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  • 『ユーリ!!! on ICE』は「愛」を拡張するBLである。

    2016-12-08 05:401
    50pt

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     どもです。ここ数日、ぼくはオープンワールドという名の沼にはまっていました。『スカイリム』面白いです。『ドラゴンエイジ:インクイジション』面白いです。『ファイナルファンタジー15』面白いです。

     ていうか、最近のゲーム、マジすごい。『ウィッチャー3』は根性なしにも投げ出してしまったぼくだけれど、でも現代コンピューターゲームのすごさはわかる。つくづくエンターテインメントは進歩したよなあ。中毒性高い。

     というような話はすべてただの仕事をサボっていたいい訳で、これから本題に入ります。アニメ『ユーリ!!! on ICE』の話。こんな記事を読みました。

    ご存知大人気アニメ、ユーリ!!! on ICE。私も毎週楽しく見ている。
    言うまでもないことかもしれないが、スケートという珍しい題材や美しい映像表現に加え、腐女子をニヤッとさせる(どころでは済まないが)BLチックな表現がこのアニメの特色として挙げられる。
     
    特に作中にまんべんなく含まれる、主人公の勝生勇利とコーチのヴィクトル・ニキフォロフのスキンシップは毎週多くの視聴者を墓地送りにしてきた。そして最新第7話ではさらに決定的な表現を盛り込んできたのである。
     
    キスした。
     
    え?!マ?!?!
     
    やりよったな!!!!

    (中略)

    このキスシーンが指し示す可能性に、私はとても希望を抱いている。それは
     
    「BLの脱BL作品(占有)化」
     
    である。

    これはBLがBL作品と腐女子の妄想の占有下から脱する一つの兆しではないだろうか。男女恋愛と同じくらいのハードルの低さでBLがBLをメインとしないような作品に登場する日もそう遠くないのではないかという希望が(こんな大仰な狙いは制作側からはなかったにしても)今回のユーリ!!! on ICEからもたらされたように思う。


     はいはいはいはい。なるほどなるほど。実はこの記事を書いている時点でぼくは『ユーリ』を最新話まで見ていないのですが、いいたいことはわかる(と思う)。

     いや、ほんとは最新話まで見てからこの記事を書くべきなのだろうけれど、鉄は熱いうちに打ちたいので書いてしまいます。でも、これから必ず最新話まで見ます。ごめんなさい。

     さて、ここで書かれていることは非常に興味深いと思います。「BLの脱BL作品(占有)化」という言葉は一見すると意味が取りづらいかもしれませんが、つまり「BLの表現及び思想の脱ジャンルBL作品(占有)化」ということでしょう。

     ようするに、いままではほぼBL作品のみで描かれてきた「男性同士の愛(広く愛という名で呼ばれる関係)」がジャンルBL作品以外でも見られるようになることを指しているのだと思います。

     これはただ「ジャンルBL作品以外でも男同士がイチャイチャする描写が認められるようになる」ことに留まりません。BL以外でも「男性同士の愛」が「パッケージングされないままで描かれる」可能性を示しているのです。

     どういうことか。ここでべつの記事を引用しましょう。

    『ユーリ!!! on ICE』は「『愛』の再定義」を試みるアニメなのだとわたしは思う。

    これは、要は「辞典内容の改訂」である。昨今、国語辞典における恋愛絡みの言葉の説明に「男女の〜」という表現を用いるのをやめようという動きがある。これはとてもよいことだが、辞典に書かれた定義が変わっても、人々の認識が変わらなければ、世界は変わらない。

    『ユーリ』は世界を変えようとするアニメだ。

    (中略)

    「友愛」と「恋愛」を区別するのは一体なんだろう。

    ひとりだけに特別な思いを向けるのが「恋愛」? じゃあそのひとりを特別に思ったら、そのひとと結婚しなくてはならないの? 誰かを特別に大切に思う気持ちに、婚姻関係や肉体関係への欲求が必ずしも付随するの?

