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【第160回 芥川賞 候補作】高山羽根子「居た場所」
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【第160回 芥川賞 候補作】高山羽根子「居た場所」

2019-01-08 12:00
     彼女と最初に会ったのは、たしか仕込みの作業をしているときだったと思う。会った、と言ったってそのとき彼女は作業場の中にいたわけではなくて、私たちが作業しているところを廊下のほうからガラス越しに眺めていただけだった。ガラス張りだったとはいえ作業場の中は蒸気がいっぱいたちこめていたから、中の様子なんてほとんど見えない。しかも私と両親、それと妹、白衣に衛生帽とマスクをつけてみんな同じ恰好をしていたので、たぶん作業場の中にいる人間のうちどれがだれで、どんな作業をしているのかを理解しながら見るなんてことはできていなかったんじゃないだろうか。
     私たち家族は長いこと、こうやっていっしょになって作業をすることに慣れていたから、それぞれがどういうふうに動いているのか、作業場のどこになにがあるのか見えなくてもあまり不都合がなくて、うまいこと連携をとりながらひとつひとつの工程をこなすことができた。マスクと衛生帽で狭くなった視野はいつもと同じように白い色でいっぱいに霞んでいたけれども、視界に四角い木枠が出てくれば受けとり、割りふられた作業をして、受けとったほうと反対側に突き出せばそこから力が掛かって木枠が奪われていく、といった感じで、いつもどおり特別な言葉のかけ合いもないまま作業は進んでいった。当然、こちら側からも彼女の姿は見えていなかった。私はその日、彼女が作業場に来ていることを知らなかった。
     がん、という普通じゃないくらいの大きな音がして、蒸気の向こうから手が現れたのが見えた。白い蒸気の中で見たからかもしれないけれども、手は血色がなくて小さかった。私は家族に木枠でこづかれるまで、作業を止めたままその手のひらを見ていた。しばらくたって、作業場の外側からだれかが勢いよく体重をかけてガラスの面に手をついた音だというのがわかった。あんな手が、ガラスを叩いてこんなに大きく響かせることが、ちょっと信じられないくらいの音だった。
     作業中、ガラスの向こうに人がいることはほとんどなかった。数秒考えて、母が何日か前、彼女を作業の見学に呼ぶとか言っていたのを思い出す。日付ははっきりと聞いていなかったけれどもそれが今日だったんだろう。
     母が彼女を呼ぶと言ったとき、私は賛成をしなかった。こんなおもしろみのない作業を、しかも、ろくに見えない状態で見学していても退屈なだけなんじゃないか、それなら彼女に対して心苦しいし、だれか外に出て説明なんかができるような、仕込みの作業が立てこまないときに見てもらったほうがいいんじゃないかと母に提案した。でも母は、だってあの子が作業しているところを見てみたいと言ったのであって、それなら作業の少ないときに来てもらっても意味がないでしょう。無理に連れてくるわけではないから大丈夫。退屈なら勝手に帰っていいよって前もって伝えておけばいいんだし、と言って、私の意見を聞き入れることはなかった。
     というか、母は基本的に私の意見を聞き入れることがあまりなかった。
     そういうわけで彼女と初めて会った、その最初は手のひらだけだったし、それも私が一方的に見ていただけで、もともと彼女のことを知っていた(彼女のことは、この町に暮らしている人間ならば、たいてい把握していた)私のほうはともかく、彼女はこっちのことなんてほとんど気にしていなかっただろうと思う。
     ただ、それから後の作業を続けているあいだ、視界の端にあるかないか、彼女の姿とも影とも言えないくらいのかすかな気配が、ほとんど見えないぶん、かえってなおさら気にかかってしまっていた。あの後、音はしていなかった。彼女はもうそこにいないのだと思えばいないようにも、ずっといると思えばそのようにも感じられた。
     作業の区切りがついたあと、私は扉を開けて、手袋とマスクを外しながら彼女のそばまで行った。自分は暑いところで作業をしていたから、身に着けているものを外して廊下に出るだけでもかなり涼しく感じたけれども、作業場とガラスを隔てただけの廊下は、少なくとも外より温度も湿度もかなり高かった。彼女は手のひらをガラスの表面に置いていて、その手の甲側には額をつけ、壁にもたれるようにしている。離れたところからだと、ガラスの向こうを凝視している姿に見えた。ただ、近づくと手のひらだけではなく全体的に白っぽくて、とても具合が悪いように見えた。
    「ここ、お酒の弱い人とか、においに敏感な人なんかだと当てられちゃうもんで。大丈夫です?」
     声をかけたのは私のほうからだった。小柄な彼女の顔は、白を通り越してうっすら草の色になっている。眼の玉は表面が溶けたみたいに潤んで、半開きになった口からは細く荒い息を小刻みに洩らしていた。普段の彼女をあまり知らなくても、その様子が普通じゃないことがはっきりわかった。
