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あなたもきっと、だれかに何かを説得されたことがあるだろう。そのとき、頭では理屈の正しさをわかっても、どうしても心が納得してくれない、という経験がないだろうか。論理的には相手のいうことに理がある、と認められるのだが、心理的にどうにも受け入れがたい、そういうことはありえると思うのである。
少なくともぼくはそういうことがしょっちゅうある。これは未熟だろうか。論理的に正しいと認められたことはたとえ感情的に認め難くても受け入れるべきなのだろうか。実はぼくは必ずしもそうは思わないのだ。
村山由佳に『すべての雲は銀の…』という小説がある。この作品の主人公は、恋人に裏切られる。なんと彼女はかれの実の兄と関係をもっていたのだ。恐ろしいショック。しかし、そのとき、主人公の親友はいう。恋愛そのものは自由なのだと。だれもひとの心を縛り付けておくことはできないのだと。一方的にお前が被害者であるわけではないと。
紛うかたなき正論である。ところが、そのとき、主人公は思うのだ。お前までそんなことをいうのか、と。お前ひとりくらい自分の味方でいてくれてもいいではないか、と。ぼくには、この主人公の気もちがよくわかる。
ひとの心は型通りの「正論」などでは動かないのだということ。だから、ひとに正論を押し付けようとすることは、ある種の暴力なのだということである。
正論はたしかに「正しい」。しかし、その正しさは数学の方程式のような絶対的なものではない。ある面から見て文句なしに正しくても、べつの面から見ればべつの理屈がありえる、それが正論というものだ。それにもかかわらず、「正論なのだから納得せよ」ということは、ときにひとの心に負担をかける。
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