    よくよく考えれば、これはとても奇妙な話ではないだろうか。

    人間の感情って、もっと自由なんじゃないだろうか。その自由な感情を、そのまま語れる言葉があってもいいんじゃないだろうか。
    その人を好きだと思ったら「だいすき」と言えばいいし、その人を特別だと感じたのなら「愛してる」と言えばいいし、その人にキスしたいと感じて、相手がそれを受け容れてくれるのなら、キスをすればいいはずだ。

    そのコミュニケーションは、本来ならば個人と個人の間のものであるはずだが、そこに当然のように社会的慣習が介入することが多いのが現状である。

    もちろん、ステレオタイプを悪だとするわけではない。ただ、ステレオタイプから一歩外れると、驚く程の不寛容が待っていることがあるのは事実だろう。


     そうですね。『ユーリ』がどこまで意図して「愛の再定義」を描こうとしているかはわかりませんが、結果としてこの物語がそういうものを表現していることはたしかだと思います。

     しかし、その前に、まず、前提として、ある関係は「本来ならば個人と個人の間のもの」であるにもかかわらず、そこに「社会的慣習が介入する」とはどういうことでしょう。

     それはつまり、本来なら無限に等しい多様性をもっているはずの人と人の間の関係の形が「社会的慣習」に沿ってある「様式」にパッケージングされるということです。

     たとえば、妙齢の男女の間の親密な関係は、多くの場合、「恋愛」と呼ばれるでしょう。

     そのどこが問題なのかと思われるかもしれません。しかし、ほんとうはある人とある人の間にある関係性はひとつひとつ違っているはずで、それは「恋愛」などというわかりやすい言葉でパッケージングできないものであるはずなのです。

     言葉による「名づけ」は暴力です。名づけられることによって、そこにある多様性はひとつの形に収れんする(ように見える)。つまり、本来なら自然で自由であるはずの関係が、「恋愛」と名づけられることによって、ある種の「様式」に定型化するということです。

     その「様式」とは、たとえば恋愛しているならキスしたり、セックスしたりするのがあたりまえだし、デートもしなければならないし、浮気などありえないし、またゆくゆくは結婚も――というようなものです。

     ほんとうはキスしたくて相手が受け入れてくれるならすればいいし、そうでないならしなければいいというだけのシンプルな話であるはずなのですが、そこに「恋愛」という言葉による「名づけ(パッケージング)」が関与することによって、「お前たちの関係は恋愛と呼ばれるものであり、したがってこれこれこういう行動を取るのが自然であり、また当然である」というような暴力的な押しつけが行われることになってしまうわけです。

     上記ブログでも書かれているように、これはほんとうはおかしなことです。しかし、ぼくたちの社会ではそれがあたりまえになっている。

     たとえば男女ふたりで旅行に行ったりしたら、そのふたりは恋愛関係にあるものと見られるわけです。ほんとうはそうとは限らないはずなのですが、なぜかそういうことになってしまう。

     これが「関係性の名づけによる収れん」という現象です。しかし、ぼくたちの社会は、この「収れん」を疑問視し、本来の多様な関係性を多様なままで受け止めるということができるところまでもう一歩のところに来ている。それが『ユーリ』のような作品に表れているのではないかと思います。

     ぼくは上記ふたつの記事を読んで、以前に見たツイートを思い出しました。

    多様性ってのは足し算で考えなきゃダメなんだよ。イスラム教徒が吉野家で牛丼食ってるなら、隣の席で豚丼食える世界が多様性なんだよ。ムスリムに配慮して豚丼の提供は止めますってのは多様性とは逆方向なんだよ。勘違いするな。その勘違いを正しいと思い込んだ結果が今の欧州だ。


     多様性は足し算でなければならない。この原則は「関係の表現の多様性」についてもあてはまります。

     「BL」、あるいは「百合」という関係性の表現は、べつに既存の「恋愛」を脅かすものではありません。ただ、そこにべつの可能性を「足し算」するだけのものです。

     ぼくはべつに「広い心をもって同性愛も寛容に受け入れましょう」的なことをいいたいわけではありません。いや、もちろん同性愛が異性愛と同じくらい社会に認められるようになることを願ってはいるけれど、今回いいたいのはそういうことではない。

     「同性同士の間にある関係」も、あえて名づけてパッケージングしてその内実をある「様式」に収れんさせることなく受け入れられてもいい、ということなのです。

     愛が多様であるとは、ある人とある人の間にある関係性が安易にパッケージングされないということです。

     漫画『Q.E.D.』のなかで、自分と主人公との関係を問われたヒロインの少女が、「(その関係には)まだ名前がついていない」と語るシーンがあります。

     これはつまり、その関係がまだ「年ごろの男女の間の親密な関係なのだから恋愛である」というような決めつけと「名づけ」によってパッケージングされていないということだといえます。

     このような「名前のつけられない関係」は男性同士、女性同士の間にあってもいいし、それを描いた作品があってもいい。いまのところ、BLや百合というジャンルはその表現に挑戦しているように思えます。

