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ハックルベリーに会いに行く

ブロマガ

  • 2024年を振り返り、2025年を展望する(4/5)(1,724字)

    わずか10年前まで日本の出生数は100万人前後であった。そこからガタガタと減って今年は70万人を割るという。およそ3割が減った。これは「激減」という表現が相応しいだろう。 もちろんコロナもあったが出生数の減り方はここ2年の方が激しい。つまりコロナ禍が終わってからの方が激しい。 なぜこうなったのか? それにはいろんな理由があって、みんなその理由を知っていると言えば知っているが、知らないと言えば知らない。 「知らない」というのは、「そうなる『必然』がある」ということを知らないということだ。その必然というのは、社会がそれを許容している――ということである。もっと言うと、望んでいる。社会がそれを望んでいる。だから少子化になったのだ。 昨日も書いたが、今、子供を生まないのは非インテリ層である。インテリ層――知識層は生んでいる。イーロン・マスクもたくさん生んでいる。 なぜ知識層は生むのか? それは、理屈で考えればその方が合理的だからだ。子供を生んだ方が実はよっぽど得なのである。逆に、子供を生まないのは非合理的なのだ。損得で言えば損である。だから、その計算ができる人は生み、できない人は生まないとい...

    12時間前

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  • 2024年を振り返り、2025年を展望する(3/5)(1,694字)

    「反知性主義」という言葉がある。これは多くの日本人が誤解しているのだが、「反知性・主義」という意味ではない。「反・知性主義」という意味だ。つまり「知性」に反するのではなく、知性にばかり頼る「知性主義者(知性主義思想)」に反するという意味だ。 なぜ知性主義者に反するかというと、彼らは実践抜きに理屈ばかり振りかざすため、机上の空論に終わる場合が多いからだ。それよりは、経験や感覚を重視する方がよっぽど問題解決に近づく。そうした考えから、昔は反知性主義になる人が多かった。20世紀前半頃のことである。 これは感覚としても分かる人が多いだろう。映画などでも、インテリが出てきて論理的に正しいことを言うが、最後は粗野な主人公の経験や感覚が勝り、インテリを打倒する。そんなストーリーがよくある。 また、面白いことに「コンピューターの歴史」というのは、理論家と実践家のタッグによって進化するという黄金パターンがあった。一番有名なのがジョブズとウォズニアックだ。ウォズニアックが理論の部分を担い、それをジョブズが実践に落とし込んだ。 こういうタッグでないと、コンピューターも進化できなかった。つまり理論だ...

    1日前

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  • 2024年を振り返り、2025年を展望する(2/5)(1,850字)

    これから世界は右傾化していくだろう。右傾化というと警戒する人も多いが、人間社会で一番怖いのは「左傾化」である。なぜなら、左傾化の行き着く先に待っているものこそ、最大の恐怖である「全体主義」だからだ。 これは多くの人が知らないことだが、戦前戦中の日本は、陸軍による左翼国家(右翼ではない)になり、最後には全体主義国家となった。それは石原莞爾や東條英機など、当時の日本を率いたリーダー層の来歴を知れば知るほどよく分かる。彼らはそれまでの右翼社会に激しく反発して日本を左傾化させた。その結果全体主義が台頭し、戦争が起こって多くの人が死んだのである。 もちろん、激しい左傾化が起こったのはその前の社会が右傾化し、それに対する揺り戻しが起きたからだ。従って右傾化も危険は危険である。右傾化が極まったとき、反動として左傾化が起き、全体主義が台頭して、社会は破滅へと向かう。 20世紀前半のドイツも同様の動きを見せている。まず右傾化が起こって第一次世界大戦に負けた。その反省から左傾化したが、これは格差社会を強烈に後押しした。なぜかというと左翼社会は能力主義を促進させるので、エリートが優遇されるからだ。今...

    2日前

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  • 2024年を振り返り、2025年を展望する(1/5)(1,652字)

    今年(2024年)も残り僅か。もうすぐ2025年である。 そこで今年を振り返り、来年を展望するということを5回に分けて書いてみたい。10年後、20年後にこの記事を振り返ったとき、あのときの時代はああなっていた。あのときはこのようなことを考えていたんだと、参考になるようなものが書けたらと思う。 ぼくの2024年はといえば、まず特筆すべきはいよいよバカと本格的に決別したことにある。ネットで発言するということをしなくなった。より正確に言えばSNSで発信しなくなった。このメルマガもnoteの連載も有料記事で無料では全部を読めないようになっている。だからいわゆる一般の人の目に触れることはない。 それはいよいよぼくがバカに耐えられなくなって、これと決別したからだ。感覚としてはアルムおんじである。山に籠もって世捨て人のように生きている。 しかしながら一人で生きているわけではない。なぜかは分からないが家族や友だちやつながりのある人はたくさんいて、その人たちはぼくのことを暖かく迎えてくれている。だからとても居心地が良い。 例えば子供が幼稚園に通っているが、その中で幼稚園の教職員の方々や、他の子供の親とのかかわ...

    3日前

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その10(1,624字)

    蔦文也は1951年に池田高校の野球部監督に着任した。27歳になる年のことであった。 池田高校野球部は、戦後すぐの1946年に発足した(当時はまだ旧制の池田中だった)。はじめは同好会だったが、翌年の1947年から正式に部としての運営をスタートし、甲子園を目指す公式戦にも参加した。 当時の徳島県の公式チームは15校である。夏は、このうちの2校までが南四国大会に進める。つまり3回勝てば進める。そこで高知代表2校も含めた4校で、甲子園出場をかけた勝負をする。このとき、勝ち残った1校しか出場できない。そういう狭き門であった。 県大会に参加し始めてからの池田は、しばらくは連敗が続いた。それでも、2年後の1949年の夏の大会で、初めての勝利を記録する。さらに1950年は躍進し、夏の大会の県予選で2回勝った。もう1勝で南四国大会に出場できたが、名門鳴門商業に大敗する。 文也が着任したのはその次の年である。しかも前年に2年生ながらエースとして活躍した蔵文男がまだ残っていた。だから、初の南四国大会出場、あるいは県大会優勝も期待された。 そこで文也は池校部員を鍛え始める。なにしろまだ27歳。体力は有り余っている。しかも徳商で...

    6日前

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2014/01/30 11:01

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