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  • ぼくが知る限りの文章技術すべてを教えます。

    2018-06-23 04:0711時間前
    50pt
     ぼくは思いつきで行動する人間である!

     そういうわけで、ふと思い立って、ココナラでビデオチャット文章指導を始めてみました。あらかじめ1000文字~5000文字程度の文章を送付してもらい、ぼくのほうで添削しておいて、それをもとにSkypeで指導を行う形式を考えています。価格は30分1000円に設定してみました。


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  • 冷静であることは悪なのか? 「冷笑」とは何か考える。

    2018-06-21 13:032
    50pt
     「「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 自ら縛られていく私たち」という記事を読みました(https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/nihonnokehai-1?utm_term=.txMZY2YZZ#.lyJxW1Wxx)。

     なかなか興味深い記事だったので、偉そうに批評的に見て行きたいと思います。

     まず、この記事のなかで問題として取り上げられているのは「怒り」と「冷笑」の問題です。

     正当な「怒り」の声があるにもかかわらず、そのうえの次元に立ち「怒り」そのものを見下す「冷笑」的な態度を取る人がいて、それが「空気」として日本を支配しているという問題が、いくつかの例を通して語られています。それはたとえば、これや、

    数日前、加計学園の一連の問題を巡って党首討論がありましたが、朝日新聞は「議論は平行線」という見出しをつけていました。

    中継動画を見たり、全文の文字起こしを読んだりすればすぐにわかることですが、あの討論は、野党の質問に対して誠実に答えているとは言い難い。真っ当な質疑応答ではないのだから、平行線であるはずがない。それをメディアはいつもの手癖で、「議論は平行線」と書いてしまう。

    この見出しだけ見たら、「ふーん、野党の質問も煮え切らなかったんだな」「この問題、いつまで続けるのかな」「そろそろ幕引きなのかな」と察知してしまう。幕引きに加担してしまいます。

     あるいはこれ、

    cakesというウェブ媒体の連載で、本田圭佑選手について最近書いたのですが、本田選手が日大アメフト部の一件について、「監督も悪いし、選手も悪い。(中略)このニュースにいつまでも過剰に責め続ける人の神経が理解できないし、その人の方が罪は重い」とのツイートをした。これを、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちがリツイートしているのを見て、実に今っぽいなと思いました。そうやって世の中を達観する、という仕草が流行っちゃっているわけです。

     またはこれ、

    阪神・淡路大震災の犠牲者への鎮魂を掲げた計画に、「木の命を犠牲にして物語に活用する人間のエゴ」など様々な批判の声が上がったわけですが、計画を支援していた糸井重里氏が、「冷笑的な人たちは、たのしそうな人や、元気な人、希望を持っている人を見ると、自分の低さのところまで引きずり降ろそうとする」とツイートしていた。

    さっきの本田圭佑のツイートと同様に、今っぽいな、と思いました。違和感を覚えて、憤りを表明する行為を丸ごと下に据え置く行為で、まさしく、そうした処理の仕方こそ冷笑的だと感じました。怒っている人を、怒らないボクが上から見下ろし、怒らないボクたちが賢い、とする態度。

     が例として挙げられています。つまり、ある問題があるとき、その問題に対する感情的反発に同調せず、議論そのもののメタ位置に立ち、「どっちもどっち」と議論の内容を無視して語ることが「冷笑的態度」だということになるでしょう。

     で、インタビューでは、

    今、怒ることがどこか恥ずかしい行為とされがちですよね。「何、怒っちゃってるの?」「冷静になろうよ」という圧力がどんどん強まっています。

     と語られています。しかし、そうでしょうか。ぼくの目から見ると、少なくともインターネットは「怒りの言説」ばかりに見えます。

     もちろん、それに対する「冷笑的態度」の言説もあるでしょう。しかし、それはむしろあまりにも極端に感情的な「怒りの言説」が多いから支持を受けることになっているのであって、決して「怒りの言説」が少なくなっているわけではないと感じる。

