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いつの記憶なのかは分からない。
けれど、それがまだ歩きだしたばかりの、ほんの幼い頃であることは確かだ。
光が降り注いでいた。
遠い遥かな高みの一点から、冷徹に、それでいて惜しみなく平等に降り注ぐ気高い光が。
世界は明るく、どこまでも広がっていて、常に揺れ動きうつろいやすく、神々しくも恐ろしい場所だと感じた。
かすかに甘い香りがした。自然界特有の、むっとする青臭さと、何かを燻(いぶ)すきな臭さが足元や背後から漂ってくるのに、やはりその中に見逃すことのできない甘くかぐわしい香りが混じっていた。
風が吹いていた。
さわさわと、柔らかく涼しげな音が身体(からだ)を包む。それが、木々の梢(こずえ)で葉がすれ合う音だということはまだ知らなかった。
しかし、それだけではなかった。
濃密でいきいきした、大小さまざまなたくさんの何かが、刻一刻と移り変わっていく辺りの空気に満ち満ちていた。
それをなんと形容すればいいのだろう。
まだろくに親を呼ぶこともできなかったのに、既にそれを言い表すものを探していたような気がする。
答えは喉のところまで、ほんのすぐそばまでやってきていた。あとわずかでそれを表す言葉が見つかっていたはずだったのに。
しかし、それを見つける前に、新たな音が頭上から降ってきて、たちまちそちらに関心を奪われた。
そう、まさに驟雨(しゆうう)のように、空から。
明るく力強い音色が、世界を震わせていた。
波であり振動である何かが、世界にあまねく響き渡っていた。
その響きにじっと聴き入っていると、自分の存在そのものがすっぽりと包まれているような気がして、心が凪(な)いでくるのを感じた。
今、改めてこの時の光景を見ることができたならば、きっとこう言ったことだろう。
明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符であると。
そして、世界とは、いつもなんという至上の音楽に満たされていたことだろう、と。
前奏曲
少年が大きな交差点でハッと後ろを振り向いたのは、車のクラクションのせいではなかった。
大都会のど真ん中である。
しかも、世界一観光客を集める、国際色豊かな、ヨーロッパの中心地だ。
行きかう人々も多国籍で、見た目もサイズもバラバラ。あらゆる人種の通行人は、まるでモザイク模様である。世界中からやってきた団体観光客も次々と通り過ぎていき、さまざまな響きの言語がさざなみのように寄せては引いていく。
その中で、人の流れに逆らうように棒立ちになっている少年は、中肉中背だが、この先まだぐんぐん背が伸びそうな、潜在的な「のびしろ」を感じさせた。十四、五歳だろうか。印象はあどけない。
鍔広(つばひろ)の帽子、綿のパンツにカーキ色のTシャツ、その上に薄手のベージュのコート。肩から大ぶりなキャンバス地のカバンをたすき掛けにしている。一見、どこにでもいそうなティーンの格好だが、よく見ると不思議に洒脱(しやだつ)な雰囲気がある。
帽子の下の端整な顔はアジア系だが、見開かれた瞳や色白の肌はどこか無国籍だ。
その目が、宙に向かって泳いだ。
周囲の喧噪(けんそう)など全く耳に入らないかのように、静けさを湛えた目が一点を見つめている。
彼が空を見上げているのにつられ、脇を通り過ぎた親子連れの、金色の髪をした小さな男の子も上を見た。が、すぐに母親に手を引っ張られ、引きずられるように横断歩道を渡っていく。男の子は、未練がましく大きな焦げ茶色の帽子をかぶった少年を見ていたが、あきらめたようだ。
横断歩道の真ん中で突っ立っていた少年は、ふと信号が変わりかけているのに気付き、慌てて駆け出した。
確かに聞こえた。
少年はたすき掛けにしたカバンの位置を直しながら、交差点で耳にした音を反芻(はんすう)した。
蜜蜂の羽音。
子供の頃から耳に馴染んだ、決して聞き間違えることのない音だ。
市庁舎あたりから飛んできたのかな。
ついきょろきょろとしてしまうが、街角の時計を見て既に遅刻しかけていることに気付いた。
約束は守らなくちゃ。
帽子を押さえ、少年はしなやかなストライドで駆けだした。
忍耐には慣れていたはずだったが、それでもいつのまにか睡魔に襲われていたことに気付き、嵯峨三枝子(さがみえこ)はちょっと慌てた。
