る、そう信じていたところがあった。
     その日の夜更け、どこからか譫言が聞こえてきて、私は寝室で目を覚ました。カーテンの隙間から、仄かな月光が射し、部屋を薄闇に染めている。薄闇の中に、小動物の鳴き声にも、小鳥の囀りにも似た、人間の声が響いている。その声を辿るように暗闇を見回すと、すぐ隣の布団に人影が見えた。上半身を起こした綾音は、頻りに自分の手の平を齧っては、ビスケットが美味しい、ビスケットが美味しい、と洩らしていた。口の周りも、パジャマも、掛布団も、涎でべとべとに汚れている。私は暗闇の中に見えるはずのない歯痕を、綾音の手の皮膚に見て取れる気がした。私の瞳が夜に慣れるにつれて、綾音の瞳が尋常ではないことに気づく。眼球は暗闇の中にじっとりと濡れて月明かりに虹色の光沢を帯び、その中で洞穴の瞳孔がぽっくりと口を開けている。私は恐る恐る綾音の額へ手を当てる。手の平に綾音の熱が伝わるにつれて、私の心臓は次第に冷たくなっていく。階段を駆け下りて、受話器を取り、プッシュボタンを三回叩いた。
    「火事ですか? 救急ですか?」
     受話器の向こうから、その無機質な応答があったとき、何故か苛立ちを覚えた。
     寝室に戻り蛍光灯を点けると、綾音は布団の上に横たわり、四肢をぴんと張った状態で硬直していた。白目を剥き、布団の上で波打つように激しく震え出し、綾音の顔からはみるみる血の色が消えていく。紫色に染まった唇の端からは、絶え間なく白い泡が噴き出していた。私は綾音の身に何が起きているのか、何も理解することができないまま、ただ綾音の小さな身体を布団へ押さえつけていた。ようやく引き攣けが治まると、夜の寝室は再び静まり返り、私は自分の心臓の早鐘を殆ど耳元で聞いていた。枕元のティッシュを取り、綾音の唇周りの白い泡を拭ってやる。そして綾音が呼吸をしていないことに気づいた。
     深夜二時過ぎに、綾音はD総合病院へと搬送された。呼吸は痙攣後に自然と再開されたが、意識は戻らなかった。呼吸器を付け、抗痙攣薬の点滴をし、幾らか症状が落ち着いたところで、脳波測定があった。徐波があり脳症の疑いがあった。当直医が言うには、小児の熱性痙攣は珍しくないが、それにしては症状が重い。生命に関する重篤な症状である、はっきりと言った。
     翌日に頭部のX線検査があり、医務室の白い投光器には幾枚かの脳の白黒フィルムが並べられた。初めて見る、綾音の脳のフィルムだった。円形の白線の中に、黒や灰色の物が映っている。白線は頭蓋骨で、灰色の部分は脳で、黒い部分が脳脊髄液だと医師の説明があった。担当の小児科医は、三十代半ばほどの、縁無しの眼鏡を掛けた、柔和そうな男だった。首からピンク色の聴診器を提げ、白衣の胸元にはマイメロのクリップが留まっている。医師の所見によれば、脳出血や脳浮腫等の異常は見つからないという。一先ず安心したが、綾音の症状は一向に快復しなかった。高熱が続き、ときに痙攣が起こる。この病気を治す特効薬はないのかと、私は医師に訊いた。基本は対症療法ということになります、医師は平坦な口調で述べた。
    「病気によって現れた症状を、薬や処置で和らげていくのです。」
    「そんなことをしていては、いつまでも病気は治らないのでは?」
     私は自分の声が焦燥を帯びていることに気づいた。医師は、先ほどよりも、むしろ穏やかな口調で述べた。
    「病気を治すのは、綾音ちゃんです。」
     その後、栄養剤を入れる為のチューブが、綾音の鼻から胃へと通された。
     解熱剤や抗痙攣薬が効いたのか、綾音の熱は次第に引き始め、痙攣の頻度も減少した。午後には高度治療室から、一般小児病棟の個室へと移された。小児病室は十畳ほどの広さがあり、パステルカラーの色調のものが多い。木椅子のクッションはピンク色で、仕切りのカーテンは淡いグリーンで、窓側にあるソファーベッドは水色だった。一方で綾音のベッド周りには、金属を剥き出しにした医療機器が物々しく並んでおり、無機質な一定の電子音を響かせていた。その医療機器からは、何本もの管やコードが、綾音の小さな身体へと伸びている。ベッド柵にビニールの袋が提げてある。尿道へ通された管から、そのビニールへ尿が溜まっていくのだという。
     綾音の意識は未だ戻らなかった。脳を休める為に、麻酔に近い薬剤を使用しているのだという。午後の三時を過ぎた頃、仙台市の実家から妻がやってきた。綾音の病状について、ぽつりぽつりと話す。話し終えると、お互い無言になった。我々は二人並んで、パステルカラーの木椅子に座ったまま、ただ綾音の寝顔を眺めていた。
    「でもこんなときになって、綾音が熱を出すなんて。」


    ※7月19日18時~生放送
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