     たしかに、それらは単に「同性愛」と名づけられた同性間の関係を描いているだけに見えるかもしれません。しかし、たとえば『BL進化論』といった本を読めばあきらかなように、最新の作品においてはBL(や百合)はそれにとどまる表現ではなくなっています。

     それらは、「同性同士の恋愛(と名づけられる関係)が広く認められる、現代より先進的な社会」を描くに至っているのです。

     まあ、それは横道なのでくわしくは解説しませんが、それは同性同士の「恋愛」的な関係が特別視されない現実の社会より理想に近い社会を描くことによって、「愛を再定義」しようとしているといえるでしょう。それが現代のBLという表現なのです。

     したがって、「BL(と呼ばれる表現)の脱ジャンルBL化」の果てにある作品とは、「男女も、男性同士も、女性同士も、自由に好む関係を築くことができて、なおかつそれが他者によって安易に名づけられない(パッケージングされない)環境を描いた作品」なのではないでしょうか。

     ここでは仮にそれを「ジャンルX」と呼びたいと思います。ジャンルXはある意味では「BL」でもなければ「百合」でもありません。

     なぜなら、現状においてBLは「男性同士の愛のみ」、百合は「女性同士の愛のみ」を描いているのに対し、ジャンルXではそれらも含めたさらに広い愛が描かれるからです。

     また、それは「ぼくたちが住んでいる現実」を描いた作品でもありません。なぜなら、「ぼくたちが住んでいる現実」とは「愛が容易にパッケージングされる社会」だから。

     つまり、ジャンルXとはぼくたちがまだ到達していないより自由で多様性に満ちた社会を描いた作品なのです。もちろん、それをラブストーリーと呼んでもいいし、BLと呼んでもいいし、あるいは百合と呼んでもいいでしょう。

     しかし、それらはやはり「愛」がそうであるように、既に手垢のついた言葉です。また、「男性同士」、「女性同士」という性差に依存した言葉であることも否定できない。

     いくら「BLというのは男同士の恋愛だけではなく、「パッケージングされていない愛」を描いた作品全般を指すのですよ」といってみたところで、世間的なイメージというものがあります。たとえそれが偏見に過ぎないにせよ、いまからそのイメージを覆すことは大変でしょう。

     だから、とりあえずぼくは「愛が名づけられない(パッケージングされない)物語」をあえて名づけることはしません。ただ仮名としてジャンルXとだけ呼んでおきたいと思います。

     それはいまの段階ではほとんど見られない作品なのではないかと思うのですが、いつかは現れてくるのではないかとも考えています。『ユーリ』はそのきっかけであるということができるでしょう。それは素晴らしいことかもしれません。 
  • 『君の名は。』のヒットの理由は「古典性」にあり。

    2016-11-29 01:51
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     「クローズアップ現代」の『君の名は。』特集、全力で見のがしたーw どうせ「NHKオンデマンド」に登録されるからそれで見ればいいや、と思っていたのだけれど、どうやら「NHKオンデマンド」には入っていない模様。

     映画の著作権の関連があるからネットには上がらないということかな? ぐぬぬ、失敗した。まあいいか。とりあえずLINEで得た情報によると、『とりかえばや物語』の話が出ていたとか?

     そう、『君の名は。』のログラインそのものはきわめて古典的/神話的なんですよね(この作品にはあらかじめふたつのログラインが用意されていたといいます)。

     やっぱりログラインの神話性を現代風に処理したところが良かったのかなあ。『スター・ウォーズ エピソード7』といっしょですね。

     デートムービーとしてヒットしたのだという話もあったようだけれど、アニメがデートムービーになりえるということ自体、きわめて画期的な話な
  • 物語には各ポイントでクリアするべき課題がある。

    2016-11-27 13:57
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     先週の『少年ジャンプ』で『デモンズプラン』という新連載が始まりました。何となく一読してみたのですが、うーん、と悩んでしまいました。

     というのも、ちょっと読んだだけでも展開が凝っていて、非常によく考え抜かれていることがわかるわけです。そう、非常に考えられていて、話の密度も濃くて、しかも、あまりうまくいっていない。そこが何とも見ていて歯がゆいというか、辛い気持ちになる作品でした。

     漫画技術というより、ストーリーテリングの技術があまりうまくない。そこが、未熟も未熟ながら、一応、悩みながら話を作っている側に属しているぼくとしては妙に辛かった。ああ、頑張っているんだろうけれどなあ、というね。

     もちろん、お話をゼロから作り上げることと後知恵でああだこうだいうことはまったく次元が違う行為ですが、いまのぼくには少しだけこの作品に残された「努力の爪痕」が見える気がします。

     いうまでもなくぼくなんか