一瞬、自分がどこにいるか分からなくなり、きょろきょろしそうになったものの、目の前でグランドピアノに向かっている少女を見て、ああ、ここはパリだったと思い出す。
むろん、それなりに経験があるので、こんな時にはハッとして周囲を見たり背筋を伸ばしたりしてはいけないと知っている。そんなことをすればかえって居眠りをしていたことがバレるので、そっとこめかみに手を当てて聴き入っているふりをしたり、同じポーズを続けていて疲れた、というふうを装い、ゆっくりと椅子に座り直したりするのがコツである。
もっとも、三枝子だけではない。隣にいる二人の教授も、似たような状況にあることはわざわざ見なくてもよく分かった。
隣のアラン・シモンは大変なヘビースモーカーで、ただでさえニコチン切れを起こしているところに、退屈な演奏が続いて苛立(いらだ)ちが募ってきているのがひしひしと伝わってくる。じきに指が震えだすかもしれぬ。
その隣のセルゲイ・スミノフは、その巨体をテーブルに乗せるようにして、苦虫を嚙み潰したような顔でピクリともせずに聴き入っていることだろう。が、さっさと済ませてその名と同じ酒を呑みに行きたいと考えているのは明らかである。
それは三枝子とて同じだ。音楽のみならず人生をも深く愛する彼女は、煙草も好きだし酒も大好きだ。早いところこの苦行を済ませ、三人でこのオーディションを肴(さかな)にゆっくり呑みたいと思っている。
世界五か所の大都市で行われるオーディションである。
モスクワ、パリ、ミラノ、ニューヨーク、そして日本の芳(よし)ヶ江(え)。芳ヶ江以外は、各都市の著名な音楽専門学校のホールを借りて行う。
「なぜパリの担当をあの三人にしたのか」と陰口を叩かれているのは知っているし、実際三枝子たちは裏でこの三人が一緒になるよう工作をした。彼らは、審査員内でも業界でも「不良」で通っており、毒舌でならした仲であり、仕事以外でもしばしば痛飲する間柄であった。
そのいっぽうで、彼らは自分たちの耳には自負があった。三人は、素行はややよろしくないかもしれないが、オリジナリティのある演奏と、音楽に対する許容範囲の広さには定評があった。もし書類選考で取りこぼされた新たな個性を発見するのならば我々だ、と信じていた。
が、その三人ですら、聊(いささ)か集中力を切らしかけている。
それくらい、昼過ぎから始まったオーディションは退屈だった。最初のほうに、「いけるかも」という子が二、三人続いたので期待したが、そのあとが続かない。
全身緊張の塊でやってきて、一世一代の演奏を繰り広げている若者には申し訳ないが、彼らが求めているのは「スター」であって、「ピアノの上手な若者」ではないのだ。
全部で二十五人の候補者がいるらしいが、ナンバーを見るとようやく十五人目だった。あと十人もいると思うと、思わず気が遠くなる。こんな時しばしば、審査員とは新手の拷問ではないかと思うことがある。
順列組み合わせのようにバッハ、モーツァルト、ショパン、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、と聴いているうちに、再び気が遠くなっていく。
そもそも、上手な子、何か光る子というのは弾き始めた瞬間にもう分かってしまう。中には、出てきた瞬間に分かる、と豪語する先生もいるくらいだ。確かに、オーラをまとった子もいるが、そこまでいかなくとも、ちょっと聴いただけで、おおよそのレベルは見当がつく。居眠りをするなんて失礼で残酷なようだが、これだけ聴く気まんまんの忍耐力のある審査員すら惹きつけられないのであれば、一般のファンを繫ぎとめてプロのピアニストとしてやっていくのは不可能である。
やはり、なかなか奇跡は起こらないものなのだ。
三枝子は隣の二人もきっと同じことを考えているだろうと確信した。
芳ヶ江国際ピアノコンクールは、三年毎(ごと)の開催で、今回で六回目を数える。世界に国際ピアノコンクールはあまたあるが、芳ヶ江は近年評価がめざましい。それというのも、ここで優勝した者はその後著名コンクールで優勝するというパターンが続いたからで、新しい才能が現れるコンクールとしてとみに注目を集めている。
