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なぜ、弱者を保護しても「自然の摂理」に逆らうことにはならないのか。
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なぜ、弱者を保護しても「自然の摂理」に逆らうことにはならないのか。

2014-07-17 08:37
    不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。
    自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。

    でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?
    文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。

    ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。
    優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。
    今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。


     この質問とそれに対するアンサーが面白かったので、記しておきます。たくさんのブクマが付いているけれど、おそらくはそれはベストアンサーが注目されているからでしょう。こういう内容です。

    「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

    人間の生存戦略は、、、、「社会性」

    高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
    個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

    どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
    人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

    生物の生存戦略としては大成功でしょう
    (生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

     ぼくはこれ、じっくり考えてみたんですけれど、いかにももっともらしいものの、やっぱり疑似科学的だと感じました。

     「優れた遺伝子」だけが残るのが自然環境ではない、という点には同意するけれど、このベストアンサーの骨子をまとめると、「人類は多様な遺伝子を確保するために弱者を救済するという戦略を取っている」ということになる。

     そんなことないでしょう。たとえば、障害者保護を打ち切ったら人類の遺伝子が偏って文明が崩壊するかといえば、そんなはずはない。単純に社会を繁栄させるため、人類の個体数を増やすためならやっぱり弱者を切り捨ててもかまわないと思うのです。

     人類の個体数が増えたのはべつに弱者を保護したからではない。仮に「人類の生前戦略は社会性である」という前提に同意するとしても、弱者を保護しない社会なんていくらでも考えられる。

     そもそも人類はべつにひたすら個体数を増やそうという方向に動いていない。人類が生物の本能に従って子孫を増やすことを目的に動いているのなら、少子化なんてありえないはずではないでしょうか?

     ぼくにいわせれば、「自然」という言葉が問題を錯綜させるのです。ぼくは大抵の場合、「自然」という言葉を「この宇宙そのものの法則」の意味で使っています。しかし、一般には「地球環境のなかでここ数億年の間に発達した生物の状況」の意味で使われるでしょう(前記の「自然環境」はこの意味です)。

     この両者を混同すると、わけがわからないことになる。前者の意味ではこの世に不自然なものなんてないわけです。そもそも自然の理に逆らうなんて不可能なんだから。この世にあるものはなんだって自然。

     で、後者の意味での自然はそれよりずっと矮小なものです。この自然のことを、完璧に正確な表現ではないことを承知の上で、仮に「動植物世界」と呼ぶことにしましょう。人間には動植物世界で観測される法則に従わなければならない理由は特にないと考えます。

     もともと人間社会の行動規範を動植物世界に求めること自体に無理があるのです。馬はこうしている? 羊はこうしている? どうして人間が馬や羊と同じ行動を取らなければならないのでしょう? あなたはほんとうに馬のように生きたいですか?

     ぼくなりの言葉を使うのなら、「なぜ人間社会がこうなっているのか?」に対する答えは「人間がそうしたいと考えたから」以外にありません。

     もちろん、さまざまな環境条件(それこそ宇宙の法則とか)に支配されている一面はありますが、基本的には人間は人間にとって都合がいいように社会を組み立ててきたわけです。

     宇宙の法則からも動植物世界の条件からも人権思想は導かれません。ただ、人間がひとには人権があるということにしたほうがより倫理的、政治的、社会的に正統性がある、と考えたから人権という概念を生み出したのです。

     とはいえ、もちろんべつに人権を初めとする「人間社会のルール」が生み出されたことによって宇宙の法則が曲がったわけではありません。ひとには生きる権利があることになっていますが、それでもひとはみな死んでいきます(ひとが死ぬ、ということは正確には宇宙の法則ではありませんが、ここでは限りなくそれに近いものだと考えます)。

     人間にとって理不尽なこと(この宇宙にとってはあたりまえのこと)は、どんな高邁な思想によっても排除できないのです。少なくともいまのところは排除できていません。

     しかし、だからといって人間社会のルールに価値がないということにもならない。ましてほかの動物と足並みを合わせなければならない理由はありません。つまり、人間社会は人間の願望によって作られた人間だけのルールに沿って動いていて、動植物世界の理によっては動いていないということです。

     「自然の法則としてはおかしい」といったところで意味がない。人間は元からここで自然の法則といわれている動植物世界の現象なんて無視して動いているのですから(そもそもこういうとき持ちだされる「自然の法則」は大半が恣意的なものですが、それはそれとして)。

     ただし、重要なのはこのルールとは人間と人間の間だけで通じる「約束事」だということです。ライオン相手には通用しない。天災相手にも通用しない。ただ、人間相手にだけ通用する。

     そして、「人間社会の約束事」をどんなに仔細に決めても、すべての人間が守るわけでもありません。「ひとがひとを殺すのは間違えている」という倫理を組み立て、それを人類社会に広く行き渡らせることはできますが、それでも殺人者が生まれることを直接阻止しきることはできないわけです(もちろん、一定の抑止力は働いているはずですが)。

     「弱者を守るのが正しい」という約束事にしても、すべての社会、すべての国家で守られているわけではありません。現実に弱者の人権を無視している国家もあるではありませんか?

     しかし、間違えてはいけません。人間社会にとってより重要なのは「人為がかかわっていない状態でどうであるか」ということではなく、「いずれが人間にとって都合がいいか(正しいと考えられるか)」です。

     それが人間にとって正しくないことなら、たとえそれがどんなに動植物世界の法則にかなっていても否定してかまわないのです。ただし、宇宙の法則を否定することはできません。その意味で自然に逆らうことはできないのです。それは受け入れなければならない。

     たとえば、仮に「老いた個体はほかの個体に食われやすくなる」という現象が動植物世界で見られやすいとしても、人間は人間社会においてはそれを阻止することができるでしょう。しかし、「時が経つこと」そのものを止めることはできない。そういうことです。

     わかってもらえるかな……。この「宇宙の法則」(より正確にいうならそこから導かれた限りなく宇宙の法則に近いと思われる現象)のことをぼくは「グランド・ルール」と呼んでいます。それはこの惑星の動植物世界が滅びても続いていくものです。宇宙そのものが消滅するまで続いていくでしょう。

     この「自然」という言葉を巡る混乱が、ひとが自然を語る時にはしばしば付きまといます。単なる「動植物世界の法則」をあたかも「宇宙の真理」であるかのように錯覚してしまうのです。

     しかし、両者はまったく異なるものです。この惑星において動植物世界が発達したのは単なる偶然で、神の意志によるものでも、宇宙の真理から来たものでもないのですから。べつに人類がその動植物世界の理に逆らっても全然かまわないのです。

     同性愛は不自然である、という人がいます。そういう人がいいたいのはただ単に「動植物世界の法則に反している」というだけではなく、「したがって、ひいては宇宙の真理に反している」ということだったりするのでしょう。典型的なふたつの「自然」を混同した考え方です。

     そもそも同性愛が動植物世界の法則に反しているとは思いませんが(同性愛的な行動を行う生物はたくさんいるらしい)、仮にそうだとしても、そうであって悪いという理由はないし、まして宇宙の真理に反しているなどということはありえません。

     宇宙の法則、真理に違反することなどできないのです。極端な話、人類が動植物世界を絶滅に追い込んだところで、それを後ろめたく思うのは人類自身だけです。宇宙とその法則には影響がありません。天罰があたったりすることもありません。

     この世界とはそういう場所なのです。ぼくはそう考えます。
     
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