PROVERB ステンシルステッカー 失敗しない者は何も出来ない

 ほぼタイトル通りの内容です。つまり、ものごとのむずかしさを理解できるのはじっさいに何かに挑戦したことがある人間だけだよな、という話。

 何であれ真剣に挑んだことがないひとは、概してものごとを簡単だと捉えるものです。だから世の中にいる「凄い人」たちがどのくらい凄いのかがわからず、過小評価してしまいがち。そういう人はほんとうの意味で「凄い人」のことも、ただちょっと運に恵まれただけくらいに思っています。

 ネットを眺めていると、たとえば大ヒット中の漫画を捕まえて「○○のパクリ」「宣伝のおかげで売れているだけ」「絵は綺麗だけれど、それだけ」といった評価を下しているひとを見かけることがあります。

 もちろん、ベストセラーが即ち名作というわけではないし、そういった評価すべてを否定するつもりはありません。しかし、こういう評を見るたびに思うのです。ああ、このひとたちのなかでは大ヒットを出すことはとても簡単なことなんだな、と。じっさいにはきわめてむずかしいことであるはずなのに、その「むずかしさ」がまったく伝わっていないのではないか。

 「○○のパクリ」というけれど、それではその「パクリ」を行えばだれでもヒット作を出せるかといえばそうではない。「宣伝のおかげ」とはいっても、宣伝すれば必ずヒット作が出せるなら出版社は苦労しない。「絵が綺麗なだけ」ということは簡単だけれど、その「綺麗なだけ」ということがどれほど凄いのか、そこが無視されている。

 もちろん、テレビでプロ野球を見て「なんであの程度の球が打てないんだか」と放言する類の無責任は、素人の特権ではあります。しかし、それも「自分はあくまでアマチュア」「ほんとうはプロは凄い」ということを前提とした上での無責任発言であるはずで、本気で「あの程度の球が打てないとは」と冷笑していたら、分をわきまえていないとしかいいようがない。

 たしかに「凄い人」の「凄さ」を冷静に確認することはむずかしく、「あの程度、大したことがない」と思えることも少なくないかもしれない。だけど、その「大したことがない」ことが、その実、どれほど「大したこと」なのか、それを知らなければひとはどんどん身の程知らずに増長していくことでしょう。

 何もやらないひとにとっては何もかも簡単です。そもそも何もやらないひとは失敗することがありません。ある意味では何もやらないことは最高のディフェンスといえるでしょう。何かやったら失敗することもあるに決まっているんだから、何もやらずにひとの失敗を笑っているほうがよほど楽かもしれない。そういう生き方にむなしさを感じないならば、ですが。

 ひとは行動しつづければ必ず失敗します。オリンピックの金メダリストですら負けるときは負ける。天才といわれる作家ですらこけるときはこける。そういった失敗例を取り上げて嘲っていれば、自分はそういった人々よりずっと賢く、偉いように思えてくる。何しろかれらは何度も失敗を繰り返しているのに、自分は一度も失敗しないのだから。

 しかし、これはいうまでもなく危険な錯覚にすぎません。失敗をくり返しながらも前進しようと努力している人々を笑い、「失敗したことがないだけ」「間違えたことがないだけ」の自分を過大評価していけば、どんどん自己評価が現実と乖離していく。他人がバカばかりに見えてくる。

 こうなるともう危ない。よりいっそう失敗することが怖くなり、行動を慎むようになる。最後には「失敗しなかっただけの人生」を終えることになりかねない。

 もちろん、これはぼく自身にも返ってくる発言であって、自分がどれほど他人の「凄さ」をわかっているのか、いないのか、常にチェックしていく必要がある。そう思うからこそこうしてブログに文章を書いてひと目に晒しているわけです。

 何であれ少しでも実績を上げることは大変で、実績を上げた人を批判することは簡単。だから批判してはいけないということにはなりませんが、せいぜい自分の分をわきまえておきたいとは思います。何もやらないひとにとっては何も簡単。そして、何かをやり遂げようとするひとにとって、困難でないことなど何ひとつないのです。