特に、前回の優勝者は、当初、書類選考で落とされていた。芳ヶ江は、書類選考だけでは分からない才能を取りこぼしているかもしれない、と第一回から書類選考落選者を対象にしたオーディションを行っていたが、彼はそのオーディションを受けて合格して第一次予選に臨んだ。そして、トントン拍子に二次、三次と勝ち上がって本選に残った上に、なんと優勝までかっさらってしまったのである。更に、その翌年、世界屈指のピアノコンクールであるSコンクールに優勝し、一躍スターになった。
当然、今回のオーディションにも期待が集まったし、受験者のほうも前回のシンデレラ・ストーリーは頭にあるであろうから、あわよくば、あるいはもしかしたら自分も、と緊張しているのがよく分かった。
だが、前回の優勝者にしろ、有名音大で学んでいた学生であるし、若くコンクール歴がなかったために落とされていただけだ。実際のところ、書類選考と実力にほとんどブレはない。幼い頃からレッスン漬けで頭角を顕(あらわ)し、著名な教授に師事していれば、めぼしい者は業界内では知れ渡っている。また、そんな生活に耐えている者でなければ「めぼしい」者にはなれないのが実情である。全く無名で、彗星(すいせい)のごとく現れたスター、というのはまず有り得ない。時に大御所の秘蔵っ子というケースはあれど、大事に育てられたならなおさら、巣立ちは困難だ。コンサートピアニストは並の神経ではこなせない。プレッシャーの厳しいコンクールを転戦して制するくらいの体力と精神力の持ち主でない限り、過酷な世界ツアーをこなすプロのコンサートピアニストはむつかしい。
なのに、目の前には次々と若者たちが現れ、ピアノに向かっている。その列は尽きることがない。
技術は最低限の条件に過ぎない。音楽家になれる保証などどこにもない。運良くプロとしてデビューしても、続けられるとは限らない。彼らは幼い頃から、いったいどれくらいの時間をあの黒い恐ろしい楽器と対面して費やしてきたことか。どれほど子供らしい楽しみを我慢し、親たちの期待を背負いこんできたことか。そして、彼らは誰もが自分が万雷の喝采を浴びる日を脳裡に夢見ているのだ。
おたくの業界とうちの業界って似てるよね。
ふと、真弓の言葉が浮かんだ。
猪飼真弓は高校時代の友人だが、今は売れっ子のミステリ作家になっている。帰国子女で中三から高三までしか日本にロクに住んだことのない三枝子にとって、数少ない友人の一人だった。外交官だった父についてラテンアメリカとヨーロッパを行き来しながら育った三枝子は当然のことながら均一化を強(し)いる日本では大いに浮いてしまい、親しくなったのは真弓のような一匹狼タイプの人間だけだった。今でもたまに一緒に呑むのだが、彼女は会うたび文芸業界とクラシックピアノの世界は似ている、と言うのである。
ホラ、似てるじゃない、コンクールの乱立と新人賞の乱立。同じ人が箔を付けるためにあちこちのコンクールや新人賞に応募するのも同じ。どちらも食べていけるのはほんの一握り。自分の本を読ませたい人、自分の演奏を聴かせたい人はうじゃうじゃいるのに、どちらも斜陽産業で、読む人聴く人の数はジリ貧。
三枝子は苦笑した。クラシック音楽のファンは世界的に高齢化が進み、若いファンの獲得はこの業界の切実な課題である。
真弓は続ける。
ひたすらキーを叩くところも似てるし、一見優雅なところも似てる。人は華やかなステージの完成形しか目にしていないけれど、そのために普段はほとんどの時間、地味にこもって何時間も練習したり原稿書いたりしてる。
確かに、ずっとキーを叩いているところは同じだ。三枝子は同意する。真弓の声が、自虐的な響きを帯びる。
なのに、ますますコンクールも新人賞も増えるいっぽう。いよいよみんな必死に新人を探してる。なぜかっていうと、どちらもそれくらい、続けていくのが難しい商売だからよ。普通にやってたって脱落していく厳しい世界だから、常に裾野を広げ、新しい血を輸血し続けていないとすぐに担い手が減ってしまい、パイそのものも小さくなる。だから、みんながいつも新たなスターを求めているの。
コストが違うわよ、と三枝子は言い返したものだ。
小説は元手が掛からないからいいけど、あたしたちはどれだけ投資してると思うの。
その点は同情する。真弓は素直に頷(うなず)くと、指を折り始めた。
楽器代、楽譜代、レッスン代。発表会の費用でしょ、お花でしょ、衣装でしょ。留学費用に交通費。ええと、あとは何?