     たとえば政治ひとつ取っても、安倍首相に対し過剰なまでの(と、ぼくには思えるのですが)怒りをぶつけている言説はちょっと検索すればいくらでも見つかる。

     「冷笑的態度」の言説の流行は、そういう過剰に感情的な「怒りの言説」に辟易した人々によって支持されていると見るべきではないでしょうか。

     ここでは、仮にその「怒りの言説」の主張が政治的に正しいとしましょう。しかし、その種の言説は、致命的なまでに「怒り方が下手」な印象があります。

     正当な感情を爆発させることが悪いとはいいません。しかし、「正当な怒りなのだから共感を受けてしかるべき」といった態度では、じっさいに共感を集めることができないのは当然のことではないでしょうか。

     また、現実には、とうてい承服しがたい「怒りの言説」が多々あることもたしかです。

     あたりまえのことですが、怒っているからといって正しいわけではない。インターネットにおいて「正義の怒り」を掲げる人は少なくありませんが、ぼくの目から見ればその何割かは正当性がない意見に思えます。

     「怒っていることそのもの」をメタレベルから見下す「冷笑的態度」はたしかに問題ですが、だからといって「怒っていることそのもの」を主張の正当性の担保とみなす「感情的態度」もまた問題ではないでしょうか。

     主張の内容を批判されたとき、「わたしはこんなに怒っているのに、なぜそんなに冷静に非難するんだ。それは冷笑だ!」と返すことは論理的に成立しないと思います。

     つまり、当然のことながら、「怒ることそのもの」を否定できないのと同様、「冷静であることそのもの」もまた否定できないわけです。

     くり返しますが、ある「怒りの言説」を、感情的であるからというだけの理由で否定する言説は問題です。

     しかし、そのような「冷笑的態度」と、感情に動かされることをよしとせず、議論の内容を冷静に判断して批判的に語る、いわば「淡々的態度」を混同してはいけないと思うのです。

     「冷笑的態度」はあいての主張の内容を無視して一方的に見下すという特徴がありますが、「淡々的態度」は議論の内容を冷静に精査し、必要ならば批判を加えます。

     この両者には「冷静である、あるいは冷静であろうとしている」という共通点がありますが、本質的に異質なものです。

     だから、「怒りの言説」を冷静に批判されたときに、反射的に「冷笑だ!」と返すこともまたできないということになると思います。

     「何そんなに怒っているの?」と「冷笑」する態度が問題であるなら、それと同じくらい、「何そんなに冷静ぶっているの?」と感情にのっとって自分の言説を正当化する態度も問題です。

     ぼくはそう思いますね。以上です。 
  • 右も左も偏見だらけ。『万引き家族』はあらゆる単純解釈を拒絶する傑作だ。

    2018-06-17 02:2611
    50pt
     是枝裕和監督の映画『万引き家族』が、カンヌ映画祭で最優秀賞にあたるパルムドール賞を受賞したことが世間で話題になっています。当然ながら、ネットでも話題沸騰なのですが、一部の人は上映前からこの作品に否定的な評価を下していました。

     いわく、是枝監督の政治的な発言が気に入らない、また、万引きという犯罪を美化し肯定していることが嫌だ、監督は在日韓国人なのではないか、などなど。

     この手の狂った理屈の異常さについてはあらためてぼくが説明するまでもないと思うので省きます。ただ、是枝監督の該当発言は重要だと感じるので、ここに引用しておきましょう。

    --経済不況が日本をどのように変えたか。

    「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

     後述しますが、この発言は映画の内容をミスリードしてしまった側面があると思います。しかも、このインタビュー内容はどうやら本人の意図から大きくずれているらしいのですね。本人のブログからこれに関する文章をひろってみましょう。

     このインタビューではドイツの戦後補償の話を僕が突然したような流れになっているが、これは共同体の話のつながりでEUの話になり、その流れで、ドイツがEUの中で占めている立場、果たそうとしている役割を日本が「東アジア共同体」の中で果たそうと思った時には、やはり過去の歴史ときちんと向き合って「清算」しないといけないのではないか、という説明を加えた。「謝罪」という単話は明らかにその翻訳のプロセスで後から加わったものだろうと思う。「補償」というのが僕の口にした言葉の何の翻訳なのかは、正直良くわからない。民主主義が成熟していく為には、僕は定期的な政権交代が必要だと考える人間のひとりである。何故なら権力は必ず腐敗するからである。それは映画監督という「権力」を手にして痛感していることでもある。目くそと鼻くそでも、交代させながら主権者である私たちが権力をコントロールしていくことによって民主主義は少しずつ熟度を増していくだろうと思っている。その政府が保守だろうがリベラルだろうが政権が変わらないと思ったら皆がその権力を忖度し、志のないジャーナリズムはチェックを忘れ広報化する。それは主権者にとっては不幸だという話をした。まぁこれは余談の部類。そのような説明が短くまとめられた時に色々省略されて(安倍政権が続いて私たちは不幸になった)というやけに単純化されたものになっていた。正直驚いた。