     ひとまず彼女を建物の外、駐車場の端にあるベンチに腰かけさせて、しばらく休んでいてほしい、と伝えた。駐車場を出た道ぞいの自動販売機で紙パックの緑茶を買う。ずっと暑いところにいた私が持つと、指先がしみるぐらいよく冷えていた。差しだしたお茶を、彼女は背中を丸めたままで私のほうに腕を伸ばし、受け取った。四角い紙パックの側面に貼りついた袋をとてもゆっくりした動きで剥がし、伸ばしたストローのななめに切り落とされた先を、何度か狙いを狂わせながら箱の天辺、銀のシールでふたをされた穴に刺す。血色の悪い唇を尖らせて先を咥えた後も、半透明のストローから薄緑の液体が上がっていくのには、普通に考えるよりずいぶんと時間がかかっていた。顎から喉にかけての曲線が二、三度動いて、口を離した彼女が息をふうっとはく。
     自分のことで精いっぱいに見える彼女にどんな声をかけるかちょっと迷ってから、私は彼女を見るのをやめて、彼女の横にふたり分くらい離れて座った。
    「具合が悪いのにあんなものを見せられて、つまらなかったでしょう。ていうか、ほとんど見えなかったんじゃないですか」
     彼女は、はい、いえ、あ、はい、と言ってから、
    「あれ、なにをしていました」
     とたずねてきた。ひょっとしたら彼女は、この場所で私たちがなにを作っているのかよく知らないまま連れて来られたのかもしれない。もしくは母からほんとうに簡単に聞いていた程度で、具体的にはほとんど理解していなかったのかも。私は、母が彼女を無理やり連れてきたんじゃないだろうかと疑った。母ならやりかねなかった。
    「微生物、って、わかります?」
     私の問いかけに彼女は目を開いているのと閉じているのの中間、瞬きを途中で止めた表情をしたまま、かすれた声で、
    「ビセイブツ、ビセイブツ」
     と二回、間隔をあけて繰り返した。自分の心の中で辞書をめくっているみたいだった。
    「そう、うん、ええと、小さい虫みたいなもの。空気とか、土とか、いろんなところにいる小さい生きものです」
    「虫?」
     彼女の声が大きくなって、重そうに半開きだった瞼が上がる。たずね返す言葉はあきらかに怯えて聞こえた。私は軽く後悔して、慌てて言いつくろった。
    「あ、でも、それは世の中のものの中にはだいたいいるんです。人間の体の中にも……普通、体内の細胞と同じくらいの数の、目に見えないくらい小さな生きものがいっしょに住んでいます」
    「そんなにたくさん」
    「だから人間の中のかなりの割合がほかの生きものだと思ってもらえれば」
    「ヒトはダイジョウブですか」
    「それらがないと人間の体が健康に保てないので」
    「悪い虫はいないのですか」
    「悪いとか良いとかっていうのは」
    「はい、ヒトにとって……」
     彼女はゆっくりと目を伏せていって、一点で視線を留めた。先には、膝の上で、お茶のパックを両手で包んで持っている彼女自身の指先があった。
     私が話題に困るとついしてしまう、この手の話を聞いているあいだ、相手は自分の爪の先を見ていることが多かった。それはたぶん自分の体で一番目に入りやすい、さまざまな微生物が詰まっていることが簡単に想像できる爪の先を、無意識に確認してしまうからじゃないか、と私は思っている。
    「もちろん、いろんな種類の微生物がいます。多くなりすぎるとヒトの体に害を及ぼすものも。それらが体の中で戦い続けているのか、または譲歩しながら総意を決定しているのか……その両方の場合もあるのかな。ようはバランスですかね」
    「ヒトの外側の世界と同じみたい」
    「そうそう、同じです。ヒトの中にいる小さい生きものたちは、ヒトが死んでしまったら生きられないんです。地球がなくならないようにヒトが環境のバランスを大切にするのと同じで、酒を飲みたいって思ったり、発酵食品を好んだりするのは、ヒトの意思というよりも、体の中の生きものが欲して……しゃべりすぎましたか」
     私は手持ちぶさたとはいえ、さすがに初対面の、しかも具合の悪い人にこういった話を長々と聞かせるものではないんじゃないか、と気がついた。そういうところを以前から何度もまわりの人間に指摘されていたと思い出す。そのときに必要な言葉というものが、いつもうまく汲み取れないで口走って、後になって気がついて後悔してしまう。私はこんなとき、気にしすぎると黙ってしまうし、しゃべるとよけいなことを言いすぎてしまうところがあるらしい。
     そうやって、私は二回ほどお見合いとか呼ばれているものに失敗している。もちろん、それだけが理由じゃないだろうけれども、少なくとも失敗の要素みたいなものがいくつかあって、そのうちのひとつではあると思っている。でも、
    「いえ、とてもおもしろい」
     そのとき彼女は、妙にせいせいした笑顔で、私に宣言するみたいにして言った。
    「もうダイジョウブ」
     後から聞いても彼女はそのときのことをあまりきちんと覚えていなかったし、ひょっとしたら私の記憶ちがいだったのかすらもあやふやだけれど、そう宣言をした瞬間、彼女の頬が草の色だったのが、桃の実が熟れるのを早回しで見ているみたいに肌色に赤みがさして上気していったことだけは、なんだか今でもずっと、はっきり覚えている。
     そして宣言のとおり、それから間もなく彼女は我が家にひんぱんに出入りするようになった。でもあのときの具合の悪そうな表情は、以来一度も見ていない。


    ※1月16日(水)17時~生放送
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