場合によっちゃ、ホール代や人件費も持たなきゃならないわね。CD作るのも自主制作に近い場合もあるし。チラシとかの広告代も。
ビンボー人には無理な商売だわ。真弓は震え上がった。三枝子はにやにや笑った。
世にも素敵な商売よ。コンサートは常に生だし、常に旅先で新しい楽器にご対面。中には自分の楽器を持ちこむ人もいるけど、ほとんどのピアニストは行く先々の港で待ってる女に合わせなきゃなんないのよ。そういやこの女はここが性感帯だったなとか、意外に気難しい奴だったなとかきちんと覚えておかないとあとが大変。みんな、自分の楽器と一緒に旅できる他の音楽家を羨(うらや)ましく思ってる。ま、ヴァイオリンとかフルートとか軽い楽器の人に限るけどね。大きな楽器の人はあんまり羨ましくないや。
二人で声を合わせて笑う。
でも、ひとつだけ、あたしたちには絶対にかなわないことがあるじゃない。
真弓はちょっとだけ羨ましそうな顔をした。
世界中、どこに行っても、音楽は通じる。言葉の壁がない。感動を共有することができる。あたしたちは言葉の壁があるから、ミュージシャンは本当に羨ましい。
そうね。
三枝子は肩をすくめてみせる。そのことについて、彼女は多くを語らない。それを経験した者でなければ伝わらないし、文字通り言葉で説明することはできない。ましてや、あれだけの投資をしても決して見合うことなどないこの商売が、いったん「あの瞬間」を体験してしまえばその苦労がすべて帳消しになってしまうほどの歓びを得られるということなど。
そうなのだ。
結局、誰もが「あの瞬間」を求めている。いったん「あの瞬間」を味わってしまったら、その歓びから逃れることはできない。それほどに、「あの瞬間」には完璧な、至高体験と呼ぶしかないような快楽があるのだ。
あたしたちがここにこうして気が遠くなりそうになりながらもじっと座っているのも、後でワインをひっかけつつ唾を飛ばして業界の実態をこき下ろすであろうのも、無駄としか思えぬ労力とおカネを投資して次々とステージに若者たちが現れるのも、皆「あの瞬間」を求め、焦がれ、切望しているからなのだ。
書類があと五枚になった。
残り五人。
三枝子は、これまでの候補者から誰を合格にするか考え始めていた。これまで耳にしたレベルだと、合格させてもいいとはっきり言えるのは一人だけだった。もう一人、他の二人も推薦するようであれば合格になるかもしれない。しかし、それ以外は合格レベルに達していない。
こんな時、いつも迷うのは順番の問題だ。最初のほうで「いけるかも」と思った候補者たちは本当によかったのだろうか? 今からもう一度同じ演奏を聴いたら、そうは思わないのではないか? 順番が影響するのはオーディションやコンクールの宿命で、順番も実力のうち、と割り切ることにしているが、やはり気になる。
これまで、日本人は二人いた。どちらもここパリの高等音楽院に留学している二人で、技術は申し分なかった。そのうちの一人が、他の二人も推薦するのであれば合格にしてもいいと思っている子で、もう一人は残念ながら引っ掛かるところがなかった。
これだけ技術が拮抗(きつこう)していると、あとは何かが「引っ掛かる」というところでしか比べることはできない。突出した才能、明らかな個性がある子はともかく、合格ラインを隔てるのは、ほんのわずかな差での争いになるからだ。「気になる」子、「ざわざわする」子、「目が吸い寄せられる」子。迷った時、最後はそういう言語化できないもやもやした感覚に頼っているのが実情だ。コンクールの場合、三枝子は自分が素直に「もっと聴いてみたい」と思うかどうかを基準にしている。
次の書類をめくった時、その名前が目に入った。
ジン カザマ
