死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

 ビジネス書で有名なダイヤモンド社のウェブサイトに、森達也が「「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい」と題する記事を書いている(http://diamond.jp/articles/-/16819)。

 その記事によると、森と勝間和代が死刑制度に反対する内容の対談を行った番組が、ニコニコ動画に放映されると、罵倒の渦が巻き起こった。その大半は森たちに「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と迫るものだった。

 こういった声に対して、森はこう反論している。

 もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのだろうか。

 死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艶福家や社交家の命より軽く扱われてよいということになる。親に捨てられて身寄りがない子どもの命は、普通の子どもよりも価値がないということになる。

 さらにかれは書く。

 次に「被害者遺族の身になれw」と書いた人に訊きたい。ならばあなたは、本当に被害者遺族の思いを想像できているのかと。

 自分の愛する人が消えた世界について、確かに想像はできる。でもその想像が、被害者遺族の今の思いを本当にリアルに再現しているとは僕には思えない。あなたはその思いを自分は本当に共有していると、胸を張れるのだろうか。ならばそれこそ不遜だと思う。

 つまり、森は実在しない被害者家族の言葉をかってに「代弁」する人々を問題視しているのだ。ここで森に罵言を投げつけるような人々はネットの至るところに見つけることができる。

 かれらは何か凶悪事件が起きると「犯人を死刑にしろ!」と叫ぶ。じっさいの犯人の罪状が死刑に値するものであるかどうかはかれらにとってどうでもいい。かれらは結局、その事件の情報にふれたときわきあがってきた怒りや憎しみといった不快な感情を吐き出したいだけなのだ。

 もちろん、かれらはいうだろう。自分たちは被害者の側に立っている。被害者遺族は犯人を死刑にしてほしいと望むのであり、その希望を叶えることこそが正義だ。それを妨害することは醜悪な左翼言説に他ならない……。

 そうだろうか。ごく単純に考えてみよう。もしかれらが被害者遺族の意思を尊重しているなら、その遺族が犯人の死刑を望まない場合には死刑賛成の理由が消えるはずだ。そんな被害者遺族がいるのだろうか。それがいるのだ。

 小倉孝保『ゆれる死刑』によると、末弟を殺害され人生を狂わされた原田正治さんはそのひとりである。かれは事件当初、加害者の死刑を希望していたが、加害者と交流を続けるなかで、加害者は生きつづけるべきだと考えるようになる。

 結局、加害者は死刑執行されることになるのだが、その後、原田さんは死刑に反対の立場で活動するようになる。こういう遺族が実在する以上、「被害者遺族の気持ちを考えろ!」という言葉はやはり一面的な意味しか持たない。

 もちろん、被害者の心情を思いやることは大切だろう。しかし、じっさいの遺族の思いは傍観者たちが想定するほど単純ではないのだ。それなのに、傍観者たちはいつでも自分にとって都合のいい「被害者」を想定する。

 極論するなら、じっさいの被害者遺族など傍観者にとってはどうでもいいのかもしれない。かれらにとって意味をもつのはかれらのうっぷん晴らしに都合のいい被害者遺族であり、だから現実の被害者家族が少しでもその理想的な被害者遺族像からずれると(たとえば多額の賠償金を要求したりすると)、バッシングの矛先はあっというまに被害者遺族へ向かう。

 「被害者遺族のため」と口先ではいいながら、その被害者遺族に自分たちの期待から逸脱することを許さない。これがネットにおける「世論」である。世論を形づくっているものはかれらの行き場のない感情であり、もっというなら気分だろう。「何となくむかつくやつだ」という気分がネットにおいてはすべてなのだ。

 ニコニコ動画で森を罵倒した人々は、一冊でも死刑に関する本を読んだことがあるだろうか? 死刑の是非について真剣に考えたことがあるだろうか? もし深慮の末に死刑制度存置を希望しているというのなら、それはひとつの意見として尊重されるべきだろう。

 しかし、おそらくは大半の人々は自分が気分よくなることしか考えていない。かれらにとっての被害者遺族とは自分がスカッとするための道具である。道具として利用価値があるうちは尊重するが、そうでなくなれば叩く。非常にシンプルな行動原理といえる。

 つまるところ、かれらにとって重要なのは事実ではなく自分にとってカタルシスがある「物語」なのだ。その物語では善悪はきわめて明瞭であり、悪は徹底して、できるだけ残虐な手段で裁かれなければならない。かれらの思考はほとんど時代劇レベルの勧善懲悪で動いている。

 ぼくは死刑制度に関しては知識がないから、制度に反対でも賛成でもない。しかし、こういった国で死刑制度を存置することはきわめて危険だという気はしてならない。もう少し理性的な国民性の国なら死刑も正しく運用されるかもしれないが、自分にとっての「悪」を短絡的に罵倒してやまないこのレベルの大衆に死刑を使いこなせるのかとても心配だ。

 逆説的になるが、死刑を存置していい国とは、多くのひとが犯罪者に対し「死刑にしろ!」「被害者の気持ちを考えれば死刑で当然!」と叫ばない国であるかもしれない。

 そういう人たちはじっさいには被害者でないにもかかわらず被害者の代弁者という身分を騙っている。本当に被害者遺族を想うなら、まずは現実の遺族と向きあうべきだろう。たしかにかれらのなかには犯人の死刑を望む者も多いに違いない。しかし、そうでない者もいる。そういった声に対しどう対応するか。ひとりひとりの真心が試されることになる。

 とにかくまずは真剣に考えてみることだろう。何も考えず気楽に「死刑!」と宣告するのは、漫画だけで十分だと思うのである。