    http://www.kore-eda.com/message/20180605.html

     つまりは、上記のインタビューの内容は本人の意図から大きく外れたものである可能性が高く、そのまま受け取ってはいけないのです。

     しかし、それにもかかわらず、このインタビューが喧伝されることによって、映画は政治的な色合いを帯びるに至った。

     ところが、じっさいに作品を見てみると、これが、決してシンプルに政治的に判断して良しとできるような生易しいシロモノではないのです。ともかくもぼくはそう思ったので、映画に関するぼくの意見を記しておきます。

     以下、映画全般に関するネタバレを含みます。

     さて、タイトルは「万引き家族」となっており、公開前は万引きという犯罪ががひとつのテーマになっていると思われたこの作品ですが、じっさいには作中では万引きのほかにも誘拐や車上荒らし、年金横領など、さまざまな犯罪が描かれています。

     これは、犯罪という「絆」でつながった家族の物語なのです。

     あるいは、このように書くと、やはり犯罪を美化しているのか、肯定しているのか、と受け取られるかもしれませんが、決してそうではありません。

     作中で光があたる家族の弱さ、脆さ、愚かしさ、だらしなさは、これ以上ないほど生々しく克明に描きだされており、いっそ残酷なくらいです。

     だから、この映画を「どうしようもない貧窮に追いつめられて犯罪に手を染めた善良な人々の物語」と見ることは間違えていると思うのです。

     ただ、そういう見方が成立することもたしかで、たとえば、映画評論家の町山智浩さんはこのように語っています。

    (町山智浩)スーパーでほんの少し、家族全員が食べるご飯をとっているだけなんですよ。それで「万引きなんかしやがって! 万引きなんか犯罪じゃないか!」って……ちょっと待て。彼らは働いていてもご飯が食べられなくて、わずかな食べ物がほしくて万引きをしているんですよ。この映画の中でね。


     しかし、ぼくはこの見方はやはり無理があると思うのです。第一に、作中の「万引き家族」が盗むのは、「家族全員が食べるご飯」だけではありません。かれらは釣具店で釣竿を盗んだりもしますし、あるいは前述したように車上荒らしを行ったりもします。

     そして第二に、「働いていてもご飯が食べられな」いという見方も無理があると思うのです。おそらく、この家族、世帯収入としてはそこまで極端に少なくはないんですよ。

     「ノラネコの呑んで観るシネマ」では「おそらく月15~25万円程度の世帯収入はあると思う」と書かれていますが(http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-1141.html)、あるいはもう少し多いかもしれません。

     そのうえ、家族の一員である亜紀は家計にお金を入れていないので、彼女に協力を求めればもっと増えることになります。

     これはもちろん、一家数人で食べていくのに十分な金額ではありませんが、しかし、「犯罪もやむなし」とか「働いていてもご飯が食べられな」いというほど極端に貧しいわけでもないでしょう。

     たしかに、物語の途中からこの世帯収入は減少していくことになるのですが、その前から延々と犯罪を繰り返していたのですからこれはいいわけになりません。

     また、仮に、この家族が「働いていてもご飯が食べられな」いほど貧しいとしても、それだけなら子供にまで万引きをさせることはなかったでしょう。

     やはり、どう見てもこの家族の倫理的なだらしなさを否定することはできないように思います。てれびんのいい方を採用するなら、「短期展望しかない」ということになりますね。

     それでは、この一家は単なる小悪党の集まりなのか、というとそうでもない。虐待されていた幼女「りん」を一家の一員として誘拐してきたことからもわかる通り、この一家の父親と母親は素朴な善意も十分に持ち合わせているのです。

     もちろん、かれらのしたことは大局的にみれば解決にも何もなっていない愚かな行動に過ぎないのですが、善意から出たものであることはたしかです。ようするに、この一家は極端な善人とも悪人ともつかない平凡な人々に過ぎないのです。