三枝子は、審査前には候補者の情報をなるべく入れないようにしている。本人と演奏の印象のみから判断したい、と考えているからである。
しかし、つい、その書類にはしげしげと見入ってしまった。
書類がフランス語で書かれているのでどんな漢字を当てるのか分からないが、日本人らしい。写真には、品のいい、しかし同時に野性味を感じさせる少年の顔があった。
十六歳。
目を奪われたのは、履歴書があまりにも真っ白だったからだ。なにしろ、ほとんど読むところがない。
学歴、コンクール歴、何もなし。日本の小学校を出て渡仏。書類から分かるのはそれだけだ。
音楽大学に行っていないことはそんなに珍しいことではない。神童がごろごろしているこの業界では、幼い頃にデビューしている者は音大に行っていなかったりする。むしろ、大きくなってから演奏の理論の裏付けとして改めて音大に入り直すケースが多い。三枝子もどちらかといえばこのパターンで、十代のはじめに二つの国際コンクールで二位と一位を獲(と)り、天才少女として評判になり、すぐに演奏活動を始めたので、音大に入ったのは、なんとなくアリバイ作りめいたところがあった。
しかし、この書類を見た限りでは、カザマ・ジンなる少年に、演奏活動をしていた形跡はない。
ただ、ぽつんと、現在パリ国立高等音楽院特別聴講生、なる記述があった。
特別聴講生? そんな制度あったっけ?
三枝子は首をひねった。しかし、実際にこの書類が通り、今こうしてパリ国立高等音楽院でオーディションが行われているのだがら、噓だとは思えない。
が、隅にある、「師事した人」の項目に目をやった時、この冗談としか思えないふざけた書類が通った理由が分かった。
カッと全身が熱くなる。
いや、ちがう。
三枝子は内心、首を振っていた。
あたしは、この部分が最初から目に入っていたのに、あえて気付かないふりをしていたのだ。
そこにはこう書かれていた。
ユウジ・フォン=ホフマンに五歳より師事
心臓が、どくん、どくん、と全身に血を送りだすのが分かるようだった。
何をこんなに動揺しているのか自分でも理解できず、そのことが更に三枝子を動揺させていた。
それはあまりにも重要な一文であったが、これだけで書類選考に残すことができなかったのはよく分かる。演奏活動歴もなく、音楽学校にいたわけでもない。まさに、海のものとも山のものともつかぬ存在なのだ。
三枝子は隣の二人にこのことについて話しかけたくなるのを必死に我慢した。三枝子は候補者の事前情報を完全にシャットアウトしているが、シモンは「ざっと見る」タイプだし、スミノフは「きちんと把握しておく」タイプなので、二人ともこの情報に気付いていないはずはない。しかも、驚くべきことに、「推薦状あり」のマークがある。
あのユウジ・フォン=ホフマンの推薦状! このことに、二人がぶっ飛んでいないはずがない。
そういえば、ゆうべ三人で食事をした時、シモンが何か言いたげにもぞもぞしていたっけ。三人は、オーディションの前は一切候補者について話題にしないことを自分たちに課していたのである。
今更ながらに彼のモノ言いたげな表情がはっきりと脳裡に蘇(よみがえ)る。
あの時、彼は、今年二月にひっそり亡くなったユウジ・フォン=ホフマンについて話していた。その名は伝説的であり、世界中の音楽家や音楽愛好者たちに尊敬されていたが、本人は密葬を望み、とっくに近親者だけで葬儀を済ませていたのだ。
しかし、それでは収まらず、結局、ふた月後の月命日に、音楽家たちのあいだで、盛大にお別れの会が行われた。三枝子はリサイタルがあって参加できなかったが、その模様を撮ったDVDを分けてもらっていた。
ホフマンは、遺言を残していなかった。何事にも執着しない彼らしかったが、そのお別れの会で、亡くなる前にホフマンが知り合いに残した言葉が話題になっていたという。
