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結城登美雄の食の歳時記<麦編・その2>
2006年1月22日、登米市の市役所近くの公園を開場に「第二回全国はっとフェスティバル」(2012年第九回開催、現在も継続中)というのが開かれたそうです。ニュースでみたら大盛況だった様子が映っていました。全国の「はっと」があつまって、「いろんな種類のものを食べたよ」という人も多かったようです。私もじつはこのはっとについては推進母体になった登米はっと街道作りの手伝いをちょっとしたことがあります。これは地域の食文化、あるいは宮城の食文化を見直そうとして始まったものなんです。意外なことに、宮城は米所と思われていますが、かつては麦どころでもあったわけなんです。僕もその会に関わりながら、ちょっとびっくりしたことがあります。
昭和31年頃まで宮城県内の農地の多くは水田だったのですが、全体の3分の1は畑地だったのです。水田面積の2分の1、およそ5万5000ヘクタールが畑だったんです。現在の一面に田んぼが広がっている風景を思う人にはちょっと意外に思うかもしれません。畑の中で当時一番植えられていた作物は大麦と小麦でした。その畑の60%ちかくが麦畑だったのです。昭和30年頃代に農村にいらっしゃった方は田んぼと同時に麦畑の風景を見て育ったんではないかと思っています。秋にお米の収穫が終わると今度は畑に麦の種をまいて冬に麦踏みをして、「麦秋」といわれる初夏に麦の収穫をする。収穫の直前に大豆を麦の間に植えるのです。そうして鳥などについばまれないようにしました。そんな風にして一年に2つの作物を輪作していたのが宮城の昭和30年ごろまでも農業の姿でした。
そういう意味で田んぼでお米、畑で大麦と小麦、そして大豆。これが宮城の田園風景でした。お米は売って現金にかえ、