     おそらく、時代が違っていれば犯罪に手を染めることはなくそのまま暮らしていけたかもしれません。そういう意味では、たしかに社会の犠牲者といえなくもない。

     ただ、ぼくはやはりそのいい方には大きな疑問を感じます。かれらを単に酷薄な社会の犠牲者と見ることはそれはそれで複雑な物語を単純に切り取り過ぎている印象を受ける。

     もちろん、かれらが純粋な悪人ではないことは映画を見ればわかることです。しかし、同時に、善人ともいいがたいこともたしかなのです。

     何より、かれらには、てれびんふうにいうなら長期展望がない。これは、短期的な未来しか見とおすことができず、金がなくなったら万引きをし、子供が可哀想だったら誘拐をするという、そういう短絡的な人々の物語なのだと見るべきなのだと思います。

     当然ながら、このような人々が作った仮初めの家族は最後には崩壊します。しかし、それを「社会問題」とだけ見ることはできないでしょう。あきらかに、個人の資質が関係している。

     もちろん、だからといって自己責任だといい切ることも間違えている。この映画は、物語は、そういう単純な解釈をすべて拒否してただ混沌とした人間存在を突きつけてくるようなところがあります。

     ぼくはその混沌は混沌のままに受け取ることが大切だと思うのです。右から「日本の恥」とか「唾棄すべき絶対悪」のように語ることも間違いなら、左から「神聖な犠牲者」、「愛すべき弱者」のように語ることも片手落ちでしょう。

     で、この映画が名画なのは、金がなければ盗む、子供が可哀想ならさらう、という「短絡的な人々」を描くことによって、「右からの単純な批判」や「左からのやはり単純な賞賛」を誘発しながら、映画そのものはそういう「単純な解釈」を徹底して拒否しているところにあると思います。

     この映画のなかの人々は、短絡的ではありますが、単純ではありません。したがって、この映画のような「万引き家族」の存在を否定することも単純すぎるなら、「しかたないことだったんだ」と擁護することも単純すぎるのです。

     是枝監督はブログでこのようにも語っています。

    僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。

     「大きな物語」を相対化する「小さな物語」とは、ぼくの言葉でいうなら「単純な物語」に回収されない「複雑な物語」ということになると思います。

     映画はひとことではいい切れない複雑な現実を描いている。だからこそ、この映画は見る価値がある。そもそも、もし映画の外の思想で語り切れる程度の作品なら、映画そのものを見る必要はないではありませんか。

     映画は、ワイドショー的な切り口では純粋な悪人として消費されてしまうであろうひとつの事件の裏に、いかに複雑な「小さな物語」があるかを提示します。そこに、この映画の価値がある。

     それを取り上げて、単純に悪として叩く人は、まさに是枝監督が誘い出そうと意図したとおりの粗暴さをむき出しにしているといえるでしょう。しかし、だからといってかれらはピュアな善人でも、被害者でもない。

     じっさい、かれらはいったん問題が起これば何年も育ててきた子供を見捨ててでも逃げ出そうとするのです。かれらが弱者であるとすれば、その判断力の未熟さこそがその弱さの本質であると見ることもできると思います。

     そういう複雑な現実を、複雑なままに受け止めること。善とか悪とか、加害者とか被害者とか、その種の単純な物語として享受しないこと。それが、ぼくはこの映画のテーマなのではないか、と見ています。

     もちろん、そのように複雑な現実を複雑に描いているからこそ、シンプルなエンターテインメントにはなり切れていないところもある。単純に「泣ける」とか「感動する」といったふうに評価することはむずかしい映画だといえるでしょう。

     しかし、まさにそうであるからこそ、これは傑作だと感じます。映画は万引きや誘拐を決して肯定しませんが、同時に、ありきたりのモラルで裁いて良しとすることもありません。すべての判断は観客にゆだねられている。

     そういう意味で、まさに見るに値する映画です。大切なのは、自分の目で確認して判断すること。ぼくの書いたことを信じるにせよ、信じないにせよ、ぜひ、ご自分で映画館へ行って内容を確認してほしいと思います。

     現代日本を代表する映画監督の、まさに最高傑作です。どうぞ、ご覧になってください。素晴らしい作品だと思います。