僕は爆弾をセットしておいたよ。
「爆弾?」
三枝子は聞き返した。謎めいていて伝説的で、巨大な存在ではあったが、実際のホフマンは茶目っ気もあり、飾り気のない人物だったのはよく知っている。それでも言葉の意味がよく分からなかったのだ。
僕がいなくなったら、ちゃんと爆発するはずさ。世にも美しい爆弾がね。
三枝子と同じく、ホフマンの近親者も聞き返したらしいが、ホフマンはそう言ってニコニコ笑うだけだったという。
三枝子は白っぽい書類を見ながらじりじりしていた。
シモンとスミノフは、きっとホフマンの推薦状も目にしているはずだ。いったいどんな内容だったのだろう。
興奮のあまり、周囲がざわめいているのに気付くのが遅れた。
顔を上げると、ステージは空っぽだ。スタッフがステージを右往左往している。
カザマ・ジン。現れない?
三枝子はホッとしている自分を自覚した。
そうよ、やっぱり、こんな書類、何かの間違い。こけおどし。推薦状も何かの間違い。ホフマンだって、亡くなる前には弱っていたはず。ふと気弱になって推薦状を書いてみる気になっただけなんだわ。
が、舞台袖にいたスタッフが無表情に声を張り上げた。
「次の候補者から、移動に時間が掛かっていて遅れているという連絡がありました。彼はいちばん最後に回しますので、あとの候補者を繰り上げて演奏します」
客席が静かになり、出番が早くなって明らかに動揺している赤いドレスの少女がおろおろした目で舞台に現れた。
なんだ。
三枝子はがっかりした。同時に、安堵していることにも気付く。
カザマ・ジン。いったいどんな演奏をするのだろうか。
「早く、早く。急いで!」
ようやく広大な敷地の中の事務局に辿り着いた少年は、受験票をむしりとられ、ステージへと急(せ)き立てられた。
「あ、あの、手を洗いたいんですけど」
おっかない顔をした大柄な男の背中に、少年は帽子を握りしめて恐る恐る声を掛けた。
そのまま少年の首根っこをつかんでステージに放りこみかねない勢いだった男は、「ああ、そうか」と化粧室の場所を教えてくれた。
「急いで。着替えなきゃならないだろう? 控え室はあっち」
「着替え?」
少年はぽかんと口を開けた。
「ええと、着替えなきゃならないんですか?」
男はしげしげと少年を上から下まで見た。
どう見てもステージ衣装ではない。まさかこの格好で舞台に上がるつもりだろうか? 他の候補者は、きちんと正装した者も多いし、平服といってもジャケットくらいは着用している。
少年はしゅんとした。
「すみません、父の仕事を手伝ってて、そのまま来たものですから──とにかく、手を洗ってきます」
何気なく広げてみせた手を見て、男はギョッとした。その大きな掌(てのひら)には、乾いた土がこびりついていて、まるで庭仕事でもやってきたかのようだった。
「君、いったい──」
男は化粧室に駆けこむ少年の背中に声を掛けたが、たちまち姿は見えなくなった。
男はあぜんとして化粧室の扉を眺めた。
ひょっとして、何か他の会場と間違えているのではなかろうか? ピアノのオーディションを受けるのに、手を泥だらけにしてやってきた人間なんて見たことがない。
ふと、不安になって受験票に目をやる。もしかして、よその資格試験か何かの受験票なのではないかと思ったのだ。しかし、間違いはない。応募書類の写真とも一致している。
男は首をひねった。
ステージに現れた少年を見て、三枝子たち三人はあっけに取られた。
子供。
三枝子の頭に浮かんだ単語はそれだった。
しかも、そのへんに溢れている、ガキんちょではないか。
何も整髪剤を付けていない髪、Tシャツにコットンパンツという格好のせいもあったが、その、物珍しそうにステージや客席をしげしげと見回す様子が、あまりにも場違いだったからである。
堅苦しいクラシック業界をぶち破るのだとばかりに、いきがってカジュアルな格好やパンクなスタイルで登場してみせる子もいるが、目の前の少年はどう見てもそういうタイプではなく、ただの天然だった。
美しい子ではある。それも、自分の美しさを自覚していない、自意識の感じられない美しさ。まだ伸び盛りらしいしなやかな骨格も美しい。
少年は、ぼんやりと立っていた。
三枝子たちはなんとなく顔を見合わせ、絶句する。
「君で最後だ。始めたまえ」
見かねたスミノフがマイクで声を掛ける。
本当は、候補者と話ができるようにマイクが準備してあったのだが、考えてみると、今日マイクを使ったのはこれが初めてだった。これまで使う必要がなかったのだ。
「は、はい」
少年は我に返ったように背筋を伸ばした。思ったよりもしっかりした、響きのよい声だった。
「すみませんでした、遅くなってしまって」
ぺこりと頭を下げ、ピアノに向き直る。少年は、その時初めて、自分が弾くグランドピアノを視界に収めたように見えた。
その瞬間、奇妙な電流のようなものが空気を走った。
三枝子たち三人や、彼らの後ろのほうに座っているスタッフたちがハッとするのが分かった。
少年は、目を輝かせ、微笑(ほほえ)んだのだ。
そして、おずおずと手を伸ばし、ピアノに向かって歩いていった。
まるで、出会ったとたんに一目ぼれした少女に向かって歩いていくかのように。
その目は熱に浮かされたようにうるんでいる。
少年は、いそいそと、そして恥じらうようにピアノの前に優雅な動作で腰掛けたのだ。
三枝子は、なんとなくゾッとした。
少年の目に、喜悦が浮かんだのだ。それは明らかに、快楽の絶頂の表情だった。さっきステージでぼんやりと立っていた素朴な少年とは明らかに一変している。
三枝子は、見てはいけないものを見たような気がした。同時に、背中が冷たくなるのを感じる。
なんだ、この恐怖は?
その恐怖は、少年が最初の音を発した瞬間、一瞬にして頂点に達した。
三枝子は文字通り、髪の毛が逆立つのを感じたのだ。
その恐怖を、隣の二人の教授と他のスタッフ、つまりこのホールにいるすべての人が共有していることが分かった。
それまでどんよりと弛緩していた空気が、その音を境として劇的に覚醒したのだ。
違う。音が。全く違う。
三枝子は、彼が弾き始めたモーツァルトが、今日これまでにさんざん聴かされたのと同じ曲だということに気付かなかった。同じピアノを使っているのに。同じ譜面を使っているのに。
もちろん、そんな経験は今までにも数え切れないほどある。同じピアノでも、素晴らしいピアニストが弾けば、全く違う音に聞こえるのはよくあることだ。
だが、しかし。この子の場合は。
なんて凄まじい──なんて、おぞましい。
混乱し、動揺しながらも、三枝子は貪(むさぼ)るように少年の音色に聴き入っていた。一音も聞き逃すまいと、思わず身体が前のめりになっている。シモンの震えかけた指が、ぴたりと止まっているのが視界の隅に見えた。
ステージが明るかった。
少年がピアノと触れ合っている(としか思えなかった)ところだけがほっこりと明るく、しかも何か極彩色のキラキラしたものがそこからうねって流れだしてくるように見えるのだ。
純度の高いモーツァルトを弾く時、誰もが必死に自分をモーツァルトの純度まで引き上げようとする。無垢(むく)で混じり気のない音楽を表現しようと、目を見開き、無垢さと音楽の歓びを強調しようとするのだ。
しかし、少年はそんな演技をする必要が全くなかった。リラックスしてピアノに触れているだけで、勝手にそれが溢れだしてくるのだ。
その豊かさ。しかも、まだ余裕がある。これが彼のベストではないということが窺える。
途方もない才能を目にするとは、恐怖に近い感情を喚(よ)び起こすものなのだ。
三枝子はそんなことをどこかで考えていた。
いつのまにか曲はベートーヴェンになっていた。
極彩色の色彩が、変化している。
今度は、速度を感じた。何かエネルギーが行き交っているような、音楽の速度と意思を感じ取ったのだ。
うまく表現できないが、ベートーヴェンの曲の持つ、独特のベクトルのようなものが少年の指先から矢のようにホールに放たれているようなのだ。
三枝子は自分が感じていることを分析し、なんとか言葉にしたいとあがいていた。しかし、少年の放つ音にすっかりからめ捕られ、思考能力が奪われていってしまう。
そして、曲はバッハに移った。
なんということだろう、と三枝子は内心叫んでいた。
この少年は全く継ぎ目なく三曲を続けて弾いているのだ。まるで、いったん流れ始めた奔流を押しとどめることなどできない、というかのように、呼吸のごとく自然に次の曲に移っていくのである。
誰もが圧倒され、魅入られたように聴き入っていた。
ホールは完全に少年の世界に支配され、人々は降り注ぐ彼の音に身を委ねている。
大きな音。
三枝子はぼんやりと考えた。
いったい、さっきまでボソボソ呟(つぶや)いて青息吐息していたあのピアノから、こんな大きな音が出るなどと、誰が想像できただろうか。
少年の大きな手は、楽々とリラックスしたまま鍵盤の上で躍っている。
ホールに、神々しい大伽藍(だいがらん)のようなバッハの響きが降臨していた。
あの、恐ろしく緻密で計算された、和声の積み上げられた建築的にも完璧な響きが、揺るぎない骨格で迫ってくる。
悪魔のようだ、と三枝子は思った。
恐ろしい。おぞましい。
三枝子は激しく動揺し、感情を揺さぶられていたが、徐々にそれが激しい怒りに変わっていくことに気付いていた。
少年がぺこりと素朴に頭を下げ、袖に姿を消しても、ホールは不気味なくらいの静寂に包まれていた。
が、誰もが我に返り、何かがほどける瞬間がやってきた。人々は顔を上気させて拍手をし、立ち上がり、叫んでいた。
ステージは空っぽ。
今の出来事は夢だったのではないかとみんなが顔を見合わせている。
スミノフが巨体を揺らして叫んでいる。
「おい、彼を呼び戻せ。いろいろ聞きたいことが」
「信じられない」
シモンが呆然と椅子にもたれかかっている。
ホールは大騒ぎになった。
「どうした、ここに連れてこい」
スミノフが怒鳴っている。舞台裏は混乱していた。が、大柄な男が叫んだ。
「帰ってしまいました。舞台を降りてすぐに出て行ってしまったと」
「なにい」
スミノフは頭を搔(か)き毟(むし)った。
「まさか、夢じゃないだろうな。俺たちみんなが、揃いも揃って昼飯のパストラミポークでラリッてるってことはないだろうな?」
「──まさにホフマンの推薦状通りだ」
呆(ほう)けていた様子のシモンが、不意に勢いこんで三枝子を振り向いた。
「ミエコは読んでないだろう? 言いたくて仕方なかったんだけど、僕たちの協定があったから言えなくって」
「許せない」
三枝子は呟いた。
「え?」
シモンが面喰らったように目をぱちくりさせた。
「あたしはあんなの、認めない」
三枝子はシモンを睨(にら)みつけた。
シモンはもう一度瞬(まばた)きをし、そこでようやく三枝子が怒り狂っていることに気付いたようだった。
「ミエコ?」
三枝子はわなわなと震えながら、テーブルの上に手を突いた。
「許せない。あんなの、ホフマン先生に対する、ひどい冒瀆(ぼうとく)だわ。あたしは絶対あの子の合格には反対する」
怒りに震える三枝子を、シモンが困惑したようにぼんやり見つめていた。
ホールは相変わらず、混乱した興奮と喧噪に包まれている。
※1月19日(木)18時~生放送